第8話 8日目
真っ白な部屋で目が覚めた。
硬いタイルの上で眠っていたようで、寝返りを打つと背中にひんやりとした感触が広がる。体の節々が痛かった。
僕がゆっくりと体を起こすと、パキパキ、と全身の関節が悲鳴をあげた。腰を捻って筋を伸ばしていく。
酷く、頭が痛い。
二日酔いの時のような激しい鈍痛を覚えて、思わずこめかみを押さえた。昨日の夜の自分を恨めしく思う。
「……覚えてないな」
どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、昨日の夜の記憶を思い出すことはできなかった。僕はお酒が好きでも得意でもなかったので、記憶を飛ばすほど飲んでしまったことに驚く。
そして遅まきながら、この真っ白な部屋に何の見覚えもないことに思い至った。
「ここは、どこだ?」
知らない天井だ、と嘯いてみても、誰かから返事があるわけでもなければ場面が変わるはずもなかった。
その真っ白な部屋には物が一切なく、ただ僕一人だけが存在していた。小学校の教室程度のやや広い正方形の空間で、床も壁も天井も全て真っ白に塗りつぶされているため、少しだけ不安を覚える。
いや、一か所だけ真っ白じゃない部分があった。
『扉をアケて、すスんデネ』
『オともダちガ、マっテルよ』
壁一面に、真っ赤な文字でそう書かれていた。
字の大きさも向きも表記もバラバラなその文字は、僕を扉の向こうへ誘っていた。
『扉を開けて進んでね。お友達が待ってるよ』
その言葉通り、その文字が書かれてある壁にはドアノブがついていて、この部屋から出る唯一の扉になっていた。
もしかすると、とんでもないものに巻き込まれたのかもしれない。一瞬そう思ったものの、頭を振ってその考えを飛ばす。
友達の悪戯だろう。
扉の向こうにお友達がいるらしいし、大方焦る僕を見て楽しんでいるといったところか。
泰輔か、隼太か。こういうことを仕掛ける人間に心当たりもあった。
この頭痛も、そいつらに飲まされたのが原因かな。
僕は立ち上がって、黒幕に一言文句を言うために扉を開けた。
扉を開けて目に飛び込んできたのは、真っ白な部屋だった。
目が覚めた部屋と同じような構成で、唯一違うのが今度は四方全てに扉があるということだ。
そしてまた、正面の壁には赤い文字が記されている。
『みギにハみぎアし』
『ひダりにハひだリあシ』
『のコリはショうメン』
ゾワリ……。全身に鳥肌が立った。
背中を冷たい液体が滴る。僕はいつの間にか冷や汗をかいていた。
「……」
どうせ悪戯だよ。この間抜け面を動画に撮っていつか笑い話にするつもりなんだろう。
僕はゆっくりと右の扉を開けた。
部屋の真ん中には、肌色の棒が横たわっていた。
その棒は、滑らかな曲線を描きながら太い部分、細い部分、末端と三つの部品から構成されていて、太い方の先端は赤黒く染まっている。
その棒から伸びているたくさんの短く黒い糸が、人間の足の毛だと気付いた瞬間、僕は悲鳴をあげていた。
足だ。人間の足だった。
勢い良く扉を閉めて、バクバクとうるさい心臓を落ち着かせる。
どうして? なんで? と頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
右には右足。部屋を見渡すと嫌でも真っ赤な文字が目に入ってくる。
僕は「ドッキリだ、作り物だ」と自分に言い聞かせるように呟きながら、縋るように左側の扉を開けた。
そこには冗談みたいに、人間の左足が落ちていた。
左には左足。
頭が重い。何も考えたくない。座り込みたい。
そう思っているのに、なぜか体は正面の扉へと向かっていく。
残りは、正面。
お友達から、右足と左足を引いた、残りは正面。
僕は祈るようにドアノブを捻り、目をつぶって扉を開けた。
ゆっくりと目を開ける。
果たしてそこに、懸念していたような物体はなく、再び何もない真っ白な部屋が広がっているだけだった。
『みギにハみぎテ』
『ひダりにハひダリて』
『のコリはショうメン』
さっきと似たような赤い文字が、正面の壁に書かれている。
右の扉も、左の扉も開く必要はなかった。
きっと足と同じように、手が転がっているのだから。
僕の頭はたった一つの疑問で埋め尽くされていた。
“お友達は、いったい誰だ?”
もしこれが人間なら、もう命はないだろう。
四肢を切断されて、生きているはずがない。
僕は一体何に巻き込まれている。誰が黒幕だ? そして、被害者は誰だ。
「うわあああああああああああ」
叫びながら、正面の扉を勢いよく開ける。
開けた瞬間、視界が闇に包まれた。
僕がいた部屋と、正面の部屋の電気が切れたようだ。
そして正面の壁には、夜光塗料で文字が書かれていた。
『なマくび』
緑色に発光するその四文字は、僕の心に根源的な恐怖を植え付けた。
わけのわからないままその文字に向かって歩を進める。
そして僕はゴスッ、と、何かを蹴飛ばした。
一メートルもないであろう重い塊を、蹴飛ばした。
「……」
視界は闇に包まれている。
何を蹴飛ばしたのかはわからない。
それでも、足に伝わる嫌な感触だけで、類推することができた。
前の部屋には四肢があった。
次の部屋には生首がある。
じゃあ、この部屋にはいったい何がある?
