第6話 月の都へ

 窓から差し込む午後の日差しが、ガラスの中のコーヒーを琥珀色に染めている。


 夏休みも終盤に差し掛かった頃の金曜日、僕は駅前の喫茶店で藤原さん・本宮さんの二人とコーヒーが出来上がるのを待っていた。アルコールランプの炎がいくつものサイフォンをオレンジ色に照らし、コーヒーの色味と相まって幻想的な眺めを作り出している。


 本宮さんが退院してから、毎週金曜日に僕たち三人はこの喫茶店で会うようになっていた。もとはといえば、本宮さんの予後を心配した藤原さんが、半ば無理やり僕を引き込んで始めた会だった。しかし、気付けば僕は、リハビリを手伝う相手であるはずの本宮さんから、逆に色々なことを教わっていた。


                   ◆


「ほどほどで大丈夫なんだよ。勉強も部活も、何事もね」


 不登校になった経緯を説明した時、人差し指を立てた本宮さんは、諭すように言った。


「竹中くんは真面目に考えすぎ。何でも完璧にこなせる人なんていないんだから、周りの期待に全部応えようとしなくてもいい。それに…」


 切れ長の目が細まり、薄い唇が笑みを作った。


「最初にお見舞いに来てくれた時の君の発想と行動力、私は買ってるよ」


 褒められ慣れていない僕がどぎまぎしていると、藤原さんが「あんまり褒めすぎると調子に乗るからこの辺でいいよ、かぐや」と余計な口を挟む。まさか藤原さん、僕に妬いてるのか。


 本宮さんは順調に回復を続け、秋からは大学に戻れることになった。彼女が統合失調症を発症した原因のAは、本宮さんが事情を両親に説明したことをきっかけに警察の事情聴取を受け、その後に逮捕された。大学も退学になったことだろう。


 けれども、元の生活に戻っていく本宮さんとは対照的に、僕の気分は新学期が近づくにつれて沈む一方だった。学校に戻りたい気持ちはある一方で、登校したときの同級生や先生の目は想像するだけで恐ろしく、ジレンマは日増しに強まっていた。


                   ◆


「やっぱり、学校に戻るのが怖いんです」


 三人分のコーヒーが運ばれてきた後、僕は切り出した。同級生の藤原さんの目の前で言うのは恥ずかしかったが、向かいに座る本宮さんに本心を吐露する。彼女はきれいな黒髪を手で梳きながら、僕の話を真剣に聞いていた。


「行かなきゃいけないのは分かってるんです。それでも、朝、どうしても起きられない…」


「行かなきゃいけない、と思ってる内はそうかもね」


 鋭い言葉に、思わず彼女の目を見る。瞳が、アルコールランプの炎を反射して揺らめいていた。


「結局、私たちは義務感だけでは動けないのよ。頭では理解してるつもりでも、体が追いつかない。私だって…」


 軽く溜息をついて、本宮さんは言った。


「高校までは毎日が楽しかったから、何かを嫌々続けたことはなかった。でも…大学で好きだと思ってた人に暴力を振るわれて、こんなの嘘だ、私がちゃんとすれば全部元通りになるんだって勝手に思い込んで、自分を追い込んでたんだよ」


 はす向かいの藤原さんが体を強張らせたが、本宮さんは冷静な面持ちで続けた。彼女が過去を、本当に乗り越えることができたのだと、僕は悟った。


「どこにもない正解を追い求めるよりも、自分の心に正直になった方がいい。だから私は、竹中くんが本当に学校に行きたくないのなら、行く必要は全然ないと思ってる」


「それでも…!」


 藤原さんが急に割って入ったので、僕たちは揃って彼女を見る。少し恥ずかしそうに、でも決意のこもった目で、藤原さんは言葉を継いだ。


「竹中くんは、本当は皆とうまくやっていけるし、困ってる人を助けられる人なの。それに…私とかぐやのことを相談できる相手は、今のところ竹中くんしかいないわ」


「ふふ、秘密の関係。いいね」


 本宮さんは微笑んで、藤原さんにウインクした。藤原さんは真っ赤になって目を伏せた。


「それでは、竹中くん。私の可愛いさくら姫の付き人として、学校に行ってはくれないかしら?もし行ってくれたら、ここのコーヒーはこれから私の奢りでいいよ」


 本宮さんのニヤニヤした顔を見ながら、僕は頑なな心が和らぐのを感じた。本宮さんの言う通り、学校の皆の目を気にしていては問題は解決しない。けれども、大好きな二人、本宮さんと藤原さんのためなら、素直に一肌脱ごうかという気持ちになれた。


「分かりました。ここのコーヒーは好みなので、その条件を飲みましょう。有言実行でお願いしますよ、かぐや姫」


 僕の返答を受け、本宮さんは満足そうに頷いた。そして、ふと何か思いついたような顔をして、僕と藤原さんを交互に見た。


「そうだ、今夜はちょうど満月だから、久しぶりにあの公園でお月見しない?」


                   ◆


 ジャングルジムの上からは、公園を囲む背の高い木々と、夜空に輝く光の珠しか見えない。下界から隔絶された箱庭で、僕たちは並んで月を見上げていた。


「あぁ綺麗。いつまでも見ていられそう」


 うっとりと月を眺める本宮さんの横顔は、昼間よりも謎めいて、本当に月の姫のようだった。藤原さんが、そっと本宮さんの手を握るのが見えて、僕は慌てて目を逸らす。


「もう一時間ぐらい長居しちゃった。かぐや、そろそろ行こう」


 藤原さんの言葉につられて時計を見る。気付けば、真夜中近くになっていた。ジャングルジムを降り、公園の出口に向かう。二人は、僕の後から並んで付いてきた。


「竹中くん、今日は…いや、これまでもずっと、本当にありがとう。君と、藤原さんの二人がいなければ、私は今でも病院のベッドに縛り付けられたままだったかもしれない」


 本宮さんが畏まって礼を言ったので、僕は慌てて頭を下げる。


「こちらこそ、本宮さんに話を聞いてもらったお陰で、僕も学校に戻る決心がつきました。それに…二人は、僕にとって、親友と呼べる数少ない存在です」


 思い切って伝えると、本宮さんはにっこり微笑んだ。藤原さんも、心なしか頬を緩めているように見える。


「そう言ってくれて嬉しいよ。たしか、君の家はこっちだったね。私とさくらは一緒の方向だから…」


 本宮さんが言いかけると、藤原さんが遮った。


「私とかぐやは一緒に帰るのよ、月の都へ。夜はこれからもずっと、私たちを受け入れてくれる」


 そう言うと、藤原さんは本宮さんの手を引いて、公園を後にしていった。僕の隣を通り過ぎる時、藤原さんが小さく「ありがと」と言ったのが聞こえた。


 月明かりに照らされた二人の後ろ姿は、繊細で儚げで、それでいて幸せそうに見える。二人が見えなくなるまで見送ってから、僕は心地よい夜風の中を家路についた。

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かぐや姫をさがして ユーリカ @eureka512

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