第5話 命と釣り合うものは Ⅱ
その後、シルヴェスターは自力で家まで戻ったものの、負った傷の治癒は遅かった。系統別に大きく三つに分けられる暁ノ法において、傷を癒す術は呪法に属するが、シルヴェスターが主に使うのは攻法、ラドルファスが得意とするのは呪法の中でも身体強化系統であり、深い傷を癒すのは不得手だった。
庭には相変わらず【夜】がやってくる。師の手を煩わせないように、せめて【夜】だけはラドルファスが相手をしていた。
最後の【夜】の核を真っ二つにしながら地面に着地すると、空はもう白み始めていた。まもなく夜明けがやってくるだろう。ラドルファスがほっと息を吐くと、サフィラがてくてくとこちらに歩いてくる。
ラドルファスは最後の【夜】の核を真っ二つにしながら地面に着地した。空はもう白み始めていて、まもなく夜明けがやってくるだろう。サフィラもさほど消耗していないようで、てくてくとこちらに歩いてくる。
「ラド、寒い。はやく家に帰ろう」
「ああ……」
サフィラに促されるまま歩き出す。ぼうっとしている事に気づかれたのか、彼女が顔を覗き込んできた。
「どうかしたの?」
彼女は不思議、というよりも心配しているようで、ラドルファスはここ最近考えていることを打ち明けた。
「……シルヴェスターのことなんだけど」
「うん」
「あいつは強いけど、とんでもない守銭奴だし、嘘ばっかりだし……でも俺を命懸けで庇ってくれただろ。信用していいのか分からない……」
直感で生きている節があるサフィラは、珍しく考えるそぶりを見せた。これまでの言動からすれば、彼女もシルヴェスターにはあまりいい感情を持っていなかった気がする。
「私にはむずかしいことは分からない……でも、彼の行動に思うところがあるならそう言えばいい。師匠と弟子なら、もっとお互い素直になるべき。そういうものじゃないの? それに、悪いやつは他人のために傷ついたりしない」
返って来たのは予想外の言葉だったが、ある意味サフィラらしいとも言える。彼女は世間知らずではあるが、人を観察する目には優れているとラドルファスは感じていた。鋭い意見にはっとさせられたことも一度や二度ではない。……自分の浅薄さがより恥ずかしい。
「もっと素直に……か。ありがとうサフィラ。お前の言う通りにしてみる」
「どういたしまして」
彼女は得意げに胸を張った。耳を覆うふわふわとした羽が風に揺れる。その子供らしい仕草を微笑ましく思いながら、扉を開けようとした瞬間。
「すみませーん」
心底驚いたラドルファスは、思わず短剣の柄に手をかけながら振り返った。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいました?」
そこに立っていたのは一人の女だった。長いぼさぼさの茶髪に黒い瞳、白衣を羽織っている。それ自体は概ね普通の出で立ちだ。重心や立ち姿からも、修練を積んだものではないだろう──だが、すぐ背後にいたにも関わらず、二人とも気配に気が付かなかった。
「この家の人です? なら、シルヴェスターって人のところに連れてってもらいたいんですけど」
ますます怪しいが、追い返そうとする寸前、今日は来客があると聞かされていたことを思い出した。
「あんた、薬師のノアか?」
「いかにも。そういうあなたはシルヴェスターの噂のお弟子さん?」
「噂かは知らないが、その通りだ」
先程の戦闘で少し汚れたサフィラを水浴びに追いやりながら、ラドルファスは答えた。とりあえず女──ノアをシルヴェスターの所まで連れていくことにして扉を開ける。
「知らないの? 何回連合にせっつかれても弟子を取らなかったシルヴェスターが急に、っていうんだからね。みんなあなたのこと噂してるよ」
そう言うなり、ノアはラドルファスの顔をまじまじと見つめた。その好奇の視線に耐えられず、青年は顔を逸らす。
「な、なんだよ……?」
「うーん、なーんか見覚えがあるなぁ……あなた、どこかで私と会ったことある?」
「ないな」
まったく身に覚えがなかったのできっぱり否定したのだが、それでもまだノアは首を傾げている。シルヴェスターが休んでいる部屋は家の奥にあるので、しばらく沈黙が続いた。願わくばそのまま黙っていてくれとラドルファスは念じたが、ほどなくして静寂が破られる。
「あー!」
「急に大声を出すなよ……」
「分かった! あなた、サイラスの息子さんでしょ! めちゃくちゃ似てるよ!」
「……!」
サイラス・ブランストーン。
その名前を他者から聞くのは久しぶりだった。師でもあった父が死んだのは四年前。今でもラドルファスは、その光景を鮮明に描き出すことができる──苦痛を伴うそれを忘却しなかったのは、刻み付けるためだ。あの日の自分がいかに愚かで無力だったか。そのツケを払うために、この先のすべてを懸けることを。
