第20話 翼を砕く槍

「ヴェルディ! まだ飛べますか!?」


 健気な銀の鷹ステラアロウは返事をするように高く鳴いた。しかし、飛び方からも隠せない疲労が伝わってくる。宵喰には普通の生物と比べて圧倒的なスタミナがあるが、あまりにも強大な竜を前に、常にない緊張を感じているのだろう。もし竜の攻撃が掠りでもすれば、地上への墜落は免れない。


 反対に、レスティリアの攻撃は全く効果をあげられない。やはり、あの赤く脈動する核を狙わなければ勝機はないだろう。しかし、核に到達するには、竜の腹の下に潜り込む必要がある。


 放たれる鮮紅の光の矢を避けるのが精一杯で、レスティリアは一定の距離から近づくことができないでいる。ここは空の上。一度でも被弾すれば一巻の終わり、という緊迫感が精神を蝕んでいく。


(それにしても……なぜ熱線を放たないのでしょう?)


 街を半壊させた恐るべき【夜】の力。レスティリアはあまりに小さいため当てるのが難しいのかもしれないが、そもそも竜にそのような思考は存在するのだろうか。生命あるもの全てを喰らい尽くそうとするのが彼らである。


 レスティリアは必死に思考を巡らせる。​──ラドルファスに啖呵をきったのだ。彼は必ずやり遂げる。自分もそうすべきだ。よく考えれば、竜は上空を旋回するばかりであまり攻撃をしてこない。街にもだ。その上やけに苛立ったような仕草を見せる。ちっぽけな人など蝿程度にしか思っていないのか、それとも。


「…………!」


 瞬間、握りしめた翼砕の槍が引き寄せられるような感覚がした。レスティリアは視線だけを右に動かす。ヴェルディが気遣わしげな鳴き声をあげた。かろうじて低高度で何かが飛んでいるのが見える。竜が支配する領域に近寄る生物などいない。あれは間違いなくアーリィ​──では、それを操っているのは?


(まさか……サフィラさん? どうして……)


 確かに、サフィラの安全を考えれば、空に逃がすというのは名案に思える。だがそれはあくまで竜がいなければの話だ。【夜】がサフィラを発見すれば即座に攻撃を加えるのは明らか。あまりにも危険すぎる。


 考える間にも、槍の先端に灯る光は強さを増し、引き寄せられるような感覚は止まない。それだけではなく、ヴェルディからもわずかに引力が発せられている。竜の猛攻を凌ぐことに精一杯で気づかなかったが、サフィラからの強い引力のお陰でより鋭敏に感じられた。【影】の彼女と宵喰に共通するもの。それは​──


 苛立ったように首を振っていた竜が、突然咆哮をあげた。赤い核が点滅するように瞬き、分厚い霞を掻き分けて鮮血に似た光が延びる。六の翼をはためかせ、【夜】は空中でもがいているようにも見えた。まるで苦しんでいるかのような。やはり、東雲結界アストリアスは効果を発揮しているのだろうか。


 レスティリアはあまりの重圧に吐きそうだったが、覚悟を決めようと槍を強く握った。伝説に謳われる巫女が、竜からすれば小さな翼砕の槍でどのように戦ったのか。答えは単純だ。


「お願いします、サフィラさん、ヴェルディ。どうか力を貸してください……!」


 手の中の槍が生物のように脈動した。巫女の意思に従って、。一気に手の中の質量が増し、レスティリアは息を詰めた。比喩ではない。槍の先端、刃の赤い光が徐々に長く伸びていく。翼砕の槍の真の力は、【夜】の霞を貫くことではない。周囲の法力エンシェントを吸い上げることだったのだ。


 恐らく、東雲結界アストリアスと呼応しているのだろう。それと同時に凄まじい力の奔流が槍に流れ込むのが伝わり、レスティリアは寒気に身震いする。周囲の法力エンシェントを遥かに上回る力がサフィラ一人から流れ込んできていた。それも、尽きる気配がない。まるで大地から力を借りているかのようだ。


 槍は今やヴェルディを優に越える長さへと成長しており、未だ止まる気配がない。柄を握る手からは経験したこともないような、純粋な力が渦巻いている感覚が伝わってくる。勝てる、と初めてレスティリアは思った。今まで想像することすらできなかった、この【夜】に勝利するビジョンが見える。


 刹那、竜と目が合った。


 その瞳に浮かぶのは憎悪。夜の湖のように澱み、泥水の如く濁った憎しみ。生あるものへの果てしない破壊衝動。


 己の浅はかさを悔いる前に、身体が勝手に硬直する。息が浅くなる。防衛本能が必死に叫ぶ。早くこの脅威に背を向けろと。この瞳の届かない場所に逃げろと。レスティリアは必死にその衝動を抑えた。


 普通の人間ならば耐えられなかっただろう。しかし彼女には翼砕の槍があった。遍くすべてを飲み込む夜闇に、朝焼けの光は確かに輝いていた。太陽の光は、【夜】に怯えて生きる人々にとってまさに希望だった。レスティリアが握っているのは、希望そのものなのだ。


(だからこそ……私が恐怖に負ける訳にはいかない……!)


