疎にして越え難きもの
@SyakujiiOusin
第1話
遺された難所越え 疎にして越え難きもの
百神井応身
序章
不帰キレットは北アルプス後立山連峰にある日本三大難所の一つである。白馬岳(天狗ノ頭)から唐松岳に至る尾根の途中にあり、ここを抜けるには登山上級者でも4時間半から5時間ほどかかる長丁場である。狭義には天狗ノ頭から急坂の「天狗の大下り」を降りた付近を不帰キレットと呼ぶが、難所はむしろここより南側となる。
特に厳しいのは不帰嶮二峰と一峰の間付近であり、ほぼ垂直な崖を鎖を頼りに登り下りする。
白馬岳の尾根道に一人の老婆が大きな岩に腰を掛けてあたりを眺めていた。年齢的にみておよそその場には馴染まないのであるが、傍らをときおり通り抜ける厳重な足拵えで身を固めた登山者は、それに全く気付いていないようであった。
尾根道の斜面の片側には濃紫色の鳥兜の花が折からの強風に揺れ咲き、その斜面の更に下には雪渓が大きく残っている。尾根道の反対側の斜面は歩きようがないほどのガレ場を為し、遠く南の海上で発生したという台風の影響か、突風が吹き抜けていた。
この先に進めば不帰のキレットに至るその細い尾根道を、さしたる装備もしない姿で若いとしか見えない男が歩を進めていた。
その軽装備を咎めだてするのだとは思えぬ口調で、老婆が声をかけた。「そなたは何百歳になられるのか?厳しいキレットを越えて何処に行きなさる?」
問われた若者は足を止めて「おばば、ほんの息抜きで山にきただけのことで、さしたる目的はない。実体化して歩いているわけではないのはいらざる迷惑を他人にかけないようにしているためだけのこと。その私が見え、何百歳かと尋ねるところをみると、私とご同様の境遇と思って宜しいのか?」
「そなたにこの年寄りが見えるということであればそうかも知れないが、そなたのように深い闇を負っていることでもない気楽な者じゃ。百鬼どのと名乗っておられるようじゃが、死ぬに死ねない命というのは苦しかろう。その昔に白起大将軍と呼ばれていたと承知するが、そのころの責めを一人で負うのは並大抵のことではあるまいに。」
遠く秦の時代に白起と呼ばれる将軍がいた。そもそもは軍人ではなかったが起用されるやたちまち頭角を表し、連戦連勝して一度たりとも戦に負けたことがなかった。趙との戦いでは敵軍の将兵65万人を撃破し、その余勢をかって敵城邯鄲を攻め落とそうとするところまで行ったが、秦の王朝はそれを許さず帰国することを命じた。
帰国した白起に待っていたのは謀反人の汚名であった。それは秦の王の側近にある佞臣たちが、絶大な戦功を挙げた白起が自分たちの栄華を極めている地位を脅かすことを恐れ、王に讒言したからである。
曰く白起大将軍の名声は人民に轟きわたっていて、王を凌いでいる。「王は人民の頂点に君臨するものであり、それを凌駕する恐れがあるのは謀反である。」としたのである。白起は秦の国の為に粉骨努力したのであり、野心など持ってはいなかった。戦国の世を平定することが平和を齎すと信じていたのである。
実績が突出すれば妬みをもって足を引っ張ろうとする者が必ず現れる。王が暗愚であれば、みすみす彼らの口車の餌食となる。
帰国するとなれば降伏させた趙軍捕虜たちの食料はない。それでなくても長い遠征で、自軍の兵糧も尽きていたのであった。このため捕虜を打ち捨てるしかなかったのだが、後にこの時のことに絡み、捕虜を20万人生き埋めにしたとの悪評を立てられることになった。ちょっと考えただけでもそんなことをしている余裕などなかったと解る。第一、そんな残忍なことをする将軍では自分の兵たちの信頼さえ失い、軍を統括できないのである。
謀反の汚名を着せられたとき、それを不満として叛乱を起こせば秦王朝に代わって自らが王となることはできたが、白起はそれをすることなく、自分が多くの命を奪い過ぎたことの報いだと、従容として王命に従い自決した。
しかし、何を思ってのことか、天は白起を死なせなかった。それどころか永遠の命を授けたのである。
天は一体なにをさせようとしたのであろうか。中国大陸は見限るしかないが、近接する朝鮮半島に人類文化を打ち立てられる可能性は低いことは明白であったから、本来の生国である弥生時代の自国に立ち戻るしかなかった。
過酷な神に対するに、何が望まれてのことか判らないまま、その後の流離が始まったのだといえる。人は義を為す者に対し妬み心の軛から人心を開放することは難しい。ともすれば功績が評価されるべき人が恨みを残して追放されてしまうことの方が多いのだ、ということを嫌というほど経験したのである。
日の本に戻ってからの彼は、自らが表立って何かをしたことはないし、誰かに仕えるということもしなかった。しかし、志半ばで恨みを残して死に至り、後に悪霊として恐れられることで神として祀られることになった人格神の殆どに関わっている。
悪行をなせば天罰をもって報いをうけるのだということを広く知らしめ、自らを戒めることのできる民を増やそうとしたのであったのかも知れない。
もとより全てに目が行き届いているとは言えないことは承知の上で、その時々に目に付いた悪行に対し、ことの大小にかかわらず天罰を与えることにしたのである。
高所に立ってあたりを眺め、悪を認めると、そこから天狗のように舞い下って罰を与えるのであるが、一罰百戒を旨としたから容赦はなかった。
人は常に正しい行いをしているわけではない。ときには悪事も働く。そんなことは言われるまでもないこと。ただ、それが私欲の為だけに捉われ周りは無視して構わないとする考え方で生きていたら、世のためにはならない。
法の目を掻い潜って罪を逃れ、得をしたと思っていても、それが免罪されたわけではないから、悪事を認識した者は一生怯えていなくてはならないことになった。自分本人が知っているのであるから消しようがない。
一見恣意的にさえ見える白鬼の所業を、神が咎めることは一切なかった。意に背くことなのであれば、白鬼の命を断てば終わることなのにである。
まずは菅原道真である。平安時代の貴族であり、学者・漢詩人・政治家として知られる。幼少より学問に優れ、書では「三聖」と称されるなど、類まれなる才能の持ち主であった。
藤原氏全盛の時代に右大臣まで登り詰めるなど、政治家としても傑出した実績を残し多くの人々から厚い信頼を得ていたが、時の左大臣・藤原時平の讒言により謀反を企てているとして、無実ながら京都から大宰府に事実上の流罪に近い左遷をされることとなった。
菅原道真を追いやった首謀者の一人である中納言・藤原定国は、突然眼前に姿を現した白起により断罪され、恐怖とともに41歳の若さで急死した。続いて醍醐天皇に直訴するため裸足で駆けつけようとした宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根が雷に打たれて死亡した。
その頃になると、それらは菅原道真の祟りだと恐れられ始め、左遷に追いやった張本人である藤原時平は、39歳の若さで加持祈祷の甲斐なく病気が悪化、菅原道真の祟りに怯えながら狂い死にしてしまったといわれている。
それに止まらず、時平の命を奪ったと噂された道真の霊は、その後ますます猛威を増し、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂には醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至る。
源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に、乗っていた馬ごと底なし沼にハマって行方不明となり、醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで急死、その保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう)が今度は僅か5歳にして死亡するに至った。
これらにより、醍醐天皇は道真を右大臣に戻し、正二位を追贈する詔を発するとともに、道真追放の詔を破棄することにしたが時すでに遅しということか、それでもなお台風・洪水・疫病と災厄は収まらなかった。
延長8年6月には、あろうべきことか内裏の清涼殿に落雷が発生する事件が起き、多数の死傷者が出ることになった。その際に即死した藤原清貫は、かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を命じられていたこともあったことから、これはもう完全に菅原道真の祟りだと誰もが信じ、益々恐れられることになった。
落雷の惨状も凄まじく、直撃を受けた清貫は衣服を焼損し胸を裂かれた状態で即死した。
こうして、菅原道真を左遷を企てた者やそれに加担した者は、天皇といえどもその祟りから免れることはできないのだと噂されるに至った。
藤原氏一族で唯一人、藤原時平の弟である藤原忠平だけが菅原道真に同情の念を寄せていて、励ましの手紙などを時に送っていたこともあり、祟られてはいない。
これだけ関係者が死亡してしまうということになると、因果関係がやはりあるのではないかと思ってしまいがちだが、菅原道真が実際に呪いの言葉を残した事実はないのだとされている。
しかしこれにより、理不尽な理由で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加えるのだという認識が当時の人々の間にすっかり定着してしまったということになる。
それはそれで良かったのかも知れないが、喉元過ぎれば何とやら、人はすぐに忘れて同じ愚を繰り返す。
一見死んだと見える白起は、埋葬されることすら許されず、無残にも荒野に打ち捨てられた。それが良かったのか悪かったのか判らないが、肉体が朽ちずにいたことが永遠の命として復活することになった原因ではある。
雨曝しの遺体を守る少女がいた。その少女の祖父が白起に仕えていたときの恩義を多とし、孫娘に語っていたことを覚えていて、遺体の傍らに付き添って離れないでいたからである。
息を吹き返した白起に気づき甲斐甲斐しく世話をして、貧しい中で自分に与えられていた僅かな食べ物を、自分は我慢して白起の口元に指し出したのである。何日も食べていない白起はさぞかし空腹であろうと、幼いながら考えたのであった。
「これはそなたの食べ物であろう。私はものを食べなくても平気な体となっているから、そなたが食べなさい。」と言うのに対し、頑として聞かず、両手で差し出して譲らなかった。
「ではこうしよう」といってその握り飯を半分にし、その大きい方を少女に渡し、その場で並んで食したのである。
「そなた名前は何という?」「凛と申します。」「そうか、これで別れることに相成るが、凛のことは決して忘れぬ。この先はそなたのことを見守り、助けが必要となった場合は必ず現れてこの恩義に報いよう。」そう告げ終えると、忽然としてその場から姿を消した。爾来その約束が破られたことはなかった。
2270年余を過ぎてなお何をするために生き永らえさせられているのか解からずに来たが、守らねばならない血統を護持しなければならないからではないかと思い始めていた。守らねばならないとするのは、民の行く末の平和を祈ることを使命として祈り続ける家系。自らに関わった少女の家系をまもってきたのは、それをよすがにその延長線にある重大な神の系譜の遺伝子を持つ者を護り通せということであったのかも知れない。自分の命より忠を重んじた気概が認められたということではなかっただろうか。
その当時の西洋には自分たちの民族以外は獣として見做し、自己中心的な考え方をすることを是とする者たちがいたのである。
まだ幼い少女が、人里離れた森の木々を掻い潜り、奥へ奥へと進んでいた。しばらくすると木漏れ日が降り注ぎ、その光が溜まって池のようになっている小さな広がりが現れた。母を突然の交通事故で失い、祖母に引き取られて日が浅い少女の慰めの場であった。光の泉から両掌でそれを掬いあげあたりに群れ咲く花々に振りかけると、それは光の粒となってきらきらと輝きながら一面を煌めかせた。
一人で留守番をしていた少女に、時空を超えて最後の別れを告げに来た母から残された「お母さんはもうあなたと一緒に暮らすことはできなくなるけれど、決して泣かないで、これから先を明るく生き抜くのよ!」という言葉を守り、人前では健気に笑顔を絶やさないでいる少女からのせめてもの手向けの花であった。
まだ幼い少女が、人里離れた森の木々を掻い潜り、奥へ奥へと進んでいた。しばらくすると木漏れ日が降り注ぎ、その光が溜まって池のようになっている小さな広がりが現れた。母を突然の交通事故で失い、祖母に引き取られて日が浅い少女の慰めの場であった。光の泉から両掌でそれを掬いあげあたりに群れ咲く花々に振りかけると、それは光の粒となってきらきらと輝きながら一面を煌めかせた。
一人で留守番をしていた少女に、時空を超えて最後の別れを告げに来た母から残された「お母さんはもうあなたと一緒に暮らすことはできなくなるけれど、決して泣かないで、これから先を明るく生き抜くのよ!」という言葉を守り、人前では健気に笑顔を絶やさないでいる少女からのせめてもの手向けの花であった。
少女はこの地に移り住むようになって初めて、水色とか空色とか、茜色とか、静かにわたる風の音とかを体感として知るようになっていた。
それまでそれらを知らなかった。
上空から見ている白鬼にとっては慙愧に堪えぬことであった。何代にもわたり見守ってきた娘の子孫を悲しみの淵に追いやってしまったのである。
