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 ――その日の晩。わたしは、私室から寝室へと繋がる扉のドアノブを握りしめたまま、立ちすくんでいた。ディルミックに、どんな顔をして会うのか、まだ決めかねていたのだ。

 嘘が下手なつもりはないが、かといって上手な自信もない。ディルミックの前で、昨日までと同じ対応を、はたしてわたしはできるのだろうか。


 だって、その、この先に行けば、そういう展開になるのは分かり切っている。夫婦の営みのアレソレである。

 しかも最近はディルミックが、やたらとキスをねだることが多い。唇を重ねるだけの、中学生みたいなキスだが、今のわたしはそれでも平常心を保てるか、ちょっと怪しい。

 少し前までは、しょうがないなあ、と照れながらも毎回応じていたが、今日ばかりは「ちょっと待ってくれ!」と逃げるかもしれない。いや、逃げる。


 なんとも情けないというか、なんというか。初夜で、ディルミックがおどおどしていたことに対して、最終的にはキレていたのが懐かしい。今のわたしはあの時のディルミックを笑えないほど、動揺していた。ディルミックはわたしと違って怒らないだろうし笑いはしないだろうが、逆にそれが恥ずかしい。いっそ笑え。

 しかし、いつまでもこうしてここに突っ立っているわけにはいかないだろう。このままだと普段使っている一人掛けの椅子か、床で寝る羽目になる。椅子は寝ころべないし、床は掃除しているとはいえ土足文化の床で寝る気にはなれない。


 早く行かないと……。


 ディルミックに顔を合せるのが気まずくて、だらだらと風呂や寝支度をしていたので、そもそもいつもよりも寝室に入る時間が遅い。

 でも、いつもの時間を過ぎても寝室に言っていないのに、いつだかのようにディルミックの気配を、扉の前に感じない。


 ……もしかして、ディルミックもまだ寝室にいないとか? なんだかんだ、一般公開で忙しそうだし、他の仕事が詰まっているのかもしれない。

 逆にさっさとベッドに入って寝てしまおう! ディルミックには悪いが、今日ばかりは、ちょっと、無理だ。


 意を決して、扉を開けて部屋へ入る。初めてこの部屋に入ったとき以上に緊張している。

 出来るだけ平静を装ってベッドに向かうと、そこには既にディルミックがいた。

 一瞬ドキッとしたものの、こちらを向いて寝ころぶディルミックの瞼は閉じられていて――すやすやと寝息が聞こえてきた。


 ――いや寝てるんかーい!


 思わずそうツッコミそうになった。まあ、確かに、毎晩致しているというわけではないので、しないことも考えられたが、いつもディルミックはわたしの後に来るか、先にいても起きていたので、無意識に、わたしの方が後に寝る、という可能性を排除していたらしい。


 わたしはディルミックを起こさないよう、そっとベッドにもぐりこむ。安心したような、それでいて、少しだけさみしい――がっかりしたような。


「ばからし……」


 誰にも聞こえないような音量で、わたしは呟く。いや、実際、声になっていたかすら怪しい。

 わたしはもそもそと寝やすい位置を探し、そのまま目を閉じた。

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