第4話 小袖の手 3
こんな目にあっても姉は父親を捨てられないのだ。
これからもここで自分と父親の世話をして生きて行く姉。
自分はいずれここを出る。確かにいつかは結婚もするだろう。
その時に父親のせいで結婚時期を逃した姉と、子供の幸せを踏みにじっても自分だけ楽をしたい父親の二人が巧自身についてくる。ろくでなしの父親は巧の結婚相手の家にも金をせびりに行くかもしれない。そして姉がそれを止められないだろう事は予測がつく。
父親がろくでなしなのは最初っからだから分かっていた。だが、その父親を甘やかしてさらに巧まで道連れにしようとしているのは好子だ。
昔から「姉ちゃんはあんたの世話は何の苦でもないわ」と言いながら、大学までやってくれたのは感謝している。将来、姉だけなら面倒見てもいい。それが恩返しだと思っていた。だが父親は別だ。そしてその父親を自分の結婚を駄目にされてもまだ切り離せない好子はすでに巧の敵になってしまっている。
巧は「あんたの世話をするのが楽しい……」という好子のセリフにぞっとした。
(死ねばいいのに……くそ野郎……いや……二人とも……)
そう思った瞬間に昼間に同僚から聞いた、「恨みはらします系の噂話」が頭をよぎった。
かすかにジャズが流れる静かなバーの片隅だった。
巧は目の前のグラスをじっと睨んで迷っていた。恨みを晴らしてくれる彫り物師を捜し始めてから様々な噂を耳にした。高額である事、そして自分の身に彫り物を入れなければならない事、我慢出来なければ自分が死ぬか、化け物のようになってしまう事。
それを超えなければ巧に平穏な日々が来ない。来ないばかりか、将来必ず父親に食い物にされるに違いない。そしてそれを許してしまう姉が疎ましい。
毎晩、迷いながらも目に着いたバーに入り、それらしい男を探した。
派手な着物姿の女を連れた男がいるバーに入るまで五十件は探しただろうか。
派手な着物の女は本当に派手で、美しかった。
この寒い季節に桜の小枝を手に持っていて、入り口から中を覗いた巧を見て、「鳴宮ぁ、お客さんやでぇ」と老婆のようなしわがれた声でそう言った。
闇屋の元へ依頼人を連れて行く時は依頼が決定してからに決まっている。
中途半端な覚悟で来て、やっぱり止めるという展開を闇屋は非常に嫌うからだ。
鳴宮は闇屋の自称マネージャーであり、闇屋から乞われて雇われているのではなかった。
だから手際の悪い所は極力見せたくなかった。
島崎巧が鳴宮を探し当てて来た時にこいつは……と思った。
消したい相手が実の父親と姉だとは世も末だ。
だが人それぞれに事情はある。今の世の中、どんな毒の親がいるかニュースでもさんざんやっている。自分を守る為に親兄弟に消えてもらうしかないような人間もいる。
だが、この島崎巧という男もどこか世の中を甘く見ているような所がある。
実の父と姉を殺してしまえば全て解決のような脳に驚く。
闇屋はこういう人間を嫌うだろうな、と鳴宮は思った。
巧は父親への憎しみと姉の愚痴を延々と話した。
「まあ、聞いて見れば気持ちが分からないでもないけどね。子供を作っても親になる資格がない人間は大勢いるし、何故だかそういう人間のほうが繁殖率が高いんだよね」
と鳴宮が言った。
巧は鳴宮が理解をしてくれたと顔を輝かせた。
「依頼するなら引き受ける。でもさっきも言ったように君自身が彫り物をして毒の図柄を背負わなくちゃならないんだ。そいつは高価だし、とてつもなく苦しい。一度背負ったら途中で止めるのは不可能だし、この苦痛から逃げたいと思った瞬間に君の方が死ぬ。実際に本当に途中で死んでしまった依頼人はいるんだ。憎い相手はぴんぴんしてるのにね。人を一人、君の場合は二人だけど、相当な危険はある。だけど、その危険に打ち勝てば君の身は安全で憎い相手を死に追いやれる。まあ、じっくり考えればいい」
巧は目の前のグラスを両手で持ち、中身を一気に飲み干した。
それから震える声で、
「お願いします」
と言った。
「ちょっとええか?」
と鳴宮の背中から青女房が顔を出した。
「どうした? 青女房」