流石の白鬼といえども煽り運転をする無法者は見定め難かった。それにより、少女の母は心を残しながら落命したのである。
長時間に及ぶ執拗な煽りと、それに飽き足らず幅寄せを繰り返されたのである。避けようとしてハンドルを切りすぎ、ガードレールに激突して裏返しに転倒してしまったのであった。助かる筈がない。男はバックミラー越に見て救助もせずに走り去った。目撃者もなかったからバレなかった。
「悠(はるか)ちゃん、帰りが遅いから心配で探しに行こうかと思っていたところよ。夕ご飯にしましょう。」優しいお祖母ちゃんの声が出迎えた。あの白馬岳の尾根道に居た老女であった。悠の祖母でもある。
やりすぎると妬みや恨みを買い身を亡ぼすことを、白鬼はその後も嫌というほど見てきた。平清盛は、やりすぎた。本人がそれを望んでいたかどうかは別にして「平家にあらずんば人にあらず」という流れを作ったことは、恨みを買った。後白河法皇は源氏と平家を繰ることで自らの権力の安泰を図ろうとしていたことを理解していなかったのかも知れない。
平家が滅びた後も、法皇の狙いは義経と頼朝と奥州藤原で三分割することで政治を操ろうとしていた。
権謀術策に長けた公家の手管など思いもしない人のいい義経は、そのような真意を見破れなかったから、頼朝との確執を招くに至った。一之谷・屋島・壇ノ浦の戦いでの勝利で人気絶頂の義経が、官位を得て、しかも奥州の藤原氏とも誼を持つことを頼朝は許さなかった。兄に背く気なぞ毛頭なくても、やりすぎると疑いを持たれることになったのは、白鬼と同じであった。彼は、ここには何の介在もせず見ていただけである。朝廷が己たちの権力争いをしているだけだったとしたら、日本の国が2千数百年も続くわけがない。民草の平安を祈り続けることを担う系譜を守り続ける役目は絶えることなく在った。
祈りの根本を司るのは祟りではない。神に繋がるものは、常に祈っていた。
神仏や怨霊(おんりょう)などによって災厄をこうむることが祟りである。罰(ばち)・科(とが)・障りと同義的に用いられることもある。「山の神の祟り」とか 行為の報いとして受ける災難であるとされ、「悪口を言うと、後の祟りが恐ろしい」などのように使われる。
しかし、「祟」という字は、「出」と「示」からなり、もともとは神が出てきて、雷や洪水など何らかの現象を起こすことであり、人間にはそのために祭るように示すということを意味している。突然大きな災害をもたらすということはなく、小さな変化を起こすことで、気づきを促がしているのである。
崇めるとは、崇高という字が示す如く、けだかく尊いこと。また、そのさま、と辞書にはあるが、美的概念も加わるようである。
「崇」は、そもそもが高い山の意味である。「祟」とは文字が違う。
鬼と怨霊は違って当然である。
鬼の「お」は、奥深いところにあるもの。「に」は圧力になるもの。
尋常ならざる力をもってはいても、人の身近に存在するものであって、悪魔とは違う。西洋でいうところの悪魔は、絶対神として並び立つ言うならば黒い神ともいうべきもので、どちらが神として崇められても不思議ない存在である。
白鬼は、その蘇った姿を自分を陥れた者たちの前に現しただけで、彼らは恐れ戦き自滅したから、怨霊になったとは言えない。
日本には悪魔というものはいない。念が凝り固まってそれが人に害を及ぼすようになったものを怨霊と呼んだが、その霊を神として祀ることで鎮めた。しかもその家族まで神として祀ったということは、個を大事にしたのではなく縦横の繋がりも重要だとしているのである。気づかないでいる人が多いが、八百万の神々も個々に存在しているのではなく、親子兄弟夫婦としての牽連関係を持っていることに照らし合わせてみても不思議ではない。
戦国時代の血腥い争いは経験したが、それによって恨みを残して怨霊となった者はいない。人に優れた実績をあげた者が、後に神として祀られてはいる。
長い命を与えられた白鬼は、何をすべきか解らないまま、世の流れを見ていた。どうやら日本は、時の権力者として力を振るう者とは別の流れがあるというのは判ってきていた。それは人の安寧を祈る祭祀としての役割を担った系譜であり、いずれの時代もそこを侵すことは決してない者たちが表に出て争い合っているだけのように思えた。
信長は、悪逆非道が咎められ、非業の死を遂げたことになっているが、放置すれば伝承されてきた国体が破壊されて、南蛮の侵略を招きかねないと危ぶむものが諮らうことで排除されるに至った。
桶狭間の戦いに臨み、天下の警察たる弾正家という家柄の誇りの為、死を賭して今川義元に挑む出陣前に舞ったという敦盛は、信長の心中にある敦盛への美意識の共感を表わしたものであり、それを見た家臣団が奮い立たないわけがなかった。勝利の後に明確にしだした「天下布武」というのは、武力をもって天下を制圧するという意味で使われるが、「武」は「たける」と読む。竹のようにまっすぐにただすということである。その理想を前面に打ち立てたから、まだもののふの本分を忘れていなかった武士たちは、共感して従ったのだと思う。ただ急激に膨らむその勢力は、多方面からの誤解を招いた。
秀吉は、その国体が宣教師を先鋒にして侵略を諮っている多民族の動きがあることを見破り、宣教師の追放をしたのであり、侵略を目論む者たちが明国を足掛かりにしようと考えていることも判断できたから、唐入りを選択したのである。決して耄碌しての戦略ではなく、世界の情勢を見極める情報を確かに持っていた。
家康は、鎖国によって強大な戦力を温存し、他国との争いを避ける方策を選んだに過ぎない。遠くから見ていると、それがよく解った。
時代時代の覇者は、護らねばならない底流を見誤ることはなかったということになる。
明治維新を経て、世界の情勢を身近に感じられるようになったとき、アジア諸国の殆どは植民地であった。そこに組み込まれてしまった民族は人として扱われず家畜同様であり、それまでその民族が築いてきた文化を根本から破壊され。支配者は資源を簒奪することは勿論のこと、彼らの望むものを生産することを優先したから、農作物もそれまでにないものを作らせた。圧倒的武力を背景にした強制力の前には、被支配者は従わざるを得なかった。
我が国もそのようなものに組み敷かれる恐れは十分にあったが、それは営々として培ってきた国体からくる底力によってかろうじて逃れることができていた。それでもこのまま安閑としていれば、他の東南アジア諸国の轍を踏むに相違なかった。
虎視眈々とその機会を狙う西欧諸国に対抗するには、近代化を急ぎ、独立自尊を貫くためには無理を重ねざるを得なかった。
その気になって力を合わせれば、それを可能にする素地は元々あった。維新を成功させたのもそれである。あまりにあたりまえ過ぎて意識すらしていないが、先人たちは何を為すにも合議が行われ、衆議一決することが普通であったことを見過ごしてはならない。祭りもそうだし災害からの復活もそうだし他藩との戦も、事前にすべて納得いくまで話し合われた。自分だけが良ければということは通らなかった。
それは十七条の憲法というのがあって、日本人の生き方の根底を貫いてきていたことによる。それは身分の上下を問わない合議であった。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
一行目だけが突出してとりあげられ、協調性が大事であって、人に逆らうようなことがあってはならないと解釈されて広まっているが、「忤」は「逆」ではない。人に逆らうという意味ではなく、道理に反することのないようにという意味で解釈するべきである。
人は基本的に徒党を組むもので、また悟りを得ているような人は殆どいない。すなわち未完成な人が多い。よって、君子や父に従わない者がでてくる。
しかし、上下関係がよく調和していれば、議論してもうまくいく。
そうすれば道理が自然と通じて、どんなことでも達成できるのである。人の意見に逆らわないことや、自分の意見を言わないことを推奨しているわけではない。大いに議論せよというのが趣旨である。その際には、道理に従って議論しなさいということである。つまり、和とは空気の支配を作り、長いものに巻かれろ的な状態の中で一部の人間の意見だけが出され、その意見に沿って物事を決めるのではなく和らぐの状態を作って皆の意見を聞きながら物事をちゃんと決めなさいと言っているのである。
「和を大切にし人と諍いをせぬようにせよ。人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世に理想的な人格者というのは少ないものだ。それゆえ、とかく君主や父に従わなかったり、身近の人々と仲たがいを起こしたりする。しかし、上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう。」と言っているのである。
「群臣や百寮は人をうらやみねたむことがあってはならない。自分が人をうらやめば、人もまた自分をうらやむ。そのような嫉妬の憂いは際限がない。それゆえ、人の知識が自分よりまさっていることを喜ばず、才能が自分よりすぐれていることをねたむ。そんなことでは五百年たってひとりの賢人に出会うことも、千年たってひとりの聖人が現れることも難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたらよいであろうか。」ということである。
人の世のことがよく解っていた。
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。に如実に現れている。
この考え方が飛鳥時代から戦国時代を越えて受け継がれ、江戸時代幕末を経て維新を為す原動力となったのは、侃々諤々議論を交わしたところにあったというべきである。「広く会議を興し万機公論に決すべし」5か条のご誓文にも繋がった。
近代化は想像以上に早く進み、有色人種としては初めて、一見押しも押されもしない地歩を固めるに至った。一つの成功事例と言える。日清・日露戦争も、世界の予想を覆して勝利を収めるまでになっていた。
しかし、そのことによる過信はなかっただろうか。維新の中心的役割を果たした藩出身の者たちが、他の意見を押さえ込む風潮が狂いの元になったかも知れないのである。
植民地支配をする白人たちの掲げる自由・平等・博愛が論理的に成り立つ筈もなく、遅れて出てきた共産主義は民衆の犠牲なくして適うものではないことを、必死で独立を勝ち得ようと考えてきた志士たちは見破っていた。
東南アジア諸国には白人国というものはない。原住民が皆殺しとなってその土地を奪われたか、或いは混血が進んでしまったということもない。
スペイン・ポルトガル・イギリス・オランダが植民地にできそうな国を探し回って悪逆の限りを尽くし始めた頃、少なくとも秀吉の時代から徳川3代将軍が鎖国政策をとるまでの間、彼らの暴虐を阻んでいたのは日本であった。その成功事例は、日本側の記憶にも色濃く残っていた。植民地支配に阻害要因があるとしたら、それは日本であるという意識が植民地支配を続けようとする彼らにも残っていた。
日本を封じこめない限り、安閑としてアジア諸国から富を簒奪できないといことであった。経済封鎖が続けば日本は疲弊し、大義の為に立つ前に機会は失われる瀬戸際に立ってもいた。
解放を目指し先頭に立とうとして掲げた理想は高くとも、大東亜の独立を果たすには、まだそれら諸国の地力は非力すぎたのであるが、自国が為せたことで判断力を見誤ってしまっている者たちを、我が国はまだ非力だと議論で説得できなくなっていた。如何に神国と雖も、国是を軽んじたら力が及ばなくなる。
洋の西に神からの系譜を自負する民がいたが、民族としてはバラバラになっていて、中心となって纏まりを持てる体制はなかったから頼りにはならぬ。
仮令敵わぬまでも、座して死を待つには誇りが高すぎた。
敗戦後の天皇とマッカーサー元帥との会見において、「私は、はじめて神のごとき帝王を見た」と言わしめた覚悟というものは、連綿として続いていたのである。
「日本国天皇はこの私であります。今回の戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されてもいつでも応じるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住にご高配を賜りますように。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部にあてていただければ幸いであります」と陛下はおおせられて、大きな風呂敷包みを元帥の机の上に差し出されました。
マッカーサー元帥は、天皇に戦争責任がないことをこのときまでにはすでに認識していた。
それで、元帥は天皇の訪問の目的が自分自身の保身、すなわち命乞いであろうと思っていた。ところが驚くべきことに、その天皇陛下が絞首刑になってもいいから国民を救ってもらいたいと言われたのである。
戦後の日本は、連綿として続いてきた良き文化を全て古いもの悪しきものとして捨て去ったが、それは精神構造をも破壊してしまったのではないかと虞る。他文化に浸りきっていた者たちが、自分たちが唱える正義に不安を覚え、最も恐るべきものがそこにあると考えたことによるのだと思えてならない。
それが強かったあまり、反日的日本人を使ってまでして、古来から定着していた日本の文化は徹底して封じ込められた。
白鬼は、神に繋がる祈りを絶やさずに続ける国体を護持するためにだけに意識を働かせて動いた。戦勝国側にも祈りを続けてきた祭祀の働きを感じ取れる指導者が数多く居たから、それらの意識に入り込むことができた。
