最後のボスを、倒すのは……   作・網代陸

・今出(いまいで)良悟




『コネクト通信』という、なんとも不思議なタイトルのネットラジオ番組。そのラジオ番組を俺が聴き始めたきっかけは、とあるPCゲームだった。




 十五年ほど前に発売されたそのゲームは、「今までに無かった斬新なストーリーシステム」を採用していると少しだけ話題になり、少しだけ売れ、そしてその購入者のほとんどから酷評されたらしい。


 酷評された主な原因は、皮肉なことに、開発陣が売りにしていた「斬新なシステム」そのものだったようだ。いわゆる「オンライン協力プレイ」的な要素だったらしいが、欠点が多く、ユーザーに受け入れられなかった。


「タッグを組むプレイヤー同士のゲームにおける進行度が同じである必要があること」「それにはゲームスキルが同等でなければいけないこと」「パートナーがゲームを諦めると自分はまた初めからプレイしないといけないこと」など、不満の声が目立ち、人気に火がつかないままひっそりと消えていったゲームだという。


 


と、ここまでひと昔前のPCゲームについて触れたが、先ほども述べたようこのゲームはあくまで、一番はじめの「きっかけ」にすぎない。




「父さん、これ何?」


 父が以前使っていた古いパソコンを処分したいというので、わざわざ仕事終わりに実家へ戻り、その中身を整理していたところ、見たことのないソフトが目に入ったので、俺は父に尋ねた。


 ぼんやりとテレビを見ていた父は、こたつに置いていた肘を離し、こちらを振り向いてから答えた。


「ああ。だいぶ昔に職場の知り合いが、面白いからって俺のパソコンに勝手にダウンロードしたゲームだけど、あまり良くなかったんだよな。それも消しちゃってくれて構わんぞ」


 しかし俺は父の言う通りにはしなかった。データ移行ソフトを使い、自分のノートパソコンへとそのゲームを移した。特別その概要に惹かれたという訳ではなかったけれど、なぜかそうした方がいい気がしたのだ。




「じゃあ、気つけてな」


 ひと通り作業を終えて自宅へ戻ろうとする僕を、父が玄関で見送ってくれた。父は少し寂しそうな表情をしていた。俺の母は、俺が生まれてすぐに死んだので、俺が高校を卒業するまでは、父と二人暮らしだった。


「ああ、また帰ってくるよ」


「お前、仕事で大変なことでもあるんじゃないのか?」


 俺は、少しだけ驚いた。そういった素振りは見せないようにしていたのに、やはり親はちゃんと分かってくれるのだな、としみじみ思う。


「少しね……。でも大丈夫、ありがとう」


「そうか……」


 微笑んだ父に、じゃあまた、と告げた俺は、東京まで一人で車を走らせた。




 一人で暮らすマンションの自室に着いた俺は、ノートパソコンを起動した。デスクトップには、移行したばかりの父のゲームがある。


「はじめから」を選択すると、「パートナーとなるプレイヤーを検索しています」という文言が表示され、それからしばらく待っても、何も起こらなかった。


 やはり十五年も前のゲームを今更プレイしている人間がいるはずもないか、と俺はため息をついて、ゲームのウィンドウを閉じる。そして、それとも自分の相棒にふさわしい相手はこのようなゲームなんかで出会うべきではないのかもしれないな、と馬鹿げたことを考えたりもした。


 しかし、本当にゲームをプレイしている人が一人もいないのか、どうしても気になってしまい、俺はインターネットでそのゲームの名を検索してみた。


 ヒットしたサイトは、ほとんどがゲームリリース当初に更新されたものだったが、数ページ進んだところで、一つ気になるものを見つけた。


「『コネクト通信』?」


 つい先週更新されたらしいそんな名前のウェブサイトに、僕が調べているゲームの名が取り上げられていた。


クリックすると、シンプルなデザインのページが開く。中央上部には大きく『コネクト通信』という文字。そして少し下には「第三百七十回」の表示。


ページの最下部を見ると、「第一回」「第二回」とこれまた何らかの回数が記されており、その横には音声ファイルが存在した。


「第一回」という文字にカーソルを合わせると、説明が表示された。その中には、件のPCゲームのタイトルも含まれている。説明をよく読むとそれはどうやら、個人で企画・運営しているインターネットラジオ番組のようだった。


「第一回」はちょうどゲームが発売された時期である、今から十五年前ごろに配信されている。


 考えるよりも先に、ヘッドフォンをノートパソコンに接続し、装着する。そして俺は、『コネクト通信』の「第一回」音声ファイルを再生した。






・去来川(いさがわ)守




『コネクト通信』という、我ながらセンスあふれるタイトルのネットラジオ番組。その番組を僕が配信し始めたきっかけは、とあるPCゲームだった。




 先月発売されたそのゲームは、「今までに無かった斬新なストーリーシステム」を採用していると少しだけ話題になり、僕もオンラインで購入して実際にプレイしたものの、その内容は酷いものだった。


 中でも酷かったのは、「斬新なシステム」そのものだ。そのシステムというのは、いわゆる最新の「オンライン協力プレイ」の形だったが、欠点が多くユーザーに受け入れられなかった。


 プレイヤーはまず、用意された2つのストーリーのうちから、自分が進めたいと思った方を選択する。すると、自分が選ばなかった方のストーリーを選択したオンラインのプレイヤー1人と無作為的にタッグを組むこととなる。その後ゲームを進めていく中で、互いの世界の武器を渡したり、他方の世界の住人に交渉を持ちかけたりと、2人のプレイヤーは協力することを強いられる。


 発売後間もなく、ユーザーからは「パートナーがゲームを進めなければ自分も進められないのはストレスだ」「パートナーとのプレイスキルの差がストーリー進行に支障をきたしている」などの声が上がった。


また最も多かったクレームは、最後までゲームをプレイしたユーザーからの「せめて自分のストーリーのボスくらいは自らの手で倒したい」というものだった。


ストーリーの最後まで到達した2人のプレイヤーは、それぞれ自分の選択しなかった世界のボスと戦闘を行う。そして両方が勝利すれば2つの世界に平和が訪れる、という展開だったため、確かにカタルシスが得られにくいクリアの仕方だった。




