瞳の中

檜木 海月

前編

 初恋は叶わないと誰かが言った。

 私は……


 ・・・


 誰かに好意を抱くというのは簡単に見えて存外難しい行為であると若輩ながらに私は思う。


 そもそもの問題としてどの基準からが恋とか愛とかいう鍋の底に絡みついた焦げたカラメルみたいなもののことを指すのだろうか? 自分が相手にときめいたらそれは恋なのか? 相手に好意を抱かれれば恋なのか? それとも内側よりふつふつと湧き出る品性下劣な性欲が愛とかいうやつなのか? そうであるならお笑い種だ、そんなものは大便とともに流してしまえばいいと思う。


「うるさい!」


 部屋の片隅でブツブツ言っていたつもりが、どうやらそこそこの音量だったらしく隣の部屋の妹が殴り込みをかけてきた。いつもならばリモコンをぶん投げるという適切な対応をとって兄妹喧嘩の臨戦態勢に移行するのだが、私は現在哲学的思考に陥っていたため妹と遊んでやれる余裕がなかった。


「すまんな妹よ」


「珍しく素直な」


「お前のイカした兄貴は人類が長らく解けなかった問題に挑んでいるのだ」


「まず私の兄貴はイカしてないイカれてる。そしてお前如きに説かれる人類の問題が可哀想だから今すぐ死んで」


「なぁ、お前死人に鞭打って楽しい?」


「楽しい。私、屈指煽りするタイプだから」


「我が妹ながら心底ロクでもないな」


 私がそういうと妹は少し恥かしそうに愛らしく微笑んだが、彼女は自分の行為を恥じているのではなく、私が遠回しに褒めたと思ってるようだ。イかれてるのは私ではなくお前だと言いたくなったが、一応は兄貴なのでぐっと我慢して本題に話を戻す。


「俺は今、愛とか恋とか反吐が出る問題に取り組んでいるんだ」


「え、何、純粋に気持ちが悪い」


「ひどいよねお前ほんと、てかお前はそこんとこどうなん」


「いや、私別にお前みたいに小難しいこと考えながら恋してないし」


 彼女は鼻で笑いながら言う。


「好きってなったらそれでよくない? そうやって意味のわからないことばっかり言ってるからモテないと思う」


 大変心にグサグサくる、この女には容赦とかオブラートとかがない。


「うるせぇ! バーカ! バーカ! この……バーカ!」


 ムカついたので床に転がっていた酎ハイの空き缶を投げた。大人気ないと言うことなかれ、兄妹とは大抵こんなもんだ。

 勝ち誇ったような顔で私を見下した後、妹は捨て台詞のように私を見下しながら『そんなんだから……』と呟いたがその先なんて聞こえないし聞きたくない。


 妹が出て行ってしばらくしてリビングの冷蔵庫を漁ったがツマミになりそうなものも無ければ酒もなかった、このまま眠れる訳もなくジャージを羽織って深夜の街にコンビニ求めて繰り出した。


 コンビニに入って適当にハイボールの缶をカゴに放り込んで、ついでに一口パインとバターピーナッツも放り込んだ。顔見知りの店員と下んない世間話をタバコを吸いながら、きた道を戻る。

 耳元からは愛だの恋だのと甘ったるいことをほざく歌が流れ込んできて変な笑みが溢れる。どうやら大学の必修科目と同じ扱いらしい、人は恋をせねばいけないようだ。


「やってらんねぇ」


 鼻で笑いつつ言葉を吐き出して、私は踵を翻した。帰るのはやめだ、非行少年になってやる。


 ・・・


 軽く息を切らしながら、街灯のないゆるい山道の階段を登って憩いの場所に足を向けた。タバコはそんなに吸ってないと言うのに肺の機能が中学時代に比べるとひどく低下している気がする、こんなんではジジイになる前に動けなくなりそうだ。ゼェゼェ言いながら肩で呼吸して今にも崩れそうな木造の展望台如き建物の螺旋階段をのぼる。


 長い長い螺旋階段の最後に足をかけて顔を上げてから、私はひどく後悔した。母親が私によく言っていた『深夜に出歩くとろくな目に合わない』と言う言葉は真実だったようだ。そこにはすでに先客がいた。


「ん?」


 先客が振り返る。

 これが赤の他人なら良かった、多少タチの悪い奴でも引き返せば終わる話だ。だが、彼女の場合はそうでは無い。


「こんばんは」


 この話はそんなところでは終わりはしない、そもそもの話は結局のところ全て彼女に帰結するのだということを今更ながら思い出した。


「……こんばんは」


 そこにいたのは私の悩みのもとで、未だに私の心の柔らかい部分に居座ったままの女で、私の想い人であった。


 満月に照らされて、彼女が静かに微笑んだ。


 そこにいるはずの無い、いていいはずのない彼女が半月状に口を開く。


「奇遇だね」


「最悪にもな」


 こうして回らなくてもいい歯車は私の言うことなど聞かずに自分勝手に回り出し、絡まなくていい私達の物語はすごい音を立てながら空回りを始める。

 こうなっては仕方がない、万策尽きた。


「とりあえず、飲むか」


 私が言うと、彼女はキョトンと間抜け面を浮かべた後に楽しそうに笑った。


 ・・・・・


「それで、なんでこんなところに来たの」


「冷蔵庫漁ったら酒がなくてコンビニに行ったら、このまま帰るのは虚しくなってここに来た」


「結局のところ、私も君も辿り着くのはここだね」


「やめろ、それでは俺が進歩の無い人間みたいだ」


「無いでしょ進歩」


「あったらこんなところに来てねーな」


 私がそう言うと彼女が楽しそうに笑う、なんだか照れくさくなって話の空白を埋めるためにハイボールのプルタブを空ける。

 軽い運動で乾いた喉をハイボールの刺激が潤した、後悔と幸福で吐き出したため息で曖昧な夜の隙間を埋めては、開いた口に余計な言葉を吐かないようにピ―ナッツを詰め込んだ。


「こんな夜中に女が一人で、こんな薄暗い森に来るのは危ない」


「相変わらず私にはジェントルだ」


「馬鹿を言え、俺は誰にでもジェントルだ」


 くだらない会話で間を繋いでは、居心地のいい場所を作り出して取り繕ったように笑う。本当は今にも逃げ出して、毛布にくるまって叫び散らしたい、だがそれを自分自身が許してくれない。私はまだここにいて彼女と言葉を交わしていたいと思ってしまう。


 なぜ私はよりにもよってこんな夜に、彼女と酒を酌み交わしているのだろうか、よりにもよって私を置き去りにした彼女なんかと。


 ・・・・・


 高校時代の私はそれなりに面白おかしく生きていた、別に今が面白味に欠けるというわけでは無い、思い出補正も込みで本当に楽しかった。

 楽しかった理由の大部分を占めていたのはきっと彼女だ、私が生まれて初めて恋をした彼女なのだ。


 こんな小っ恥ずかしいことを口にできるわけもなく、モジモジと絵に描いたような女性経験のないひ弱な男のように私は彼女との心地のいい曖昧な関係に浸っていた。


 きっと彼女も、私が彼女を好いているのと同じくらい私のことを好いてくれてるなんて身勝手で今にも過去にタイムスリップして自分自身をぶち殺してやりたくなるような幻想を抱きながら。

 だがそんな思い込みに未来はない、そんな自惚れは長くは持たない、お祭りの水風船が次の日には、し萎れたゴムのゴミになってるのと同じぐらい当然で当たり前だ。


 だから、私は今でもあの日を夢に見る。

 ひどい悪夢にうなされる。


『ごめんね、私……』


 失恋というものは人を強くする、どこかでそんなことを聞いた。ふざけやがって、糞食らえ、私はこれ以上強くはなれ無い。


 私は本気で彼女が好きだった。

 身勝手でわがままで、それでいて優しくて。


 そんな彼女を私は……


 ・・・・・


「聞いてる?」


「聞いてない」


「だろうね。私の話はそんな退屈かね?」


「いや、面白いよ? その話が通算で六回という点を除けばな」


「あ、やっぱこの話したことあるか。おかしいなぁ」


 相変わらず彼女の記憶力は乏しい、老いたらひどいことになりそうだ。


「お前の脳の半分くらいは眠り過ぎで動いてないんじゃ無いか?」


 いつものように私がふざけてそういうと、彼女は少し黙って悲しそうな顔でハイボールを啜った。


「何かあったのか?」


「最近眠れないの」


「冗談だろ? お前が寝れない?」


 私が心底驚いてそう言うと、心外だとばかりにキーキー言い出したが、彼女は異常なまでに眠るし、起こさなければ丸一日眠り続ける。好きなものは睡眠と日向ぼっこの眠り姫はどうやら眠れなくなってしまったようだ。


「全く眠く無いのよ」


 そういってケラケラと笑ってるが笑い事では無いと思った、彼女の寂しげな横がをはきっと口調以上に焦っている気がしてならない。

 私の知っている彼女は、いつでも何処でも眠るし、夜中までろくに起きていられない人間だ。そういえばと時計に目を落とすと既に時刻は深夜二時。私の知ってる彼女ならばとっくのとうに夢の中だ。


「夜の世界も結構いいね」


「……お前にはあまり似合わないけどな」


「そう?」


「あぁ」


 意味のない言葉の羅列を吐き出した。

 彼女の悩みを聞いたところで私にはどうすることもできないし、どうにかしてやる道理もない。


 私と彼女は、なんと言うか、生きてる世界が違うのだ。この関係性に舐めなんてつけられないほどに。だから、私は彼女に何もしてやれないし、どうにかしたやれるとも思わない、そんな思い上がりは随分と昔に捨てたのだ。

 そうやって頭の中で言い訳をこねては自己嫌悪に落ちる、頭を使っててもまた間違う。


「寒いね」


 彼女が言った。


「帰ろうぜ、送ってく」


「いいよ、近いし。知ってるでしょ」


「知ってるけど心配なんだよ」


「もう心配することもないのに……ま、いっか。じゃあ途中までお願い」


 そう言って彼女が笑う。

 またその笑顔に騙されそうになる。


「ねぇ、眠れないのと関係あるかわからないけど」


 帰り道の青い街灯の下で彼女がそう呟いて、頭上を指差す。そこにはなんの変哲も無いが、腹が立ついほどにまん丸い月が一つ。それを指差しながら彼女が言う。


「あの月がね、私には二つに見えるの」


 ・・・・・


 その日は、随分と久しぶりに高校時代の友人と飲みにいく約束をしていた、というよりも高校時代の友人達との連絡をほとんど取り合ってない私が強制的に招集されたと言ってもいい。

 安い居酒屋に入り、お互いの近況報告や思い出話に花を咲かせて、そうして私は酔いのせいで昨日の彼女の話を彼にポロッと漏らしてしまった。


「おいおい、お前はいつから電波になった?」


 焼き鳥の棒で私を指しながら彼が言う。


「電波じゃねぇよ」


「電波じゃ無いならクスリでもやってんじゃねぇか?」


「お前じゃないんだ一緒にするな」


「俺もやってねぇよ」


 昔のように軽いパンチが飛んできて、ケンカの真似事の茶番劇を繰り返して顔を合わせてゲラゲラ笑う。今だけは、あの日に戻ったような気がして少しばかり気が晴れた。


「もう振り切ったとばかり思ってたんだが」


「別に、もう惚れてねぇよ」


「本当にぃ?」


「なんだそのムカつく顔! ぶっ飛ばすぞ」


「一度たりとも俺に勝ったことのない奴がよくいうぜ」


 卒業後さらにがちむちになった彼に、到底私が勝てると思えない。勝てない喧嘩はしないのが主義だ、大人しく両手を上げて降参のサイン。


「素直でよろしい」


「それだけが取り柄でね」


「よくそんな気軽に嘘がつけるよな」


「それだけが取り柄でね」


 皮肉でも、クソでも、これに嘘偽りはない。私が笑うと終始笑顔だった彼は線が切れたようにことさら大笑いした。


「お前の話を信じるならの前提になるが、お前どうする気だ」


「……俺にできることなんて一つだってないよ」


「ふーん、変にスレたな」

「成長したんだよ」


「成長ねぇ、それっぽい言い訳を並べるのが成長か?」


「嫌なこと言うなぁ。まぁでも、それも成長だろ」


 御託を並べては自分を守る壁を作った、適当な言い訳をこさえるのは得意だ、私がこういう人間であることを彼も彼女も知っている。


「変わんないな、お前は」


「変われないよ、俺もお前も」


 私はきっと変われない、なんとなく私はそう思う。立ち止まれないはずの道の中で私だけ置いてけぼりをくらっている。私の心はいまだにあの夜を漂っているのだ、海を漂うクラゲのように。


「俺は変わったよ」


 彼が言う。


「彼女にまぁ、そのなんだ、ぼちぼち告白をですね」


「え、何? そう言う流れ? え、まってまじでお前」


「ウルセェな! 黙って聞けって!」


「えぇ、まじで言ってんの? 流れ的に今、俺のお悩み相談コーナーだったじゃん。なんで自分の恋路も立ち行かないのにお前のこと祝福しなきゃなんないの?」


 というか、彼は最近フラれたとかなんとか言って随分と面倒くさいことになってたはずだが。


「一回別れたってか、離れたけど。最近話し合ってヨリ戻して、今度同棲の申し込みをな」


「はーい、おめでとう。店員さん、ハイボールお願いします」


 心底どうでもいい、話のオチは読めた。酒でも飲まないとやってられん。


「ちょっとは聞け! クソテェメ! つーかさっき認めたようなもんだからなお前! 恋路って言ったからな! お前結局まだ彼女に未練タラタラじゃん」


「はぁぁぁぁ!? 当たり前じゃん、引きずってるに決まってるじゃん! 逆に聞くけど引きズラねぇわけないじゃん」


 運ばれてきたハイボールを一気に飲み干した。


「あいも変わらずバカだなぁ」


 呆れたように彼が言う。

「いい意味でも悪い意味でも、俺たちは変われないんだよ」


 酔いが体に回ってくる、変な言葉でも口走りそうになる。 

 やめろと脳みそが命令を出しても、理性のタガが外れてしまっては元も子もない。


「結局のところ」


 あぁ、バカやめろ。


「おれは今でも彼女が好きなんだよ」

 

 ・・・・・

 

 帰り道、駅に向かう途中で彼といろいろなことを話した、その横顔は少しばかり大人びていて、なんだか少しばかりの寂しさと、未だ子供のままの自分に対する不甲斐無さみたいなものが沸々と湧いて出てきて少しばかり頬が熱くなる。

 駅について、別れる前に彼が少しばかり照れ臭そうに言葉を吐いた。


「今日は、なんだ、楽しかった」


「やめろ気色悪りぃ、キャラじゃねぇだろ」


 私が言うと彼は「ウルセェ」といって軽く私のケツを蹴った、その蹴りは高校時代とは違って重くはなく、軽く優しい戯れるような蹴りだった。


「じゃあな」


 赤ら顔で彼が言う。


「あぁ、またな」


 私も似たような顔でそう言った。

 踵を返して歩いて帰る彼の背中に、思わず私は声をかけた、酔いのせいだと言い訳をして。


「おぉい! お前は幸せになぁぁぁ!」


 人混みの目が、一瞬で私に集中するが、気にせずに笑う。

 彼がこの声を聞いたかは分からない、私が伝えたかったことが伝わったかは分からない。けれど人混みの中で確かに手が上がったことだけは私にも見えた。


 一人きりで、人気のない電車に乗り込んだ。車内は外の気温と違ってこれでもかと言うぐらいに暖房が効いていて少しばかり息苦しくてまいる。四人掛けのボックス席を人がいないのをいいことに一人で占領してから、錆びた重い窓を開けて冷たい空気を流し込む。窓枠に頭を預けてぼんやりしながら私はいろいろなことを思い出していた。彼のこと、彼女のこと、高校時代のこと。


 私の地元であるなんの変哲もない田舎町へと私を運ぶこのオンボロ列車は私にとっての思い出の場所の一つであった。これに乗るといつもいろいろなことを思い出す、思い出が全て琥珀色に輝く宝石だとは限らない、私のような恥の多い人生を送る人間からすれば思い出など錆びた包丁の様なものなのだ。いっそ一思いに切り裂いてくれと願っても切れ味が悪いものだから拷問のように時間をかけて自分自身を傷つける。


 私がこの話を以前彼女にした時、彼女は大笑いしながら「そうかなぁ」と言った。彼女にとってはどの思い出も素敵な宝石か瑞々しい果実なのだろうと思うと羨ましくなってくる。


 あぁ、そうだ私は彼女が心底羨ましかったのだ、今でもそうだ。私にないものを全て彼女が持っている気がしてならない。今を楽しむことも、過去を美化する術も、先に希望の光を見出すことでさえもできずにいる。ただ靄ばかりの今がそこにあって、ただ後悔ばかりが山のように積もっていく。

 開けた窓から流れ込む冷気が酔って茹だった脳味噌を少しずつ冷まして行く。あぁ、私はこの瞬間が嫌いなのだ、酔いが覚めて気持ちのいい泡沫から引きずり降ろされるこの瞬間が。


 私はたまらなく嫌いなのだ。


 ・・・


「結局さ」


「うん」


「私たちは、何になるんだろうね」


「さぁ、大統領とか?」


「英語できないじゃん私達」


「身振り手振りでなんとかなんだろ」


「なるかなぁ」


 くだらない馬鹿話。

 夕焼けと海、砂浜に彼女。


「まぁ、なんになるかは分かんないけどさ」


 彼女が、笑う。


「いれたらいいね、この先もこうして」


 彼女が笑った、照れ臭くてそっぽ向いた。

 あの時、私は……。


 ・・・


 身震いとともに身体を起こした、いつしか熱かったはずの身体から熱は抜けて気がつけば芯から冷え切っていた。

 左側は寒いのに、妙に右側だけ暖かい。

 寝ぼけ眼を擦って隣を見れば、私の隣で彼女が目を瞑っていた。

 まるで死人みたいに。

 電車の中で金切声みたいなアナウンスが鳴って私は現実に引き戻された、動いていた電車はゆっくりとその車輪を止めて、人気のない薄暗い駅で停止する。

『ご乗車 ありがとうございます。終点……』

 頭を抱えて、状況を整理した。


 どうやら、私と彼女は夜に取り残されたらしい。


「なんで、起こしてくれないんだ。つか、なんでいんだよ」


「たまたまだよ」


「いつも突然現れやがって」


「私はずっとそこに居たのだよ明智君、見つけたのは君なのさ」


「屁理屈ばっか並べんな」


 うとうとしながら私が言うと、屁理屈を彼女がこねる。

 首に巻いていたマフラーは奪われて首元はやや心許ない、酒と眠りで暖かくなっていたはずの体温はとっくのとうに夜風と一緒にさらわれて、私は子犬のようにプルプル震えながら彼女とともに二時間ちょっとの帰り道を強制されていた。


「てか、寝れないんじゃなかったのか」


「寝てないよ、ただ目を瞑ってボウっとしていただけ」


「それを寝てるって言うんじゃ無いか?」


「私が眠れないの知ってるでしょ?」


「知るかよ」


 私が吐き捨てるようにそう言うと彼女が笑う。


「やらかしたなぁ」


「うん、やらかしたね」


 口ぶりとは裏腹に彼女はどこか楽しそうだった。

 人々が寝静まり、街灯もどこか薄暗い気がする、車の音もたまに聞こえるばかりで、物音もしない。


 頭上には月が輝くばかり。

 彼女に問う。


「まだ、月が二つに見えるのか」


「うん、見えるよ」


 彼女が不意に車道に躍り出た。


「危ないぞ」


「かもね」


 まるで人の話など聞いていない、自由人は相変わらずだ。


「でも、車が来たらすぐにわかる」


「もし超スピードで車が来たら?」


「その時は簡単、轢かれて死ぬだけよ」


「……それでいいのかお前は」


「それでいいのだ」


「バカボンのパパじゃねぇんだからさ」


 彼女をため息混じりに咎めつつ私も、彼女に倣って車道の真ん中に躍り出る。


「お子様は知らない大人の遊びだよこれが。ワクワクすんでしょ」


「少しな」


 彼女はきっと、避けている。

 月が二つに見える話を掘り下げられるのを。


「体に変化はないのか?」


「何が」


「とぼけんなよ、月が二つに見えてからだよ」


「まぁ、寝れなくなったぐらいかな。正確には、眠らなくてもいい体になった」


「なんだそりゃ、ナイトウォーカーにでもなったのか」


「鋭いね」


「マジで言ってんのか」


「あー、信じてくれないんだぁ」


 ふふっと笑いながら彼女が振り返る。

 私は月を見上げて目をこする。


「見えんな、二つには」


「見えんさ、君じゃあね」


 その言葉に少しムッとした。


「なんか思い当たる節はないのか」


「あったら解決してる」


「なんで今日、眠ってたんだ」


「質問が多いね。言ったでしょ、眠ってないって」


「何日寝てないんだ」


 私が問うと、彼女の笑みが消えた。


「聞いてどうするの」


「どうもしないし、どうにもできない。興味があるだけだ」


「数え切れないよ、両手の指じゃ」


 沈黙が生まれる、私は思わず固まってしまう。彼女はただじっと私を見つめているだけ、その瞳が嘘を言ってないのが私にはわかる。


「車、来たよ」


 そう言われ、手を引かれ、ようやく現実に揺り戻された。


「どう、驚いた」


「見たらわかるだろ」


「嘘だと思う?」


「嘘ならとっくに気づいてる」


「それはないね」


「何年の付き合いだと思ってる、わかるよ」


「いいや、わからないよ多分君じゃ」


「は?」


「君が思ってるより、私はずっと嘘つきだったの」


 ヘッドライトが闇夜を照らす。

 彼女の紡ぐ言葉が車の音で聞こえない。


「さ、与太話もここら辺にして家路を急ごう」


「あ、あぁ」


 これ以上は掘り下げてはいけない、そんな気がした。

 これ以上踏み込むと戻れなくなりそうだと思った。


 静かに二人で夜道を歩く。

 真っ暗な道、少し先に彼女。

 縮まらない距離がなんとも私達らしいなんてセンチメンタルに酔いしれて路上に唾を吐いた。


「ねぇ」


「ん?」


「ほんとはね、私」


「あぁ」


「大嫌いだったの、君のこと」


 それから少しばかりの沈黙があって、私は静かに笑みをこぼした。


「知ってたよ、そんなこと」


  ・・・


「ねぇ」


「ん?」


「夜の世界ってどんななの?」


「起きてりゃいいだろ、知りたいなら」


「起きてられないから言ってんの。知ってるでしょ」


「静かだよ、とても」


 彼が言う。