「そうだ。父さんの知り合いなのか」
「うん、昔ちょっとね。彼は優秀な夜狩りだった……残念だよ。まだ生きてれば
その仮定のあまりの無意味さに、ラドルファスはきつく唇を噛む。それを見たノアは何を思ったのか、僅かに口角を上げた。
「……いいこと教えてあげようか?」
「……?」
「あなたのお父さんはね、今までで一番大きな【夜】と勇敢に戦ったの。その【夜】はまだ狩られていないから、どこかで必ず再発生するはず。あなたの復讐相手は六翼の竜よ」
彼女はそれだけ言うと、返答の暇を与えずに突き当たりの部屋に入っていった。中から「ノックくらいしろ!」というシルヴェスターの文句が聞こえたが、ラドルファスはぱたりと閉まる扉を前に立ち尽くすしかなかった。復讐、という言葉はあまりに重く、しかしラドルファスは考えずにいられない。──本当にそれを自分が望んでいるのか。
◇◇◇
「別に門まで送らなくたっていいのに〜、何回か来てるから迷わないよ?」
「あんた、胡散臭いからな」
不躾な物言いにくすりと笑ったノアは、無駄に立派な門に手をかける。彼女は癒しの名手で、シルヴェスターの状態はかなりよくなったらしい。
「あ、そうそう、あなたの師匠によく言い聞かせといて。病人のくせに家に広範囲結界を張るんじゃないって」
「は?」
「え? まさか聞いてないの?彼、《極夜病》なの。私の薬が効いてるからなんとかなってるけどね。ま、とにかくよろしく言っといてね!」
ノアは内容に反し軽く告げると、ラドルファスが聞き返す前に去っていってしまった。まるで嵐だ。もはや恒例になってきた疲労感を振り払いつつ、シルヴェスターを問い詰めることに決める。
極夜病は不治の病として知られている。
夜狩りが戦うために必要不可欠な法力は、もともと人間の力ではない。その起源を解き明かそうとする研究者たちは、資料の少なさという壁に早々にぶつかることになった。二百年ほど前、【夜】に対抗するため生み出された暁ノ法は、その仕組みよりも実用的な記録ばかりが残されていたのだ。
研究者たちに唯一分かったのは、法力が人体には大きな負担となるということだ。本来身体に備わっていない外部の力は、肉体にある種の変化をもたらす。その許容量は個々によって違うが、稀に拒否反応とは違う症状を示すものもいる。それが極夜病だ。
一度発病すると永続的に頭痛、耳鳴りなどの症状が出始め、身体に【夜】の特徴が出る者もいる。最終的には暁ノ法を使う度に内蔵に負担がかかるようになり、夜狩りを引退せざるを得なくなる。ただ一生健康な夜狩りもいれば、一回【夜】と戦っただけで発病する者もいて、その差はよく分かっていないのが実情だ。
部屋にずかずかと踏み込むと、ベッドの上で分厚い本を読んでいたシルヴェスターが顔を顰めた。
「おい、さっきもノックくらいしろと言って……」
「あんた、極夜病なのか? あと、結界ってなんだよ」
急に突き付けられた問いに、流石のシルヴェスターも動揺を隠しきることはできなかった。
「……なんの話だ」
「ノアから聞いた」
端的に答えると、彼は読んでいた本をその辺に放り捨て、深いため息を吐いた。
「くそ、あいつ、余計なことを言いやがって……」
「どうして教えてくれなかったんだよ?」
「別にお前に言う必要はねえだろ。まだ仮の弟子だってことを忘れたか?」
言われてみれば、ラドルファスはまだ彼に認められていないのだ。確かに言う必要はないかもしれないが、極夜病に罹った後は極力暁ノ法を使わないことが推奨されている。病気の悪化を防ぐためだ。ノアの薬を飲んでいるとはいえ、これでは緩慢に自殺しているようなものだ。
「それは……そうだけど」
「で、結界だったか? 面倒事を防ぐために張ってただけだ。別に大したものじゃあない」
ラドルファスは彼の嘘を悟っていた。何十回も嘘をつかれれば、流石に癖くらい把握する。ノアが帰った後、改めて確認した結界はかなり大規模なものだった。少なくともラドルファスが同じことをしようとすれば、数分で息切れになるだろう。しかしそれを追求するより先に、シルヴェスターは話は終わりとでも言うようにこちらに向き直った。
「そんなことより、さっさとサフィラを回収してこい。どうせ水浴びにやったんだろ?家の中が水浸しになるのはごめんだぞ」
「分かった……」
心配だったが、サフィラについては同意見だった。ラドルファスは渋々頷く。
「ああ、出る前にそこの薬を取ってくれないか。高いから落とすなよ。六十五ルミアだからな」
背伸びをして瓶を掴み取ったラドルファスは、その言葉で危うく薬を落としそうになった。六十五ルミアあれば、ちょっとした家なら買える。改めて慎重に小瓶を持ち直す。中には澄んだ水色の液体が入っていた。
