第38話 中学のときのこと

 母が卒業生だから、というシンプルな理由で私立の幼稚園に入ることになって、エスカレーター式に同名の私立小学校に進んで、ほかの学校に行きたい、なんて希望もなかったから、そのまま同じ私立の中学校に進学することになった。

 小学生の頃からカメラが好きだったこともあって、中学の部活は写真部を選んだ。


 入学から十日ほどが過ぎた日の放課後、見学のために写真部へと向かうと、部室の前で女の子が一人、何をするわけでもなく立っていた。

 上履きの色から同じ一年生だと確認して、声をかけてみる。


「あの……」

「はいっ!」


 そっと話しかけたつもりだったけど、それが逆に驚かせてしまったようで、女の子と一緒に、自分もびくっとなってしまう。


「ごめん……。びっくりした?」

「あ、いえ、すみません……」

「私、写真部の見学で来たんだけど……」

「ほんとっ?」

「えっ。うん……」

「よかったー。一人だと心細くって。どうしようって思ってて……」

「そうだったんだ。とりあえず入ろうよ」

「うん」


 女の子は自分の場所を譲って、お先にどうぞ、という感じで扉を開けるように促してくる。

 私だって、全然緊張してないわけじゃないんだけどな……。

 女の子の、まるで英雄を見るみたいならんらんと輝く瞳と力強い頷きに急かされて、ためらいながらも扉の前に立つ。


 コンコンコン、とノックを三回。返事がない。

 少し待ってもう一度。やっぱり反応なし。

 ためしにノブを回してみると、かちゃっ、と扉が開いてしまった。


「失礼します」


 こわごわ、声を出しながら部室の中をのぞいてみる。

 部室は教室の三分の一くらいの大きさで、ちょっと狭いかな、という印象だった。

 扉のすぐそばに置かれていたホワイトボードに目を向ける。

 そこに書かれていた文字を、女の子が声に出して読み上げる。


「見学希望の方は椅子に座ってお待ちください、だって。まだ誰も来てないみたいだね」

「うん……」

「どうしたの?」

「おかしくない? 鍵、開いてたの。電気もつけっ放しだし」

「あ、そだね……。すぐ戻るつもりでちょっと出てるだけなんじゃない?」

「うーん……」


 そう考えるのが一番自然なんだろうけど……。

 並べられた五つの椅子のはしっこに座る。

 すると、女の子は私のすぐ隣に座った。

 初対面なのに積極的な子だなぁ……。私だったら、絶対反対側の一番はしっこに座ってるよ……。どうだっていいけどさ……。


 改めて、じっくりと部屋の中を見回す。

 新入生に配慮してのことで、普段は違うのだろうけど、中央には何も置いてなくて、左手の壁際に机が五つ寄せられていて、その上には、ノートパソコンとインクジェットプリンターと、いくつもの写真雑誌がちょっと乱雑に積まれていた。


 右手の壁際には大きな棚があって、大量の写真雑誌と、数冊のファッション誌と、漫画と、何かの分厚いファイルと、ぬいぐるみや、何だかよくわからないおもちゃのようなものがごちゃごちゃと置かれていた。

 あとは、棚に入りきらなかったものを詰めてあるのか、特大サイズの段ボール箱がぽつんと床に放置されていた。


「ね。名前、聞いてもいい?」


 女の子が顔をのぞきこんでくる。


「私? 日崎」

「日崎さん、ね。私は水野。えと……、カメラ、好きなの?」

「うん。好きだよ」

「私も。ずっとスマホで撮ってばっかりだったんだけど……」


 水野さんは、スカートのポケットからコンパクトデジタルカメラを出して見せてくれる。


「あ。かわいいね、それ」

「へへー。ありがとう」

「私のは、ね……」


 お返しにと、リュックからカメラケースを取り出してファスナーを引っ張る。


「わっ。一眼レフ! かっこいい!」

「うん……。でも、先月買ってもらったばっかりで、まだ全然使いこなせてないんだけどね」

「いいなー。私、どんなカメラにするかさんざん迷ったんだけど、結局かわいいなーって思って、これ選んじゃったんだー。後悔はしてないんだけどさー」

「わかるっ! 私もコンデジにするか迷ったよ。見た目もだけど、やっぱりポケットに入るっていいよね」

「ううー……。でも一眼レフうらやましーなー」

「一眼レフも買って、二刀流で頑張るのは?」

「そんなにお金ないよー」

「あははっ」

「日崎さんは、プロ目指してるの?」

「うーん、どうだろ……。難しいって聞くからね……。目指してるような目指してないような、微妙な感じかな」

「そっかー」

「水野さんは?」

「全然、全然! 私なんか遊びでやってるだけだよ」

「そうなの? でも楽しいよね。写真撮るのって」

「うん! うん!」


 そんな感じでしばらく水野さんとしゃべって、少し話題もなくなってきた頃、水野さんが不安そうにつぶやいた。


「誰もこないね……」

「うん……」

「もしかしてさ。場所、ここじゃなかったのかな?」

「それはないでしょ。そこにも、待ってろって書いてあるし」

「そうだけど……」

「でも、ほんとに遅いよね……」

「あと、ね……。さっきから気になってるんだけど……」


 水野さんが目線で示す。

 私も本当は、部室に入ったときからずっと気になっていた。

 努めて視界に入れないようにしていたけど、そうしているのも疲れてしまって、今は気になってしかたない。


 部屋の中央、その奥には一台、カメラがセッティングされていた。

 三脚に取りつけられていて、レンズはこっちを向いている。

 そのせいで、何だかずっと監視されているみたいで落ち着かない。もっと言えば、薄気味悪い。

 なんとなく、本当にただなんとなくだけど、下世話な週刊誌の記者に追われる芸能人って、いつもこんな気分なのかもと思ってしまう。

 ところが水野さんは、そんなことはまったく気にならないようで、


「あのカメラって、最新モデルのやつかな? 日崎さんのともちょっと似てない? 一眼レフだし」


 と楽しそうにしていた。

 その感覚のずれに、ちょっと戸惑う。


「そう、だね……。たぶん、いいのなんだと思うよ……」

「ね。近くで見てみようよ」

「えっ。でも、誰か来たときに椅子に座ってないと……」

「あんまり興味ない?」

「そりゃあ、ないわけじゃないけど……」

「でしょ! 大丈夫だって。見るだけ、触らないから。ねっ」


 水野さんの熱意にほだされて、しぶしぶ頷く。

 そうして椅子から立ち上がった、そのときだった。


「わあああーっ!」


 と大声を上げて段ボール箱が飛び跳ねた。

 突然のことに、


「きゃあぁーっ!」


 と、水野さんが抱きついてくる。

 何が起きたのかわけがわからない。とにかく怖い。

 寄りかかる水野さんを支えきれずに、二人して床にひっくり返る。


「あははっ! あははっ! 大成功っ! あっはははっ!」


 くぐもった笑い声に、ぽかんとして顔を上げる。

 目の前には、頭部だけが段ボール箱に覆われた、スカートをはいた人間が立っていた。

 その段ボール箱を、まるでフルフェイスのヘルメットを脱ぐみたいにして持ち上げて、女の子が素顔を見せる。


「いやー、ごめん、ごめん。大丈夫? 立てる?」


 女の子が差し出してきた手は取らずに、水野さんを抱えて立ち上がる。

 よほど怖かったようで、水野さんはまだ小刻みに体を震わせたままで、目にはいっぱいに涙をたたえていた。

 敵意をむき出しにして女の子をにらみつける。


「何なんですか?」

「ごめんって。そんなに怒らないでよ」

「怒りますよ。いきなり驚かされて。もう少しで頭ぶつけたり、どこかけがしてたかもしれないんですよ?」

「あ、う……。それは……、そうだね……」


 先ほどの大笑いからは一転して、女の子はしょんぼりと肩を落とした。それから、深く頭を下げる。


「ごめんなさい……」


 幸い、水野さんもけがはしていないようだし、本人も反省しているみたいだから許してやるか。


「もういいです……。写真部の人、ですよね?」

「うん。そう。二年の金見っていいます。一応、私が部長」

「何でこんなことしたんですか?」

「誤解しないでほしいんだけど、ただの悪ふざけじゃないからね。ちゃんと理由があってしたことだから」

「理由? 今のに、ですか?」

「実はね、びっくりさせたとき、写真撮ってたんだよ、あれで」


 金見先輩が三脚のカメラを指差す。

 それから、手に持っていた小さなリモコンを見せてくる。カメラのシャッターボタンを直接押さなくても、遠隔操作でシャッターを切ることができるリモコンだ。

 基本的にはタイマーの代わりだったり、ブレ防止だったり、警戒心が強い動物なんかを遠くにいながら撮影したりするときに使う道具のはずだ。


 余計にたちが悪い気がしてならない。

