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というわけで、何故か婚約者さんの部屋に来ていた。
ディルミックからも義叔母様からも何も言われていないけれど、相手が相手なので断りにくい。一応、「明日、式が終わってからじゃ駄目ですか」とか「せめて朝になったら……」とか、ささやかに抵抗してみたのだけど、駄目だった。
「ごめんなさいね、貴女と一度お話してみたかったの」
部屋で一瞬見たあの表情は見間違いだったのでは、と思うほど、穏やかな笑みを浮かべていた。
だからって夜中に忍び込むか……? お貴族様はよくわからない。いやお貴族様じゃなくたって、結婚式の前日に新婦を起こすような人はいないだろ。非常識過ぎる。
「マルルセーヌの人だっていうから、お茶を用意してみたの。よかったらどうぞ」
そう言って、婚約者さんがお茶をくれた。
まあ、お茶に罪はないですし……。軽く飲んで少し話せば満足するだろう。
そうしたらさっさと返ろう、とお茶に手を付けようとして――。
「珍しいお茶らしいのよ。折角だから、どうぞ」
婚約者さんの言葉に、一瞬手が止まる。ぞわっと、腹の底から嫌な予感がこみあげてきた。
この人は知らないかもしれないが、対して親しくない相手が、「珍しいお茶を淹れたんだ。折角だから飲んでくれ」なんて言い出したら、大体のマルルセーヌ人は警戒する。
というのも、この文句、大抵お茶に何か入っているときのものなのだ。
前世で言えば、飲み会で飲み物を残したまま席を立つな、とか、異性と飲みに行ったときに青い酒を頼むな、とか、そういうやつだ。
仲の良い、気の知れた相手がそう言うのなら本当にただの自慢なんだな、というのが分かるが、他人のような相手では、警戒心が強まる。
状況が状況なので、本当は断りたかったが、婚約者さんからの「早く飲め」という圧が凄いので、とりあえず飲む――ふりだけをする。
ティーカップを近付ければ、本格的に警鐘がわたしの中で鳴り響いた。このお茶、十中八九、睡眠薬のような作用のあるお茶である。ドルミルーレという、中度から重度の不眠症患者が睡眠前のスリーピーティーとして飲むもので、健康な一般人が飲むと数分で意識が混濁して深い眠りについてしまう。マルルセーヌでは一般のお茶屋さんには絶対売っていなくて、薬屋さんでしか買えないものだ。
マルルセーヌでの母さんがいなくなってから、父さんが飲むようになったので、匂いを知っている。
……これはもう、多少失礼でも逃げてしまっていいのでは?
無礼だとか、非常識だとか、そういう範疇を超えている。ここで逃げたとしても、言い訳が立つだろう。
「あ、あの、わたしはこれで……」
強引にでも帰って、ミルリに来てもらって義叔母様のところへ避難させてもらおう。
立ち上がって、彼女の言葉を待たず、逃げ帰ろうとする。でも、腕を掴まれてしまった。ぎりぎりと、指先が腕に食い込む。
「――っ」
「いいから、座って、飲みなさい」
笑顔の仮面が剥がれる。やはりあの、怒ったような、憐れんで見下しているような、そんな表情。
わたしに何をするつもりなのか、疑問ではあるが、今一番成し遂げないといけないことはこの場から立ち去ることだ。もうここまで来たら最悪腕に傷が残ってもいい。ウエディングドレスを着るときでも、手袋で隠れる位置のはず。
なんでもいいから逃げなければ。
なんとか彼女の腕を引きはがし、入口へと向かう。ここまで来たら後はもう同じだろう、と、逃げる間際にティーカップをこぼしておいた。絨毯は弁償出来そうにないので、なるべく絨毯にかからないような倒し方で。
あと少しで逃げられる、と思っていたのだが。
入口の扉に手を伸ばしたとき、わたしがドアノブに手をかけるより早く、扉が開いた。
――扉の先には、それはそれは美しい、一人の男が立っていた。
まるで、わたしの行く手を阻むように。
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