膝の猫
吉田ヒグラシ
膝の猫
猫の降ろし方が分からない。ワッと驚かせば、どいてくれるだろうか。概ね白く、尾は黒と茶の混ざり合った色をしている。そもそもこの猫、いつ私の膝の上に乗ったのかも不明である。テーブルを前に椅子に座っていたら、どこからともなくやってきたのだ。
いや、真面目に考えれば、さすがに玄関が閉まっているのは間違いないのだから、窓でも空いていない限り、猫が入ってくるはずはない。更に言えば、ここはマンションの6階で、窓が空いていたとしても猫が入るわけがない。通常では起こり得ない偶然が重なったのだろうか。このマンションはペット禁止にも関わらず、実は隣人がこっそり飼っていて、うっかりベランダの窓を開け放しておいた所、私の部屋のベランダの窓も都合良く空いていて、隣のベランダの手すりから、ひょいと飛び降りてやってきたとか。
猫はすやすやと私の膝に丸く収まっていた。そのサイズ感といったら、さながら私がその猫専用に設えられた寝床であるかのように、丁度ピッタリなのである。
「説明は以上になります。それでは質疑応答に入らせて頂きます」パソコンの画面から、関口の声が響く。「何か質問のある方はいらっしゃいますか」
私はネクタイを締め直した。数秒の沈黙の後、部下の一人がミュートをオフにした。
「はい。真宮です。質問よろしいですか」
「はい。真宮さん、どうぞ」関口の声が強ばった。
「A案の具体的なアドバンテージは何ですか」
「アドバンテージ、ですか」
「ええ」
「アドバンテージは……」関口が私に目配せをした。オンライン会議ではそれは全員に対するアイコンタクトになってしまっているが、今の彼にはそれを考慮する余裕がない。
私はミュートをオフにした。「質疑中失礼します」
「はい。課長、どうぞ」関口が安堵の声を出した。
「ありがとうございます、岡です。真宮さんに確認なのですが、アドバンテージというのはこの場合、メリット、という意味でよろしいでしょうか?」
「はい、そうです。アドバンテージ、即ちメリット、言い換えればベネフィットを説明して頂きたいです」
「回答ありがとうございます」言いつつ私は関口の表情を確認したが、まだ分かっていない様子だった。「関口さん、発言中失礼しました。それでは、A案の良い点について、引き続きご説明をお願いします」
関口はようやく理解することができて気が
ミュートのアイコンをクリックして、私は膝の上の猫を眺めた。ヒゲが長く、全体的にもふもふしている。白い毛並みは触れたら気持ちが良さそうだった。
「20〜60代の男女を対象に行った顧客の満足度アンケートによれば……」関口は会議冒頭の説明と全く同じ内容を繰り返した。A案の利点については既に言及していたので質問が悪かったとは思うが、それにしても資料をそのまま読み上げているのが目線の動きであからさまに分かってしまう。
「いや、その意見にはアグリーなんですがエビデンスが不足しており、イニシアチブを取るには……」
真宮が怒涛の横文字演説を始め、関口が弱々しい目で画面越しに私を見つめた。真宮は意識の高い新入社員らしく覚えたての言葉を使いたくて堪らないのだろうが、カタカナを不得手とする関口のサポートは、全て直属の上司である私に回ってくる。アグリーは賛成、エビデンスは根拠、イニシアチブは……
私は猫を撫でた。そしてギョッとした。ねっとりしているのだ。見た目からは想像もつかない程の粘着力で、右手が猫の胴に貼り付いて、どう引っ張っても取れなくなってしまった。
「コミットすべきカバレッジを考慮するとクリティカルな顧客のコンセンサスを得るためにコンプライアンスに配慮し……」
猫を膝から引き剥がそうとして、うっかり左手でも触ってしまった。スライム状の体に両手がくっついて離れない。これではタイピングどころか、マウスを操作してミュートをオフにすることさえできない。
「ジャストアイデアではありますがマッシュアップなスキームとスクリーニングによりダイバーシティとサステナブルを両立するシナジー効果が期待でき……」
私は猫を、じっと見つめた。目を閉じて、微笑んでいるように見える。猫はすうすうと寝息を立て、その腹が呼吸に合わせてゆっくりと上下する。私の掌は猫の体温でほんのり温まり、柔らかい猫の体は私の太腿に吸いつくように密着している。
ザザン、と音がした。顔を上げると、そこには海が広がっていた。朝焼けだろうか、桃や杏を搾った様な瑞々しい空に照らされて、凪いだ海も白い砂浜も、淡い色に染まっている。周りには誰も見当たらず、私は果てのない広大な砂浜の海辺で、膝に猫を乗せて椅子に座っている。遥か彼方にどこまでも続く水平線は、空と海の境が溶け合って一体となっている。そよ風が頬を撫で、どこか懐かしい潮の香りを運んでくる。砂浜の向こうのほうでは、強めの風が吹いたのか、ヤシの木がスローモーションの様に揺れている。
「眠ろうか」
穏やかな光が私達に降り注ぎ、波や砂にキラキラと反射していた。猫の心地よい重みを感じながら、私は目を瞑った。
膝の猫 吉田ヒグラシ @yoshida-higurashi
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