「話は聞いた……あんたはんの父親はまあええやろ。あにさんの的になる資格は十分や。でもお姉さんまで道連れにせんでも。父親さえおらんようになったらええ話ちゃうんか? お姉さんとは別の道をいけばええやろ」
しわがれた声で美しい青女房は微笑みさえ浮かべて巧にそう言った。
「は、はい……でも、姉ちゃんはあいつがいなくなったら、また俺の世話を焼いて暮らすと思うんです。俺、もう姉ちゃんと一緒に暮らすのも嫌で……なんか、俺の世話だけが姉ちゃんの楽しみみたいな感じで、今までもずっとそう思ってたんだけど、なんか急にそれが嫌になってしまって。もしかしたら、俺が家を出るとか結婚するとか言ったら……すがりついてくるかもしない。俺、一度嫌になってしまったら、もうダメなんですよね。今は姉ちゃんの顔を見るのも嫌で」
しばらくの沈黙の後、
「そうか、分かった。今のは青女房の提案はただのお節介だから気にするな。こっちは一人よりも二人の方が金になるから君が誰を的にしようが気にしない。では的は二人でいいんだな? 後悔はしないな?」
と鳴宮が言い、巧はうなずきかけたがはっとしたような顔になった。
「あ、あの……」
「何?」
「いくらかかるんですか?」
「金? それはまあ、それなりにかかる。君は二人分の依頼だしね」
と鳴宮が言った。
「あの……ローンでお願いします!」
「ローンて……」
鳴宮と青女房は顔を見合わせた。
「ど、どうも、島崎巧といいます」
と巧が言い、軽く頭を下げた。それから物珍しそうに工房の中をきょろきょろと見渡した。
「座れ、鳴宮に話は聞いたけど、うちはローンは扱ってない」
と闇屋が言った。
巧はすぐ側のソファに腰を下ろして、ため息をついた。
「駄目……ですか」
「あのなぁ、マジな話、あんたは親と実の姉を復讐の的にしようとしてんねんで。それがローンて」
呆れたように闇屋が言い放った。
「普通はちゃんと金貯めてから依頼に来るもんやで。一生懸命働いてな」
「はあ。でも、就職したばかりでまだそんなに貯金もなくて」
頭をかきながら巧が言った。
「人間界にはサラ金っちゅう便利なもんがあるやろ」
「サラ金なんて嫌ですよ。怖いし」
闇屋はまたはーっとため息をついた。
「お前、本気で親兄弟をやるつもりあるんか? 後からやっぱりやめたとか言うても遅いんやで? そんな生半可な思いで来られても迷惑や。絶対失敗するで。失敗したら自分が痛い目に遭うんやで? 分かってんのか?」
「はい、分かってます。復讐をお願いする気持ちに偽りはありませんし、後悔もしないです。ただちょっとお金がないだけで……出世払いとか駄目ですかね?」
巧の言葉に闇屋ががっくりした顔になったがすぐに顔を上げて、
「金霊がおるやんけ」
と言った。
「おい! 誰か金霊を呼んでくれ。そんで、死神!!」
(お呼びでしょうか?)
と背中から銀縁眼鏡にスーツ姿の男が現れた。
「金霊がこの男に金を貸した場合、取りはぐれる危険があるか? 生体エネルギーだけでも三百万円分、支払えるか視てくれ」
と闇屋が言った。
死神は眼鏡の位置をくいっと直してから、巧の方へずずっと近づいた。
(なるほど……この方が)
巧は突然現れた死神をおどおどしながら見上げた。
(まあ、大丈夫そうでしょう。寿命はかなり、八十歳までは生きるかと)
「え、俺、そんなに長生きですか」
(さようですね。あなたはかなり長命の相をお持ちですよ、ひっひっひ)
と死神は奇妙な声で笑ってまた闇屋の背中へと消えた。
(あにさん……金霊はすぐに来ますよって……)
とどこからか声がした。
闇屋は巧の方へ向かって、
「今から金貸しが来るから、そいつに借りて払え、三百万。そいつは金で返済してもええけど、生体エネルギーで返済してもええんや」
と言った。
「生体エネルギー?」
「そうや、人間の持つ活力とか気力みたいなもんや。そいつを吸われると身体はめっちゃ疲れるんやけどな、若いから一晩二晩寝たら体力は戻るやろ。金で払うよりもええって人間には評判らしいで。普通はそういう斡旋はせんのやけどな。お前みたいに金もなしで依頼してくる人間はあんまりおらんからな」
「すみません……それでお願いします!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます