フライング社四十年史

MIYA尾

プロローグ 小さな手のもの 

 二〇〇一年一月一日、仙台に住む「小さな手のもの」は、この朝にしなければいけないことを両親が起きてくる前に早く済ませてしまおうと思った。七階の窓にかかるカーテンを開くと、「小さな手のもの」は新しい朝の空を見やり、とりあえず願いごとをした。大人になったら、キャビンアテンダントになれますように、と。


 「小さな手のもの」は空が好きだった。雲も、星も、月も、太陽も、すべてを含む空が好きだった。空をじっと眺めていると、空に落ちていきたいという気分になってくる。もしそこに落ちることができれば、どこまで落ちていけるのだろう。そう考えるだけで体中がわくわくしてくる。だけど、公園の草むらに手足をゆったりと預け、風に攫われるくらい力を抜き、どんなに体を軽くしても空には落ちていけない。そこから落ちていけるところは、そこよりも低い場所・・・例えば蟻の巣穴の中・・・だ。

 

 空には落ちていけない。今いるこの地上が、落ちる場所なのだ。

 「小さな手のもの」はそのことを四歳の時に発見した。

 落ちることができなければ、空へ行く方法はひとつしかない。飛ぶことだ。「小さな手のもの」は大きくなったら鳥になろうと思った。だけど、

 

 人間は鳥にはなれないのよ。


 と母親が言うので、「小さな手のもの」は仕方なくキャビンアテンダントになる夢を持った。

 夢をかなえるためには、なにかを犠牲にしなければいけない。これは父親の言葉だ。犠牲ってなあに?「小さな手のもの」がたずねると、欲しいものをがまんすること、好きなものを失うこと、と父親は教えてくれた。


 「小さな手のもの」は欲しいものをがまんすることは絶対にいやだった。だから好きなものを失うことにした。両親が起きてきたら、やめなさいと言ってとめるだろう。だけど、昨夜眠る前に決めたことだ。いつか自分が空の世界へ行くために、大好きなオカメインコとさよならをしようと。この21世紀の始まりの朝に。


 「小さな手のもの」はピンクの熊の絵がこまごまとプリントしてあるパジャマのそで口をちょこっとめくり、リビングボードの上に置いてある鳥かごの中に手をつっこんだ。止り木にいたインコは喜んで「小さな手のもの」の手のひらに包まれた。


 インコにとって、この「小さな手のもの」はちょろい相手だった。その手からひょいと逃げて、居間の中を飛び回ったことが何度もある。インコは「小さな手のもの」に対していつも優越な気持ちでいた。


 おいおい、勝手に、鳥かごから出していいのかい。また、飛んじゃうぞ。


 インコは退屈していたところなので、「小さな手のもの」をちょっとからかってやろうと思った。居間のドアが空いている。向こうには廊下を挟んで二つの部屋とトイレと浴室があり、その先は玄関だ。よーし、今日は玄関まで、飛んじゃうぞ。「小さな手のもの」が追いかけてきたら、「小さな手のもの」が背のびをしても、手をのばしても届かない、シューズボックスの上にとまって困らせてやろう。


 「小さな手のもの」は自分よりも大きいし、知恵がある。だけど、翼があるものは、翼がないものを馬鹿にしてもいいのだ。翼があるものは、地上でいちばん背の高い人間よりも上の世界にいくことができるのだから。


 インコは「小さな手のもの」の指の囲いから飛び出そうとした。だけど、翼がその手から抜けなかった。「小さな手のもの」が、やけにがっちりと自分を握っているせいだ。インコはためしに嘴で「小さな手のもの」の親指の横腹をつっついてみた。「小さな手のもの」は別のことを考えているのか、痛そうな素振りを見せなかった。指をゆるめようともせず、居間を横切り、ベランダの引き窓を開けた。インコの白い翼を湿った冷たい外気がなでていき、目の前に囲いのない寒々とした世界が広がった。


 「小さな手のもの」はインコの嘴にキスをした。そして微笑み、言った。バイバイと。

 「小さな手のもの」は手の囲いをほどき、インコを外の世界に放った。


 インコは驚いた。自分に翼があることも忘れ、インコはベランダから地上へ落下しそうになった。が、本能がすくってくれた。インコは無意識にはばたいた。地上七階の空中ではばたき、そのままUターンをしてベランダに舞い戻った。しかし、「小さな手のもの」はもう引き窓を閉めていた。


 インコは窓の向こうで自分を見ている「小さな手のもの」に言いたかった。これは、なにかの冗談だろう、と。しかし、「小さな手のもの」は、バイバイ、バイバイと、手を振り続けている。インコは家に入れる場所をさがすように窓にぶつかりながらはばたき続けた。インコには玄関に廻ってチャイムを押すような知恵はない。インコにあるものは翼だけだ。