しかし、失われたものは大きい。大震災などが起こると突然のように蘇る日本の美徳が、広く行き渡るにはまだまだ時間が必要に思える。一歩一歩小さな積み上げから始めなおすしかない。
まずは人のつながりである。
白楽天に「慈烏夜啼(じうやてい)」という長い詩がある。
慈烏其の母を失(うしな)い
唖々(ああ)として哀音(あいおん)を吐く
声中告訴(こくそ)するがごとし・・・・・
未だ反哺の心を尽つくさずと(慈烏は育ててくれた母を亡くし、カァカァと悲しげに鳴く。その声はまだ恩返しができないと訴えているようだ)と詠んだ詩である。
慈烏(じう)とはカラスのことである。このことから、烏はカアカアではなくてコウコウ(孝行)と鳴いているのだとする。
八咫烏のように、神話や伝説に登場するカラスは、太陽と密接なかかわりを持っていることが多い。カラスを太陽の使いと位置づけるのは、世界各国に共通している。
朝、夜明けとともに人里に現れ、夕方日暮れとともに山へと去っていくカラスは、古代の人々の目には太陽の使者として映っていたのかもしれない。
決して外見の醜さだけをもってして判断していない。
中国の仁義礼智信忠孝悌(じんぎれいちしんちゅうこうてい)も、よきものとして日本でも取り入れられ定着した。否定すべきものとは思えない。
「渇しても盗泉の水は飲まず」という言葉がある。学校で教えるわけではない。家庭での躾けの一環である。
良い水に恵まれた我が国においては、盗泉などということは考えにくい。それこそ「湯水のように」という表現がある通り、水を飲みたいと告げれば、誰でも喜んで饗するのが普通であった。
そんな中でも、武士には士道が、官吏には吏道という自己を律するものがあって、命がけでそれを守ったのだと思う。他国の文化であっても、良いものは良いとして汲み取り、発展させてきた。それは多民族国家として存在した縄文時代から変わることがなかった。
日本人が我に返って立ち上がることなくして、世界の平和は望めまい。
人が知らず知らずのうちに美を求めるのは、魂に磨きをかけるためである。それが神の望みであるからであろう。然るなれば、乗り越えられないような困難が与えられる筈がない。苦難と思えるような事態に遭ったとき、それは成長のための試練なのだと捉えて努力するようになっていたのが、古来からの日本人である。身分の上下、携わっている仕事に関わらず、日々のたっきの中で学び取るものであった。
それに至る教えはたった一つ「お天道様が見ている」ということであった。
困難から逃げ出し楽をすることを選んだ者は闇に沈み、励むという領域にできた隙間に魔がとりついた。魔に憑りつかれた者には救いがない。必ず、身内に在る神によって裁かれる。誰にも気づかれないで済むということはない。
裁きは極めて原始的な同害報復というものによることになる。目には目を、歯には歯をという大昔の刑罰をもって匡すのは、自らが知っている罪を説明なく納得させうるからである。それなくして人としての規律を守れなくて、気づいたときは既に遅いということでは情けなさすぎる。しかし、そうせざるを得ない事例も多発している。我がことだけを重要視すればそうなる。
幼児を極寒のベランダに放置したり、育ち盛りの十分な食料が必要なときに餓死せしめるなど、それがどんな苦しさを伴うかは想像するまでもなく判る。人の親たることが理解できないとしたら、生き物たり得ない。
悠の母親を執拗な煽り運転で死に至らしめた男が乗る暴走車が、高速道路を疾走していた。以前に事故を誘発したときの車からは乗り換えていたが、行いが改まることはなかった。今日も前方を走る車に身勝手にも腹を立て、追い回していたのである。
しかしふと気づいてみると、後方から自分の車が煽られている。見覚えがある車であった。自分が乗っていて事故の痕跡を隠すために廃車にしたものとそっくりであった。自分がされていることに狼狽し、必死で躱そうとしたが、後方の車の運転技術ははるかに勝っていて、自車をコントロールできなくなっていた。分離帯を突っ切り、反対車線の路肩に激突して横転した。車中に身動きもできない状態で、激痛に死の恐怖が迫っていた。車窓から見えた人影に向かって絞り出した言葉は「助けてくれ」であった。その人影は、白鬼であった。
「この光景に見覚えはないか?」それを聞いては絶望するしかなかった。
「私は人の生き死にに関わることはできない。そなたは生き残れるかもしれないが、一生悔いて過ごすことになろう。」一罰百戒の一助くらいにはなろうが、きりのないことであることは判っていた。世を導きうる者が現れるしかない。
「小父ちゃん、何か怖いことをしなかった?私は心配いらないわ。立派に育ってみんなに恩返しできる自信があるの。」
都の塵も通い来ない大沢に抱かれたこの地は、美徳を襲う者たちが埋もれずに数多残っていた。縁あってこの地に来た悠は、末頼もしい生き方をする環境に恵まれていた。
白鬼は、驚天の一大事でも出来しない限り、黙って見守るだけの世界に閉じこもることにした。
日傾き暮色も尽きれば天地清々
軈て闇に沈む
暗きは拭うに儚し
山の端紅らみ日輪昇らば光箭放たれ
闇を払って美徳現るべし
第二章 萌芽
歴史を学ぶということは、何年何月に誰が何をしたかということを知るためではない。
そういう事態がなぜ起こったかということを知らなければ、人類の発展に関しての学びは得られない。即ち、良いとか悪いとか恨みだとかを論じ合っていたら、何も得られないということである。
ともすれば自分たちに都合がよいように主張したくなるのは解らなくもないが、結果が悲惨であったものであれば猶更、事実を冷静に検証しなければならない。神がどのような判断をした結果なのかは伺い知れないが、誤解を招きかねないけれど、乗り越えられない試練は決して与えないという摂理を信じれば、日本民族はそれができるとの信頼度があったのかもしれない。
知ると知れるには違いがある。知るは知識の段階であり、知れるというのは取捨選択が済んでDNAの中にまで組み入れられたものか、或いは自然に体得するに至ったものであるから、知恵として働くようになる。
原爆投下は、戦争を早く終結させるためだったと流布されているが、そんなわけはない。日本を殲滅させたいという意識が働いていなかった筈がなく、それが目的で開発された兵器は、使ってみたくて仕方のない勢力があっても不思議はない。マンハッタン計画の公式発表では「我々は二度の原爆実験に成功した。」と言っているのである。「実験」によって、広島では20万人、長崎では14万7千人もの無辜の民が犠牲になったのである。戦争の趨勢はもはや見えていて、それを使わねばならない必要性は全くなかった。
用意された原爆は17発であった。原爆投下を研究する地域を次のように選定していた。
東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保。
日本本土の上陸作戦の暗号名はオリンピック作戦と名付けられ、作戦に向けての被害状況を算出していた。終戦までの米軍戦死者は4万人と推定、43年5月にはアメリカ側は太平洋上のトラック島に集結中の日本艦隊が目標とされていた。日本に対する目標決定は、万が一失敗してそれが回収されても、日本側には技術的な開発能力はなく、また報復攻撃の心配は全くないと判断していた。
選考の基準は、軍需基地があり、住宅があり爆発の威力が十分発揮され、その成果が観測可能であること。対比可能な条件である為、被害が今までにない都市であること。広島は捕虜収容所がないため第一目標に選ばれた。被害は一般民衆に対しても多大であることは最初から判っていたのに、それは無視された。
何をどのように言い繕おうと、国際法を無視し人権を蔑ろにしたことへの忸怩たる思いは消せまい。それでも我が国はそれを咎めだてることで留飲を下げるような選択はしなかった。やるだけやった後の潔さがあった。
世界で原爆を経験したのは日本だけである。現在存在する核兵器が全部使用されたら、一体何回世界が滅ぶだろうといわれるくらいの量があるが、日本以外で使われたことはない。
焼け残った地に復員してきた兵たちも、海外から引き揚げてきた人々も、懸命になって国の復興に尽くした。日本の報復を恐れて、日本の古来からの美徳を抹殺しようと試みる必要はなかった。
世界における王朝は、代が変わればそれ以前の時代のものは全否定されるのがつねである。日本もそのようになりかけたが、開闢以来脈々と積み上げてきた善なるものは、人々の意識から拭い去ることなく残ったのである。
復興の為にすべてを忘れてということではない。厳然たる事実に対し泣き言を並べ立てる前に、国の為に黙して乗り越えようとの覚悟の臍を決めたから、貧しさに負けることなく、行いは清々しかったのである。
気づいてみれば、世界で唯一、同盟を結んでまで協力関係を持てる信頼関係を築けるのは日本だけであるということになっているのだろうが、日本の考え方は昔から変わっていない。神を体現しようとしてきた民は、イデオロギーでとやかくできる国ではない。
ただ、焚書まがいのことまでして抑え込んだ日本の美徳がそのまま残っていたら、もっとスムーズに世界の平和を目指すことはできたであろう。
日本が失われてしまったそれらを取り戻すには、日時がかかりそうである。
敗戦により国際法を破ってまで押し付けられた憲法とはいえ、日本人は戦争を放棄することを受け入れた。
1907年の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(以下「1907年ハーグ規則」)は第43条で、占領者に「絶対的ノ支障ナキ限リ占領地ノ現行法律ヲ尊重」することを求めており、日本国憲法の制定をはじめとする法制改革は、これに抵触するのではないかという疑義は早い段階から提起されていたが、それは触れられないまま進んだ。
しかし、さすがに自衛権まで奪うことはできなかったように思えるが、それすらも近年まで放棄しているに等しいのが国内世論の主流であった。国民の生命財産を守ることまで他人任せにしていては、滅びるしかない事態は起こりえるが、口にはできない問題として残っている。
日本が主権を回復した1950年代、日本はまたもや第五福竜丸への水爆実験による被曝を経験した。反核・反米感情の増幅を怖れ「原子力の平和利用」をアピールしたい米国と、エネルギー資源を求める日本の利害が一致し、1955年に米国が日本に研究炉と濃縮ウランを供与する「日米原子力協力協定」が結ばれた。
この頃から日本の原子力政策は、反対運動が激化する中、使用済み核燃料を再処理し、取り出したプルトニウムとウランを再利用する「核燃料サイクル」を根幹とするようになった。たくまずして神の配剤というのが働いていたのかもしれない。日本が核兵器を造ることはないにしても、将来的には強烈な抑止力として働く。プルトニウムは核兵器に転用できる。
1968年、民間に原発事業の門戸を開く目的で日米協定を改定した際、日本が米国産の核燃料を原発で燃やし、その後に出る使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを生成するには「米国の同意が必要」と定められた。これ以降、日本の原子力政策の根幹部分で「生殺与奪の権」を米国が握るようになったが、それでも実際には日本で備蓄されている。日本のプルトニウムの最新の保有量は、およそ45.5トンに及ぶ。核兵器6000発分に相当し、それは米国にとって核不拡散・セキュリティー上の重大な問題だとはいいながら、他国には信頼して預けられるような国はあるまい。日本だけがそれにこたえられる。
日本は原爆を持たなくとも、もし日本を核攻撃したら、その結果飛散する核物質は世界中に多大な被害を及ぼすことになることは明白であり、日本がその気になれば1週間で原発200発を製造する能力があるのだということを持ち出すまでもない。現実的に迂闊には手出しできない国となっているのである。
軍事力などの直接暴力でどうにかなる世界は遠のき、善なる精神エネルギーが世を満たすのが待たれているのだ。一度は壊滅的な状態にまで戻されても、何千年にもわたって積み上げられてきた精神世界は、きっと復活すると見込まれてのことであった。
富を求めることは悪いことではない。ただ、それを何に使うかということである。貪って独り占めしたものが長続きすることはない。個人のことだけなら大したものは要らない。起きて半畳寝て一畳、腹いっぱい以上には食べられない。美食を重ねても糖尿病になるのがせいぜいであろう。
与えられる厳しい試練に当たっては、古来からの知恵を思い出せばよい。
苦しい時の神頼み 神様だけが助けてくれる。努力しないでも楽して乗り越えられるなら、苦しくはない。
神に向き合おうとしている者たちは、宗教家ではないから信者は要らない。神につながる能力を磨いているのだと思い出せばよい。神というか宇宙の何か偉大なる意志、それを無意識のうちに共有できる者たちが増えれば、世界は変わる。
極東の地から救世主が誕生すると予言されて久しいが、弥勒の御代が生れませるというのが太古からの決め事であり、未だ目覚めてはいないだけで、そのための試練を乗り越えるべく励む者が集まっている国なのである。
悠は学校に通うようになっていた。その地域では弓月様とよばれて尊敬されている祖母に慈しまれ、周りにも良い人が集まるようになっていた。近在には身内に神を感じとれる者が揃っていて何くれとなく世話をしてくれるから、のびやかに育っていた。
