第2話 小袖の手

 老いたからといって人はそうそう馬鹿にできない。

 弱々しく気の優しい老人に見せかけるその擬態の技術は人間の中のほんのひとかけらの良心に食らいついてくるからだ。若い頃に悪賢かった者は老いてなおいっそう、したたかに人間の心の隙間に忍び込んでくる。


「お父さん! 今日は病院に行く日でしょう? 早く支度しないと」

 と島崎好子が台所から大きな声を出しているのを、弟の巧は苦々しい気持ちで聞いていた。

 するするとふすまが開き、年老いた父親が顔を出す。にこやかな笑みを浮かべ、新品のシャツのボタンをはめながら。

「おお。そうだな」

 好子は父親に保険証やらの入ったポーチと五千円札を渡して、

「これ、病院とお昼代ね。今日は私ももう出なくちゃならないから、お昼の用意はしていけないの。外で食べてね」

「ああ、すまんな……っと、いかん。忘れとった」

 父親が笑顔でそれを受け取りながらも、ほんの少しすまなそうな口調に変わった。

「ああ、まあいいか」

「何? どうしたの?」

「いや、たいしたことじゃない。この間病院でつまずいて転んでしまったんだが、その時に手を貸してくれた人がいてね、また今日、病院で合う日だからな、何かお礼でもとふと思っただけさ。菓子折でも買っていこう」

「そうだったの。じゃあ、それじゃ足りないわね」

 好子は財布から一万円札を抜いて、父親に渡した。

「すまんなぁ」

 父親はすまさそうな顔をしながらまた一万円札を受け取って財布に入れようとした。 

「おい、一万も取ったら、さっきの五千円は姉ちゃんに戻せよ」

 と巧が食べ終わった茶碗と皿をシンクの水につけながら尖った声で父親に言った。

 一瞬、父親はむっとしたような顔をしたが、

「いいのよ。巧」

 という好子の声にその顔をすぐさま笑顔に変えて、

「すまなぁ、好子。じゃあ、そろそろお父さんは行くとするか。巧も会社に遅れるなよ」

 と言って足早に玄関から出て行った。

「うるせえよ。何が会社に遅れるなだ、偉そうに。おっさん、まともに会社勤めなんかしたことねえじゃねえか」

 巧は心底嫌そうな顔で玄関の方を睨んだ。

「そう言わないで、巧、お父さんだって病気になって、今は心細いんだから。優しくしてあげて」

 好子にそう言われると巧もそれ以上は言わずに黙る。

「巧、今日、私、遅くなってもいい?」

 と好子が言った。

「え、何、デート?」

「うん。まあ、食事に行くだけだけどね」

「じゃ、俺も外で食って帰るよ」

「お父さんは……」

「知らねえよ。一万五千もふんだくって行ったんだ。自分でなんとかするだろうさ」

「巧……」

「毎日々、病院だ何だって、なんだかんだと金をむしり取って行きやがって。姉ちゃんが甘やかすから図に乗るんだ。何であんなやつを引き取ったんだ。母ちゃんと俺たちを捨てた男だぞ?」

「でも、お父さん病気なんだし、お金もないみたいだし……放っておけないわ」

「年くって女に捨てられたんだろ? それで俺たちにすがりつくってあつかましいにもほどがある。どうせ母さんに養育費も払ってないんだろ。俺たちにだって面倒をみる義務はないな! マジどっかでのたれ死ねばよかったのに」

 吐き出すようにそう言ってから巧は仕事鞄を手に部屋を出た。


「巧……」

 残された好子はテーブルの上に残った父親が食べ終わった茶碗と皿をシンクの水につけた。手早く洗ってから片付ける。テーブルの上も拭いて、ざっと座敷にも掃除機をかける。姉弟でつましく暮らしていたアパートに行方不明だった父親が来たのが二ヶ月ほど前だった。服はボロボロで髪の毛もぼさぼさ、ホームレス直前だった父親が涙ながらに許しを乞うので好子は父親を迎え入れた。

 父親の行方不明の詳細は借金と女というよくある話だった。弟が激怒していた通り、父親がきちんと会社に勤めていた姿を好子と巧の姉弟は見たことがない。

 いつも家にいて酒を飲んでいるだけだった。酒がなければ憂さ晴らしに子供を蹴ったり叩いたりする最低な人間だった。

 一家四人の暮らしは母親のパート代で支えていた。父親は何らかのことが原因で会社を辞めたから支えてあげなければならない、と母親に言われたことだけは好子は今でも覚えていた。

 あげくに浮気をしてその女と行方不明。その時好子は十歳、弟の巧は五歳だった。

 母親は苦労をして二人を育てあげたが好子が働けるようになる年まで頑張り、安心したのかぷつんと糸が切れたように突然に死んだ。働き出したら母親に楽をさせてあげたいと思っていた好子は落胆したが、まだ中学生の巧がいた。巧は大学に進ませて、勉強させてやらねばと母親の代わりに好子は頑張った。

 好子の稼ぎと母親の残した保険金で巧は大学までいきこの春から社会人になったところだった。そして好子もようやく自分自身の事を考えられる時間が持てるようになった矢先である。


 巧は幼かった故に殴られ蹴られた恐怖しか覚えていないようで、十八年後に行き場のなくなった年老いた父親が訪ねてきた来た時に会う事すら拒否した。 

 好子は優しかった事もある父親をどうしても見捨てられずに迎え入れてしまった。  二部屋に台所というささやかなアパートで姉弟で平穏に暮らしてい日常は一変した。

 まず、ひとりづつの部屋と台所という均衡が崩れた。

 巧は父親との同居すら反対だったので、同じ部屋などとんでもなかった。

 父親と好子が同室になるのも致し方がないのだが、

「わしは神経質でなぁ。狭い部屋で誰かと一緒には眠れないんだよ」

 とすまなそうに言う。

 厚かましい!!と怒る巧を押さえ、好子は自分が部屋を空けて台所で寝起きするようにした。巧が好子ならと同室を申し出てきたが、社会に出て仕事にも苦労している時期の弟の負担になるわけにもいかない。

 父親は無年金で無収入、そこへ病院代、洋服代、散髪代、二人家族が三人に増えれば食費、酒代、光熱費もかかるようになる。

 好子は下戸だし巧も家ではそうそう飲まないが、父親には晩酌がいる。晩ご飯とは別につまみがいる。夜だけならまだしも、一日中昼間家にいて、酒を飲んでいる様子もあった。

 巧がその事を咎めれば昔の暴力的な父親ではなく、「すまんな、すまんな」と何かとすまなそうな口調で下手には出るので、好子が父親の前に出て庇ってしまうのだ。

 その事がまた巧を怒らせ追い出すべきだと何度も巧は言うが、好子にはそこまで出来ないでいる。父親が少しでも家の事をしてくれたり、自分の小遣いくらはバイトでもしてくらたらいいのにとは思うのだが。

「さて、私も行かなくちゃ」

 今日の好子は仕事の帰りに恋人と食事の約束をしてあった。

 母親を助け、その後は弟の為にずっと頑張ってきた好子に訪れた遅い春だった。

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