一秒間のみの自分
そーた
南国のバカンスにて
照りつける日差しは心を躍らせた。
吹き抜ける風は心を癒した。
きっとこの幸せは、永遠に続くのだろう。終わりなんてものは来ないのだろう。
無論、そんなわけがないことは分かっている。しかし、少なくとも今は、そうとしか思えなかった。
俺は携帯画面に映る今日の日付を確認する。
南国でのバカンスはまだ一日目だ。まだここに来たばかりだ。俺はこの大型連休、思う存分楽しむことが出来る。大丈夫だ。まだ一週間以上あるんだ。
コバルトブルーの海に臨む、真っ白なコテージ。程よく日当たりの良いテラスで、俺はビーチチェアに体を深く沈めていた。
ああ、気持ちいいな。身体的快楽だけでない。今の俺には、一切のストレスもない。
俺はボーッと呆けた頭で考えて……いや、何も考えていなかった。まさに、頭蓋骨から『思考』だけが脱皮して、どこかに飛んでいってしまったみたいだ。
飛行機雲が、浮かんでいた。
小さい、小さい、オモチャのようなヒコーキが、俺の目の前を一定のスピードで横切っていく。
するとその小さな飛行機のちょっと後ろから、真っ白い絵の具が真っ青のキャンバスに、一定のスピードで一本線を引いていく。
掴めるかな?
……手を伸ばしてみるも、届かない。仕方がないから、俺はその綺麗な飛行機雲をただ眺めることにした。
そして俺は、目に力を込めた。
焼き付けるように……その光景を、出来るだけ、鮮明に……。なぜならーー
無くなってしまうから。
この綺麗な飛行機雲は、永遠には残らない。少し時間が経てば、ふやけ、色褪せ、消えていく。
そしていつだってそこにいるのは、『終わり』を迎えた俺だった。
俺はタバコを取り出した。
火をつけ、深く息を吸い込むーー美味い。タバコというやつはいつだって美味しいわけじゃない。体調だったり、空気だったり、気分だったり、それだけでタバコというのは美味くなったり不味くなったりするものだ。
この一本は、格別だ。気怠さもない。かといって胸の動悸を感じるわけでもない。
ただ口の中に渋い味のするケムリがむわんと充満し、一気に吸い込むと、また同じ口内を通って空へと四散していく。
舌と口蓋をすり合わせ、わずかに残ったケムリの残滓を堪能する。
ああ、美味い。しかも、さらに喜ぶべきなのは、このタバコ、まだ二口目なのだ。タバコを顔の前にかざすと、それはまだほんの先っぽの方しか燃えていなかった。
俺は、これからこの一本のタバコを、存分に楽しむのだ。
俺はタバコを思いっきり吸い上げた。
ーーーー。
その時だった。
タバコを持つ指先に、わずかな熱を感じた。
俺はふと、いま自分が吸っているタバコをまじまじと確認した。
タバコは、指先にまで火が達するんじゃないかという所まで、短くなっていた。
省略された、中間距離。
たった二口吸っただけで、もうこのタバコは燃え尽きようとしている。摩訶不思議に思えた。
しかし、このような不思議な現象を前にしているにもかかわらず、俺の心にはまるで別な感情が首を出していた。
もう終わってしまうーー
俺の心は、儚い切なさに満たされていた。
線香花火が消え入る瞬間に感じるあの気持ちと、よく似ていた。
ふと、空を仰いだ。
さっきまでそこにあった飛行機雲はすでに跡形もなく消えている。
さっきまでそこを飛んでいた飛行機も、跡形もなく姿を消していた。
ふと、俺は立ち上がった。
周りを見回した。
眼前に広がるのは変わらない景色。変わらない大海原。変わらない大空。
しかし俺は確かな違和感を敏感に感じ取っていた。
確かな『時のズレ』を、第六感的に感じ取っていた。
俺はすぐにポケットから携帯を取り出す。そして画面上に現れた数字に目が止まった。
携帯画面が示す今日の日付に、俺の背筋が凍りついた。
今日は、大型連休の最終日だった。
どういうことだろう?さっきまで、確かに今日は連休の初日だったはずーー
俺の頭は一瞬だけぐちゃぐちゃに混乱した。
しかし、それはほんの一瞬だけだった。
たちまち頭の中を、さまざまな記憶がなだれ込んできた。
街へ繰り出した昨日。スキューバダイビングを楽しんだ一昨日。特に何もせず、このテラスでのんびり過ごした一昨々日……
そうだ。
俺は確かに、この大型連休を過ごしたのだ。
……確かに思い出してきた。
俺は連休の初日に、このテラスで、今の『俺』と同じようにビーチチェアに腰掛け、くつろぎ、飛行機雲を眺めていた。そしてタバコを一本、吸い終わった。
その後はいろいろと、自分なりにバカンスを楽しみ、ダラダラと過ごしーー
そして本日最終日、今の俺は初日の『俺』と同じように、このビーチチェアでタバコを吸っていたのだった。
俺は決して、タイムスリップをしたわけではない。
時は過ぎれば、あっという間だ。初日の『俺』も、二日目の『俺』も、三日目の『俺』も、昨日の『俺』でさえもーー
全ては『過去』の俺なのだ。
俺は現在、最終日の『俺』を体験している。
そんな結論に落ち着くと、俺の全身は諦観したように脱力した。ビーチチェアに背中から沈み込んだ。
ボーッとまた、空を眺めた。
その状態のまま、一秒、また一秒と時は過ぎていく。
ああ、心地良い。
暖かい日差しと涼しい風に癒されながら、一秒ごとに『俺』は入れ替わっていった。
今この瞬間の俺。しかし一秒後には、現在の俺は別人の俺に入れ替わる。
同じ俺だ。堕落的に快感を貪る、同じ俺だ。
しかし数時間後の俺は違うだろう。過ぎてしまった快適な日々を惜しみながら、切なさを胸に抱え、ここを後にするのだろう。
時間は平等だ。
どの時空にも、等しく『俺』が存在する。
喜んでいる俺がいる。怒っている俺がいる。哀しんでいる俺がいる。楽しんでいる俺がいる。
例えば百年間分のカレンダーを床の上に置き並べ、羅列された日にちを眺めてみるとーー
するとそこには必ず、一日だけ、自分の命日がどこかに、確かに存在する。
『その日』を体験する俺は、いったい何を思うのだろうか?
『今まで楽しかったね』
ーーそう思うのだろうか?
違うかも、しれない。
なぜなら、『今』の俺と『過去』の俺は別人だから。
たぶん、今まで経験してきた快楽は、まるでVRゲームで体験した事のように、"他人事"の記憶になっているのかもしれない。
だとしたらーー
『人生最後の日』の俺に残されたものは何か?
もしかしたら、単なる死への恐怖と諦観ーーそれだけなのかもしれない。
過去の記憶は全てまやかしで、現在の感触が全てなのだから。
俺の思考は、ひと段落をついた。
そこまでの結論に辿り着いた時……
ーーーー
次の瞬間には、今しがた俺が座っていたビーチチェアは、飛行機の窮屈な座席へと姿を変えていたのだった。
ーーーー
帰りの電車の中、私の身体は力無く揺られていた。
私はあのバカンスの日々を振り返る。
やはり、あっという間だった。どれだけ悠久の時を経たとしても、過ぎ去ってしまえば、全て一瞬に感じてしまう。
たぶん、記憶が圧縮されてしまうのだろう。幾千幾万の記憶画像が、全て一つの圧縮フォルダにまとめられてしまう。フォルダ名は、『思い出』。
あんなに軽く弾んでいた身体も、今はどんよりと重く沈んでいた。立っているのも辛いくらいだ。
やっぱりーー
あの時の私と現在の私は、別人なのだ。
あんなに楽しかったはずなのに、あんなに心地良かったはずなのにーー
今はこんなにも身も心も、辛い。
目の前の座席に座っている若者が、私に席を譲ってくれた。
私はお言葉に甘えて座席に腰掛ける。少しは楽になった。
しかしこの瞬間の安楽も、ほんの一時の感情だろう。
私の目の前には、座席を譲ってくれた若者が吊革を握って突っ立っていた。
私はその若者に声をかける。
「ねえ、きみ」
彼は表情も変えず、ただ目線だけを携帯画面の上から私へと滑らせた。
「驚かせると悪いから、あらかじめ伝えておこうと思うーーもっとも……それを伝えたせいでどのみち驚かせてしまうことになるかもしれないけれど……」
彼は不審者を見るような目で私をみた。
そんな目線などお構いなしに、私は彼に告げた。
「私は、今から死ぬ」
そうして、私の身体中から、『感触』が霧散していった。
最期に私が見たのはーー
やはり若者の驚いた顔だった。
視界がボヤける。意識がボヤける。体が消えゆく様だ。
目の前が、優しげな光に包まれた。
『おい!あんた!』
彼の声だ。聴力はまだわずかに残っていた。
人間は死ぬ間際、聴力を最後まで残すらしい。
『ちょっ!しっかりしろよ!誰か!誰か!』
毛糸玉がするする解けていくように、私の自我も心地良く四散していった。
もう人の言葉すら理解出来ないまま、ただ周りで騒ぎ立てる雑音だけが私の耳を、無意味に通過していった。
『何で死んだの?』
『寿命じゃねえか?』
『ありえるな……見るからにヨボヨボのじいさんだもんな……』
そうして最後の一秒が、過ぎた。
一秒間のみの自分 そーた @sugahara3590
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