17 塞がれた逃げ道
「しかし、スーリアおまえ……」
ヒューゴがなんとも言えない表情で、スーリアの胸元を凝視している。
「いつもサイズの合わない服を着ていたのは、それを隠していたのか?」
スーリアは今まで、ヒューゴの前では大きめの服ばかり着用していた。
それと言うのも、既製品だと胸のサイズが合わないのだ。オーダーメイドであればサイズを合わせた服を作れるが、価格が上がる。
洋服に興味のないスーリアからすると、そんなものにお金を使うのであれば、新品の庭具を買い揃えたいという気持ちが勝った。
結局胸のサイズに合わせて既製品を購入するため、私服のドレスはサイズの合わないものが多くなる。
ヒューゴの前でも大きめの服を着ていたので、そのことを言っているのだろう。故意に隠していたわけではないが、結果的にそうなったのは事実だ。
どう返事をしたものか迷っていると、ヒューゴは小さな声でぽつりともらす。
「……もったいないことをしたな」
この男は容姿でしか他人を見られないのか。
はっきりいって嫌悪感しかない。
スーリア本人の前で言うのもどうかと思うが、隣にいる新しい婚約者にも失礼だろう。
シェリルに視線をやると、彼女は頬を膨らませながら上目遣いでヒューゴを見て言った。
「ヒューゴさま、シェリルだって負けてませんよぉ」
舌足らずな甘い声を出しながら、彼女はヒューゴの腕を取り、自分の胸元へと引き寄せる。
急に引っ張られたからか、ヒューゴがバランスを崩した。
「シェリル、危なっ――」
咄嗟に態勢を立て直そうとしたヒューゴの手から、ワイングラスがこぼれ落ちる。
手を引かれた勢いで、そのグラスはシェリルの反対側にいたスーリアの方へと、吸い寄せられるように落ちて行った。
スーリアには一連の流れがスローモーションのように見えていた。
このままいけば、確実にあのグラスの中身がドレスを濡らす。そうなったらこの会場から抜け出せるだろうか、なんてやましい考えが頭を過った。
実際には一瞬にして、脳内に思考が駆け巡る。
スーリアの望み通り、赤いワインがドレスに染みを作ると思われたその瞬間、勢いよく腕を後ろへ引かれた。
「っ――!?」
勢いのままに倒れ込みそうになったスーリアの背中を、男性の腕が支える。
同時に、ワイングラスが床に叩きつけられるけたたましい音が、会場内に響き渡った。
グラスが砕け散る床を、赤いワインが濡らしていく。
その光景を茫然と見つめていると、頭上からほっとしたように息を吐く音が聞こえた。
「大丈夫か? 咄嗟に腕を引いてしまったが、怪我は――」
かけられた言葉は途中で途切れる。
聞き覚えのある声に、ゆっくりと後ろを振り向いた。
そこで、大きく見開かれた銀灰色の視線とぶつかる。
「スー……リア?」
喉から絞り出すように紡がれた声の主は、紛れもなく――
「ロイ!?」
予期せぬ人物に、思わず大きな声でその名を呼んだ。
割れたグラスのことなど一瞬で頭から消え去り、目の前の人に釘付けになる。
「どうしてあなたがいるの!?」
勢いよく尋ねると、いつもの黒い隊服とは違うグレーの礼服を身にまとった彼は、その瞳に驚きを滲ませたまま、たどたどしく言った。
「君、こそ……なぜ、ここに?」
動揺が伝わってくる彼の声に、スーリアははっと気づく。
ロイは高位の貴族のはずだ。彼が王宮の夜会に参加していても何もおかしくはない。
むしろ、おかしいのはスーリアの方である。
彼の中でのスーリアは平民だ。
よほどの後ろ盾がない限り、平民がこの夜会に参加することは難しい。ただの小娘が、そんな資格を持っているはずがない。
これでは、完全に嘘をついてましたと言っているようなものだ。
ここは素直に謝るべきかと口を開きかけると、少し離れたところから名前を呼ぶ声がした。
「スーリア、大丈夫か!? ロイアルド殿下、娘を助けていただきありがとうございます」
全身の毛が逆立った。
――父は、いま、なんて?