 周到に準備して、人を驚かせて写真を撮ろうだなんて。

 嫌悪感から、じとっと目を細めて金見先輩を見る。


「ちがっ……、違うから! ちょっと待ってて。ちゃんと説明するから。ね。そこ座ってて」


 金見先輩は三脚からカメラを取り外すと、机の上のパソコンを開いて、中腰のまま、何やらせかせかと作業をし始めた。

 二十秒ほどパソコンをいじって、今度はプリンターを動かす。

 そうして印刷したばかりのプリンター用紙を手に取って、こっちに突き出してくる。


「はい。どうぞ」


 見ると、驚かされて、びっくりして変な顔になっている瞬間の、私と水野さんを捉えた写真だった。はしっこには、金見先輩の段ボール頭もちょこっと写っている。

 きっと、何度も何度も綿密な調整をしたのだろう、椅子の位置を計算して、段ボール箱で飛びかかる角度も細かく決めて。

 すごくうまく撮れている。内容はひどいものだけど。


「どう?」


 胸を張ってそう言った金見先輩を、無言のままで、きっ、とにらむ。

 お前の顔ヘンテコだな、とあざ笑われているようにしか思えない。


「だからそういう意味じゃないよ! バカにしてるとか、そんなんじゃないからね!」


 バカにしている以外の何なんだ。

 すぐ横から写真をのぞき込んできた水野さんが、ふふふっ、と吹き出して笑った。


「変な顔だね、私たち。自分じゃないみたい」


 そう言ってさらに笑う。

 そんなの当たり前だ。人が驚いているときの顔なんて、大抵変なのに決まってるんだから。

 金見先輩が言う。


「日崎さん。この写真見て、どう思う?」

「何も。腹立たしいだけです」


 ビリビリに破り捨てたいくらいだ。


「そうじゃないんだってば。その自分の顔、よーく見て」

「何ですか?」

「自分がマジで驚いたときの顔って、見たことある?」


 言われてみれば、自分のこんな表情、見たことないかも。

 さっき水野さんが、自分じゃないみたい、って言っていたけど、同感だ。

 だいたい自分の顔なんて普段は鏡でしか見ない。それを考えると、確かに、こんなに驚いている瞬間の顔は初めて見る気がする。


「そう、ですね……。ないです」

「でしょ?」

「でも、それが何なんですか?」

「あなたはどんな写真が撮りたい?」


 そう言った金見先輩の目がすごく真剣に見えて、きれいで、何だかちょっと、どきっとしてしまった。

 二秒くらい置いて、言葉をつないでくれる。


「私はね、珍しいものが撮りたい。私の写真を見てくれる人が、わあって楽しんでくれるような、そういうの。その写真にはあなたが見たことのないものが写ってるでしょ?」


 あ、そういうことだったんだ……。

 そう思って、改めてこの写真を見てみると、確かにこれちょっと面白いかも。

 金見先輩はさらに続ける。


「自分の顔なんて、ありきたりの中のありきたりでしょ? でも見方を変えれば、発見があるものなんだよ。これって結構何にでも当てはまることでさ。前人未到の秘境を探検したりも面白そうだけど、たとえば自分の家の周りにだって、気づいてないだけで、きっとまだ見たことのないものがあるはずなんだよ。そういうことが言いたかったわけ。つまり、ね……。その写真は、私なりの自己紹介、のつもりだったんだけど……。その、やり方がよくなかったよね……。ごめんなさい」


 金見先輩は改めて頭を下げてくれた。

 パチパチパチ……、と拍手してから水野さんが言う。


「かっこいいです! 先輩!」

「えっ。あ……、そう?」

「はいっ! 何ていうか、その、うまく言えないんですけど、ぞわぞわってしました!」

「うん。あ、ありがとう」


 照れくさそうに頭をかいた金見先輩に、水野さんが詰め寄る。


「私、先輩にいろいろ教えてもらいたいです! カメラのこと!」

「ほんと? 入ってくれる? 写真部」

「はいっ! ぜひよろしくお願いします!」

「ありがとーっ! 超嬉しいよ!」


 少しして、金見先輩は、水野さんに向けていた笑顔はいったんすっと消して、こっちを見て真面目な面持ちで言う。


「あの……、あなたは? どうかな?」

「日崎さんも入るよねっ? 一緒にやろっ!」


 二人の視線にちょっとたじろぐ。

 金見先輩は、こっちがまだびっくり写真の件を全部許してはいないと思っているようで、不安そうにしていた。

 ついさっきまできつい態度を取っていたせいで、その後ろめたさと気まずさから、その目をまっすぐ見ていられない。

 自分の腕を軽くつねったり唇をかんだりしながら、少しずつ言う。


「まぁ、その……、先輩の、写真にかける情熱っていうか、熱意、みたいなのはよくわかりましたし、そういうひたむきなとこは、尊敬できるっていうか……、見習いたいかなって、思います……」

「えっと、じゃあじゃあ、入部してくれるってことでいいの?」

「はい。入部させていただきたいです。よろしくお願いします」


 お辞儀をすると、金見先輩は、ぱあっと明るい笑顔を見せてくれた。

 大喜びの水野さんと一緒になってこっちに寄ってきてくれる。


「こちらこそだよーっ! やったあーっ! ありがとーっ! あ、そうだ! 記念撮影しよう、記念撮影! 今すぐっ!」


 金見先輩はカメラを手に取ると、こっちこっち、と手招きする。


「いいですね! 撮りましょう!」


 と、水野さんが大はしゃぎで金見先輩にくっつく。

 二人のハイテンションについていけずにあたふたしていると、金見先輩が強引に腕を引っ張ってくれた。


「いくよっ! はい、ちーずっ!」

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