第弐拾捌話 宴もたけなわ、ひとまずの大団円
比叡の元に着く前に、助六は取り分け仲のいいタケという男に呼ばれて行った。
三人になった九郎丸らの到着に、やはり例に漏れず酒の入った赤ら顔の比叡が笑みを湛えて歓迎の意を示す。
「アンタの為の宴だべ。存分に食べ、飲んでくれ! こン山の猪肉は美ン味ぇし、精もつく! アンタの足だってすンぐ治んべ!」
「お
「こりゃあ失礼した」
マサの叱責に眉尻を下げて詫びる比叡に、九郎丸はお気になさらずと軽く首を振る。
九郎丸らが腰を下ろした席は、流石長の座す所と言うべきか、ひと際豪勢な料理が並べられていた。
特大の猪の頭が鯛のお頭の如く食卓に鎮座していて、その猪の生首と目の合ってしまった九郎丸は絶句する。しかしマサや比叡の言葉に嘘偽りはなく、宴の馳走の主役を務めるのであろう猪肉は絶品であった。
辻は見たこともないような御馳走を前に、翡翠の瞳を輝かせる。箸をまだ上手く扱えない辻は脂ののった猪肉を手づかみで頬張るので、その手や口元は猪の油で艶やかに光った。余りの勢いに自分の赤毛までむしゃむしゃと食みだし、九郎丸は苦笑しながら辻の頬にかかった髪を編みこんで耳にかけてやった。
直ぐに解けてしまうだろうが、食事の間の邪魔な髪を纏めておく分には十分だ。
露わになったあどけない横顔と肉を頬張りすぎたまろい頬の輪郭、逃げやしないのに必死で肉を睨む眼差しに心が和んだ。
「九郎さ、辻さに構ってばっかでちっとも食べてねぇでねぇか。ちゃんと食わねぇと駄目だよぅ。へへへ……」
「マサさん、酔ってます?」
にへらにへらと少し前からは想像もできないくらいに陽気になったマサが九郎丸の顔を覗き込む。その瞬間に強い酒気が香った。
「ん!」
隣ではマサの言葉を聞いたのか、辻が鷲掴みにした肉の塊を突き出して来て、九郎丸はこれは一体どうしたものかと思案した。
「このまま食え、と……?」
「うん」
どうやら手ずから食べさせたいらしく、辻が手を引っ込める気配はない。期待するような視線を無碍には出来ず、折れた九郎丸は差し出された肉に齧りついた。
もぐもぐと独特なクセのある肉を咀嚼しながら、今はまだ致し方無いとしても、最低限の作法は教えねばなるまいと考える。
「九郎丸殿、飲んでるべか⁉」
次から次へとでも言うべきか、すっかり出来上がった様子の比叡が酒を片手に九郎丸に語り掛けた。語り掛けたとは言うものの、酒が入っている所為か怒号と言うに値する声量で、鼓膜が破けたかと九郎丸は錯覚した。
「比叡殿、いや実はまだ酒はまだ頂いておりません」
「そんな他人行事な言葉は不要だべ、九郎丸殿!」
そう言いながら比叡は九郎丸の横にどっかりと腰を下ろした。九郎丸との間に割って入られたマサから非難の声が上がるが、酔った比叡の耳には入っていないらしい。
「こン酒は村で作った酒。こいつさ飲み交わせば、アンタはもう家族も同然だべ」
と、特大の徳利からとくとくと盃に注いだ酒を九郎丸に差し出した。
周りを見れば、宴のどこでも同じ意匠の徳利が傾けられている。マサなどの女たちも皆一様に、水でも飲むが如くに飲み干していた。
「では、有難く頂戴致します」
盃を受け取った九郎丸は比叡が自らの盃に酒を注ぎ終わるの待ってから、なみなみ注がれたそれを一気に呷る。
途端、ぐるりと視界が回り、直後には目前に木目が見えた。
直後、びたん、と九郎丸は食卓に突っ伏した。
「九郎丸殿⁉」
「……この、おさけ……ずいぶん、つよ……」
まるで火の玉をそのまま飲み込んだようだった。喉が焼けるように熱くなり、たった一杯飲んだだけだというのに頭の中でぐわんぐわんと自分の心臓が暴れまわっているように感じる。
「なんだぁ、九郎丸殿、酒が飲めねかったべか。そりゃあ、すまねぇことぉした」
やたらと遠く聞こえる比叡の言葉に、九郎丸は内心首を振った。
九郎丸は下戸ではない。
寧ろ一座ではザルと呼ばれる類の人間であったし、酒も嗜む程度なら好きの範疇だった。ここの酒が強すぎるのだ。
男はもとより、女たちまでが同様にがぶがぶと飲んでいたから、それ程強くはないのだろうと高を括っていた。
全員、うわばみかッ……⁉
朦朧とする意識の中で九郎丸は恐れ慄いた。
このような秘境に住まうというだけで異端だというのに、もしかしたら自分は仙人たちの村にでも迷い込んでしまったのやもしれぬと九郎丸は回らぬ頭で考えた。
「九郎さ……?」
「……ん…………」
マサが九郎丸を案じてその肩を揺する頃には、九郎丸はすっかり酔いつぶれて眠りへと落ちていた。
「ありゃあ、眠っちまっただか……」
陽気な雰囲気を潜めて、少しだけ寂しそうにマサが言う。
「横にしてやれ、半端な姿勢で寝ると酔いが明日まで響くけぇ」
誰かの助言に従ってマサは突っ伏した姿勢の九郎丸を横たえる。元よりたれ目がちで童顔のきらいがある九郎丸の寝顔は酒で赤く、どこかいつもより幼い印象を受けた。
まじまじとその顔を見つめたマサは不意に宴の前の出来事を思い出し顔を赤らめたが、幸いにも酒の赤さに誤魔化された。
「んー……」
ふと、満腹になって眠気を覚えたらしい辻が目を擦りながら九郎丸の元へ歩み寄った。
「辻さも眠いべか?」
辻は半分落ちかけた瞼のまま九郎丸の顔を覗き込み、両の掌でその頬を挟み込んだ。
「ないてない……」
「どうしただか、辻さ?」
ぽつりと小さく呟いた辻はマサの問いには答えず、九郎丸の腕の中に潜り込むとすぐに寝息を立て始めた。
身を寄せ合って眠る二人の姿に、初めきょとんとしていたマサはほっこりとした笑顔を浮かべる。
「おやすみだよぉ、九郎さ、辻さ……」
夜も深く、宴は続く。
その賑やかな場所で、九郎丸は眠る。
腕の中に暖かな重みを抱いて、安らかに――――。
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