「六十五ルミアって……高すぎないか?」
「極夜病の治療薬なんて貴重なもの、そうそう手に入らないんだから仕方がないだろう」
シルヴェスターは薬を受け取ると、動物を追い払うかのように手を振った。さっさと出ていけということだろう。
シルヴェスターは薬を受け取ると、動物を追い払うかのように手を振った。さっさと出ていけということだろう。しかし、ラドルファスにはどうしても言っておかなければならないことがあった。
「……? おい、」
「悪かった。その怪我は俺の軽率な行動が招いたことだ。あんたが……」
──正しかった。そう続けようとして、ラドルファスはどうしても声が出てこなかった。この期に及んで、と自分でも思うが、シルヴェスターが正しいとするならば、あの男を見殺しにするほうがよかったと認めることになる。急に俯いた青年を見て、シルヴェスターは鬱陶しそうに長い銀髪を払う。
「……反省したならいい。連合を通じてお前に伝言が届いてる……助けてくださって本当に感謝している、とな」
「……!」
ラドルファスは喜びよりも、安堵に包まれていた。──自分のやってきたことは少なくとも無駄ではなかった。
「結果だけ見れば、お前は間違ってなかったよ。お前がいなきゃあの男は助からなかった」
波打たない湖のように静謐な声だった。その異様さに、ラドルファスは確信を得る。シルヴェスターは心からそう思ってはいるが……自分のやり方を変えることはないだろう。少数を取りこぼしたとしても、より大勢にとってリスクの少ない方法を取る。今回の一件を経て、ラドルファスもそれが正しいやり方なのだと認めざるを得なかった。しかしそうだとしても、彼のやり方は苛烈だ。
「シルヴェスター。なぜあんたは……そこまで割り切れる? 俺にはできない。例えその果てに死ぬとしても」
青いと揶揄われるかと思ったが、意外にもシルヴェスターはしばらく沈黙した。その翠玉が再びこちらを見据えた時、ラドルファスはどきりとした。瞳にはなんの感情も浮かんでいなかった。……まるで、努めて表情を消そうと試みたような。
「それは俺の台詞だ。なぜそこまで犠牲をゼロにすることにこだわる? ……そんなことは絶対に不可能だろう。俺からすりゃ、お前の方がよっぽど不可解だよ」
ラドルファスは大人しく、また家の中を彷徨っているのだろうサフィラを回収するべく水浴び場に向かった。忌まわしき【影】として幽閉されていた彼女は、まだ常識が分かっておらず、水浴びしたはいいものの身体を乾かさずに家中を歩き回ったりするのだ。そうなったら掃除するのはラドルファスなので、二回目は避けたい。とはいえ、結構長い間サフィラを放置していたので、水浴び場にはいない可能性も高いが。
「サフィラ、いるか?」
一応ノックして声をかけるが、何も返ってこない。耳を澄ますと、わずかに物音が聞こえる気もする……が、ここでいつまでも突っ立っているわけにはいかない。返事はなかったのでいいだろう、と扉を勢いよく開け放ったラドルファスと、ちょうど扉の前にいたサフィラの目が合った。
なぜか全裸の彼女の角にはシャツが引っかかっていて、ラドルファスは驚きのあまり彼女のしっとりと濡れた白い肌を見てしまい──言葉を失った。
少女の小さな身体は、大量の傷跡で覆われていた。裂傷、火傷、薄くなった打撲の跡……それが戦闘で負った傷でないことは、ラドルファスでも分かる。血の盟約を結んで少し経ち、サフィラは自らの過去をぽつぽつと話してはいた。
【影】は生まれ次第地下牢に閉じ込められ、灯火の燃料になる運命だった……と。この傷は、その間に【影】たちがどれほど非道な扱いを受けていたか何よりも雄弁に語っている。
「……ラドルファス?」
不思議そうな声で、ラドルファスはようやく自分が入り口に立ったままだったということと──サフィラの身体を凝視していたことを意識した。音が出そうな勢いで顔を背け、なんとか言葉を発する。
「お、おまっ、なんて格好してんだ服着ろ! 服!」
「着ようとしたけど引っかかって……私は別にこのままでもいい」
「俺がよくない! ちょ、ちょっと待て、こっち来るんじゃない!」
サフィラの身体を見ないように全力で目を背けようとする努力も虚しく、彼女はこちらに寄ってこようとする。
「どうして? ラド、待って」
「待たない! だから服を着ろっ!」
角に引っかかった服を着るのが面倒なのか、サフィラはそのままラドルファスを追いかけてきて、結局家中を追いかけっこする羽目になった。もちろん、シルヴェスターにこっ酷く叱られたが、これに関してはサフィラが悪いのだと異議を唱えたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます