第17話 17日目

 二人はとても仲睦まじい老夫婦だった。時折甘酸っぱすぎて、思わず目を背けてしまうほどに想い合っていた。これまでもこれからも一緒に生きて、一緒に死んでいく。人生の楽しい瞬間も悲しい瞬間も共有していく、そんな関係に見えた。

 あたしもいつかそんな風になりたいな。そうなれる人と出会えるかな。そう思わせてくれるような二人だった。

 二人はいつも、小学校へ向かう途中の通学路から見える縁側に並んで座っていたので、小学生の頃は毎日のように姿を見かけた。時折家に招き入れてもらって、お菓子を貰ったこともある。

 立方体のカラフルなあれ、おばあちゃんの家でしか見ないけどどこで売っているの? あのおばあちゃんキューブ。

 ある日あたしは、おばあちゃんが席を立った隙を伺って、おじいちゃんに聞いたことがある。

「どうしてそんなに二人は仲がいいんですか?」

「特別仲良くしているつもりはないよ。ただ儂は、ばーさんには死ぬまでずっと、死んでもずっと笑顔でいてほしい。そういう願いを込めて、日々を生きているんじゃ。その結果、仲良く見えるってことはありがたいことだねえ」

「でも、そんなに毎日一緒にいて飽きないんですか?」

 そう言うとおじいちゃんはあたしの頭に手を置いてニカっと笑った。

「半世紀以上前に出会った頃からずっと、ばーさんは儂の高嶺の花じゃ。高嶺の花と半世紀以上一緒にいさせてもらっている、これ以上の喜びはあるかね。飽きる、飽きないの概念なんかない。一緒にいられて嬉しい。そんな毎日がただここまで続いてきただけなんじゃ」

「……」

 あたしはその壮大な日々の積み重ねに思わず眩暈がした。

 あたしだって、「朱音、どうしてそんなにスタイルがいいの?」「ただ毎日十分だけランニングをしていただけだよ」って言いたい。急に安っぽくなってしまった。

「朱音ちゃんも、いつかそんな人に出会えるといいの」

 おじいちゃんはそう言ってお茶を一口啜った。

 帰ってきたおばあちゃんが「何の話をしていたんですか?」と聞いてきたけれど、「朱音ちゃんの未来の結婚相手の話じゃよ」とおじいちゃんが誤魔化した。

 小学生のあたしに向かって何を言っているんだ、と今振り返ると思うけれど、おばあちゃんはあたしの話を本当に楽しそうに聞いていたのが印象に残っている。

 またある時、おじいちゃんが席を立った隙を伺っておばあちゃんに聞いてみたことがある。

「どうしてそんなに二人は仲がいいんですか?」

 するとおばあちゃんは「そんなに特別仲良くしているつもりはないんだけどねえ」とニコニコ笑いながら言った。「ただおじいさんには、死ぬまで、いいえ、死んでからもずうっと笑顔でいてほしいと思っているんですよ。それを一番に毎日を生きているんだよ。まあその結果、仲良く見えているのならそれはいいことだねえ」