 ちなみに僕に関しては、ボスと戦うに至るゲーム終盤まで辿り着くことすらできなかった。生来の協調性の無さで、パートナーと共にストーリーを進めることが苦痛かつ困難だったからだ。


 購入する前から協力プレイに関しては懸念していたので、「やっぱり」という気持ちもありつつ、やはり悔しかった。僕の本当の相棒にふさわしい人物とは、こんなゲームごときでは出会うべきではないのだ、などと馬鹿げた言い訳を考えたりもした。




 と、ここまで長々とさして人気でもないPCゲームについて述べてきたが、これはあくまで一つの「きっかけ」にすぎない。






「置いておくね」


 ベッドの上で携帯ゲームをしていた僕の耳に、嫌になるほど明るい母親の声がした。自室の扉の向こうからだ。目的語が存在していなくても、そこに何が置かれたのかは分かる。僕の夕食だ。


「あ……」


 ありがとう、と言いたかったけれど、その勇気が出なかった。母が階段を下りていく音が聞こえた。




 二十五歳。就職活動に失敗し、大学を卒業してから三年もの間、実家の二階でゲームや読書ばかりしている僕を、しかし母は見放さずにいてくれる。家に置くだけでなく、毎日の食事も用意してくれている。


 むしろ僕を怒ったり責め立てたりしてほしい、と思うことがある。そうすれば僕はまた新しく一歩を踏み出せるかもしれないのに。いや、これは僕が責任転嫁をしているだけだ。


 そんな母とも、もうかれこれ二年近く会話をしていない。いまや僕の話し相手になってくれるのは、母しかいないのに、話す勇気が出ないのだ。甘い現状が壊れるのが怖くて、話すことができないでいる。


「はぁ」


 ベッドの上で大げさに、ため息をついてみる。こうして少しでも声を出し、それを自分の耳で聞くことは、ほとんど一人の世界に生きる僕にとって、自分の生存を再確認する手段だった。


 扉を開けて夕食の乗せられたお盆を室内へ運ぶ。お盆を机の上に乗せた僕は、すぐそばにあるデスクトップのパソコンを起動した。


 まだ温かい食事を箸で口に運びながら僕は、最近始めたものの、半ばクリアを諦めかけている件のオンラインゲームのアイコンに目をやった。


 久しぶりに、苦手なゲームに出会った、と思った。誰かと協力するゲームはもともと苦手だが、このゲームは特に酷かった。


「クソゲーだな……」


 一人で呟いて、自己嫌悪に陥る。僕はこんなちょっとした愚痴すら、誰にも伝えることができない。自分の意志で人との交流を断っているとはいえ、虚しくなった。


「……そうだ」


 僕は、突然思い立った。


 誰かと会話するのが怖いなら、一人で話せばいい。そして一方通行的に、誰かにそれを聴いてさえもらえればいい。


 インターネットを使い、録音した音声ファイルを投稿できるサイトを作れば、一人でもラジオ番組が作れる。確か今使っているヘッドフォンには、マイクロフォン機能もついていたはず……。


 まず、録音のためのアプリケーションを起動した。僕はヘッドフォンをパソコンに接続し、装着する。そして小さく息を吸い込んだ後で、一言目を発した。






・今出良悟




 俺の一番の武器は何だろう、と考えることがたまにある。そしてその度に、「ハッタリ」こそが一番の武器だという結論に至る。


 それはきっと「強がり」とほとんど同質のものなのだろうけれど、俺の人生には必要不可欠なものだった。物心ついた時にはすでに母親がいなかったから、強がらなければ、心を保てなかった。


 まあルーツは何にせよ、俺に「ハッタリ」の才能があると自覚したのは、十一年ほど前、中学一年生の頃の話である。




 当時の俺のクラスメイト島居は、地元の市議会議員を親に持ち、大人に気に入られるのが上手な、いわば優等生の世渡り上手だった。しかし一方で、同級生に対しては偉そうな態度を取っていたので、直接に話したことはなかったけれど、俺はやつのことが嫌いだった。


「おい、今出」


 ある日の昼休み。一人で机に座り、漫画雑誌を読んでいた俺に、鳥居が珍しく話しかけてきた。気色の悪いニヤニヤとした笑みを浮かべている彼の顔を見て、俺は寒気を覚えた。


「……なんだよ」


 小さな声で返事をすると、島居は馴れ馴れしくも俺の肩に腕を回し、耳元で話しかけてきた。


「これ、井上の財布。お前、好きにしていいぜ」


 そう言って彼が俺の目の前に出したのは、アニメのキャラクターがプリントされた小さい財布だった。


「中身は少ないけど、僕からの、今出に対する精いっぱいの気持ち」


 俺の肩に置いていた腕を離し、相変わらずニヤニヤと笑っている島居の姿を見て、俺は激しい嫌悪感を覚えた。


 こいつはきっと、同じクラスメイトの井上からその財布を奪い取り、中身を自分の懐に入れた。そしてそれが発覚した時の犯人として、俺をスケープゴートに使う気なのだ。頭の悪い中学生である俺にだって、そんなことくらいは分かった。


 以前から嫌いだったが、その時点では、まさかここまで卑劣なやつだとは思っていなかった。特に、井上のようなクラスの中でも立場の弱いやつをターゲットにしていること、そして俺自身も島居からそのように思われ始めていることに対して、無性に腹が立った。


「そんなものは必要ないんだけど、それより」


 俺は頭で考えるよりも先に、そう口を動かしていた。あくまで周りの生徒達には聞こえない声量で、だ。目の前にいる島居は、眉をひそめた。


「それより、何だよ?」


「全部バレてるぞ」


 まったくの出まかせだった。何故こんなことを口走っているのか、自分でもよく分かっていなかった。


「何がだよ。井上はドンくさいし、他のやつも告げ口なんてできないだろ」


 島居は余裕の表情で言ったが、何かを隠しているようにも見えた。俺は、次の言葉をぶつけてみる。


「学校でのことじゃないよ。お前の趣味の、あれ」


 俺は無い頭を必死に回転させながら話す。島居は塾に行っておらず、所属する陸上部の活動も週に三回ほどだ。つまり、趣味に費やす時間がそれなりにあってもおかしくない。


「は? 俺がやってるなんてバレようがねぇだろ、そんなこと」


 反応から察するに、何か心当たりがありそうだった。


島居が、誰か他の友人とつるんでいるとは聞いたことが無い。俺が知らないだけかもしれなかったが、こいつの性格を考えても群れることは好まないだろう。となると、一人で行う趣味……。誰がやったかバレない……。