日本語には現在で使われているような「愛」という概念はなかった。それが入ってきたのは明治以降で、キリスト教文化の影響であるとされる。
日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい 、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさまを意味した。
日本人は感情を露骨に表すのははしたないと考える民族であるが、だからといってその感情が弱いということは決してない。強く表現するかどうかといったらそうではなく、柔らかく婉曲的に表現する。美しいと感じたら「美しい」と言わずに美しいことがわかるように表現する。それが日本人の特性である。
愛という言葉そのものがなかったということではないが、それを露骨に言うのを避けたという奥ゆかしさの方が重んじられ、どちらかといえば、慈しむの方を使った。
「慈しむ」とは「愛情を注いで可愛がること」を意味する。大事に思い愛情をもって深くいとおしむことを指す。相手をいたわり育てるという意味も持ち合わせている。
「慈しむ」は平安時代に使われていた言葉「うつくしむ」が、時代の影響で「大切に祭る」という意味の「いつく(斎く)」へと連想され、それが「いつくしむ」へ語形変化して生まれた言葉だと言われている。心情の根底に美があるのである。
人類を滅ぼしかねないウイルスが世界に蔓延している。感染者が増大していてもマスクすらしない民族というのがある。着用することは鬱陶しいことには違いないが、自分が感染しないようにすることだけが目的ではない。自分が感染源となったら他人にも迷惑をかけるのだという意識が持てなければ、個人の権利の方を優先させる。
残念ながら空は曇っていた。霾晦(ヨナグモリ)とは黄砂のこと。風流と現実は違う。唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先にという昔からの風習は、鳥インフルエンザを乗り越えるための知恵であった。
中世のヨーロッパでは東ローマ帝国など地中海沿岸を中心とした一回目の流行で一億人以上、ヨーロッパ全体を席巻した二回目の流行では約二五〇〇万人という多くの命を奪い、その感染力と致死率の高さで恐れられていた。
100年前、全世界で流行したスペイン風邪は、電子顕微鏡もない時代であり、原因は分かっていなかったが、後にインフルエンザ・ウイルスであることが確認された。スペイン風邪と呼ばれるが、大陸にあったウイルスが原因とされてもいる。第一次世界大戦中にヨーロッパに持ち込まれ、全世界に広がった。当時の世界人口 18 億~20 憶人の 1/3 以上が感染し、2000~5000 万人が死亡したとされている。 我が国でも 1918 年 8 月下旬からスペイン風邪流行が始まり 11 月には全国的に大流行となった。内務省衛生局が「流行性感冒予防心得」を公開し、「咳やくしゃみをすると目に見えないほど微細な泡沫が周りに吹き飛ばされるので、病人や咳をする者には近寄らない」、「たくさんの人が集まっている所(芝居、活動写真、電車等)には立ち入らない」、「咳やくしゃみをする時はハンケチ、手ぬぐい等で 鼻・口を覆う」ことが重要であるとした。これらは現在の「咳エチケット」、「三密を避ける」と 全く同じである。
目に見えない病原菌が原因で、それが他国から持ち込まれたことを推定しても、それを責め立てる方向には向かわず、協力して感染を防ぎ乗り越えようということに意識を向けたのが、そこまでに育っていた民度であった。
悠は穏やかで人を和ませる話し方をする。それは聞いただけで幸せな気持ちになる。体の周りが柔らかな光に包まれるようになってきていて、周囲に集まる者たちも健全に育ちを続けていた。
ウイルスに限らず目に見えないものが攻撃性を持つと、人類にとっては脅威である。
空気がそうであるが、氣というのも目には見えないけれど、それを意識に捉えられることで感じ取れる世界というものは確かにある。日本人の持つその能力は脅威であった。宇宙の意志と繋がるそれは、支配する側には不都合であったからである。非科学的で迷信であるとして封じ込めたかったのだろうが、実体験を有する者に対しては説得力をもたなかった。
元氣・病氣・氣持、人間を動かす根底にあるものであり、エネルギーを意味するものである。最近つかわれるようになった気とは違う。
感覚というのは、理解の領域を超えて身に入ってくるものである。言霊というのはそういうものの中から信じられるようになっているのである。
病気にばかり意識を向けていれば病気になるし、不平不満ばかり口にしていればその種は尽きない。力を誇示して争いごとを好めば嫌われるだけである。意識エネルギーのどこにチャンネルを合わせているかによって世界は違ってくる。
残念ながら、人の世は善意を持つものだけで成り立ってはいない。支配することを目的とする者たちが他方に居る。その時に使うのは巧妙に考えられた恐怖という手段であり、善人は簡単にその宣伝に乗って誘導されてしまう。
洗脳されたに等しい彼らは自分がそれに従って動き、剰え他人にもそれを強い口調で強いる。権利だと言い張るのが常で、世が混乱しても斟酌しない。
日本は多民族に打ち滅ばされてしまったことがない。勿論民族が入れ替わってしまったこともない。気が付いていないだけで、何らかの縁を互いが持っている。
祭りは神を敬うところからきているというが、疫病退散を協力して図ったという側面がある。互いが信じあえる関係になくては重い神輿は担げない。神主のあげる祝詞は、民をお説教するようなものではない。そんなことは改めて言わなくても誰もがわかっているから、互いが和める言葉の羅列である。親しみを増すための知恵が古来からあったのだということになる。
具に探してみるまでもなく、悠の住んでいる地には、倶に天を戴かずというような諍いの荒ぶる心を秘めた者は居ない。それどころか全く逆で、和みの円やかな氣を無意識のうちに広げようとしていた。万天空に夥しい星が瞬き、挙って悠たちの行く末を見守っていることを告げているかのようであった。
自分たちだけの天下を作ろうとする者たちは結束して秘密結社をつくり、陰に隠れて手先を使嗾し、それらを使い捨てにする。自分たちは決して傷つかず、旨い汁を吸い続ける。
第三章
因果は巡る風車
原因があるから結果があるというのが宇宙の法則である。結果に影響を及ぼすのが縁。悪因が悪果を呼ぶのがカルマと言われるものであろうが、悪因をいつまでも抱え込んで手放さないでいれば、やがて縁に触れて悪い結果に結びつく。
善因が善果を齎すのも同様であるが、悪果が現れるのに比べれば時間がかかる。カルマに対しダルマと呼ばれる。七転び八起きというが、善なるものであれば、何度でも立ち上がることができる。円運動ともいえる。
この世に生まれ出ることになった意味というか役割に気づく者は少ないが、人それぞれに必ずそれはある。
人は必ずオーラを身に纏っている。最初のうちは小さいが、我がことのみでなく他人にも幸せをもたらす行いを積んでいると段々にそれは大きくなる。それは誰にでも見えるものなのであるが、精神性ということを意識しないで暮らすうちに見えなくなってしまった。
しかし、それが隠しようもなく備わった人は、信頼され敬われた。
西洋で言えばエンジェルハイロウ、日本で言えば光背と呼ばれるものである。
人はそれぞれに生まれついての才能を持つ。誰もが同じものであるというわけではなく、当然のことながら個人差がある。それは自然に自らの生き方に影響を及ぼす。その能力を伸ばして人類の繁栄のために役立てられる人は少ないが、それが無い人はどうなのかということになる。
その能力がない部分で自分がそれを身につけようとすることは、決して無駄とは言わないが、努力の方向が違う。えてして無用な争いや妬みの原因となって、あたら尊い精神性を傷つけてしまう。自分の役割はそれらの才能を認め褒めることなのだと理解し、互いが褒めあうようにすれば光背は育つ。それは遠くにあるものではなく身近にあるものがより重要である。そのためには接触することを避ける方がよいものもあれば、交わりを深めた方がよいものもある。行いを謹んでいれば自然にわかってくる。
黒い衣を纏い大きな鎌を携える死神というのは恐れられるが、死神というのも神であるから、生を全うし新たに生まれ変わる魂を、優しく導く役割を持ったものであると解るから、絵に描かれたようなものは違うのだと判ってくる。
地震・台風・疫病と、人間では対処できないものがでてきたら、聞いても教えてはくれないかもしれないが、素直に耳を傾けて学ぶしかない。そうやって困難を乗り越えてきたのである。
おまじないというのがある。人智を越えるものであると判断したときに、経験的に頼りとしたことでできあがった知恵である。
「まじない」と「のろい」は同じ文字を当てるが、呪というのは元々「祝」と同様に、祭壇の前で神に祈りを捧げるという意味で用いられたものだといわれる。そうは言っても「おまじない」なら良いが「のろい」となると扱いが違ってくる。
旁の「兄」という字は兄弟の兄ではなく、頭の大きい人を表しているのだという。兄は祭壇の前で祈りをささげる頭の大きい人、すなわち神主あるいは祭主を意味していることになる。口偏は人が神前で祈りを唱えている状況を表す。
幸いを祈る場合には、「祝」を用いるが、この場合の「ネ」は祭壇などを表している。「示」は、お供え物をのせる三宝を意味したり、神を祀る場所そのものを意味する。祭壇に跪く姿を「祝」とし、口から発せられる祝詞そのものが「呪」と考えられてできた文字であろうが、それがいつの間にか「呪」は敵に打ち勝つための言葉と変わり、やがて人を傷つける言葉「呪」となって分離されていった。「祝」は良いことを「呪」は悪いことを祈るといったように使い分けられるようになったということになる。
子供の頃の「おまじない」といえば、物事がいいほうに運ぶためのものであった。
口に出すと、その瞬間から言葉はエネルギーを持って独り歩きする。それだけに使う言葉には気を付けなければならない。「人を呪わば穴二つ」といわれるように、それは必ず自分に返ってくるからである。
士は己を知る者の為に死すというが、まさか命を投げ出してまで尽くすというわけのものではない。信頼関係を築くには、まず相手のことを知り、認め、敬うということから始まる。ともに目的に向かって生きることに悔いがないという境地はそこから始まり、人の世を豊かにする。
そのような素養を生まれながらに備えている者は少ないが、身近にそれを身をもって示す師という存在に縁を得ることは、誰にでも用意されている。自分のことのみにとらわれ過度な競争心に陥ると道を見失う。甚だしきは、悪を悪とも認識できなくなる。恨みごとや不満が原動力の主体となってしまったら、人として生まれた甲斐がない。他人を批判してみたところで他人を自分の思うようには変えられない。自分の機嫌をとるのは自分しかないから、よりよい自分であろうとするなら、自分を自分が認められるような生き方をするしかない。
そうすることで殆どの苦難は乗り越えられる。仮に乗り越えられなくったって良いではないか。決してその努力は無駄にならない。それが信じられた人は何事かを成し遂げる。
それらを妨げるのが赤い竜である。違う意志の働きのもとにあり、古来よりそれらとの鬩ぎあいが人の世を苦しめてきた。
悠がこの地に引き取られて住むようになると、祖母である弓月は悠を連れて近所にある鎮守の森に案内した。
さして大きな杜域を構えているわけではないが、木立の中に佇む社は苔生し神寂びて神々しかった。
「あなたのこの先をずっと護り導いて下さることになる神様に先ずご挨拶しておかねばなりません。ひと様とのお付き合いもそうですが、お作法ということは大事なことなのです。
鳥居は神様のおわす本殿から見て一番外側にあるものが「一の鳥居」、本殿へ近づくことに「二の鳥居」「三の鳥居」と順に数えます。数が増えるごとに本殿に近づき、鳥居内がより清浄な空間へとなっていくのです。鳥居を潜るごとに、一礼するのですが、参道でのお作法は、中央を避けて歩くことです。参道の真ん中は「正中(せいちゅう)」と呼ばれ、神様の通り道とされているからです。
参道の脇には「手水舎(てみずしゃ・てみずや)」があり、神様を詣でる前にここの柄杓の水で手と口を清めます。これを「手水を取る(使う)」と言い、穢れを落とし心身を清める禊の儀式を略式にしたものです。
最初に柄杓に受ける一杯分の水ですべて行います。
1. 右手で柄杓を持ち、左手を流します
2. 柄杓を左手に持ちかえ、右手を流します。
3. 柄杓を右手に持ちかえ、左手に水を受け、口をすすぎます。
4. 左手をもう一度流します。
5. 柄杓を縦にして、最後に残った水で柄杓の柄を流します。
身を浄め終えたら神前に進みます。賽銭を入れるのは願い事の前にします。神様へ供えるものなので、投げつけたりせず丁寧に差し出します。鈴やドラは、この時に一緒に鳴らします。鈴やドラの音にはお参りに来たことを知らせ、お祓いや神様を呼び招くなどの意味があるので、お祈り・願い事の前に鳴らすのです。
その後に神様へのご挨拶をすることになります。これを拝礼と言い、拝礼の基本となる作法が「二拝二拍手一拝(または二礼二拍手一礼とも言います)」です。
1. 神様へ2回、丁寧にお辞儀(二拝)します。
2. 胸の前で両手を合わせ、軽く右手を手前(下)に引いて、手を2回打ちます。(二拍手)
3. 胸前で両手を合わせ、お祈りや願い事をします。
4. 神様へお辞儀(一拝)します。
