第3話 土谷美咲

 先生を待つ間、ただ廊下に突っ立っているのもつまらなくなって、なんとなく掲示板に顔を近づけてみる。


 いくつも貼り出された掲示物のど真ん中に、夏期講習のお知らせ、と題されたプリントがあった。そういえば今朝のホームルームでも、先生が何かそんなようなことを言っていた気がする。

 暇潰しに読んでみるか。

 ふんふん。なるほど。

 夏休みが始まってすぐ、七月の終わり頃から二週間にわたって、朝から夕方までぶっ続けで授業をやるらしい。この世の地獄だ。

 これじゃあ何のために夏休みがあるのか意味がわからない。

 でもよかった。これが強制参加じゃないのは本当にありがたい。


「何読んでるの?」


 声に振り向くと、すぐ近くに土谷が立っていた。


「ぬあっ……。あ、いや、別に何も……」


 興味津々といった様子の土谷に場所を譲る。


「あ! もしかして夏期講習? 出るの?」

「俺が? まさか。やるわけないって」

「えー。やろうよ。私、申し込みしたよ」

「土谷。これ、やんの?」

「うん。夏休みでも学校来たいし。楽しそうだし」

「何が楽しいんだよ。一日中勉強させられるとか、完全に拷問だろ」

「ええー。それは言い過ぎだよ。ふふっ」


 こっちは本気なのに、土谷は軽く笑って流してしまう。

 続けてハツラツとした声で言う。


「でも家で一人で勉強するよりはかどるよ。先生たちも、私たちのために頑張ってくれるわけだし」

「そりゃまぁ、そうなんだろうけどさ……」

「月坂君も一緒に夏期講習受けようよ。ね?」


 上目づかいに誘惑されて、思わず、うん、と言ってしまいそうになるのをぐっとこらえる。

 だめだ。よく考えろ……。ここで頷いたら土谷は笑ってくれる、だろうけど……、俺の夏休みが死ぬ。

 いくら土谷のお誘いとはいえ、それだけは……。


「あっ! そうだっ!」

「えっ。何?」

「ほら、俺、部活あるからさ。近いうちに大会とかもあるし……」

「そっか。月坂君。サッカー部だったよね」

「そう! そうなんだよ。ごめんな。せっかく誘ってくれたのに」

「ううん。部活も大切だよね」


 力なく頷いた土谷の、その寂しそうな表情にちょっぴり心を痛めつつも、ほっと胸をなで下ろす。

 おかえり、俺の夏休み。


「安心しろ」

「うわあっ」


 唐突な呼びかけにうわずった声が出てしまった。

 振り返ると、いつからそうしていたのか、豊橋先生が仁王立ちになってこっちを見下ろしていた。


「お前が夏期講習に出ることはもう決まってる」

「えっ? ええっ? ちょっと、待っ……。それ、どういうことですか?」

「サッカー部にはとっくに話を通してあるし、ご両親の承諾もある。何の問題もないぞ」


 何もかも初耳だ。そんな話はいっさい聞かされちゃいない。


「よかったね。月坂君」


 土谷が晴れやかに微笑みかけてくる。

 何がいいんだ。頼むから、そんな天使みたいな笑顔で人の不幸を喜ぶのはやめてくれ。

 あぁ……。さよなら、俺の夏休み。


「それより土谷。何か用事か?」


 先生はもう、完全にこっちは無視で、土谷のほうに体を向ける。


「これ。日誌、返しに来ました」

「そうか。悪いけど、私の机に置いといてくれ。これから出るんだよ」

「あっ……。それって、もしかして……」

「あぁ。それで、ちょっとこいつに役に立ってもらおうと思ってな。博打になりそうな気もしてはいるんだが、あんまり時間もないし、なりふり構ってられんのさ」

「やっぱり、難しそうですか?」

「先生の仕事だ。土谷が悩むようなことじゃない。な?」

「はい……」


 うつむいた土谷の肩に、先生はそっと手を置いてなぐさめる。

 いまいち何の話をしているのか理解できなくて、先生に直接聞いてみる。


「あのー。何の話っすか?」

「空気読め。女同士の会話に入ってくんな」

「ひっどい……。先生って、やたら俺にばっか冷たくないですか?」

「かもな」


 まさかの肯定。否定してもらえると思ったのに。


「えっ。ちょっ……」

「そんなことよりもう行くぞ」

「行くって……。えっ? 俺もですか?」

「当然だろ。何のために呼んだと思ってんだ」

「夏期講習の話だけじゃないんですか?」


 先生は若干キレ気味ににらむばかりで、何も答えてはくれないままひとりで歩き出してしまう。

 黙ってついてこい、ということらしい。

 小声で土谷に聞いてみる。


「俺ってさ。嫌われてんのかな?」

「そんなことないと思うよ。たぶん……。愛情の裏返しってやつなんじゃない?」

「あぁー。愛情の裏返しかぁ。なるほどね」


 そっかそっか、とさも納得したように頷いて見せてから、おどけて大げさにため息をつく。

 そのわざとらしい仕草に土谷は、ふふっと笑ってくれた。


「ね。月坂君」


 床に置いていた鞄を肩に引っかけて振り返る。

 それを待って、土谷が言葉をつなぐ。


「期待してるね」

「期待って何を?」


 意味がわからなくてそう聞き返すと、土谷はなぜか、困ったようなぎこちない笑顔で目をそらした。それから、しゃべりにくそうに何度かまばたきを繰り返す。


「土谷? 何だよ。気になるじゃんか」

「月坂ァ!」


 耳をつんざく先生の怒鳴り声に、すぐさま大声で返す。


「はいっ! 今行きますっ!」


 もう一度土谷のほうに向き直ると、土谷はもう普段どおりの明るい表情に戻っていた。


「またね」

「うん。また……」


 何だったんだ?

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