「最近は法律が整備されてきてるらしいぞ。警察の捜査も進歩してるし、気を付けないと、お前もやばいんじゃないか」


 これは確実に、島居に効いたようだった。彼の顔が引きつるのが、はっきりと手に取るように分かった。


島居は、顔を少し赤くしてから、何も言わずにその場を去っていった。


 結局のところ島居が普段何をしているのか俺には分からなかったが、島居が罪を隠そうとしているのは明らかだったから、そこを攻めて正解だった。横断歩道の赤信号を渡ったことのない人間はいないのだ。それに万が一、議員である親の顔に泥を塗るようなことになってはいけない、と怖気づいたのかもしれない。


 俺にとってはあんな男、敵ですらなかったけれど、彼が、俺自身の才能に気付くきっかけとなったのは確かである。




「今出さん!」


 昔のことを思い出していた俺は、伊藤の声によって我に返った。俺の勤める保険会社の一つ後輩である彼は、何かと俺を慕ってくれている存在で、普段あまり他人と仲良くしない俺が、珍しくかわいがっている人間だった。


「どしたんすか、ぼーっとして」


「いや、ちょっと色々考えてて……」


 俺がそう言うと伊藤は、一瞬はっとしたような表情になり、次に声を潜めてこう言った。


「もしかして、例の件についてですか……?」


 俺は目線で、その話はするな、と彼に訴えかける。


例の件、というのは俺と伊藤が半年前から内密に話している計画のことだが、その実行には時間がかかる上に、社内の他の人間にバレてしまってはまずいので、普段から口にしないようにしている。


「ちょっとタバコ吸いに行こうぜ」


 俺はそう伊藤に声をかける。話を聞かれにくい屋上へ向かおうと思ったのだが、その思惑は、俺たちの目の前に現れた大男によって阻まれた。


「伊藤ちゃん。相変わらず辛気臭い奴とつるんでるね~」


 酒井という俺の同期は、こちらを蔑むような眼で見ながらそう言って、伊藤の肩を、がしっと掴んだ。伊藤は、何ですかもう、と愛想笑いをしているが、俺にはその頬が引きつっているのが分かる。


 伊藤は親しみやすそうな人相をしているので、面倒くさい輩に頻繁に絡まれてしまう。本人もそれを快く思っておらず、特に酒井については、よく愚痴をこぼしていた。


「今日来るよな? 例の合コン」


「い、いや、それは……」


 下種な笑みを浮かべているが、こんな男でも伊藤にとっては一人の先輩で、断りづらそうにしている。しかし、俺と伊藤にはやるべきことがあって、合コンなどにうつつを抜かしている暇はないのだ。


「こんなこと言いたくないけど、あんまり先輩の誘いを無碍にしてると、働きづらくなっちゃうかもよ? 誰かさんみたいに」


 酒井はこちらに一瞥をくれた。余計なお世話だ、と内心で思いながらも、俺は先ほどと同じことを想起していた。中学生の時、同級生である島居を言いくるめたあの日のことだ。今もまさに当時と似た状況だけれど、決定的に異なることがあった。


 島居は俺の敵ではなかったが、酒井は違う。


伊藤は俺の武器の一つ、もっとも信頼のおける仲間だ。その伊藤にとっての敵である酒井は、すなわち当然、俺の敵でもある。


「2016年、アメリカのオレゴン州で、カーク・アレクサンダーという男性が自宅で倒れてるのが見つかった。発見したのはドミノピザの配達員」


 気づいた時には、俺の口が勝手に動いた。伊藤も酒井も怪訝な顔でこちらを見ているが、俺は話し続けるしかない。


「搬送されたカークは一命をとりとめた。助かった理由は、彼がほぼ10年間ピザを頼み続けていたからだ。倒れてしまって数日間ピザが注文されなかったことを不思議に思ったピザ屋の店員が駆け付けなければ、彼は死んでいたかもしれないって話だ」


 俺は最近得た「知識」を、できるだけ落ち着いた口調で話す。「ハッタリ」には冷静さが不可欠だ。


「いったい何の話だ? いよいよおかしくなったのか」


 酒井は眉を吊り上げながら言う。俺は敢えて少し微笑みをたたえながら、次の言葉を口にする。


「伊藤も同じだってことだよ。伊藤の彼女は怖いぞ。彼氏の浮気を、親の仇のように憎んでる。自分のバイトがある日は、必ず会社帰りの伊藤をそのバイト先に立ち寄らせて、同棲してる家にまっすぐ帰らせるんだ。毎回欠かさず、だ。その約束をたった一回でも破れば、それだけで怪しんでしまうかもしれない」


 酒井の背後で、伊藤が驚いた顔をしている。俺は伊藤の彼女に一度も会ったことが無いどころか、その顔と名前すら知らない。


「そんなこと、俺には関係ないけどな」


 酒井は不愉快そうに言った。俺は少し情報を付け足すことで、この会話を終わらせることにした。


「そうとも限らないぞ。合コンなんぞに連れて行った元凶がお前だと知れば、怒りの矛先が向かうかもしれない。あ、さっき『伊藤の彼女は怖い』といったが、あれは間違いだ。正確には『伊藤の彼女のお友達は怖い』だった。訂正する」