そんなの、考えるまでもなかった。
僕はかつて友達だったであろうその肉塊を飛び越えて、正面の扉へと急ぐ。
床にぬめりとした感触を覚える。
手探りでドアノブを探し、僕は何かを祈った。
そこには友達の顔があるのだろうか。
僕の知っている友達なんだろうか。
それとも全部仕込みで、笑いながらみんなが出てくるんだろうか。
深く息を吐いて、扉を開けた。
視界が真っ白な光に包まれる。
部屋の真ん中に人の顔はなく、ただぽつりと、円柱の物体が置かれていた。
その円柱は、側面が肌色をしており、底面は赤黒く染まっている。
『なマくび』
そこで僕は、意識を失った。
**
「生首って首から上全部を指すから! 首だけを指して生首っていう表現初めて聞いたから!」
ぼくの抗議を意に介さず、岩崎くんはラーメンのスープをズズズと啜った。
怖かった。岩崎くんの語りがうまいのも相まってぼくの腕には鳥肌が立っていた。決して晩御飯を食べながらするような話じゃない。もっと楽しい話がしたかったよ。
「でも生首が首から上全体を指すことについて俺はまだ納得いってないぞ」
「まあ気持ちはわかるけどさ」
「だって生手首って言っても掌のことは差さないし生乳首って言っても胸全体のことは差さねえだろ?」
「一応食事中だからね」
ぼくはラーメンのスープと水を往復していた。
このループから抜け出せない。
岩崎くんは一足先にスープを飲み干しており、帰りのバスの時間を調べていた。
「んんー、この時間帯だとちょっと歩いた先の方が空いてるしいいかもな。おい、あと二分で飲み干せ」
無茶だよ。
ぼくは無理やり因果の鎖を引き千切って鞄を背負う。向かうバス停は少しだけ遠く、そして少しだけ暗い路地を通る。
一人だと怖いのであまりこっちには来ない。さっきの話を聞いた直後だとなおさらだ。
でもまあ岩崎くんがいるからいいか。ぼくは彼の隣に並ぶ。
すると岩崎くんが、突然震えた声で「……なあ」と言った。
岩崎くんは傍若無人な性格をしていて、そんな風に声を震わすことなんてめったになかったので、少し驚きながら「どうしたの?」と言う。
「前の人、なんかおかしくね?」
彼が指差した先、二十メートルほど前には二人の人間が歩いていて、一人はなんか異常に肩をあげて歩いているのが気になったけれどまあ普通の人だった。でも、ぼくはすぐにもう一人の異常さに気が付いた。「ひっ」悲鳴をあげてちょっと岩崎くんの方に体を寄せる。
右側の男には、首から上が存在していなかった。
「い……わさき君、あああああ、あれって」
「落ち着け、落ち着け。そういう物の怪の類はお前だって見たことあるだろう」
岩崎くんの言う通り、ぼくたちは時々怪異や妖怪の類と遭遇することがあった。かつて出会ったこの世ならざるものたちを思い出して、ぼくは少しだけ落ち着く。
その人はなおもふらふらと歩いていた。そして、何度見直しても、頭があるべき部分に何もなかった。
「違う、違うって。あれは首がないんじゃない。そう。すごい俯いているだけだよ。下を向いて歩いていたらあんなふうに見えるだろう? Sukiyaki!」
「あの人は自分の足跡を覗き見ているの!? 涙ボロッボロ落ちていくけど!」
岩崎くんの半ば無理がある仮説を聞いて少しだけ元気になったぼくは、注意深くその人を観察しようとした。
その時。
「やっほー、突然ごめんね、ちょっと協力してくれないかな!」
ぬっと、横の路地から一人の女性が現れた。
「玲さん」
ぼくたちの知り合いであり、妖怪や物の怪などこの世ならざるものを祓う専門家、綿式玲さんだった。
「どうしたんですか?」
「いやね、このあたりに『首無し』が出現しているらしいんだよ。放っておくと危険だから、早く祓いたいんだけど、見かけなかった?」
ぼくと岩崎くんは数秒顔を見合わせて。
「あいつだぁあああああああああああ!」
と叫んだ。
目の前の人間を見て一瞬ぎょっとした玲さんは、そのまま駆け出し、『首無し』を祓おうとする。
しかし。
ちょっと待って。
なぜかぼくは本能のままに玲さんの腕を掴んでいた。
「どうしたの? あの首無しを祓わなきゃ」
「待ってください」
何かが引っかかる。
首……首。そうだ! ぼくはさっきの岩崎くんの怪談を思い出した。
「あいつ、首どころか頭すら無いですよね。それに、まだあの人がすっごい下を向いて俯いて歩いているただの人と言う可能性を捨てきれません!」
「……」
「逆に、もう一人の方を見てください」
前を歩くもう片方は、いまだに不自然なまでに肩をあげて歩いている。
「……もしあれが、肩をあげて歩いているのではなく、ああいう体の構造なのだとしたら?」
「どういうこと?」
「あれは肩をあげているのではなく、首がないのかもしれません。そうしたら、あんなふうにやたらと肩をあげているように見えるはずです。だとしたら、あっちの方が『首無し』と言えるのではないでしょうか?」
言った通り、もし人間に首という部位がなければ、あんなふうにやたら肩をあげているように見えるのかもしれない。
「ふうむ」
玲さんは考えこんだ。
「確かに後ろ姿からだけじゃ、どちらが首無しか判断しかねるわね……」
首から上がない存在。
首がない存在。
どちらが『首無し』かの判断はとても難しい。葦名の落ち武者なら前者だし、ぬらりひょんの孫の友達なら後者に近い。
「……」
「……」
「……」
ぼくたち三人は黙り込んで頭を回した。
どうしたら、“ずっと俯いて歩いている人”か“すごい肩をあげて歩いている人”だと確定させることができるのか。
しばらく考えた結果、玲さんは正面に回り込んで二人の顔を見比べたのだった。
簡単な話だね。
そんなことより、首って結構曖昧な日本語じゃない? ぼくはそんなことを思いながらバスに乗り込んだ。
<『く』びなし 討伐>
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