以上が基本的な拝礼の作法です。
作法はまず心ありきのものです。大切なのは作法の順序を間違えないことよりも、作法を通して神様へ礼儀を尽くそうとする気持ちです。一人でお参りするときも、そのようにするのですよ。
我が国の民は、昔は誰もが神々を感じることができました。それは美しさに通じるものであったり、明るく快いものに近づけるように感じ取ることができるものでした。2000年以上も前から、良いと信じられるものを少しづつ積み重ねて育て上げ今があります。すべて人間関係がよくなるためのものです。それらは首を縦にふることでスイッチが入ったものです。首を横にふるようなものは残りませんでした。
人は自分が携わったものに真剣になると、それは神様に通じる美となったのです。
この神社には悠のクラスメートである山上真吾さんの何代も前のご先祖様が心血を注いで鍛え上げた刀が宝刀として納められています。良い機会ですから神主さんにお願いして拝見させて頂きましょう。
悠は祖母に慈しまれていることを実感し、幸せであった。
翌朝、悠は登校するなり真吾を見つけ話しかけた。
「昨日お祖母ちゃんに連れて行ってもらって鎮守の森の神社に行ったの。そこで真吾ちゃんのご先祖様が奉納した日本刀を見せていただいたの。私はまだ言葉が足りなくて美しかったというしか言えないけれど、素晴らしかったわ。」
「ふ~んそうなんだ。俺も神社に初めて連れて行ってくれたのは悠のお祖母ちゃんだった。俺も大きくなったら立派な刀鍛冶になりたいと思った。お祖父ちゃんに弟子入りしたけれど、まださせてもらえるのはお掃除だけ。そこから気づけることを学べといわれている。」
悠は家に帰ると祖母に報告した。
「そうなの良かったわね。お友達とお話しすることは良いことよ。この里には、織物、染織品、繊維や紙、陶磁器、漆器、木工品、竹工品、金工品、仏壇・仏具、和紙、文具、石工品、人形、工芸品、工具用具・材料など、古くから伝わる技術が残っているわ。心を込めて作っているものは魂がこもって人の心を打つわ。敬うことを忘れずにいろいろ見せてもらうようにするといいわね。その中から将来の道が開けるかも知れないし、違う道に進むことになるのか判らないけれど、気持ちが動くことに素直になることは大事よ。悠がもう少し大きくなったら、この里を上から見下ろせるところに連れて行ってあげるわ。この里は光の環に包まれているの。」
誰に言われたわけでもないが悠は夜が明けるとすぐに神社にお参りするようになった。早暁に域内は綺麗に掃き清められるのか清々しさが満ちている。
帰り道に真吾の家の前を通るのであるが、そこには決まって彼が黙々と掃除をしている姿があった。声をかけるべきではないのだとして黙って通り過ぎるようにしていた。子供が仕事をするのを咎めだてする風潮が顕著になってきつつあるが、押しなべてそうするのが良いのだとは思えない。幼いころから身につくものは確実にある。家業として伝わるものであれば猶更である。
白起は、自らのことを思い返してみることがある。死んでからわかったことが殆どである。何故に何百年も生かされたままなのかは未だに解らない。
歴代の秦の武将の中でも最強の諱を持つ白起は、秦国のみならず戦国時代の中華に居る武将の中で一二を争う武将として名を残している。
白起は、政治・軍事両方で大活躍した秦の名宰相魏冄(ぎぜん)にその才能を見出されてから将軍となった叩き上げの武将であった。
功績を挙げ続け左庶長(さしょちょう)と言われる卿の位を魏冄から与えられた。 この位になると将軍と同義で多数の兵を率いて戦うことができ、大軍をあずけられると韓の城へ攻撃を仕掛けて大勝利した。
王が平和な理想国家を築くものと信じたから、兵を鍛え次々と他国を攻撃し、
死ぬまでに負けることがほとんどない秦の無敵将軍として諸国から恐れられる存在となった。
他国を征服しようとする秦は、趙軍が上党の民衆を保護したことに怒りを感じ、長平に駐屯している趙軍を撃破するため、白起率いる大軍をこの地へ送り込んだ。
しかし趙は名将廉頗を総大将としてこの地の趙軍を指揮させ防備を強固にして、秦軍に対して城を出て積極的に攻撃を仕掛けることはしなかった。
秦は遠征に出ているため、長期戦になれば兵糧が少なくなる。そのために策を弄し廉頗将軍の失脚を図った。秦の策謀にまんまと引っかかった趙王は廉頗を更迭し、名将趙著(ちょうしゃ)息子である趙括(ちょうかつ)を総大将に任命した。
秦は廉頗がいなくなったことを幸いに、無敵将軍・白起を総大将として長平に送り込んだ。
趙括は秦軍に対して兵の数で圧倒有利であることを理由に攻撃を開始したが、白起の前に趙軍は総兵数の90パーセント以上を失う大敗北を喫した。
白起は長平で大勝利を勢いにして、趙の首都・邯鄲(かんたん)を攻略するべく、大軍を率いて出陣した。
趙は滅亡の危機に立たされることになったが、勝利を目前にして突如秦軍は退却していくことになった。
原因は秦の宰相・范雎(はんしょ)の策謀であった。
范雎は弁舌家として有名な蘇秦(そしん)の弟である蘇代(そだい)から「このまま趙を滅ぼしてしまえば白起の功績はあなたを凌ぎ、あなたの上司となることは間違いないでしょう。」と言われたことがきっかけであった。
秦王は愚かにも、讒言に等しい宰相・范雎の進言を入れて、白起に邯鄲攻略を中止するように命令を出した。
やむなく軍勢を秦国へ連れて帰ったが屋敷に閉じこもよりなかった。秦はその後邯鄲を攻撃したが、どの将軍が兵を率いても邯鄲を陥落させることができなかった。秦王は白起に総大将となって邯鄲を攻略するように命令を出したが、素直にそれに従うことはできなかった。
当然のことながら、秦王は白起が自分の命令を聞けないことに激怒し、首都・咸陽(かんよう)から追い出されることになった。
それでも范雎は追及の手を緩めず、ここでライバル白起をこの世から消してしまおうと考え、王に対して「白起は咸陽を追い出されたことを根に持ち、王様の悪口を言っているそうです。このまま彼を生かしておけば謀反を起こすかもしれません。ここで葬り去ったほうがいいと思います。」と進言したことを受けて、秦王は范雎の意見に頷き白起に自害するように命令を出した。
白起は、「そうか。戦いとはいえ、大義のためとは言い切れない謀略も使った。長平で趙軍を40万も殺害したことの報いを受けるときなのか」として、王の命令を受け取ると静かに自害をしたのであった。
秦の名将と謳われはしたが、権力争いと言う戦では無敵ではなかった。
なんだかんだあったが、群雄割拠の時代を抑え、秦は中国を統一したが、長くは続かなかった。専制独裁君主が統治することは政治的に効率は良いが、大義として何を目指すか、またそれに耐えうる徳を備えた人物かということが求められるから、一代や二代ならともかく、長期にわたると矛盾が出る。
大和の国に帰ってからも同様であった。
それでも、全国統一を目指す大名たちが古くから培われた民草の共同体意識を失っていなかったことで、一定の統一を果たすことができた。戦いを重ねる中で怨念を残すことはあったにしても、国のまとまりに影響を及ぼすこととは違っていたから、文化の発展を続けることができた。
恨みごとを晴らすために、白鬼が小さな関りを持ったことは確かにあるが、人として目をつむることができない範囲のことにとどまったから、歴史上に残るような大事だったとはいえない。何のために永らえさせられているのか、本人自体が解らないままなのであったからである。
信長が斃れ、西郷が死に、博文が凶弾に倒れたのも見ていただけであった。
明治維新を成し遂げ、東洋で唯一国白人の植民地支配から逃れられたのには意味があったのだと思うが、その後を急ぎ過ぎたのではないかと感じている。
謀略の世界は尋常ではないことは痛いほど知っていた。
一国の経済を成り立たせるのに必要とされる人口は6000万人。近代化を進めるための基盤である鉄鋼生産量は6000万トンが一つの目安であった。
第 1次大戦後の鉄鋼需要量・輸入量・自給率の関係を考察するに、昭和元年(1926)までは、 需要量と輸入量が平行的に激しく変動していた。輸入の増加が自給率を低下させ、逆に輸入の減少が自給ネを上昇させ、圏内生産量 の上昇は自給率の変動と殆ど無関係のような有様であった。自給率が輸入の変化に規定されて激しく上下し、国内生産量の増大にもかかわらず,この段階ではまだ園内市場の動向は輸入鋼材によって支配されていた。 昭和元年を境にして、それ以降は国内生産量の急増、とりわけ民間企業の生産量増大を基礎にして、自給率が急速に上昇し、輸入量は相対的にも絶対的にも減少している。つまり,昭和元(1926)年以降、鋼材市場は,園内的要因によっ てコントローんされる条件を得ているようにも見える。
人口はどうかと、1872年(明治5年)の段階では3480万人だった日本の人口は1912年(明治45年)に5000万人を突破し、1936年(昭和11年)には6925万人に達していた。
見ていただけで関与しなかったことには大東亜戦争というのもあった。
日清・日ロ戦争の勝利により勢いに乗っていたとは言え、国力が強固になっているとは言えなかった。まだまだ大東亜共栄圏の理想を掲げ、アジアの独立に打って出るのには力不足であった。
しかし、日本が植民地国に屈したら、アジアの開放はなくなる。乾坤一擲を望んで戦う道を選ぶしかなかった。
終戦後に定着した日本での一般的評価では、一部軍部の情勢を判断できない愚かな暴走が戦争を巻き起こしたのだというのがあるが、白鬼が見ていたことからするとかなり隔たりがある。軍部は無知でもなければ無能でもなく、最大限の努力をしていた。戦争に駆り立てたのは、日本が敗戦するように仕向け、それによって敗戦後の権益を自己のものにしようと目論んだ権力者がいたからだと思っている。
陸軍が、開戦前に日本を含め、アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要国の「経済抗戦力」について綿密な調査を行い、冷静な判断に基ずく報告書を作成提出していたことは事実である。陸軍主計中佐・秋丸次朗をリーダーとして設置され、後に秋丸機関と呼ばれる組織が優秀な研究をしていた。
秋丸機関の調査によって、日米の経済力の差は「20:1」にも及ぶことが判明しており、日米が戦うことは避けるべきであるというのが、軍部の共通認識であった。この報告書があるにもかかわらず、敗戦後陸軍にとって都合の悪いものであるとして「焼却処分」されたということになっているが、それは非合理な陸軍だから、さもありなんということとして決めつけられ、戦後長らくこの通説が信じこまされてきたけれど、そんなことはない。
焼却処分されたはずの秋丸機関の報告書なのに、いくつか残っている。
京都府立図書館のデータベース(OPAC)に、秋丸機関の別称である『陸軍省主計課別班』の関連資料が堂々と隠されもしないで残っている。
唯一勝利を得られるかも知れない綿密な策を提示しているのであるが、それは短期に決着をつけるものであり、決して米国を巻き込まないというものであった。真珠湾攻撃などは、海軍でさえ誰もが反対していた。
戦争をしないことを公約にして大統領になったルーズベルトは、日本との戦争を起こす口実がなかった。
・英米が合作すれば、米国の供給で英国の供給不足を補うことができる。
• 英米の合作は、第三国に対して70億ドル余りの軍需資材の供給能力になる。
• ただし、最大の供給能力の発揮には開戦後1年~1年半の時間が必要。
• 英国船舶の月平均50万トン以上の撃沈は、米国の対英援助を無効にする。
即ち、アジアにおいて英国は戦いを継続できない。
ミクロ分析された『英米』(2)では、
• 英国の弱点として、島国であるために食料や資源を遠隔地から船舶で輸送しなければならない。
『独逸経済抗戦力調査』では、
• ドイツの経済抗戦力は1941年がピークで、その後低下する。
• 英米長期戦に頼るにはソ連の生産能力を利用しなければならない。
• 食料不足が表面化しており、ウクライナからの供給が必要。
• 石油も不足しており、ルーマニアからの供給だけでは足りず、ソ連のバクー油田からの供給が必要。
しかし、ドイツがソ連の各種能力を利用するには、ソ連との決戦を短期で終了させる必要があり、長期化した場合は、「対英米長期戦遂行は全く不可能」となると、悲観的に述べられている。
これに加えて、日本が行動すべき指針も示している。
• 「東亜」は欧州に不足しているタングステン、錫、ゴムなどを供給することができるため、日本はシンガポールを占領し、インド洋連絡を行う必要がある。
• 独ソ開戦以降、ソ連と英米の提携が強化されるため、日本は包囲網突破の道を南に求めるべし。
• 北における消耗戦を避け、南において生産戦争、資源戦争を遂行すべし。
報告書全体としての結論をまとめると、「長期戦になればアメリカの経済動員力により日本もドイツも勝利の機会はない」、ただし「独ソ戦が短期で終われば、イギリスには勝てるかもしれない」というものだ。そして、日本がなすべきこととしては、「北進(対ソ戦)」ではなく、資源獲得のチャンスがある「南進(対英米)」すべきとされた。
こうした情報は当時、機密でもなんでもなかったのである。むしろ「常識」とも言えるものだった。それにもかからず「なぜ、開戦を決断したのか?」。国力の強大なアメリカを敵に回して戦うことは非常に高い確率で日本の致命的な敗北を招く(ドカ貧)。しかし非常に低い確率ではあるが、ドイツがソ連に短期で勝利し、英米間の海上輸送を寸断し、日本が東南アジアを占領して資源を獲得して国力を強化してイギリスが屈服すれば、アメリカの戦争準備は間に合わず、講和に応じるかもしれない。
