20 衝動的な感情



「殿下、珈琲でも飲まれますか?」

「……いらない」


 気遣うように訪ねてきたクアイズを見ることもせず、机に突っ伏したままロイアルドは答えた。


 窓の外からは暖かな陽射しが降り注ぎ、のどかな鳥のさえずりが聞こえてくる。

 そんな穏やかな日常とは打って変わり、ロイアルドの執務室にはどんよりとした空気が漂っていた。


「まさか兄さんがあんな攻め方をするなんて、さすがの僕もびっくりだよ」


 窓際にあるソファに座り、声を投げてきたのはシュニーだ。

 珈琲を啜りながら、あきれたような顔をしている。


「だから、拗らせるとろくな事にならないって言ったのに」

「うるさい」


 弟の言葉を一蹴して、ロイアルドは昨夜の出来事を思い出す。


 ここ数日、自分の失態から彼女とは会っていなかった。

 あの木陰で衝動的にしてしまった行為のせいで、スーリアから拒絶されたのだ。会う勇気など持てず、彼女もまたロイアルドを避けているようだった。

 もう彼女のことはあきらめるしかないかと思いかけていた時、参加した夜会で、思いもよらぬ人に出会った。


 彼女がいたのだ。

 いつもとは違う豪華なドレスに身を包み、化粧をして、女性らしくおしゃれをしたスーリアが。


 しかも見知った人物の娘だという。

 どうやら身分を偽って、王城で働いていたようだ。


 驚きや喜び、さまざまな思いが一度に押し寄せてきたが、その時のロイアルドの心を占めていたのは、ただひとつの感情だった。


 ――彼女が欲しい。あきらめることなど、できない。


 それからは、己の欲望のままに行動していた。

 彼女を手に入れるために、手段など選んではいられなかった。


 しかし、妻になってほしいと言ったロイアルドの願いは、またしても拒絶される。

 それもそうだ。

 スーリアはもともと、ロイアルドを恋愛対象としては見ていないのだろうから。


 ただの気の合うお菓子をくれる友人、それがこの国の第二王子だったなんて知ったら、余計に近づきたくなんてないだろう。

 自分にどういう噂が流れているのかくらいは知っている。


「後悔してるの?」


 弟の言葉に顔を上げる。

 机の上を見つめながら、重苦しく口を開いた。


「後悔は、していない。でも、彼女には嫌われた……と思う」


 あの場で強引に宣言して、逃げ道を塞いだのだ。

 完全に嫌われていたとしてもおかしくはない。


 それでも彼女が欲しかった。

 どんな手を使っても、逃がしたくはなかった。

 こんな感情、初めてだ。


「変なところで強引なのはそっくりだね、僕たち」


 確かに、これでは弟のやったことに文句を言えるような立場ではない。

 ただの似た者同士だ。


 しかし要領のいい弟とは違って、自分はただ墓穴を掘っただけではないか。

 今考えれば、もっとやりようはあったはずだ。


 強引に婚約者に据えた上に、彼女に嫌われるなんて……


「最悪だ……死んでしまいたい――」


 負の感情が込み上げる。


 こんな馬鹿な自分は消えてしまえばいい。

 いいや、いっそ消してしまえ。

 そうすれば、彼女は解放される。


 そうだ、自分が消えれば――


「ちょっと兄さん、それ以上は――」


 兄を宥めようと、シュニーが慌ててソファが立ち上がる。

 その瞬間、ロイアルドの身体が光の粒子となってはじけた。


 一瞬の眩しさに、その場にいた者は目をつむる。

 気づくと、ロイアトルドが座っていた椅子の上で、大きな黒いヒョウが項垂れるようにお座りをしていた。


「あーあぁ……」


 額を片手で押さえながら、シュニーは困ったように息を吐く。

 黒ヒョウへと姿を変えてしまった兄を見て、シュニーはあきれを滲ませた声で言った。


「気持ちは分からなくもないけど、兄さんが死んだらその娘も悲しむんじゃないかな」


 背中を丸めて俯いていた黒ヒョウが、顔を上げた。


「言ってしまったことは仕方がないんだから、どうやったらその娘に好かれるか、まずは考えてみたら?」


 弟の提案に、黒ヒョウは考え込むようにして視線を彷徨わせてから、小さく頷いた。

 弟なりに慰めてくれようとしているのだろう。


 黒ヒョウの様子を見て、シュニーは側にいた兄の副官へと視線を向ける。


「クアイズ、兄さんの予定は?」

「本日は特別な任務はありませんが、明日はバース伯爵がお見えになる予定です」

「となると、明日までに戻る必要があるか……」


 スーリアの父親であるバース伯爵は、王家の呪いについて知っている人物だ。

 事情を話せば日を改めてもらえるだろうが、いつ戻るかはロイアルド本人にも保証ができない。


 ロイアルドの呪いは、発動にも元に戻るにも感情が引き金になる。


「生理現象で呪いが発動する僕からしたら、羨ましいかぎりなんだけどねぇ」


 呪いの発動に関して、シュニーは間違いなくロイアルドより苦労しているだろう。

 弟にそう言われてしまっては、返す言葉もない。

 元より今の状態では、言葉など口には出せないが。


 とりあえずはいつものように、あの場所で人に戻れるか試してみるしかない。


 ロイアルドは後ろ脚で椅子を蹴り、目の前の執務机を飛び越えた。

 そのまま窓の方へと歩いていく。


「兄さん、何をす――」


 弟の声を無視して、器用に手と口を使って窓を開けた。

 そして、そのまま外へと身を乗り出す。


「ちょっと、ここ三階……!」


 鍛えられた体と、獣の柔軟性を生かして軽やかに着地する。

 黒ヒョウ時の動きについて、数々の訓練をこなしたロイアルドには、ある程度高さのあるところからの飛び降りなど朝飯前だ。


 執務室の窓を振り返ると、シュニーがあきれた顔で見下ろしていた。

 それを一瞥して、庭園へと駆け出す。


 正直なところ、今の精神状態では戻れる気は全くしない。

 彼女にしてしまったことを考えると、気は沈む一方だった。


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