 酒井はしばらく何も言わなかった。そして伊藤に対し、次までにうまい言い訳考えておけよ、と言い残し、その場を去った。


 酒井が荒唐無稽とも思える俺の話を心から信じているかどうかは、大した問題ではなかった。ただ、悪い可能性の種を、やつの頭の中に植え付ける。それだけで十分だった。


「さすが今出さん。嘘つかせたら最強ですね」


「聞こえが悪いな」


「実際、人のこと騙してるじゃないですか」


「護身術の一つみたいなもんだよ。高校生のとき、家に来た宗教の勧誘を追い返したこともある」


 勧誘に来た中年の女性に対して俺は、「あなたは宗教を通じて、身の回りの問題から逃げているだけだ。あなたの一番大事な人は、きっとあなたを憎んでいる」と、嘘や脅しというよりはほとんど説教に近い言いがかりで対抗したのである。


「にしても、よく思いつきますね、あんな嘘。特に最初のピザ屋の話なんか、びっくりしましたよ」


「ああ、あれは本当にあった出来事なんだ」


「そうだったんですか?」


「流石に、あんな話を一からでっち上げられるほど頭は回らない」


 あれは俺が「知識」として知っていたことだった。確かに得意の嘘ではなかったが、あのニュースについて知っていたおかげで、より酒井を話に引きずり込むことができたし、何よりそのおかげで俺自身が、伊藤の彼女に関する都合のよい虚言を、思いつくことができた。


『コネクト通信』で、パーソナリティー「ガードマン」が話していたエピソードを、覚えていてよかった。そうでなければ、十年近く前のニュースなど知る由もなかった。


 新しい武器が手に馴染んできているような、そんな感覚が、俺の中にあった。






・去来川守




 僕の一番の武器は何だろう、と考えることがたまにある。そしてその度に、「知識」こそが一番の武器だという結論に至る。


 それはきっと、子供のころは勉強ができて、「知識」を貪欲に吸収して褒められることが素直にうれしかったからだと思う。ちなみに誰に褒められたかと言えば、それは主に、僕の母だ。


 子供のころはそんなこと知りようもなかったけれど、母は高校を中退してそのまま働き始めたので、学歴の高い人に対して憧れとか、またはコンプレックスのようなものがあったみたいだ。


 母の期待もあって、僕はたくさん勉強したし、たくさん本を読んで、たくさんのことを知った。そして名門中学・高校に推薦入学を果たした。母子家庭でお金がない中、これ以上ない親孝行だったと我ながらに思う。


主要な科目だけでなく、雑学やニュースなども含め、人生で得た「知識」を駆使することで、僕は人生の道を切り開いてきた。


 そんな僕が、就職活動に失敗し、歩いてきた線路から外れてしまった今、母は僕のことをどう思っているのだろうか。僕に対して怒ったり不満をぶつけたりしない、ということは完全に失望したわけではないのかもしれない。むしろ自分と同じようにそれまでの道から逸れた息子を見て、安堵にも似た気持ちを抱いているのではないか、と僕は考えている。


 まあ理由は何にせよ、僕の一番の武器は「知識」であるが、無職のまま暮らす現在では、すっかり錆びついてしまいつつある。唯一それが役に立っているとすれば、僕が趣味で週に一度配信しているネットラジオ『コネクト通信』で上せる話題には、まったく困ることが無い、ということだ。




「さあ、始まりました。『コネクト通信』! 皆さんこんにちは、『ガードマン』です。いかがお過ごしでしょうか? 僕はと言えば、今日も今日とて元気にニートをやってるんですけど……」


 平日の昼から夕方にかけての時間帯は、母がパートに出かけているので、家には他に誰もいない。彼女はパート以外にも時折どこかへ出掛けているようだったが、そのタイミングは分からないので、僕はこうして平日の昼間にラジオの収録をすることにしている。


「第一回」を収録し、自分で作成したサイトに投稿してから、早くも一年が経とうとしている。番組を始めた当初は、自分がこんなにもたくさんの言葉を話せるということに驚いた。決して上手では無いだろうけど、それでも、今まで人付き合いをほとんどしてこなかった人間にしては上出来だと思えた。


 サイトを訪れてくれる人も徐々に増え、今では月に数百の閲覧がある。そして閲覧者の中には、僕が数か月前に設置したコメント欄に温かい応援をくれる方も数人いて、そのことが今、僕にとって唯一の生きる糧となっている。


「皆さん、知ってますか? こないだアメリカのオレゴン州で起きた出来事らしいんですけど……」


 今日収録の放送ではこのニュースの話をしよう、と数日前から決めていた。ピザの注文が途絶えたことから一命をとりとめた、男性の話である。人と人とのつながりを思わぬところで感じさせる不思議なニュースだ、と初めて耳にしたときに思ったのだ。


 そして僕にとっても、決して他人事とは思えないニュースだった。


無職兼引きこもりで、外部との接触をほぼ持たない僕にとっての「ピザ屋の配達員」は、きっと母親になるのだろう。もし僕がこの部屋の中で急に倒れるようなことがあれば、部屋の前に置かれたままの食事を見て、母が救急隊員を呼ぶ、といった事態になることは想像に難くなかった。


そしてそのような自虐めいた内容を、僕はこの日のラジオで面白おかしく話した。




翌日になり、この「第四十九回」の放送をサイトにアップロードしたところ、今までの放送回の中でも、特に評判が良かった。その上どうやら、リスナーのうちの一人がSNSで僕のラジオ『コネクト通信』を紹介してくれたらしく、「初めて聞きました」「頑張ってください」など、コメントの数も普段より十件以上増加した。


しかし、起きたのはよい変化ばかりではなかった。


はじめにそれを見つけたのは、「第四十九回」を配信してからちょうど一週間後のことだ。次に収録した「第五十回」をアップロードしようとサイトを開いた僕の目に、信じられない数字が飛び込んできた。


「コメント、56?」


 昨日までは、二十件ほどだったコメントの数が、倍近くまで増えていた。緊張しながら内容を確認すると、「面白くない」「死ね」「住所特定して、殺す」などのいわゆる誹謗中傷が同じ一人の人物「名無し」からいくつも投稿されていた。


 正直、コメント欄を作った当初から、このような事態になる可能性も考えてはいた。しかしいざ実際に自分に向けられた悪意を文字として目にすると、心が深く傷ついて、動悸が止まらなかった。


 悲しくて悲しくて、たまらなかった。


 僕は震える手で、それらのコメント一つ一つを削除した。コメントは、サイトの管理者、つまり僕だけが消すことのできるように設定していたのだ。「名無し」のコメントをすべて削除した僕は、「第五十回」の放送をアップし、サイトを閉じた。


 その日の夜、もう一度サイトを開くと、「第五十回」に対し、既に三十以上ものコメントがあった。嫌な予感を胸にしながら内容を見ると、やはり「名無し」からの投稿だった。午前中に見たコメントと同じような誹謗中傷、さらには僕やその親の人格を否定するような言葉が、そこには並んでいた。


 悲しさと悔しさが僕の胸を駆け巡った。確かに、僕はダメな人間だ。しかしだからと言って、見ず知らずの人間にここまで罵倒されるいわれはないはずだった。「名無し」は完全に、僕にとっての敵だった。


 僕はまた「名無し」のコメントをすべて消した。しかし、翌日にはまた同じようなコメントが数十個投稿された。そのような毎日が二週間ほど続き、完全にいたちごっこの状況に陥ってしまった。


しかし、同じような作業とはいえ、僕がその悪意に慣れるようなことは全くなく、むしろ日を追うごとに、僕の精神はすり減っていった。配信を辞めることこそなかったが、母が用意してくれる食事などは、あまり喉を通らなかった。


はじめは励ましの言葉をくれる方もいたが、リスナーのほとんどが皆なるべく面倒ごとを避けようとしているのか、「名無し」以外のコメントはだんだんとその数を少なくしていた。僕はいよいよ、コメント欄を閉鎖するべきか真剣に悩み始めていた。




そんな状況が一変したのは、「名無し」による荒らしが始まってからおよそ一か月後のことであった。その日は、コメントが一件だけ投稿されていた。内容を見てみると、「名無し」による長文の投稿だったが、ただしそれは誹謗中傷の類ではなかった。


「『ガードマン』さん、今まで本当にすみませんでした。趣味のゲームの話をたくさんしていたから、このラジオを見つけました。


誰かを傷つけてはいけない、って分かっているけど、ネットの世界だと好き勝手にふるまえるから、つい色々な人に悪口を言ってしまっていました。


昨日、中学のクラスメイトから、今は警察の捜査も進歩していると教えられました。調べてみると、ネットでの誹謗中傷などでも逮捕されてしまうらしいです。本当にすみませんでした。もう二度とこのようなことはしないので、どうか許してください。そして出来ればこのコメントも削除してほしいです。お願いします」


ほとんどのコメントが夕方の早い時間に投稿されていたから学生なのではないかと思っていたが、まさか中学生だったとは……。しかし僕の心の中では、怒りや呆れよりも、安堵の方が多くを占めていた。本当に反省しているようだし、子供相手にこちらがこれ以上必死になっても仕方がない。


自分の敵を、他の誰かが代わりに倒してくれたような、そんな不思議な感覚が、僕の中にあった。






・今出良悟




 この世で俺にとってただ一人の天敵。それは、俺が現在務めている保険会社の専務である、佐竹譲(じょう)という男だ。


 そもそも、なぜ俺が生命保険を主に扱うこの会社に入ったかと言えば、それこそが俺の天職だと昔から常々思っていたからだった。


「あなたのこの先の人生にはこんな辛い悲劇が待っているかもしれない」「人生において不幸は避けられない」「だからうちの保険に加入しないと、あなたは損をするんです」。要約するとこのような脅迫じみた内容となるとんでもない文句を、平気な顔でつらつらと述べる保険の営業という職は、「ハッタリ」以外の何物でもなく、だからこそ俺にとって天職だと思っているのである。


 ということで、当時高校三年生だった俺は、保険会社の入社試験を受験した。そのうちの一つが、現在勤めている会社である。規模が大きすぎず、かといって小さすぎない、それでいて世間的に名の知られている、という狙い通りの企業に入ることができて、俺は安心した。しかし、たった一つだけ、不安要素があった。


それこそが、入社試験の最終面接の際に出会った男、佐竹譲の存在だった。


 就職活動の面接においてだって、大切なのは、いわば「ハッタリ」を押し通すことだ。「私を採用しなければ、あなた方の会社は不利益を被りますよ」と、端的に言えばこういった脅迫を遠回しにする訳である。だからこそ、俺は自信満々で面接に挑んだのだが、そこに彼がいた。


 面接官は、彼を含めて五人いた。社長を中心に横並びになっていたうちの、右端にいたのが佐竹譲であった。当時はまだ、専務の役職ではなかったはずだ。


 俺は、佐竹譲以外の四人の面接官から好感触を得ていた。そのくらいのことは、幾度か面接をこなしていると分かることだ。就職面接官におけるプロなどいないのだから、彼らを騙すことなど簡単だ、と、その時までは思っていた。


「それが通じない相手もいる、とだけ覚えておいてください」


 佐竹譲が、その面接において一言だけ、俺に向かって発した言葉だった。眼鏡の奥から覗く瞳が、鋭かった。他の面接官はきょとんとしていたが、俺にだけはその意味が分かった。俺の「ハッタリ」、つまりは嘘や虚言が、佐竹譲には通じなかった、ということだ。


 初めての経験だった。様々な局面を「ハッタリ」で乗り越えてきた自分にとって、最初の挫折だったと言ってもよい。この面接は、もう駄目だと思った。しかしながら予想に反して、俺はその面接に合格し、、この会社で働くことになったのだ。


 だからといって、俺の佐竹譲に対する印象が良くなったかというと、勿論そういう訳ではなく、むしろ俺は、正体の分からぬ疑念を持ち続けたまま、彼の下で働き続けねばならなくなった。


 何はともあれ、佐竹譲には俺の「ハッタリ」が通じず、俺に初めての挫折を経験させたという点で、彼は俺にとっての天敵である、ということだ。




 しかし俺は今、彼を打倒するための最大のチャンスを目前にしている。




 佐竹譲の横領疑惑に最初にたどり着いたのは、俺ではなく、伊藤だった。


 それは二年ほど前の出来事で、きっかけは、一台のパソコンだった。俺以外の先輩社員からも可愛がられていた伊藤は、笹川さんという三十代の男性社員から、使わなくなった私用のパソコンを譲り受けた。笹川さんが退社し、地元へ帰るということでそういった運びとなったのだが、そのパソコンに、とあるデータが隠されていたのだった。