「もしかしておばあちゃんにとってのおじいちゃんって、高嶺の花?」

「おほほ、難しい言葉を知っているねえ。その通りだよ。半年以上前に出会ってからずっと、あの人は私の高嶺の花なの」

 あたしは思わず笑ってしまった。

 台本で合わせたのかと思うくらいに、二人の話した内容が一致していたからだ。

 この人たち、お互いのことを尊敬していて、高嶺の花だと思っているんだな。そりゃあ仲睦まじい関係がずっと続いていくわけだ。あたしは納得する。

 しかし小学校を卒業して、通学路が百八十度変わってからは、だんだんとその夫婦の家に行かなくなっていった。

 部活を初めて帰りが遅くなったせいもある。他人の家にずけずけと上がり込んでいくのが恥ずかしくなるような年齢に差し掛かったというのもある。

 でも今は、そんな遠慮や面倒くさがりを、少しだけ後悔していた。

 中学生になってからも時折、老夫婦の家の前を通って、縁側で並んでにこにこしている二人を目にしてはいたけれど、長い間お喋りすることはなかった。

 そして今日。高校二年生になったあたしは久しぶりに至近距離でおじいちゃんと対面をした。

 棺桶の中のおじいちゃんは、とても綺麗な顔で、満足そうな笑顔だった。

 その顔はあまりにも美しくて、まだ生きているんじゃないかと疑うほど生き生きとした表情をしていた。

 それでも、何度も呼び掛けても決して目を開くことも口を開けることもない。

 おじいちゃんは、亡くなってしまった。

 それが突然だったのかはわからない。だってあたしは、ここ数年のおじいちゃんの様子をほとんど知らないのだから。

 見かけた時はたまたま元気だったのかもしれないし、実は小学生のころから体に何かを抱えていたのかもしれない。

 実際、もう九十歳近かったようだし、天寿を全うしたと言えるだろう。

 それでも、あたしは泣いた。

 悲しくて泣いた。何よりも悔しくて泣いた。

 通学路が変わったから? 部活を始めたから? 恥ずかしいから?

 そんな下らない理由で、おじいちゃんと会わなくなったことが本当に悔しかった。

「……」

 棺の中のおじいちゃんは当然何も言わない。

 でも、全てを包み込むような温かい笑顔をしていた。

「綺麗な顔でしょう」

 ふと気が付くと、おばあちゃんがあたしの背中をさすってくれていた。

「……」

 あたしは口を開くと感情を抑えられる自信がなかったので、強く唇を噛む。

 もっと会っておけばよかった? どの口が言うんだ。

 そう思っていると、おばあちゃんはあたしのことを優しく抱きしめた。

「朱音ちゃん。あなたは何も気にする必要ないわ」

「……」

「あなたがうちに遊びに来てくれていた時は本当に楽しかった。中学生になってからあまり来れなかったことをあなたは悔やんでいるのかもしれないけどね。小さかった朱音ちゃんが大きくなって、新しい環境で何かに打ち込んでいる。あなたが来ないということは、そういうことを想像する余地がもらえたってことなの。朱音ちゃんは私たちの娘でも孫でもないけど、それでも私たちは娘のように思っていた。その娘が顔を見せなくなることはもちろん寂しいけれど、それ以上に嬉しいのよ」

「……うれしい?」

「ええ。だって、老人とおしゃべりすることよりも楽しいことを見つけたっていうことでしょう? 世界は広いわ。老人と話すことも大切かもしれないけれど、若いうちはいろんなことを経験した方がいいの。うちに来ないということは、それがプラスであれマイナスであれ他のいろんなことを経験しているということ。だから私たちは、朱音ちゃんが来なくなって安心していたわ。そして、勝手ながら期待させてもらっていたの」

 おばあちゃんは昔と変わらない笑顔で、「朱音ちゃんは絶対に可愛くて何でもできるすごい大人になるって、おじいさんと二人でよく話していたわ」と言った。

 あたしは涙が枯れ果てるまで、おばあちゃんの胸で泣いた。

おばあちゃんは笑いながら、「ほらほら、おじいちゃんがこんなに笑っているのに泣かないの」と背中をさする。

後で聞いた話によると、そのおじいちゃんの死に化粧を施したのはおばあちゃん本人だったそうだ。もともとは人の死にダイレクトに携わる医者だったらしいけれど、だんだんと、死んだあと安らかな顔になってほしいという願いを持つようになったらしく、ついには一部で有名な死に化粧師になったらしい。人は死んだらどう言う表情になるのかを理解していた医者だからこそ、最高の死に化粧師になれたそうだ。彼女は本当に生き生きとした表情を作り出せるため、死にゆく人を少しでも明るい気持ちで見送りたいという気持ちに続々と答えていった。

 別れ際、おばあちゃんは言った。

「朱音ちゃんはいい子だから、明日から私と一緒にいようと思っちゃうのかもしれないけど、そんなのは無しよ」

「……」

「お願いだから、自分の人生を生きて。私はおじいさんの為に生きて幸せだったわ。あなたも早くそんな人を、別に恋人じゃなくたっていい。友達、先輩、後輩。この人と一緒にいられて幸せだなと思う人を、見つけなさい。そして幸せに生きること。それが一番、おじいさんも私も喜ぶことだわ」


