ちょっとだけ哀愁に浸りたい貴方へ。
朝乃雨音
目の前は遥か遠くに。
消毒のにおいがどこからともなく漂ってくる。
真っ白なカーテンが揺れる窓の外からは、セミの鳴き声が聞こえてきていた。
その部屋の壁はカーテンと同じ白色であるが、それは目に優しいほのかに黄色がかった白であった。
僕は今その部屋のちょうど真ん中あたりにおいてあるパイプ椅子に座っている。目の前にはベッドがあり、それもまた壁と同じ白色をしていた。
そのベッドには誰もいない。
しかし僕にははっきりと彼女の眠っている姿が目に浮かぶのだった。
もう決して出会う事が出来ない彼女の姿が。
「今日は気温が三十度をこえるみたいだね」
紗有里が僕に向かっていったその言葉は、セミの鳴き声に掻き消されそうなほど弱弱しいものだった。
もともと体の弱かった紗有里が倒れたのは昨日のことだった。
大学に向かう途中で倒れ、近くにいた人が救急車を呼んだとのことである。
「体が弱いんだからあまり無理をしないでくれよ」
倒れたという事実がなかったかのように、どこ知らぬ顔で外を見る紗有里に、あきれた様にため息を漏らしながら僕は言った。
紗有里が見ている窓の外には青空が広がっていた。この病室は四階にあるため景色といえば山か空しか見ることができない。都会の町中ならビルの一つや二つが見えたのかもしれないが、田舎町にあるこの病院ではそれが限界である。
僕と紗有里の目が合い、僕は微笑んだ。
「今日は講義もバイトもないの?」
首を傾げ紗有里は言う。
「大丈夫だよ、紗有里は自分の体のことだけ心配してればいいさ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
紗有里は僕を見て微笑んだ。
しかしその言葉は、死んだ僕の母の言葉と重なり、怖くなる。
僕の母も体が弱く、入退院を繰り返していた。
お見舞いに行った僕の頭を撫で、優しく微笑んでくれていた母は、四年前に病でこの世からいなくなった。
当時中学三年生だった僕は悲しみに暮れ、泣き続けたものである。
そんな僕を元気づけてくれたのが紗有里であったのだ。
その時の彼女の笑顔が死んだ母と重なり、僕は惹かれ好きになった。
しかし、思いは伝えられない。想いを伝えてしまうと母のように消えてしまいそうな、そんな予感がしていたのだ。
「明はどうしてそんなに私の事を心配してくれるの?」
ふと、紗有里がそういった。
僕は言葉に詰まる。なんて答えれば良いのか戸惑った。
「君は僕を助けてくれたから。今度は僕が君を助けたいんだ」
僕はそっと微笑む。
「私は明のこと助けたなんて思ってないよ。いつも通りにしていただけ」
静寂が訪れる。
開け放たれた窓の外からは涼しげな風と蝉の鳴き声が入って来ており、時折どこからか鳴り響く風鈴の音が僕を安心させる。
時刻は午後一時で照りつける太陽がその本領を発揮させようとしていた。
「行かなきゃ行けない所があるからそろそろ帰るよ」
僕はそう言って立ち上がる。
「そっか」
「また時間がある時に寄るよ」
「分かった楽しみに待ってるね」
「それじゃあまたね」
「うん。またね」
そうして僕は病室を後にした。
「暑いな」
太陽が信号待ちしている僕に容赦なく襲ってくる。
よく女性の笑顔を太陽に例える人が居るが、僕は紗有里を月だと思う。ほのかな光で僕の行く手を導いてくれる。僕にとってそんな存在なのだ。
太陽は眩しすぎて僕には合わない。
暑さで頭がぼーっとする。
信号が青になり、僕は横断歩道を渡りだす。
その時だった。
勢い良く車が走って来た。
理解が追いつかない。気づいた時には僕は横断歩道から数メートル離れた所に飛ばされていた。
車から人が降りて来て僕に向かって何かを叫んでいる。
意識が遠くなる。
ごめん紗有里。
僕の意識はそこで途絶えた。
僕は紗有里の病室にいた。
ついさっき僕が車に跳ねられこの病院に運ばれて来た事を知った紗有里が病室を飛び出していった所だ。
ベッドの隣にあるパイプ椅子に座り、涙を流す。
先ほどまで紗有里がいた白いベッドを眺めながら、後悔する。
言っておけば良かった、こんなに早くこの世界の終わりがくるのなら、伝えておけば良かった。
君に好きだよと一言を。
伝えたかった。
さよなら。
そして僕はこの世界から消えてった。
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