経済封鎖されたままでの現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性があるということになるとしたのである。
「陸軍や海軍というのは、もともと組織的に頭のいいのがいたというせいもあるけれど、よほど合理的だったのではないか」
決して狂信的な人たちではなく、むしろ合理的な人たちが「正しい情報があったはずなのに、少なくとも日米開戦に至る攻撃には、なぜこのような選択をしたのか?」。この問いは、現代にも通じるのである。極東裁判でもこのことは不思議がられたが、尋問調書が表に出て検証されることはなかった。
組織を動かしうる中枢に誰が座っているのか?またそれを言葉巧みに焚きつけて自分の思惑通りに誘導しようとする者が居て、繰られてしまうことがあるのだということである。陰に隠れての工作は巧妙で、見破られにくい。
表から見えることが全てではない。そうかといって、それを伝えることが自分の使命だとも思えなかった。
戦争というのは勝敗で決着がつくが、勝ったからといって思惑通りに事が運ぶわけではない。
中国大陸での権益は期待通り進まなかったし、他の植民地保有国も植民地をなくす結果に結びついた。
イデオロギー問題は後を引きずり、戦後も東西冷戦という時代が長く続いた。
大手術が必要だったのかも知れないが、破壊の後にどんな世界を望んだのであろうか。
残された資料を研究してそれなりの経緯は判断されているようであるが、それでどうなるというものでもない。大義と結果は結びつかないのが常であるが、正しいかどうかは別にして、後に継続するものは必ずある。
祖母は悠に対して優しかったが、決して甘やかすようなことはなく、何故か大切に育て上げなくてはならないとしているのだとの覚悟を持っているのだと、幼心に感じていた。悠の何かを認めてのことのように思えた。
「お前は努めて明るくしようとしているようだけれど、頑張りすぎることはないのだよ。自然に振舞うことが周りに心地よく伝わるようになればいいのだからね。頑張りすぎると長続きしない。長く続けられることが遠く高く行きつくことができるのだから、それが何なのかを見つけられるといいね。ちょっと厳しいかもしれないが、一度真っ暗な中を畦道伝いに神社詣でをしてみたらどうかと思っているわ。お祖母ちゃんも、お前と同じ年の頃、それをやったことがあるの。いろいろ気づくことがあったわ。」
弓月としては、悠がまだ母を亡くした痛みを抱えている段階でそれをさせることは酷だと思いつつも、悠の生まれついての役目を果たしていくためにはいずれは乗り越えなければならない試練だと思っていた。なるべく早くに経験した方が良い。
「うん、この辺りには悪い人はいないからやってみる。」
悠はさして構えることもなく、星あかりだけを頼りに出発した。最初のうちは良かったのだが昼の陽ざしの中と違って暗がりの中は勝手が違った。見えないということは想像以上の恐怖を覚えるのである。影一つでも妖怪が襲い掛かる姿のように感じるし、道の窪みも口を開けて待ち構えている怪獣のように見えるのであった。そんなわけがないと心を励ましながら前に進んだのであるが、それらは一体何によってもたらされるものなのかを、少ない経験の中で必死になって思い巡らせた。祖母の提案は、いわゆる肝試しとは違うのだということだけは解っていた。漸くの思いで家に帰りつくと、家じゅうを電灯で明るく照らして弓月が出迎え、優しく抱きしめてくれた。明るいということがどんなに安心できることか。
「おかえり、頑張ったわね。どう?怖かったかい。怪物には出会えたかい。明るいところでは見えないものたちは、みんなお前の内心に潜んでいるものなの。人は善心もあれば悪心も備えているの。良い悪いではなくてそういうものなの。でも、それがあるから判ることなのよ。ないものは分らないものなの。」
「うん。悠の中にも一杯悪霊が居て、普段は出てこないけれど、いつ出てきてもおかしくないとわかったわ。」
「そうね。人は誰でもそうなの。でもそれに気づく人は殆どいないわ。でも悪霊たちだってそれが居ることを認めれば鎮めることはできるの。自分のことだけではなくて周りの人たちに対してだってそれができるようになるわ。周りの悪意は、それに触れると内心にいる悪意に反応して、どんなに良い人のようにして近寄ってきても、何となく毛羽立つような寒さを感じさせるから分るの。それだって、失ってしまったけれど、そもそもは誰もがそれを感じとれる能力を持っているものなのよ。」
白鬼は、悠に巡り合うことが使命だったのではないかと感じるようになっていた。悠の母親である凛を守ろうとしていたのもその為であったと思うのであった。動くための縁ができるのにそれほどの長年月が必要だったということなのか?新しい時代の流れが必要だったのか、それとも古くから積み重ねられたものが漸く纏まろうとしているのかはわからぬ。
動物というのは基本的に生殖活動を終えるとその生を終えるが、人類だけは子孫を残してからあとの方が長い。その結果を残す手段も多い。
外に現れる美は形として残り、内面に蓄積される美は精神性や霊性を高めて子孫に受け継がれる。実現しなければならない世界があるということなのか?
そんな営みの中で、人は一見親切で、誰にでも優しく接してくるように思える。しかし、内心に自分たちだけのことを優先する者たちは、いかに隠そうとしても棘を含んでいる実態も絶えない。彼らは質の悪いことに表面上は善人を装い耳障りの良いことを言い、それによって他人を使嗾して裏で動くことに長けている。人類を惑わしそれを征服しようとする種族は、太古より存在していて、陰に潜んで組織を作り着々と勢力を強めてきていた。人類が戦争を起こし、人口を減らすことなど一向に構わなかった。むしろそれが望みでもあるようにも思える。
最後に残るのはどちらになるのか、またそれがどうして争いあわねばならぬのかは誰にも解らないままでもある。
悠の周りには自然に人が集まった、傍に居るだけで快いのである。本人はいたって無防備であった。
遺していかなくてはならないものがある。
天孫降臨の時、天照大神が皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に賜わったということば、「天照大御神の御末(みすゑ)にましまして、かの天壌無窮(テンジャウブキウ)の神勅(シンチョク)の如く、日本書紀にある「葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫可レ王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。宝祚之隆、当与二天壌一無レ窮者矣」の神勅を玉櫛笥・玉匣(玉くしげ)という。
『日本書紀 1 新編日本古典文学全集2』による記載は下記のとおりである。
原文:葦原千五百秋瑞穂之国,是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫就而治焉。行矣。宝祚之隆,当与天壌無窮者矣。
訓下し本文:「葦原千五百秋瑞穂国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫就いて治せ。行矣。宝祚の隆えまさむこと天壌と無窮けむ」とのたまふ。
(「あしはらのちいほあきのみずほのくには、これ、あがうみのこのきみたるべきつちなり。なむぢすめみまゆきてしらせ。さきくませ。あまつひつぎのさかえまさむこと、あめつちときはまりなけむ」とのたまふ。)
現代語訳:「葦原千五百秋瑞穂国は、我が子孫が君主たるべき地である。汝皇孫よ、行って治めなさい。さあ行きなさい。宝祚の栄えることは、天地とともに窮ることがないであろう」と仰せられた。
人が集まって集落を作ると、そこに王というのが生まれる。その王たちが集まると、大王と呼ばれる者が出る。
王というものの振る舞いは、自らの権力を民に優先させる。
古くから政治を司る王たちの実権の上に権威を象徴する皇を置いたのは、優れた統治方法であった。
白鬼は、王の権力の下にあって有能さを示したが、理不尽さを経験した。自らが民草を導いていける能力を持っているとは思わなかったから潔く身を引き、民の平和を主願とする王権が武力ではなく祈ることで権威を象徴することができる存在を保持し続けることのできる王が出れば、そういう国を護らなければならないと心に決めた。
自分が王になろうと思えばそれはできたかも知れないが、そうはしなかった。その後の構想を自分には描けないとわかっていた。
日本では他国とは違い絶対王政を敷いてその家系の繁栄だけを図るようなことを結果的にはしなかった。いつの時代であっても天下を統一した者であっても臣であることから逸脱するようなことはなかった。
日本が2千6百年余の歴史を持つこともさることながら、そういう者が天下を治めてきたことは世界に類をみない。
国の行く末を平安であれと祈ることに特化した血脈が継続するには、陰ながらでもそれを援けようとする者たちが多く存在したということにもなる。それらの者たちもまた血脈をもって代々その働きを伝えた。
白鬼が護ることに力を尽くそうと決めた国は、第一次世界大戦の後にできた国際連盟の条文に人種差別撤廃を掲げようとしたが、その主張はまだ世界の趨勢には早すぎた。それを主張したことで、既得権が厳然として存在する世界列強から日本が敵視されるようになった遠因がここにもある。
人は何故か強弱とか黒白をつけたがる。その為にもっともらしい理由付けをし、解り易いということではあるかも知れないが、ものごとはそう簡単ではない。物理や数学の分野であれば法則があるとしても、人間界においては中庸がその大半を占める。決めなくてよいものがあることが普通で、それでバランスがとれる。
真理というものは、多数決で決まるものではないが、それに従うことが安定性を齎すことが多いこともあるから、模糊とした状態を避け、二者択一しての行動を選んだ結果が後の時代になってからの評価で右往左往することがあってもやむを得ない。正しいかどうかはわからないが、それを良しとする時代時代の洗礼を受けるのである。それでも人類は生かされて在る。
サイコパシー、ナルシシズム、マキャベリズム。人の世にあっては、この3つが「邪悪な人格特性」としてセットにされるが、その弊害が除去されることはなく、どちらかと言えば成功を得た人々の間で、これらの特性がより顕著に見られることすらあり得る。
時代の流れが彼らを必要とすれば、歴史はそれで動く。邪悪な性格は、成功にどう関係するのか。強烈な指導力を発揮して人をリードするときの異常ともいえるエネルギーに対しては、人は抗しようもなく引きずられてしまうのだが、後の世でその時代に確立された価値判断による正義を振りかざしたところで取り戻せるものでもない。
これらの特性は、人口全体で正規分布していることに留意すべきである。つまり、誰もがこれらの傾向を、低・平均・高の程度はあれども内在させているが、それでも人としては正常でいられる。その特性が顕著でも、それだけでは仕事や私生活において問題があることにはならないのである。邪悪な3大特性が反社会性を示唆する一方で、キャリア上ではさまざまなメリットももたらす。ただし、人倫上の制限はどこかで受けることにはなる。
サイコパシーには一般に、不正直、自己中心的、無謀、非情といった傾向が見られる。それにより本人の思惑は他から完全否定されることが多い。
しかし彼らは他人の思惑なぞ一切気にしない強さを持っている。そのうえ、他人を自分の思惑通りに導く宣伝能力に長けている。反対反対と言って騒ぎ立てれば、不満を抱く者たちは苦も無く集められるとしても、自分たちはこの人の言う通りにしていれば得になることはあっても損をすることはないと信じ込ませることが巧いのである。他人のことなぞ考えなくてもよいと思わせてしまうのである。
後にツケを払わされるのは尻馬に乗った者たちになるのだが、その彼らが反省することも又ない。悪いのは自分以外の誰かなのだとしてしまって終わりにする。
マキャベリズムは、うわべだけの魅力(愛嬌の良さや話のうまさなど)、人心操作、偽り、冷酷さ、衝動性などと関連している。この特性が高い人は倫理観に乏しく、「目的は手段を正当化する」と考えたり、「人より先んじるためには、多少の誤魔化しはやむをえない」という考えに賛同したりする者たちの同調をうけて正当化され潮流をつくる。責任感だの人倫だのは抜きにする。後の時代につけを払うことになるとしても、その時には分らない。
ナルシシズムは、誇大妄想、過大な(ただし往々にして不安定で脆い)自尊心、他者を思いやらない利己的な特権意識などと関連している。その語源であるナルキッソスの神話が示すとおり、ナルシストは非常にわがままで自己愛に溺れやすく、そうなると他者を思いやることが難しくなる。他はどうであってもよく、自分さえ気に入ればよい。
ナルシストには魅力的な人も多く、「カリスマ性」と呼ばれるものはナルシシズムが持つ対人的に望ましい側面だともされる。
サイコパシーやナルシシズムの特性を持つ人は組織階層の上位に多く見られ、初代もさることながら甘やかされて育った二代目以降にも顕著で経済的な成功度も高い。
サイコパスは勤勉に働き、しごく正常に見えるが、不倫、他者への冷酷さ、暴飲、過度のリスクテイク」が見られる。
なぜ、こうした悪しき輩が成功するのだろうか?