「フロッド、彼女は……スーリアは、君の娘なのか?」
フロッドというのは父の名前だ。
なぜ彼が父の名前を知っているのか。
「ええ、そうですが、なぜ殿下が娘の名前を……?」
親子揃って似たような疑問を抱く。
だがそれよりも、もっと重要なことを耳にした。
その呼び方は、まさか――
「でん、か……?」
スーリアの口から、音がこぼれる。
その声は、目の前のロイアルドと呼ばれた青年にしか聞き取れないほど、とても小さなものだった。
銀灰色の瞳が細められる。
彼は父の質問には答えず、柳眉を寄せて、苦い顔でスーリアを見た。
ロイアルドが何かを紡ごうと口を開きかけるが、それよりも早く、周りからひそひそとした喋り声が聞こえ出した。
「ねぇ、あの娘。いま殿下のことを愛称で呼ばなかった?」
「わたしにもそう聞こえたわ。随分と砕けた口調で話しかけていたようだけど」
「あの冷酷王子にあんな態度で接するなんて……あぁ恐ろしい」
気づくと周りには人だかりができていた。
グラスの割れる音で、人が集まってきてしまったらしい。
二人の会話が聞こえていたのか、皆口々に疑問を浮かべ、訝しむような視線を向けてくる。
スーリアの身体が小さく震えだした。
現実がだんだんと脳に浸透してくる。
――ロイアルド
そうだ。確か第二王子はそんな名前だった。
記憶の片隅に残る、王族の情報を引き出す。
――第二王子はとても冷酷で、他人を寄せ付けない性格をしている。
ロイがアレストリアの第二王子、ロイアルド殿下。
スーリアのよく知る彼と、第二王子のイメージは全く一致しないが、いま置かれている状況からしてこれは間違いないのだろう。
そんな尊うべき人物に、今まであんな馴れ馴れしい態度で接していたなんて……
「も、申し訳ありませんっ……わたし――」
彼の顔を見ることができずに俯く。
身体の震えは酷くなり、全身から血の気が引いていくのを感じた。
恐怖から立っていられなくなり、ふらりとその場に倒れそうになる。
足の力が抜け、床に尻もちをつきそうになったスーリアの背中を、目の前にいた青年が支えた。
それを見ていた人々から驚きの声がもれる。
「お、お離しくださいっ……」
振りほどこうともがいたが、ロイアルドの手がしっかりとスーリアの腰を掴んで離さなかった。
「殿下っ……」
「その呼び方は、好きじゃない」
「え……」
この期に及んで何を言っているのか。状況を考えてほしい。
そう思うスーリアを無視して、ロイアルドは父に向けて言う。
「フロッド、今日は娘の伴侶を探しにきたと言っていたな?」
「え、ええ。そうですが……」
父が頷くの確認してから、彼はスーリアの若草色の瞳を覗き込む。
その銀灰色の瞳に、強い意志を宿して。
「スーリア……すまない。俺は、君をあきらめきれそうもない」
言い終えるのと同時に、彼はスーリアの脚の下に手を差し入れ、横向きに抱き上げた。
「っ――!?」
声にならない悲鳴がもれる。
やたらと騒がしくなった人だかりに向かって、彼は芯の通る低い声で言った。
「静まれ」
その一言で、場の空気が一変する。
観衆の視線が、スーリアを抱えるロイアルドへと注がれた。
「彼女は俺の婚約者だ。どんな口のきき方をしようと問題はない」
その場がしんと静まり返る。
彼の言葉は観衆へと向けられたものなのか、それとも腕の中にいるスーリアへと向けられたものなのか。
「なっなにを言っ――」
反論しようと声を上げたスーリアの耳元に、彼が顔寄せる。
そして、スーリアにだけ聞こえるような小さな声で言った。
「今は話を合わせておけ」
状況的にここでスーリアが否定するのはまずい。
それは理解できたので、納得はできないがとりあえず黙ることにした。
スーリアが大人しくなったのを見て、ロイアルドは歩き出す。
彼が進む方向にいた人だかりは、自然と道を開けた。
そのまま会場の外へと移動し、廊下を進む。
後ろを追ってきた父が、ロイアルドに声をかけた。
「殿下、詳しく説明してもらいますよ」
「……分かっている」
彼は気まずそうに答えた。
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