 下の道を車が走り、人間が歩いている。七階の高さから地上の人間を見下ろしても、居間の照明器具の上から「小さな手のもの」を見下ろすほどの優越な気分にはなれなかった。それはおそらく放たれた世界が3LDKの空間よりも広いせいだろう。しかし、どんなに広かろうと翼があるものが、翼がないものに対して優越を感じる場所があるはずだ。


 インコはひょいと空を見あげた。雲から糞を落とされるようないやな天候ではなかった。インコは、とりあえず、空にかかるあの冬雲の上までいこうと思った。インコは家に入ることを諦め、ベランダを飛び立った。


 インコは小さな白い翼を懸命にはばたかせ、雲を目指した。しかし、インコは気づいていなかった。自分には雲の上の高みにいけるほどの飛行能力も、逞しさも、持っていないことを。


 インコは「小さな手のもの」によって外界に放たれた瞬間から何ものかによって空へ導かれていた。インコには当然しるよしもないし、「小さな手のもの」も自分がインコを通してそのものと関わりをもったとは生涯知らぬことだった。


 インコは冬雲を突き抜けた。すると、上空に何かがいた。そいつらは空中に浮いていて、バスを待つ列のように並んでいた。インコはそいつらが何であるのかわからなかった。しかし、そいつらが何であれ、インコは自分よりも高い場所に、何かがいたことが気にいらなかった。インコは目的地を決めた。そいつらの頭の上だ。そいつらの頭の上に止まれば、地上の人間はもちろんそいつらに対しても優越な気分に浸れるだろうと思った。


 そいつらは抹茶色のボロ毛布のようなものを頭からかぶっていた。シルエットはまちまちで、ノッポもいればデブやチビや赤ん坊もいる。女性らしいシルエットもある。顔の部分はボロ毛布に覆われていなかったが、目鼻はなく、そこは永遠の宇宙のように真っ暗だった。彼等は全部で三百二十五体いた。


 まもなく新千歳空港発羽田行のジェット機が墜落し、そいつらと同じ数だけ人が死ぬ。今日が新世紀の始まりの日だろうが関係ない。時代に関係なく、人は死ぬのだ。


 だが、死神の使いのもの達は、不思議でならなかった。目の前を小鳥が飛んでいる。自分達の姿を見たものは、どんな生き物でも見ただけで即座に死んでしまうはずのに、鳥は飛び続けている。しかも、こんな氷点下の、雲の上の空を。


 インコは一体の頭の上に止まった。そいつは人間なら百キログラムを超える体重はありそうなやつだった。そいつはボロ毛布の中の見えない手を頭上に回した。インコを掴んだ。すると、太ったそいつは、空から消えた。インコは慌てて隣の背の高いやつの上に止まった。そいつも、インコの嘴に頭をつっつかれると消えた。死神の使いのもの達は動揺を始め、統率が乱れてきた。


 死神の使いのもの達は確信した。小鳥は強い力に守られていることを。それは死神よりも力のあるものだ。この空の世界では、死神より力のあるものは、そのものしかいなかった。空の女神だ。


「なぜ、我らの邪魔をする? そろそろ飛行機が墜落する時刻だ」


 一体の死神の使いが苛立ったように言葉を放った。すると空から生まれたように澄んだ声が響いた。

「生かしておきたい男が、飛行機に乗っているの」

「その男は何をする」

「この21世紀に人間を空の世界へ導く」

「愚かな。人間は地上に這いつくばって生きればいい」

「見てみたいの。人間を空に向かわせたら、世界がどう変わるかを」

「この世が滅びるのが、少し早まるだけだ」

「それなら、それでもいいわ。人間がそれを望むのであれば」

「だが、命が欲しい」

「誰も死んではいけないわ。飛行機の中では何も起こらなかったのだから。その男の記憶以外に」

「あの五人のハイジャッカーもか」

「そうよ、彼等は最初からそこにはいなかった。だから、何も起きなかった」

「もう一度言う、命が欲しい」

「あげるは、小さな命を。夢を叶えるために、人間は、好きなものを失わなければいけないから」


 インコはふと何かの轟音を聞いた。インコは上空を見上げた。まだ、自分よりも上の高みに何かがいた。翼を広げた、巨大な鳥が真っ直ぐ墜ちるように向かってくる。インコは、恐れを抱いた。「小さな手のもの」はいつもこんな気持ちで、照明機具の上にいる自分の姿を見ていたのだろうか。


 そいつは凄まじい音と共に通り過ぎ、雲海の中へ消えた。死神の使いのもの達はロディオを楽しむカウボーイのように飛行機とともに墜ちていった。

 空が静寂した。インコの姿は空の世界のどこにもいなかった。


 「小さな手のもの」が空に放ったオカメインコは、ジェット機にぶつかり死んだのだ。三百二十五名の人間の命と引きかえに。


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