**


 実はその次の日、あたしは久しぶりにおばあちゃんの家に行った。

 もちろん見つからないようにこっそりと。どうしてこっそりと足を運んだのか、どうしてそもそも足を運んだのかすら自分にもわからなかったけれど。

 おばあちゃんは一人で縁側に座っていて、どこを見つめるでもなくニコニコと笑っていた。その姿はやはり、少しだけ寂しそうだった。

 翌々日も、行ってしまった。

 寂しそうにニコニコしているおばあちゃんに声をかけたい衝動に駆られたけれど、ここであたしが顔を出した方が、悲しんでしまうのではないかと思って、そのまま家に帰った。

 もしかすると、おばあちゃんにはバレていたかもしれない。


「おっす、朱音。帰るか?」

「あおちゃん」

 おじいさんが亡くなってから五日が経った。あたしは未だに、心のどこかに穴が開いたような気持ちのまま日々を過ごしていた。

 どことなくテンションの低いあたしをついに見かねたのか、クラスメイトで最近仲のいい三条蒼乃が一緒に帰ろうと提案してくれた。

 あたしは快諾して、二人で下駄箱へと向かう。

 靴を履き替えている途中、あおちゃんが単刀直入に最近テンションが低い理由を聞いてきた。彼女は回りくどいことが苦手なので、言葉を選ぼうと長考した末、端的になることが多い。あたしはそんな不器用で優しいあおちゃんが大好きなので、真摯に答える。

 小学校の時にお世話になっていた老夫婦がいたこと。

 だんだん疎遠になっていったこと。

 そのおじいちゃんが先日亡くなったこと。

全部を赤裸々に話すと、あおちゃんはあたしの両肩を掴んで激昂した。

「いや、会いに行けよ!」

「へ?」

「なんで物陰からコソコソ見てるだけなんだよ。お前はおじいちゃんの死から何を学んだ? 後悔っていう感情を学んだんだろ。それで、おばあちゃんからは何を教えてもらった? この人と一緒にいたら幸せだなって人を見つけろって言われたんだろうが。それって、おばあちゃんじゃないのか?」

「……ん」

「当然そのカテゴリにはうちも入っているんだろうけどな」

「……うん」

「だったら朱音、今から何をするべきだ?」

「……おばあちゃんに、会いに行く」

 あおちゃんは大きく頷いて、「うちも一緒に行くよ。朱音の大切な人なんだろうし関わってみたい」と言った。

 電車に乗って家の最寄り駅へ。そこから少し歩いて小学校の通学路を通る。

「こんなところだったんだなあ」

 あおちゃんがきょろきょろしながら道を歩く。落ち着きのない子だ。

「あそこ」

 指を指した先には塀があって、少し覗き込むとおばあちゃんの姿が見えた。

 いつものように、ニコニコと座っている。

 あたしがどうやって声をかけようか迷いながらうろうろしていると、あおちゃんが震えながら肩を叩いてきた。

「……なあ、朱音」

「どうしたの?」

「…………あのおばあちゃん、さ」

「ん?」

「さっきからピクリとも動かないんだけどさ」

「……」

 あたしはおばあちゃんを凝視して。

「おばあちゃん!」

 慌てて彼女に駆け寄った。

 家の敷地に入ると、ほんの少しだけ異臭がした。

 その臭いの発信源であるおばあちゃんに駆け寄り肩をとん、と触ると、手には驚くほど軽い感触が残って、そのままおばあちゃんの体はゆっくりと倒れていった。

 脈など確認しなくても、彼女が既にこと切れていることはわかった。

 視界の端であおちゃんがスマートフォンを操作している。

 覚束ない手つきでボタンを押している。

 あたしはそれをすごく冷静な目で見つめながら、頭の中には一つの疑問が浮かんでいた。

 一体、いつから?

 おばあちゃんは、いつから亡くなっていたの?

 握られたあおちゃんの手が震えている。

遠くからサイレンの音が聞こえる。

その疑問に対する答えなどわかり切っていた。

まるで生きているかのような死に化粧を施せるおばあちゃん。

縁側から動かないおばあちゃん。

おじいちゃんとお別れした後、遠回しに会いに来てはいけないと言ったおばあちゃん。

 何よりあたしは小学生の頃からずっと言っていたじゃないか。

 二人はこれまでもこれからも一緒に生きて、一緒に死んでいくって。


<『し』にげしょう 施行>

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