「静かで、ゆっくりで、一人でいるには少し悲しい」


「へぇ」


「いつか、連れ出してやるよ」


「きっと寝てるわ」


「じゃあ、叩き起こしてやる」


 彼なら本当に叩いてでも起こしてくれそうだと思った。


「約束よ」

「あぁ、約束だ」


 ・・・


 私の友人ではないけれど、彼女の友人の一人に玲奈という女がいた。私は彼女がどうにも苦手だったが、私は大層彼女に気に入られていた。

 玲奈は彼女と本当に仲が良くて、それでいて私が彼女のことを好きなのを知っていた。


「あの子、あなたの話ばかりするの」


 放課後の教室で、ぼんやりと外を眺める私に彼女がいう。


「楽しみにしてたわ、約束ってのを」


 私が聞こえないふりをしているのを知っていて、彼女は楽しそうに言葉を紡ぐ。その声音を私は今でもたまに思い出す。


「お願いね、あの子にはきっとあなたが必要だから」


 振り返った時にはもういなかった。

 あぁ、もしその言葉が本当なのだとしたら、私は。


 ・・・


 悪寒がして目が覚めた。

 とても後味の悪い夢を見た気がしてならない、最近はイヤがらせのように彼女の夢ばかり見てしまう。

 何かの予兆か、はたまた色濃く残る未練のせいなのか。

 あくび混じりに背伸びして、スマホの画面に目をやると。


「あ」


 時間はすでに十時を回っていた。

 私は静かに遅刻と単位が遠のく音がして跳ね起きる。


「ちくしょうッッ! マジでヤベェ!」


 どったんばったんと用意をして、滑るように洗面所に突入し顔を洗って最低限の身だしなみと髪の毛をセットする。


「急いでんのに髪セットすんの?」


「うるさい黙れ最低限だ!」


「セットしても変わらんでしょ」


「駅で偶然にも美女に出くわしたらどうする!」


「少なくとも美女はアンタなんか眼中にもねぇ」


 なかなかに辛辣な妹に朝からイジメられ若干気が滅入る。


「つーかお前学校じゃ」


「んー? 自主休校」


「高校生に自主休講なんてないだろ!」


「私が作った」


「勝手に作るなそんなもん、大学生になったら酷そうだなお前」


「兄貴がコレだしね、血筋的にそういう家庭なんでしょ」


「達観してんなぁ。てか、使わねぇなら自転車貸して」


「え、やだ。汚れる」


「マジで酷くねぇか!?」


 というわけで両の足で全力疾走であった。

 あのあと土下座までしてみたが半笑いで写真を撮られてインスタのストーリーに上げられた。そこまでしたのに自転車は貸してもらえなかった。

 恨み言を心中でつぶやきながら徒歩二十分の道を全力で駆け抜ける、ローカル線の利点は時間に正確なところだが欠点は本数があまりにも少ない所だと思う。

 つまるところ。


「これに間に合わなければ二限がヤベェ」


 二限が始まるのが十時四十分、遅刻扱いされるのが五十分まで、次の電車に乗り遅れれば死だが乗り込めば生き残れる。ギリギリをせめる勝負は手に汗握るが、握っているのは自分の将来だし、流れてくるのは冷や汗だ。


「待って、マジで待って! 待ってぇぇ」


 悲痛な叫びをあげる私の目の前で電車はゆっくりと走り出した、叫んだところで時間も電車も戻らない、なんなら単位も戻らない。


「ちくしょぉぉ……」


 何が悲しいって目の前で電車が走り去ったのが一番悲しい、こんなことなら解けた靴紐なんて気にせずに走り抜けるべきだった、几帳面な性格の自分を心底恨む。


「あいもかわらず面白いわね」


 背後から声が掛かる。

 あぁ、今朝の悪寒はコレを予期してのことだったのか。


「久しぶり。少し背、伸びた?」


 彼女に会うぐらいなら、家でのんびりして単位と電車を見送るべきだった。何が悲しくて電車に乗り遅れて単位も落として彼女にも会わなければならないのか。泣きっ面に蜂とはこのことだ。


「何よ黙りこくって」


「お前こそ、あいもかわらず不躾だな、玲奈」


「今に始まったことじゃないでしょそれは。次の電車までまだ暫くあるわね」


 我が町の公共交通手段の電車は約四十分に一本と不便すぎる。それは実質の死刑宣告だった。


「次の電車までどうせ暇でしょ? コンビニ行かない?」


 私の苦手だった彼女は随分と久しぶりに会うというのに高校時代と変わらぬ気軽さでそういった。


「……」


 そうして私も、彼女の提案を跳ね除けるほどの妙案は持ち合わせていなかった。


 ・・・


「コンビニの惣菜パンを選ぶのってバーでカクテルを選ぶのとおんなじくらい楽しいって思うのは私だけなのかしら」


 でかでかと『新発売』と書かれたエキセントリックなパンを掴みながら玲奈が言う。


「俺は小洒落たバーとか行った事ねぇから知らん、マウントかボンボン。つーか、いいとこのボンボンだろ、いいのかコンビニのパンなんて食って」


「アンタ金持ちがカップラーメンの作り方も知らないって思ってるタチの人間でしょ。残念ながらゴツ盛り焼そばが好きなのよ、私」


「そりゃあ失敬しましたお嬢様」


「てか、私が普段何食ってると思ってたの」


「オーガニック食品とか?」


「高校時代なんどもアンタとあの子と三人で学食の安いラーメン食ってたでしょ忘れたの」


「覚えてねぇよ、そんな昔のこと」


「違うわよ、アンタは昔からあの子以外に興味がないのよ」


 いきなり先制攻撃が飛んできた、ジャブにしてはえらく重い。


「久しぶりなのに容赦がないよな」


「欲しいの? 容赦」


「いらんわ」


 性格の悪さはどうやら今でも健在のようで、思わず嫌味と軽口がが出た。


「最近、あいつに会ったよ」


「そう、どうだった?」


「変わらなかったよ」


「まだ、あの子のことが好き?」


「さぁーな」


「はぐらかしたまんまでどこ行くの」


 責めるような口ぶりだった。

 だから私は彼女が苦手だ。


「あいにくと惣菜パンよりおにぎり派なんだ」


 適当にお茶を濁す、うやむやにして煙に巻くのが上手くなった要因は玲奈にもある。

 そうしてきっと、こんな私を彼女は酷く嫌っているだろうことが、背後から突き刺さる視線で分かった。

 あぁ、本当に、彼女のこういう所が苦手なんだ。


 ・・・


 無言で駅まで向かう。

 天候はよろしくない、雲行きも怪しいし雰囲気なんて雨のち雷という感じで大変居心地が悪い。


「ねぇ」


「なんだ」


「アンタ、私のこと苦手でしょ」


「おっ、よく気がついたな」


「気がつくわよ」


 ハッと人のことを小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「なぁ」


「なに」


「お前、俺のこと嫌いだろう」


「おっ、よく気づいたわね。死ぬほど嫌いよ」


 はっきりと言われて、少しだけ傷つく。


「なんで聞いといて少し落ち込んでんの。嘘よ嘘、嫌いだったらワザワザ話し掛けないし」


 なんで私は単位と引き換えに玲奈とオードリーみたいなことをやっているのだろうか。


「そういやさ、最近言われたんだ」


「誰に? なんて?」


「アイツに、嫌いって」


 私がそういうと、後ろでまた鼻で笑われた。


「あの子が、アンタを嫌い? ハッ! それはないわね」


「なんでそう言い切れる」


「今まであの子を見てきたからよ」


「……俺だって見てきたさ」


「アンタは見てないわよ。アンタはきちんと見ていなかった」


 その言葉に立ち止まった私を、彼女静かにが追い抜いた。

 踏切の音が鳴る、耳元でがなり立てるように。


「アンタは昔から本当のことは見えちゃいないの。アンタはあの子に理想を見てた」


 なにも言えなかった。

 悲しげな玲奈の顔と落ちる踏切をただただ眺めるばかり。


「でも、それでもね、あの子はアンタを嫌いになったりはしないのよ。この先も何があっても」


「……」


「あの子に会ったら伝えといて、久しぶりに遊びにおいでって」


「あぁ、伝えとくよ」


「……私、また三人で遊びたいわ」


 その言葉に息がつまる。


「そうだな」


 電車が通り過ぎて、踏切が上がった後、少しばかり悲しそうな顔で彼女が私を見て言う。


「あんた、死んじゃいそうな顔してるわよ」


「そうか?」


「どっちかと言ったら死人ね」


「うるせぇ」


 私がそう言うと、彼女が少し微笑む。


「アイツ、眠れないって言ってたよ」


「そう」


「月が二つに見えるとか言ってた」


「そう」


「もう何日も眠れてないって」


「そう……」


 沈黙があって、小さな嗚咽があった。


「私はね誰よりもあの子のことを理解してたつもりよ、親友だし幼馴染だし。だからこそわかるの」


 今にも泣き出しそうなくらいの崩れた表情で彼女が呟く。

 あぁ、少なくとも。少なくとも彼女は、私のような男の前で簡単に涙を流すような女じゃなかった。彼女のことをかけらも知らない私でもそんなことはわかる。


「きっとあの子を本当に理解してやれるのはアンタだけだって」


「……」


「お願いね、あの子のこと」


 再び、踏み切りが降りる音がした。

 もうすぐ私と彼女が乗るべき電車が来る。


「行きましょ。遅刻するわよ、学校」


 目元をぬぐいながら、玲奈がそういった。

 私はまるで操り人形みたいに彼女の後ろをついていく。

 それ以降、学校に向かうまでの間、彼女とは言葉を交わさなかった。交わす言葉など持ち合わせていなかった。


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