第30話 桂男 10
「怖かったぁ。桂さぁん」
と意識を取り戻した純那が桂男に飛びついた。
「びっくりしたな。何だったんだ?」
桂男は極上の笑顔で純那の身体を抱き寄せた。
泣き叫び逃げ惑う男達は百鬼夜行達にどこかへ連れて行かれてもういない。
「まあいいや。部屋に行こう」
「うん」
桂男と純那は手を繋いでエレベーターに乗り込んだ。
桂男は住処に金をかけている。
生きていく為の糧は人間の生気をいただけばそれでいいので、稼いだ貨幣はすべて衣服と住居の為につぎ込むのだ。マンションは人間の芸能人や実業家が多数住む高級マンションだった。エントランスや廊下で見た事のある芸能人とすれ違い、桂男が単なる挨拶をするだけでも純那のテンションが上がる。
桂男と結婚すれば少しばかりの小金持ちの娘から一気にセレブにステップアップするという下心が透けて見える。
素晴らしく豪華な部屋に入り、ふかふかのソファに純那がどさっと座る。
桂男はよく冷えたワインを冷蔵庫から出し、ワイングラスに注ぐ。
「乾杯」
ワイングラスを純那に差し出す。
「何に乾杯するの?」
桂男はふっと笑って、
「君の……」
と言った。
「あたしの? あたしのって言うかぁ、桂さんとあたしのぉ未来に乾杯って感じ?」
「そうだな。二人の未来に乾杯」
最後の乾杯だな、と思いながら桂男は純那のグラスと自分のグラスを合わせた。
チンとグラスが触れあうかすかな音がして、
「純那、俺を見て」
と桂男が言った。
純那はうっとりとした顔で桂男の顔を見上げる。
視線が合い、一瞬、純那の目が彷徨った。
それから桂男は純那の細い肩を抱き寄せた。
「あれ?」
何故だかギュウギュウ詰めの満員電車の中だった。
え、何してるんだろう……あたし? と純那は思った。
電車の中って事は大学へ行く途中だった?
でも最近、電車は使わないようにしてた。
送り迎えしてくれる男はいくらでも……桂さん……そうだ、桂さんとデートして……
純那は今自分の置かれている状況が把握出来なかった。
電車に乗った覚えもない。ダサい中年のおっさんを痴漢扱いしてやってから、電車で大学へ行くのを止めたはずだった。
いつの間に電車に乗ったんだろう……と思っている時に乗客の塊が揺れて、身体が傾いた。
「うわっ! もう!」
ギュギュっと押し寄せられ、純那は周囲の客の身体を押し返すように身震いした。
「もう、どうして電車なんか乗ってんのよ、あたし……!」
身体がぞわっとなったのは、尻を撫でられたような気がしたからだ。
「え、嘘」
振り返りたくても、乗客の塊は右も左も前も後ろもぎゅうぎゅうだ。
「え、やだ」
また尻を撫でられた。今度は手が離れない。そのまま撫で続けて、時折尻の肉をぎゅっと掴む。
「痛っ」
今度は違う方向から手が伸びてきて、純那の右胸をつかんだ。
「やめ……」
左胸もまた違う手が伸びてきてぎゅうっと力任せに掴んだ。
「痛い! やめて! 誰よ!」
四本目の手が純那の太腿を撫でた。
五本目の手が腹の辺りをなで回してから下腹部へ降りていく。
六本目の手がスカートをまくり上げた。
七本目の手が純那の下着の中に入っていく。
「ち、痴漢よ! やめて! 誰か助けて!」
純那は思い切り大きな声で叫んだ。
七本の腕がさっと純那の身体から離れた。
純那の声で少し乗客が動き、隙間が出来た。
純那は振り返り、左右、背後、にいた客を怒鳴りつけた。
「この痴漢野郎! 誰かこいつらを捕まえて!」
純那の怒鳴り声に客達はぽかんとしている。
「痴漢だって言ってるでしょう!」
「ぷ」
と誰かが笑った。
「ちょっと、笑っちゃ気の毒よ」
と声がした。
「だって、ないだろ。痴漢って……むしろ痴漢の方がお断りだろうよ」
と言った若い男の声に周囲から失笑が漏れる。
「何よ、あんた! あんたが痴漢じゃないの!」
純那は若い男をにらみ付けてから怒鳴った。
「そんなドレス着て、若々しい気持ちは分かるけど、ここは公共の場だし、ね? 騒ぐのやめましょうよ。ね? おばあちゃん」
と近くにいた中年の女性に気の毒そうに言われて、今度は純那の方はぽかんとした。
「何を言ってるの!! おばあちゃんて誰よ!」
「駅についたらおうちの方に迎えに来てもらえばいいわ。ね? 駅員さんに電話してもらいましょうね? おばあちゃん」
その中年の女性は本当に親切なおばさんだったのだろう、純那を心から気の毒そうに見ている。それ以外の客は気の毒そうに……だが口元が笑っている。
その表情を純那は知っていた。
純那自身ががよく使っていた、他人を馬鹿にする嘲笑ってやつだ。
「え……? 何を言って……」
と純那は自分の身体を見下ろした。
とっておきのドレスだった。
桂男とのデートの為に買ったばかりの胸が大きく開いた薄くて軽いサマードレス。
それに合ったミュールにペディキュアも完璧。
細い腕にはダイヤモンドのブレスレッドをつけて、ピアスももちろんダイヤだ。
だが、どうした事だろう。
細くて綺麗な腕が何故だかしわしわのシミだらけ。
盛り上がってプルンプルンだった乳はしぼんで垂れてそれが開いた胸元から丸見えだ。 髪の毛は白髪だらけで、触れた箇所からばさっと抜け落ちる。
「う、うそ……なんで……」
バッグから手鏡を取り出して自分の顔を移して見る。
骸骨に皮を被せてあるだけのようなやせ衰えた貧相な婆さんの顔。
前歯は抜け落ち、口元も皺が寄ってきている。
だが化粧だけは濃く、真っ青なアイシャドウに真っ赤な口紅。
「うそ……」
呆然とする純那。にやにやと笑う心ない客もいるし、気の毒そうに純那を見る客もいる。純那は一気に年を取ったが意識は若いままだった。
「違う、違うの。あたし、二十歳なの。本当なの! 信じて!! 違うの!! こんなの何かの間違いよ!!」
あの時、佐伯が発した同じ言葉を純那が叫んだ。
だが誰も信じない。
佐伯の時も誰も信じてくれなかったのだ、純那の事も誰が二十歳と信じるだろうか。
純那が狂ったように違う、違う、と叫んでいるのを佐伯は隅の方から眺めていた。
それでようやく楽になった。
長かった。
無罪が証明出来たわけでもないが、佐伯はほっとした。
もう純那を憎まなくてもいい事に安堵した。
これからまたきちんと働いて、人生を立て直そう。
いつか娘や孫に会えたらいいな、と思いながら佐伯は電車を降りていった。
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