その一因は、彼らの持つ暗黒面には、明らかに自分にはない積極的な部分があるからであり、優柔不断な生き方しかできないでいる者たちにとっては魅力的である。正と負の両面を併せ持つ性格についてみるに、外向性、新しい体験への積極性、好奇心、自己肯定感などは、一般に邪悪な3大特性を持つ人のほうが高いというか強い。
威嚇と誘惑という2つの手段を助長することが示されることで潜在的なライバルを怯えさせ圧倒する。しかし、邪悪な特性による個人的指導力は集団の犠牲によって成り立つという側面がどうしてもついてまわる。結果的にその成功には代償が伴い、その代償を払うのは一般民衆である。
よく言われるように「何事もほどほどがよい」というのも事実だ。
時代の変わり目に現れる優秀なリーダーは、ナルシシズムのポジティブな面を示しながら、悪しき面を目立たなくさせる行動で人気を得る。自負心と自己肯定感が高く、人心操作と印象操作により、いつの間にかトップに立つ。
このところ何を目指しているのか解らないが、やたら自らの権力を強める動きに出る者が目立って来た。自身が表だって目立つばかりでなく、陰に潜んで民心を惑わしているが、どう見ても人類の平和が目的ではなさそうである。
日本には宗教戦争というのがない。過去に宗派同士の小競り合いはあったが、国を脅かすような争いにまでなることは戦国時代以降にはなかった。宗教のもつ負の部分を見極める能力があったとしか思えない。
イデオロギーについても同様である。完全だと思えるようなものには欠陥があるのだということを感じ取ってしまうのである。
世界の紛争の原因となっているのは、これのほかに民族問題というのがある。
いずれも自分の側が正しいとして譲らず、人としての折り合いをつける考え方を持たないからであろう。個性というのは共通項の上に成り立つものであって、他を除外するためのものでは人類的には受け入れられない。
共通性が醸成されていない段階での多様性は犠牲と危険を伴う。
互いが信頼しあえる基盤があってこそ、個々の特性が認め合えるのである。それなくしての人間社会はなりたたない。
個人の特異性を主張するに突出することは、分断を招く目的が底にあるのであって、そうすることの目的は個人としての思惑が別にあるのだと認識した方がよい。それは人類社会の平和を願ってのことからは乖離していることが多い。分断されている世情は繰りやすい。
全員が死ぬか生きるかの瀬戸際に立つ事態になったとしたら、他への配慮ができなくなるのは解かる。しかし、自己主張の多くは、世情が豊かなときになされる。
それも善良な市民を後ろから煽るようなあざといやりかたをして恥じないところに卑劣さを感じさせる。個人の利益を望むのなら、自身が表立っての潔さがあってしかるべきなのである。
義によって建てた理想といえど、圧倒的武力によって打ち負かされると、その後に勝者が主張する考え方を絶対的正義として強制するものに従わざるを得ない。敗者の側にそれを強化するような動きを見せる者が出るのも常である。
それでも、抑えきれないものはある。例えば人種による差別の撤廃。有色人種は人類ではないとする考え方は、継続し難くなった。
争いの基となるものには、宗教・イデオロギー・民族などいろいろあるが、偏った考え方から抜け出ることができなければ解決されない。
悠の住む家の広い庭には葛の葉が茂っている。祖母の弓月が大事に育てているのである。薬用効果を知悉していて、周りの人たちの役に立てている。
葛は古くから余すことなく利用されている。
まず蔓から繊維をとり葛布を作ることができる。
また、蔓を編んで藤行李(ふじごうり)が作られる。今ではあまり見かけられなくなったが衣類や雑類を収納する入れ物として活用されていた。小ぶりな蔓かごは現在でも見かけられる。
蔓の花は二日酔いに効くと言われている。
葉の部分は天然の染色材になる。葉を摘みお湯で煮出すと布を綺麗なグリーン色に染めることができる。
根を乾燥させると食用としてくず粉になり、夏によく食べられる葛キリや、葛もち等になる。冬は体を温める葛湯として飲まれます。風邪薬の特効薬である。
クズという名は昔、大和の国栖(くず)の人が根から取ったでん粉を「国栖粉」と名づけて諸国に売り歩いたからだといい、今や吉野葛の名は、クズデンプンの一般名といった方が良い位である。クズのでん粉は結合力が強く、いったん固まるとふやけたり粘りついたりせず、丸薬などの結合剤として優れた性質があるのだが、今はくず湯、葛ひき、葛きりなど製菓用にほとんど使われる。
有効成分はダイジン、ダイゼイン、プエラリンなどマメ科植物に多いイソフラボン化合物あるいはその配糖体と考えられる。でん粉の多いものにはイソフラボンも多く、繊維に富むものにはイソフラボンも少ない。その差は総フラボノイドとして1.7から12%にも及び、著しい変動を見せる。
ダイゼインには抗痙れん作用が認められ、フラボノイド混合物には脳および冠動脈に対し、血流量を増加させる作用がある。ダイゼインにはこの他、未成熟マウスの子宮重量を増加させる女性ホルモン様の作用も認められる。また、成分は不明だが抽出液に解熱作用さらに、血糖値を初め上昇、後に下降する作用なども認められている。
古典での葛根の薬効は解表退熱、生津止渇、止瀉とし、発熱して無汗、口渇、頭項強痛、麻疹不透、泄瀉下痢などに用いている。傷寒論の葛根湯は桂枝湯に葛根と麻黄が加わったものと考えられるのであるが、葛根湯の効能は葛根の薬能そのものである。
葛根の配合される漢方薬方は多くはなく、葛根湯のほかには蓄膿、鼻炎の薬にする葛根湯加辛夷川、桂枝湯証で下痢のあるものに使う葛根黄連黄湯、このほか升麻葛根湯、葛根紅花湯などがあげられるにすぎない。これらに共通する目標の項背強痛をそのまま肩こりの薬と解釈してしまうきらいがあるが、項背とはうなじのことで、いわゆる肩こりにはあまり効かない。むしろ背骨にそった、肩胛骨周辺の筋肉、上腕、脇などに痙れん性の筋肉痛があらわれるような場合にはすぐれた効果を示す。
余り知られていないが非常用の携行食として保持していることで、遭難したときに生還できる。山登りをする人には必携のものである。
他にも有用な植物や鉱物がある。弓月はそれらについても遥に教え込まねばならないと思っている。
日ごろの様子から端迎すべからざる資質を感じ取っていた。遥は天涯孤独の身になるところを、思いもかけず祖母の庇護のもとで穏やかに暮らせるようになったことを心から感謝しているからばかりではなく、生来どこに一人で出されても強力な庇護者が集まる能力を持っていると、その点は安心できた。
自分が周りから優しく遇されることが当たり前だとは思っているのではなく、屈託なく過ごしていてもそのように動けた。
自分が恩返しできることは、いまは皆から好かれるようにすることだとしなくても、周りの人に親切にすることがたくまずしてできていた。
言われなくとも祖母の手伝いをするし、それは祖母に限ったことではない気づかいが動きの端々に現れていた。
孫でなくても可愛くって仕方のない存在であったが、弓月は自分がそうであったように、悠もまた常人には見えないものが見えるようになってきていると思っていた。弓月の家系に生まれた限り、果たさねばならぬ役目を負っていく能力なのであった。
人は誰も神ともいえる領域を内在しているが、悪魔の所業を発現させてしまうこともある。そのどちらに傾くかは育つ環境にもよるだろうし、周りの導き方にもよるが、本人が本来もっているものがどうであるかが大きい。
善人なおもて往生遂ぐ、況や悪人をやという。人はいろんな性情を内包する。百人いれば百様であるが、各々が自己主張をすることなく周りとの折り合いをつけることができてこそ社会を形成できる。
そうするためには、互いが許容しあえる範囲というのがあり、譲るべきところは譲ることが自然にできなくては叶わぬ。
一信の神のみを信ずれば、他を否定しきるよりない。即ち最後は一人ということになるから生き残ることに意味はないと思えるのだが、生物的な特性すら自己の従うことを他にも共用するから、争いの種になる。もっと穏やかに生きることができるのが人間だと気づくには、まだまだ時間がかかるのかも知れない。長く生きてきた弓月にしても、その解は見つからない。悠に伝えられることは少ないが、いずれ悠が自ら具現していってくれると信じるよりなかった。
人は外見的にその全体像や健康度を見定めるが、実は内臓である腸が統べているのではないかと弓月は思っている。植物であれば根の働きをするその部分が吸収するものが影響を与える。それを補うのが呼吸。
外からのエネルギーを吸収するために深く吸うことは特に大事にされるが、呼気はそれ以上に重要である。息を吸うための筋肉は発達しているが、吐くための機関というのは無さそうだから、意識しないとできない。姿勢を正しく保つことが大事であるから、他はともかくそのことだけはきびしく躾けていた。
息抜きという言葉があるということは、それなくして緊張感だけでは人間性を保てないということになる。体の構えと言うのが人としての生き方に影響を与える。
遥は弓月という祖母の庇護をうけることができたが、まかり間違えば天涯の孤児となった。衣食住すべてが揃わなくては生きて行くこともできない。
世間様のお陰であることを思えば、いずれはその恩義に報いなければならない。縄文の時代から何千年も繰り返されてきた考え方ではあったが、確立された方法というのは未だにみつかっていない。一所懸命生きても人生が身近過ぎるし、誰もが人として生きるのはどういうことなのかを考えるわけでもないから仕方ないともいえる。
列車内での喫煙を注意された無法者が相手に暴行し、顔面を骨折させた事件があった。白鬼は見逃してしまったけれど、力のない正義というのはそんなものである。民衆も明日は我が身として捉えないから、なかなか改まらない。
弱い者たちはどうするかというと、その一部は怨霊の力に頼ることを選ぶ。
そういうものを抑えきる方法はあるまい。白鬼もそこまでは手が回らない。
法によらない解決が通用することになったら、コントロールは効かない。
弱いことで我慢してきた恨みを晴らすのには、同害で済ませられるとは思えないからである。肉体的暴力に勝る暴力に怯える道は避けるのが正しい。
日本は、そういう怨霊を鎮める知恵を蓄えてきたから、この先世界の怨霊が救いを求めて日本に大挙してやってくる可能性がある。
遥の成長は重大と言える。
大きく穿たれた岩穴があった。天井は高く、広さは数十人が入ってもまだ余裕があった。正面に祭壇が設えられていた。
そこには頑丈な石棺のようなものが置かれ、これも重そうな石の蓋が載せられていた。
広間には屈強な戦士らしき者たちが数十人畏まって座っていた。何かの儀式が始まる様子であった。
そこに立ち現れたのは、その集団の最高権威者らしかった。
「魔物の首魁を打ち取ったとのことであるが、ここに集まっている者たちは戦いに生き残った者たちか?だとしたら首魁はまだ生きているとしか思えない。全滅しても敵う相手だったとは思えないからだ。」
戦いの中心となった者がその物言いに対して異を唱えようとしたが、戦いに参加した者は勿論、それには加わらなかった屈強な者たちすべてが、必死になってそれを押しとどめた。心服されている特別な存在なのだと思われた。
異を唱えようとした者が石棺の蓋をずらして中を改めてみると、打ち取った筈の者の目がぎょろりと開いた。」
生贄を好み、その血を貪る相手は、確かにまだ生きていた。それから幾星霜、魔との戦いは続いている。
その戦いの中心として働いたのが悠の前世である。
まだまだ望む世にはなっていないということになる。
この先悠には異世界に足を踏み入れなくてはならないことがありうるだろうけれど、それを成してしまった者が現世に戻ろうとするとき、必ず言われることがあるのだという。
「目的地に着くまで決して振り返ってはならぬ。」という言葉である。
道中はあらゆる艱難辛苦が待ち構えており、悪罵の限りを浴びせられる。
これに必死で耐え、あともう少しのところにくると、突然打って変わって優しい声がかかり
「よくここまで頑張った。もう大丈夫だ。」との声が耳に届くのだとか。
そこで気を緩め後ろを振り返ると一気に抜け出たかった異世界に引き戻されたり、石に変えられたりされててしまうとされている。
人は厳しい罵声には耐えられても、表面的に掛けられる優しい言葉に弱い。心が強く保てないと、真意に気づくことができないのだとの教訓であろう。
「見るな」のタブーは、ヘブライ神話、ギリシャ神話、日本神話をはじめ、多くの神話体系にみられる。神との約束が守れないとそうなるという戒めでもある。
ソドムとゴモラが滅ぼされるとき、神の使いがロとの家族へそれを予告する代わりに、町の方を振り返るなと言いつけたが、妻は途中で振り返ってしまい、塩の柱となった。
人間に火を使うことをもたらしたプロメテウスを懲らしめるために、ゼウスはあえて彼の弟であるエピメテウスの元へパンドラという女性に壺を持たせ贈った。その時、「この壺だけは決して開けるな」と言い含めていた。