 偶然そのデータを復元した伊藤は、それを俺だけに見せた。そのデータだけが、復元可能な形で消去されていたことを不審に思ったらしい。それは一見しただけでは一般的な家計簿に思えるようカモフラージュされていたが、何か秘密が隠されているということを、俺は直感的に確信した。日ごろから「嘘」だけを武器としていた俺だからこそ、そういった人を騙そうとする意図が敏感に感じ取れたのだと思う。


 結果としてそのデータは、会社内の不当な金銭の動きを部分的に記したものであった。


 笹川さんは営業部から経理部へ移動したという経歴を持っていた。伊藤曰く、最後に会った笹川さんは憔悴しきった様子だったらしい。彼が何者かに不正の片棒を担がされ、自責の念に耐え兼ねたために職を退き、伊藤がその可能性に気付く可能性に賭けたのだ、と俺たちは考えた。


 そのときから俺は、伊藤の協力を仰いで、横領についての調査に乗り出した。秘密裏に動いていたため調査の進みは遅かったが、進むにつれ、その元凶が佐竹譲にあるということが分かってきた。


いや、本当は調査を進める前から分かっていたのかもしれない。


経理部が彼の管理下にあるということもそうだが、もっと漠然とした予感のようなものが俺の中に存在していたのだ。だからこそ、俺は真相を突き止めたいと思ったのだ。


何故かは分からないが、佐竹譲のことを、倒さなければいけないラスボスのような存在だと、勝手に思い込んでいる節があった。






・去来川守




 この世で僕にとって唯一の天敵、それはもしかすると、実の母親なのかもしれない。


 母は僕のことをとても大切に育ててくれていたけれど、その期待の重さもあり、僕は落ちぶれ、引きこもりになってしまった。ラジオを始めてからはこういった暮らしも悪くないな、と思っていたが、同時にやはり、心のどこかに悔しさのようなものも存在した。


 母に叱ってほしかった。駄目になった僕を、今からでも彼女が怒ってくれれば、もしかしたら僕は立ち直れるかもしれない。


 いや、これはただの責任転嫁でしかない。そう自分でも分かっている。


だけど同時に、母親から強制されなければ、自分がどこまでも現状に甘えてしまい、二度と「復活」できない、ということも分かっている。


つまり母は、僕の将来を阻んでいる、という点において、僕の天敵なのである。いわば「ラスボス」と言ってもいいかもしれない。




 だからこそ今日、自分の部屋のドアがいきなり開いたことに対して、僕は驚愕した。




「皆さんはご存知ですか、シーザー暗号っていう暗号があって……」


 PCに向かって呑気にラジオを収録していた僕は、ガチャリという音に寒気を覚え、そちらを振り返った。二年ぶりに見た母の顔は、ひどくやつれていた。


「あ……」


 僕はまた、ろくに声を発することができなかった。これでは駄目だ、と思った。しっかり母と、話をしなくてはいけない。


 大丈夫。今までたくさんのことを、ラジオを通して話してきたじゃないか。そう自分に言い聞かせたけれど、自信は湧いてこなかった。


 僕は今から、天敵と対峙しなければいけない。






・今出良悟




 俺は陣野(じんの)さんに対して、こう言った。


「習志野(ならしの)茜(あかね)さんについて知っている、って言ったら、話を聞いてくれますか」


 こんな風に、もはやハッタリではなく脅迫そのものといえる行為を働きたくはなかったけれど、それは俺と伊藤の計画において必要不可欠なことだった。


 陣野さんは現在、佐竹譲の一番近くで働いている、四十代の社員だった。笹川さんの後釜、というわけである。


彼に近づいたのには、もちろん理由がある。


横領の確かな証拠をつかむには、社内にある佐竹譲の部屋に設置されたコンピュータから直接データを抜き取らなければいけないことが分かったのだ。しかし、俺達には彼がいつ部屋を開けるか知りようがない。そこで陣野さんの協力を仰ごうとしているわけである。


あの佐竹譲が選んだのだから、一筋縄ではいかない人物だとは分かっていた。そして、だからこそ俺は、彼に対して汚い手を使わせてもらうことにした。


「何のことだ?」


 陣野さんは、そう答えた。駅のホームに設置されているベンチに並んで座った俺と陣野さんは、それぞれが前方を見ながら話し続ける。


「浮気相手、なんでしょう?」


「……」


何かを考えているのか、陣野さんは言葉を発しなかった。俺は、続けて声をかける。


「アドン・クレマンっていうフランスの映画俳優、ご存知ですか?」


「……知らないが、それがどうかしたのか?」


「彼はこんな言葉を残しているんです。『抑圧されている男にとって、唯一の逃げ道は女遊びだ』」


 その言葉はおそらく、陣野さんの状況を的確に言い表しているものだと言っていいだろう。


 数か月前。俺と伊藤は、佐竹譲の不正行為に加担しているであろう陣野さんを、どうやって説得するかということについて考えていた。


 しかし、彼がこちら側に付いてくれるようなメリットを提供することはどう考えても不可能に近く、俺たちは悩み続けていた。


 そんな折に思い出したのが、『コネクト通信』で耳にしたアドン・クレマンの言葉だった。横領の片棒を担がされている陣野さんは、笹川さん同様に佐竹譲に圧力をかけられているだろうとは考えていた。しかし、何を以てその抑圧に耐えているかということにまで、俺たちは頭が回っていなかった。陣野さんは、既婚者だ。もし彼の弱みを握ることができるのなら、それは女性関係かもしれない、と思い至った。


だからといって、彼が不倫をしている証拠など、当時はどこにも無かった。けれど、俺にはなんとなく分かっていた。それは、『ガードマン』がくれた知識が自分の役に立つはずだ、ということを心のどこかで信じていたからだろう。


