33.5
ついに、この日がやってきた。
執事のセヴァルディに、純銀貨五枚を持たせ、彼女の部屋へ向かう。
契約金を支払う日だ。
純銀貨五枚自体は、彼女と結婚をすると決まったときから、用意していた。でも、前回までのことを考えると、すぐに渡すのは躊躇われたのだ。
純銀貨五枚は、惜しい金額でもなく、稼ごうと思えば稼げる金額だ。しかし、あっさり持っていかれては、こちらの沽券に関わる。ただでさえ、国中の貴族令嬢全員に縁談を断られて、貴族中の笑いものにされているのだ。
平民にすら何度も逃げられるなど、僕のような人間でも、何も思わないわけじゃない。
平民に、四度も金を持ち逃げ去れた間抜けな貴族など、未来永劫、笑いものにされるだろうし、不名誉な肩書で歴史に名が残る。既に手遅れな気もするが。
扉の前に経つと、セヴァルディが扉をノックする。「はあい、どうぞ!」と、いささか間抜けな声が聞こえてきた。
遠慮なく部屋に入ると、ロディナが嬉しそうにミニキッチンをいじっているのが目に入る。
「ミニキッチンは気に入ったか?」
そう聞けば、彼女は嬉しそうに肯定の返事をした。そして、親しい人にふるまうのだという、マルルセーヌ独特の文化の話までしてくれて。
――親しい、か。
彼女の中で、僕は『親しい人間』になれているのだろうか。彼女を信用していいのか、まだ少し、考えあぐねている。
彼女は、僕のような醜い人間のそばにいてくれる人間なのか、と。
でも、疑うのも、今日までだ。
彼女が好いてやまない金を、本来の目的である純銀貨五枚を、今日、僕は渡した。
そして、追加で、街で茶葉を買う金を渡した。
今日、逃げようと思えば、彼女は逃げられるはずだ。彼女付きのメイドの頭であるミルリは、最低限仕事こそするが僕のことを嫌っている。あくまで僕が主人なので、分かりやすく態度に出すことはないが、離れにいるメイドの中では、一番美醜観に厳しい人間だ。
ロディナが「逃げたい」と言えば、納得して逃がすだろう。
護衛に付ける人間も、新人を付けている。訓練はしているから、悪漢からはロディナとミルリを守れるだろうが、経験がないので護衛対象が逃げるなどと考えていないはずだ。そのくらい、ゆるい人間を選んだ。
つまり、今ほど、逃げるのに適したタイミングはない。
「そうだ、ディルミック、お好きな紅茶の種類はありますか?」
それなのに、彼女は、逃げることなど考えていない、とばかりに笑顔で僕に話しかけてくる。これが演技なら、ここから逃げた後は女優にでもなった方がいいだろう。世界に名をしらしめる、大女優になれるはずだ。
「茶葉を気にして飲んだことがない」
下手に誤魔化しても、お茶好きなマルルセーヌ人にはあっさり見抜かれるだろう。僕は素直に答えた。
実際、家で飲む茶葉を気にしたことがない。料理に関しては強い責任を持つベルトーニのことだから、下手なものは飲まされていないはずだが。
「だから、君の好きな茶葉でいい」
そんな言葉が、僕の口から出ていた。
帰ってこないなら、適当に買った茶葉より、好きな茶葉を買って置いた方がいいだろうと、思ったし。
もし、帰ってきたのなら――その時は、彼女の好きなものを、知りたいと思ったから。
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