 赤い光が疾風を纏ってヴェルディに襲いかかる。健気な宵喰は滑るようにその間をすり抜けていく。竜は意に介さず、六翼を夜空に広げた。黒い皮膜が​朽ちていく。そこだけ時を早回ししたかのように、ぼろぼろと崩れていき​──朧げな光が代わりに宿る。青白く、炎のように揺れる光は、怖気が走るどうしようもない不気味さと、思わず手を伸ばしたくなるようなおぞましい誘惑を放っていた。


「…………ッ!」


 沸き起こる嫌悪感に、レスティリアは反射的に目を逸らしそうになった。なぜかは分からないが、あの光にはとてつもない冒涜を感じる。見てはいけない、と本能的に悟っていたのだ。


 光は時折波打ち、その度に異形の何かが見えるのだが、レスティリアはその「何か」に確たる名前をつけることができなかった。いや、脳が認識を拒んでいる。​


──古来から人々は、夜を恐れた。夜の闇を恐れた。後ろを振り返れば、今にも異形の怪物がこちらを喰らおうと息を潜めているのではないか。この闇の一歩先は、奈落に続いているのではないか。この竜はそれだ。恐怖だ。人間が等しく抱いている恐怖そのものだ。


 レスティリアが怯んだのを、竜は見逃してはくれなかった。巨大な顎の奥に見えたのは白い光ではなく、赤黒い奔流だった。


「ヴェルディ!」


 警告と同時に、【夜】から吐き出されたのは血のような光だった。夜闇を鈍く照らすそれの通った場所は、。空間はグラグラと揺らぎ、捻くれたようにも、真っ直ぐなようにも見えた。ヴェルディは咄嗟に翼を折り畳み、落下するようにそれを回避しようとしたが、わずかに間に合わなかった。宵喰の上で伏せたレスティリアの脇腹に、光が掠った。


「ぅ、ぐ……っ!」


 光は熱くも冷たくもなく、触れたのが分からないくらいだったが、脇腹には鮮烈な痛みが走った。見ると、その部分の服がぼろぼろと崩れ、腰に下げた朝露石のかすかな光に照らされた肌が、腐食するように黒くなっていく。レスティリアは即座に短剣を抜き、脇腹を自ら深く抉った。そのままにしておけばどうなるか分からない。


 ​──高位の【夜】はこれほどの力を持つのか。空間に干渉するなど、いくら【夜】でも異常だ。


 やるしかない。レスティリアは自分を鼓舞するように槍を掲げた。核に近づけば近づくほどに、放たれる光の矢は激しくなる。核を破壊する前に撃ち落とされるか​──よくて相打ち。


「ヴェルディ……ごめんなさい。いつもあなたたちに頼ってばかりで……」


 ヴェルディは優しく鳴いた。小さな頃から彼らと共に過ごしてきたレスティリアは、確かにこの宵喰たちと絆を結んでいた。その先は死地だと分かっているだろう。しかし彼は躊躇わない。最後の力を振り絞るように、竜の真下に滑り込み、核に近づこうと羽ばたく。


 呼応するように核から不気味な光の矢が放たれる。それはレスティリアを取り囲むように徐々に数を増していく。しかし彼女が焦ることはなかった。巨大な槍を振りかざし、薙ぎ払うように一閃する。


「ハアッ!」


 赤い光は見事に両断され、無害な残像となって背後に散っていく。【夜】由来の力は翼砕の槍で対抗できる。そう確信したレスティリアは懸命に槍を振るう。その度に光は断たれるが、近づくにつれ攻勢は激しくなった。避けきれない光が彼らを捉え始め、身体から血が零れていく。


 それでもレスティリアは諦めない。


(私はターラントの言う通り、お飾りの存在だった。自分は何もできないと思い込んでいた。でも違う。私には受け継がれてきた巫女の力がある。私にしかできない。私にしか……!)


 視界を埋め尽くすほどの禍々しい光の中、ラドルファスとの約束が頭をよぎった。​──例え死と引き換えだとしても。


 刹那、視界の端で、彗星のように何かが落ちていくのが見えた。


 赤い光は次々にあらぬ方向に向かい、竜は激しい怒りの唸りをあげて急激に高度を下げる。その先には、サフィラの乗るアーリィがいた。


(ここだ!)


 レスティリアは咄嗟にヴェルディから飛び降りた。凄まじい風が身体に叩きつけられ、息ができなくなるが、それすらも意識の外に消える。サフィラに接近したことで、法力エンシェントの供給は膨れ上がり、翼砕の槍は何十倍にも巨大化していく​──!


「はあああああああ​──ッ!!」


 渾身の力で翼砕の槍を振り下ろす。技巧も何もない、ただありったけの力を込めた一槍。


 それだけで十分だった。


 朝焼けの炎が灯る槍先が、【夜】の纏う霞を吹き散らす。竜の背の鱗を完膚なきまでに破砕し、それでも槍は止まらない。竜が断末魔の咆哮をあげる間もなく​──翼砕の槍は体を貫通し、心臓のように鼓動する核を砕いた。




















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