 そうして俺たちは、陣野さんを説得するのではなく、脅迫するために、彼の身辺調査を始めた。


 それから浮気相手である習志野茜にたどり着くまで、そう時間はかからなかった。彼女は俺のしょうもないハッタリを真に受け、あっさりと陣野さんとの関係について白状した。


 そうしてその証拠を今、俺は陣野さんに突き付けようとしている。


「そうか。話したのか、彼女は……」


小さく呟いた陣野さんの表情は、彼が全面的にではないにしろ、俺たちに手を貸してくれるであろう、ということを俺に確信させた。佐竹譲を出し抜くための用意は整いつつある。


俺は今から、天敵を打倒しなければいけない。






・今出良悟




 俺が、会社の最上階にある専務室に潜入することができたのは、陣野さんに接触してから二週間後のことだった。


 陣野さんが教えてくれた、佐竹譲がある程度長くこの部屋を空けるタイミング。それが、今日この時間だった。


 陣野さんは、当然のことだけれど、俺たちの計画に深入りすることを避けたがっていたようだったので、通常の業務を進行してもらっている。伊藤は、万が一にも佐竹譲が戻ってきてしまった場合に、俺に知らせる役目。そして俺が、陣野さんから預かった鍵で専務室へ忍び込み、データを入手する、という訳だ。


「ふぅ……」


 俺は部屋の内側からそっとドアの鍵を閉め、息を吐いた。心臓が口から飛び出そうなほどの緊張をするのは、もしかすると生まれて初めてかもしれない。


 コンピュータを起動し、パスワードを入力する。これも陣野さんに調べてもらっていたものだ。音を立てないよう、慎重に指を動かす。


 膨大なデータの中から、怪しいものを探す。嘘をつこうとする意志を嗅ぎ当てるために、俺は集中力を働かせる。


「もしかして、これか……」


 俺は思わず、小声で呟いた。俺は、フォルダの履歴の中にあった「ゴミ箱」アプリのアイコンを凝視する。ただの「ゴミ箱」にしては使用回数がやけに多い……。


 開いてみると、それは偽造した形で保存されていたデータファイルだった。俺は、「よし!」と叫びたいのを必死に我慢して、手に握っていたメモリをコンピュータへ差し込んだ。


 データはやはり、一目見ただけでは横領に関係ないものに見えるよう細工がしてあった。幸いにもそこまで複雑なものではないようだ。これを持ち帰り、解読しなくてはならない。


コピーが終わり、勢いよくメモリを引き抜いた俺は、コンピュータの電源を切った。メモリをスーツのポケットに入れ、その場を立ち去ろうとする。


 その時だった。


 ガチャリ、という音がしてドアが開いた。


 佐竹譲が、にやりと笑いながら部屋に入り、ゆっくりと後ろ手で、扉を閉めた。






・今出良悟




「なるほど。何か嗅ぎまわっているものがいると思っていたら、君だったのか」


 俺の背筋は、一瞬にして凍り付く。気付かれていたのか。陣野さんの密告? もしかして伊藤が? とてつもない速度で、疑問が頭の中を渦巻き続けている俺に、佐竹譲は続けて俺に声をかける。皮肉にもそれは、俺の疑問を解決してくれる内容だった。


「陣野君の様子が近頃おかしかったから、目を光らせてはいた。彼が念入りに予定を確認してきた今日は、何か嫌な予感がしてね。おそらく伊藤君が協力者で私を見張る予定だったのだろうが、彼には急遽、別の用事ができたみたいだね」


 その用事は、おそらく佐竹譲が下の人間に命令して作らせたものだろう、と容易に理解できた。


 俺は必死に頭を働かせる。何とかこの場を乗り切り、このデータを持ち帰らねばいけない。


「専務。勝手なことをしてしまい申し訳ございません。しかし、もう少し早くお戻りになるべきでしたよ」


「……」


「『ゴミ箱』に隠してあったデータは、私の携帯から既に伊藤へ転送してあります。あとは解読するだけですよ」


 もちろん、ハッタリだった。


 佐竹譲は、それを聞くと、ため息をついてこちらに歩いてきた。俺の言っていることが本当かどうか、コンピュータの中身を見て確認しようとしているのだろうか。


「よくしゃべるね」


 佐竹譲は俺の耳元で言った。いつの間にこんなに近くに来ていたのか、まったく気付かなかった。


「これだろう、取られたくないものは?」


 佐竹譲は、俺のポケットからメモリを取り出した。抵抗しようと思えばできる状況だったのに、彼の静かな殺気が、それをさせなかった。俺は、これまでにない恐怖を感じていたのだった。


 佐竹譲は、また俺から離れ、メモリを手で弄んでいる。取り返さなければいけないのに、どうしてもそれができない。


「私には、そんな虚言、通用しない。前にも言ったはずだ」


 入社面接のときの記憶を呼び戻そうとするが、脳がそれを拒否していた。


 どうすればいい? 俺の一番の武器は通用しなかった。かといって、彼から力尽くでメモリを奪う勇気は俺には無い……。


 ぐるぐると頭の中が熱くなってくる。そんな中で、佐竹譲の声が耳に入ってくる。


「そう言えば、そろそろ来る頃かもしれない」


 彼が何を言っているのか全く分からなかったが、俺はすぐにその意味を理解することになった。




「あ、開いてる。失礼しま~す」


 その「声」に、俺は思わず反応した。何故かは分からないけど、言葉にできない不思議な感覚が俺を襲った。


 部屋のドアを開けて入ってきたのは、外注している清掃業者の社員だった。名前は知らないけれど、社内でよく見かける三十代くらいの男性だ。どうやら社内を回り、ごみを回収している途中らしかった。


「あ、君。これを捨てておいてくれ」


 佐竹譲はそう言って、俺から奪ったメモリを、清掃員の男性に投げて渡した。


「おっとっと、あ、分かりました」


「社外に出たら良くないものだから、壊してから捨てておいてくれ」


「待っ……!」


 俺は清掃員を引き止めようとしたけれど、最後まで言葉を発することはできなかった。俺は一介の社員で、佐竹譲は専務だ。外部の人間とはいえ、どう考えたって、この場では彼の言うことを聞くに決まっている。