エピメテウスはパンドラに惚れ、結婚したが、ふとしたときに壺のことが気になり開けてしまった。そこからは、恨み、ねたみ、病気、猜疑心、不安、憎しみ、悪徳など負の感情が溢れ出て世界中に広まってしまった。慌ててその壺を閉めるが、既に一つを除いて全て飛び去った後であった。最後に残ったものは希望といわれている。
こうして、以後人類は様々な災厄に見舞われながらも希望だけは失わず(あるいは絶望することなく)生きていくことになった。
竪琴の名手オルベウスは、毒蛇に咬まれて死んだ妻エウリュディケーを生き返らせようと決意して冥界へ行き、冥王ハーディスと交渉を試みた末に「地上に戻るまでは決して後ろを振り向いてはいけない。成し遂げたら妻を返そう」と約束させることに成功した。しかし、エウリュディケーが本当に付いて来ているか不安だったオルペウスは、もう少しで地上にたどり着くという所で後ろを振り向いてしまい、エウリュディケーは冥界に引き戻されてしまった。
神産みのときに亡くなったイザナミを追って黄泉の国を訪れたイザナギは、中を見るなと言われたにもかかわらず、櫛に火をつけ扉を開けて中を見てしまった。自身の朽ち果てた姿を見られたイザナミは怒り、逃げるイザナギを追いかけるが、黄泉の国の入り口で二神は離婚する。
トヨタマヒメに子を産む所を見るなと言われたにもかかわらず、ホオリ(山幸彦)は産屋を覗き見てしまった。そこには八尋のワニに姿を変えたトヨタマビメがいた。これが元で、彼女は子を産んだ後、海へ帰って行ってしまった。
その他、鶴の恩返し・雪女・玉手箱など、多くの「見るな」伝説がある。
誘惑に勝てず約束を破ると、結果がよくない。それらをどう乗り越えて行くかが悠への試練となりそうである。
弓月は悠の髪を切ることなく伸ばすようにさせた。落飾或いは落髪というのは、高貴な人が髪をそり落として仏門に入ることとされるが、髪は神に繋がるものであると古来から信じられていた。普段は結い上げて冠状にしたり角状にしているのを、いったん事あって真意を尋ねることになったときには、それを解いて髪をおろす。即ち神降ろしをする体勢を整えるのである。特異な感性が強い者がその役割を担った。角や髪は神の意を受信するアンテナのようなものであった。帝は美角にも音が通じているのである。すべき修行は沢山あった。目で見られるものだけが全てではない。
紙上談兵。学問は大切であるが、机上の空論であったら意味をなさない。
この熟語は白鬼が白起将軍であったころ、趙軍を殲滅した後にできた言葉である。
白起が秦の将軍として10万の兵をもって趙を攻めたとき、趙の総大将は趙括であった。学問はあったが実務経験は少ない。趙括は廉頗と交代することで司令官になると、直ちに軍令、軍律を改変し、意に沿わない将軍を戦列から引き離した。指揮下に入った兵数は40万人。
趙括は兵力に圧倒的差があることにより兵法書の知識に従って総攻撃の策に打って出た。
戦いには戦略もあれば戦術もある。
しかし、前任者である廉頗の意図をよく察していた実戦経験豊富な幕僚で
あった彼ら将軍は解任されてしまっていて、兵数は多くてもいわば烏合の衆に等しかった。
白起は趙軍を、長平の城塞から引きずり出そうと策を練り、廉頗であればこの策に乗らないが、若い趙括なら必ず罠にかかると読んだ
最初は適当に小規模な敗戦を繰り返しながら陣を少しずつ後退させ、徐々に趙軍を決戦の場に引きづりこんだ。
西王山を越え丹水に向かったが、待ち受けていた秦軍の精鋭部隊が趙軍を包囲した。
進退窮まった趙括は、長平谷で車陣を組んで秦軍の攻勢に堪えようとしたが、糧食を殆ど帯同していなかった。
白起はここで持久戦に持ち込もうとし、幾重にも柵を構築した。
その結果趙括軍は孤立し、四十六日が経過したが趙の兵士は物を口にすることもできず、骨と皮になった五万の兵士が錯乱し、活路を求めて必死の攻撃に出た。
突撃は四度繰り返されたが遂に趙括と共に殲滅された。この時 趙にはまだ四十万の兵が残っていたが、当に餓死寸前の状態であり、兵とも呼べるようなものではなかった。
戦いの後、秦では趙軍四十万の投降兵の扱いで迷った。本来ならば自軍に編入するのが戦国の世の常道であったが、きっとまた背くに違いない、と判じざるをえなかった。もっと早くに投降すれば移動させることはできただろうが、半死半生の者たちであるとそれも難しい。幼年者の二百四十名を除いて、全投降兵を放置するよりなかった。その地の形状は穴や窪地が多い。そこに折り重なった兵たちの上には黄砂が降り積もり、生き埋め状態となって残った。
後に阬殺(穴埋め)したとの歴史が残るが、殲滅戦をすればそうなる。恨みが残る結果が後々まで続く。
その地の土壌は肥沃で良質な大豆が収穫できる。農民たちはその大豆を使って固い豆腐を作り、細かく切り刻んでさらに火であぶり、白起の体に見立てて今も食べるのだという。その時の付け合わせは豆腐をつくるときのオカラに大量の塩とニンニクを棒で乱暴に混ぜ合わせたものは脳みそだとして伝える食べ物となった。
恨みを残すということはそういうことにつながる。
その後の王朝というのはいくつもあるが、長くは続かないでいる。民意とかけ離れてしまう方向に進むからではなかろうか。
白鬼が生き延びているのは、そういう世の中にならないようにする役目があるということでもある。
神稲の里
背後を高い山脈で守られ前面に急流が流れるこの地をクマシロノサトと呼ぶ。何故に神の稲と書くのかは詳らかではないが、他国から侵されることは殆どなかった。
だいじなお米は猫まもる
母さんねこの尻尾はながい
長い尻尾で子猫をあやす
ねんねんよおころりよ
泣かずに眠って丈夫にそだて
稲の他には桑を育て、蚕を飼うことで繭から絹を採った。繭を守るのも猫であった。繭から細い糸を紡ぎだし織物にするには根気良い仕事が無くしては叶わない。
猫可愛がりという言葉があるが、子猫をかわいがる姿を見て、人が子供を育てるときの優しさが自然に培われた。根気のいる無償の思いが込められる。
優しく育てられた子は、他にも優しく接しられる。その優しさが広がることで地球上に平和が保てるとして、地球が破滅するような隕石の衝突を避ける力がどこかで働いているのだとしか思えない。自分の権利主張ばかりしてはいられないのである。
大宇宙の意志とは何であろう。
多くの試練を経験させられたが、それでも2600年以上の歴史をつないで培った日本民族の資質に期待がかけられているのだと思えてならない。民度がここまで育った国はない。
宇宙から飛来する隕石は、地球の大気圏で燃え尽きる規模以上の大きさであれば、原爆何個分かの被害で終わりうるが、それが核施設や核貯蔵庫あるいは核基地の上であったら、どのような被害を及ぼすか計り知れない。
かつてユカタン半島に激突した隕石は、核兵器がまだ無い時代であったが、地球上に繁栄していた恐竜を絶滅させた。
隕石の飛来するときの速度は、マッハ50以上だと言われる。地球で開発されたミサイルの速度はせいぜいがマッハ20程度。隕石が大気圏を突破するのに要する時間は4~5秒程度。したがって隕石を迎撃するのは不可能である。
科学力を超えてみとめられる力が必要なのである。
20世紀以降で一番大きな隕石の衝突は、1908年6月30日にロシアのツングースカ地方で起こった。直径数十~100メートルほどの小惑星であったが、半径数十キロもの木々をなぎ倒すほどの大きな空中爆発が起こった。幸い落下地点周辺に人の居住区域はなかったが、爆発の衝撃音は1000キロ先にまで響き渡った。
知らないでいるだけのことであり、隕石は頻繁に地球に落下している。隕石とは太陽の周りを回っている天体のうち、惑星や準惑星(惑星よりも小さいけれど球形を保てるには小さく、さらに尾がないものを指す。尾があるものは「彗星」と呼ぶ。
その小惑星が大気圏で燃えて「流星」となり、そのうちの燃えきらずに地表面まで落ちてきた残りものが「隕石」ということになる。彗星が地球に衝突することもあるが、地球に衝突する可能性のある彗星の数は小惑星よりもはるかに少ない。
地球全体で毎日100トンほどの物質が宇宙から飛来してきている。これほど多いのに被害の話をほとんど聞かないのは、地表に到達する前に燃え尽きてしまったり、地面に到達しても発見される可能性が低い地に落ちているからであることが多いだけのこと。
ちなみに地表まで届く隕石の推計は年間で数十個。決して少ないとはいえない数である。現在発見されている地球の近くの小惑星はおよそ1万6000個で、いつか地球に衝突する可能性のある小惑星の数はそのうちおよそ1800個であると言われる。そのほとんどが、近年になってやっと観測でとらえられるようになった小さな小惑星である。
小惑星衝突の頻度は大きさに反比例しているのだとされる。
例えば、直径5m程度の小惑星は、およそ1年に1回衝突する計算であるが、ツングースカ地方を襲った直径数十メートル級の小惑星は、数百年に1回衝突することになる。46億年の地球の歴史を振り返ってみたら、もっと大きな衝突が起きていたはずである。この先にそれが起こらないという保証はない。
その時までにそれを回避することができるようになっているかの保証も全くないのである。
それ以前に人類同士で争って滅びてしまう可能性だってあるとしたら、その愚を避ける道を追求しなければならない。
日本語は世界的に見て、その習得が極めて難しい言語だとされている。微妙な意識を伝えるにはその言語だけでは難しいこともあるが、それを伝え合う能力は持ち合う域に達している人も多い。神霊の世界に携わるということになれば、それを体得することが求められる。
基本的に覚えなければならない常時使われる日本語数は1万を超えるのだというが、それでもものごとを過たずに表現するには足りない。ごく普通の会話ですら4万~5万の語彙数が必要である。
風の音、雨の音、自然の色をあらわすにもそれを的確に伝えるには多様な語があって、辞書に掲げられているものでも50万だ網羅されている。深い思索の為にはそれらが駆使できなくてはならない。
言語によっては、3千~4千語覚えれば十分だといわれるものと較べれば確かに難しいと思うが、精神的高さを求めるための日本語の難しさは、表現したいことを的確に表す言葉を選ぶからだと思う。
日本文化が優れているのは、思いついたことをそのまま文にしたり絵にしたりしないことにある。即座に感想を述べるのは浅慮の誹りを免れないことすらある。その表現に至るまでには、深い思考を経て体内で昇華されていることで、他に共感を抱かせることができる。賢人は、日々に入ってくる膨大な量の情報を知情意が的確に判断して、整理ができていて使うのである。
なぜにそうしなくてはならないかというなら、日本人は己さえ良ければそれでよしとしないからである。鍛えられた思考は周りの人たちの幸福に役立たねばならないのだということが自然に培われている民族なのである。
その言葉を使ってなされる祈りのパワーは、気づくことができれば強烈なのである。それが有るから、日本の文明は滅びることなく続く。
弓月は悠に様々な経験をする機会をもたせたが、それらに対する感想をすぐに求めることはしなかった。直観力を鍛えることは大切であるが、それにも増して、経験を言葉に換えるには、心の中で整理することがより重要なのだと信じていた。
殊に偉人や名人として名を残した人のそれは、十分に斟酌されてパターン化されたものとして表現されるから優れているのだと思うが、日本人には読んだり見たりする側にも、それを理解できる素養が育っている民度が備わっている。
最近気になるのは、TVに出てくる人たちの使う乱暴な言葉の数々である。
多様性かどうか知らないが、思いついたままのおどろおどろしい表現や、奇を衒ったような言い回しでは、内面が育たず浅薄な人間になってしまうように思えてならない。
感じたことを言葉にするに拙いままでそれを恥とも思わずすぐに口にするからか、日本語の品性を落としてしまっているのではないかと心配になることも多い。
変わったことを言えれば、それが自慢だとでもおもっているのだろうか。そこに自己卑満の驕りはないのか。
それに、彼らは何でそんな大声で先を争って喋らなければならないのだろうか?穏やかに話しても十分に伝わる言語なのだとの学びがないのだろうか。すべては言葉から始まる。
正義というものがなされるには、何らかの力の裏付けが必要となる。それが伴わないと現実的には不可能となる。何をもって正義とするかには議論があろうが、少なくとも暴力を背景にした他からの理不尽な圧迫や攻撃を受けることがないようにすることは許容されて然るべきであろう。抑止力となるものを身につけるのには何人も否定できまい。
つづく
疎にして越え難きもの @SyakujiiOusin
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