本編

第一章

第1話 空席

 ――チャイムが鳴るまで、あと二分。


 宮島みやじま啓太けいたは、朝読書の本を開きながら、落ち着かない様子で細かく貧乏揺すりをしていた。本の文字から視線を上げ、黒板上の時計を見る。それからふたたび本に視線を落とすが、一行読み終わる前にまた時計を見上げる。本を開いて持っている手が、わずかに汗で湿っていた。

 啓太はちらりと、ふたつ斜め後ろの席を見やった。しかし、そこに牧野まきの友和ともかずの姿はやはりない。席は空席で、机の横には体操服を入れる袋が長いヒモを伸ばして垂れ下がっている。

 いやにがらんとしたその席に、啓太は表情をこわばらせた。


 ――チャイムが鳴るまで、あと一分。


 教室の前にあるねずみ色の職員机も、空席だった。机上に並べられたファイルから、隅の折れたプリントがはみ出ている。


 いつもなら、担任の石崎いしざき徳郎とくろうはチャイムの鳴る五分前には教室に来て、あの席でノートにハンコを捺したり、朝読書の用意をしろ、と睨みを利かせて声を荒げたりしている。それなのに、今日は空席のままだ。何か、会議でもしているのか。


 啓太は本のページの空白の一点を、穴が開くほどじっと見つめながら、思考を巡らせた。

 教室では、まだ何人かがしゃべったり、立ち歩いたりしている。学級委員が「二分前着席してください」と数回呼びかけたが、暖簾に腕押し。やがて諦めたのか、学級委員はひとりで読書を始めてしまった。


「おい!どうなってんだよB組!」


 突然、後方から教室中に怒号が響き渡った。

 啓太は突然の怒号にびくついて、本を開いていた手が一瞬ゆるんだ。その拍子に、何ページかが勝手にめくれてしまった。

 振り返ると、二年A組の担任である須賀すが博之ひろゆきが、教室後方の出入り口に腕を組んで立っていた。

 須賀の一喝で、教室はさっきまでの喧噪が嘘のように静まり返った。立ち歩いていた生徒も、そそくさと自席に戻って、机の中から朝読書の本をひっぱり出す。


「石崎先生は、ちょっと会議で遅くなるから、日直と学級委員中心に、朝の会を進めるように」


 須賀は、教室が静かになるのを見計らってそう告げると、音をたてずに教室から出て行った。


 ――急な会議って何だ。まさか、牧野のことか。


 須賀の一言に、啓太は眼球を細かく震わせた。

 

キーンコーン・・・・・・。


 チャイムが鳴った。啓太は唖然とした表情で、掛け時計を見上げた。


 八時二十五分。今、席に着いていない生徒は遅刻扱いだ。牧野は――。


 啓太は、斜めうしろを振り返る。しかし、やはりそこは空席のままだった。


 ――これは、まずいことになったかもしれない。


 歯ぎしりする啓太の頬を、一滴の冷や汗がすうっと流れた。

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