 清掃員は、今にも部屋を出ようとしている。どうにか、追い詰められている俺の立場をこの清掃員に伝える方法はないのか……。俺は考えた末に、やっと掴んだ答えを、どうにか口にした。




「フワモト……さん!」




 清掃員は、振り返った。彼も、佐竹譲も、不思議そうな顔で俺を見つめていた。俺は乾いた口を必死に動かす。


「それ、一つ上……の階に、持っていって捨てるといいと思います……」


「……分かりました!」


 清掃員は笑顔でそう答えて、去ってしまった。


しばしの沈黙の後で、佐竹譲が言った。


「君の知っている人だったとはね。だけど、よっぽど混乱してるのか? 自分で捨てさせたうえに、ここは最上階だぞ。一階上なんてない」


「……」


「悪いが、ここまでだ。これ以上何もしないのならば今まで通りに働くといい。ただし……」


 その先を、佐竹譲は口にしなかった。言わなくても分かるだろう、ということだ。


 また邪魔をしようものなら、彼はあらゆる手段を使って、俺を会社から追放しようとするだろう。横領の証拠を手に入れることに失敗した俺には、それに抵抗することはほぼ不可能だ。もう一度それを入手しようにも、彼もいっそう警戒するだろうから、さらに困難な道を進むだけだ。




 俺は、勝つことができなかった。




俺は黙って、部屋を後にした。伊藤に合わせる顔が無い。俺がしっかりしていれば、こんなことにはならなかった……。


ふらふらと階段を降り、自分のフロアに戻った俺は、どさっと音を立てて椅子に座り込んだ。どのくらいボーッとしていただろうか。俺は、伊藤の声で、我に返った。


「先輩!」


 伊藤は青ざめている。計画が失敗したことを悟ったのか、それともその責任を感じているのか。


 しかし、伊藤が口にしたのは、思ってもみない言葉だった。


「今さっきの、先輩がやったんすか……?」


「今さっきの? 何がだ?」


「データ共有ですよ、さっきの! 急に謎のデータファイルと、それを解析したものが、社員全員のコンピュータに共有されて……。あれ、専務の、例のやつですよね?」


 そう告げられて初めて気付いた。フロア全体がざわついている。データの不審さに、皆が慌てふためいている。


その様子は、これから起こるさらに大きな波乱を予感させるには、十分すぎるものだった。


「ふっ」


「先輩、何笑ってるんですか? 喜ぶのもいいですけど、これから僕たちめちゃくちゃ大変ですよ!」


「それはそうなんだけど。いや、通じてよかったなと思ってさ」


「? まったく分からないです」


 伊藤はそう言って、首をかしげた。


俺は、愉快な気持ちになる。


このデータ共有は、おそらくあの清掃員が、俺の思惑を察知してやってくれたものだ。


「シーザー暗号」。


伝えたい文字をすべて、辞書の順に数文字分ずらす、という世界で最もシンプルな暗号である。例によって俺は、『コネクト通信』で耳にしたから、その「知識」を持ち合わせていた。


俺は苗字を装って「フワモト」という言葉を発し、階数を装って、「一つ上」を表した。「フワモト」を「一つ上」にずらすと、「ヒロメテ」。


メモリの中のデータを広めてほしい、という俺の思いは、正しくあの清掃員に伝わっていたようだった。




 ラスボスを俺の代わりに倒してくれた名も知らぬ清掃員に、俺は心から感謝した。






・去来川守




 母は僕に対してこう言った。


「ごめんね」


 二年ぶりにその姿を見た母は、僕の部屋に入るなり、僕のことを抱きしめた。彼女は泣いていて、僕の服はすぐにその涙でぐしょぐしょになった。


 僕は、母の嗚咽が止まるまで、母を抱きしめたままじっとしていた。人の温かさが、素直に自分の中に入ってくるのを感じた。


 だんだんと落ち着いた母は、ゆっくりと、これまでのことについて話し始めた。


 僕がすくすくと育ち、良い高校、良い大学に入っていくのを見るのは、とても嬉しかった、ということ。またその度に、自分も認められたような気分になったこと。


僕が就職に失敗したとき、どうすればいいか分からなかったこと。


そのことで自分自身に責任を感じてしまっていたこと。


悩んで悩んで、何かにすがりたくて、宗教団体に入信したこと。


「今日、ある人に言われたの。私は逃げているだけだ、って。あなたがきっと、私のこと憎んでる、って」


 母の声は、涙に濡れて震えていた。僕は自分が言うべき言葉を、ゆっくり、だけどはっきりと言う。


「今まで、ごめん。母さんのこと、憎んでなんかないよ」


 母のことは、自分のために乗り越えなければいけない存在だと思っていたけれど、それは、僕が母のことを大好きだからこそなのだ。


 でも、まさか母の方から僕に謝ってくるなんて、思いもしていなかった。


少し拍子抜けした、というか、なんだか、いつの間にか他の人が、自分の倒すべき敵を倒してくれていたようなそんな感覚だった。


「あのね、守……」


 母が言おうとする言葉を遮るように、僕は頭を下げ、そして返事をした。いつの間にか僕も、涙声になっていた。


「うん、分かってる。また一緒に、生きてください。一緒に頑張ってください。お願いします」


母が泣いているのを見たとき、既に、僕は確信していた。


僕と母は、今からまた、前を向いてやり直していける、と。僕はこの部屋から、飛び立つことができる、と。


そうして僕たちは二人で、また泣いた。ひとしきり泣いた後で、母は少し笑いながら言った。


「まずは、この部屋を片付けることから始めましょうか」


 僕と母は、これまでの思い出についてたくさん話しながら、部屋の掃除をした。


片付けることは昔から苦手だったけれど、周りの環境が美しくなっていくのは、気持ちがよかった。


「清掃員になる、っていうのも、いいかもしれない」


 なんとなく、そう呟いていた。


「何か言った?」


「ううん、何にも」


「そう。さ、もうひと頑張りしましょ」


 そう言って笑う母の姿を見ると、勇気が湧いてくるのを感じる。




 ラスボスを僕の代わりに倒してくれたどこかの誰かに、僕は心から感謝した。

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