第拾伍話 マサ



 通された客人は少々野暮ったい装いの若い女で、勝気な目とはっきりした凛々しい眉が印象的であった。広く形のいい額の中央で髪を分け、その分け目から三本ほど短いのを零す。頭を手ぬぐいで覆い、うなじで結んだ様は田舎の村娘のようだったが、動きやすさを優先した旅装束は男のようで、おまけに猪撃ちに使う鉄砲を背負っていたので九郎丸は大層面食らった。



「折角訪ねてもらって、こんな格好で済みません」



 慣れないそぶりを見せながら自分の真正面に居住まいを正して座った女に、九郎丸は辻を膝の上で眠らせたままであることを一言詫びた。



「いんえ、おらは貴方さまに恩があって来たですだ。気にしねぇでくだせぇ……」



 女の口から出たのは思いもよらず訛りのきつい言葉だった。



「恩?」



 咄嗟には心当たりが思い浮かばず、九郎丸はそう訊き返す。



「申し訳ない、用件にさっぱり心当たりがないのです」



 多少失礼とも思えたが、ここで取り繕っても意味がない。正直にそう問う。出来うる限り穏やかに問うたつもりだったが、女は九郎丸の言葉におどおどとした態度を見せ、ゆっくりと口を開いた。



「おらン名前ば、マサぁ言うで」



 普段はきりりと上を向いているであろう眉尻を下げ、マサと名乗った女は語り出した。



「あん日のあん夜、貴方さまにお命救って頂いたもんですだ」


「……あぁ」



 そこで漸く合点がいった。

 何故だろうか、不自然なことではあるが、あれほどのことがあったというのに今までそのことを思い返すことはなかった。そんな余裕もなかったとも言えるだろう。いや、考えないようにしていたのか。


 九郎丸は目の前に座るマサの姿を改めて観察するが、あの時は視界の悪い夜であったことと《血錆》の相手をするのに手いっぱいで、やはり記憶の中にマサの姿を見つけることは出来なかった。



「申し訳ない」



 覚えていないと率直には言えなかったが、言外にそう伝える。



「そんな、謝んねぇといけねぇのはおらの方でさ」



 マサはきゅっと今にも泣き出しそうに眉を歪めた。



「おら、あん後、どうしても助けて下すったお人にお礼ば言いたくて、の屋敷さ行っただよ。そしたら、そしたら貴方さまが……、おらぁを助けてくれた時ん怪我で屋敷ば追い出されたぁ聞いて……、そんで、おら、おらぁ申し訳なくて、申し訳なくっ、てぇ……ッ!」



 ついに堪え切れなくなったのか、マサは膝の上で固めた拳を畳の上につき、項垂れたままぼろぼろと涙をこぼし始めた。



「ま、マサ殿⁉」



 これには九郎丸も大いに狼狽えた。しかし、狼狽えたところでそこは九郎丸。気の利いた慰めの言葉一つ浮かぶはずもない。



「殿なんてッ、そんな風に呼ばんでくだせぇッ! おらぁの所為で貴方さまはッ、貴方さまはぁ……! うぅ、ううぅうわぁああああッ……!」



 そこからはもう言葉にならず、精一杯押し殺して尚漏れ出た声は掠れていた。根っからの善人なのだろう。だからこそ、その事実を知った時の彼女の心境が思い測れるというものだ。    


 あるいは恩人に罵られ、恨まれる覚悟さえあったのやもしれぬ。それでも九郎丸を追ってここに来た女の心の内は、罪の意識で張り裂けるほどだったのだろう。


 そんなことを九郎丸は他人事のようにぼんやりと考えた。自分の為したことの結末を、戸惑いと共に見つめていた。



「ん……」



 マサの泣く声か、はたまた九郎丸の動揺が伝わったのかは知れないが、そこで眠っていた辻が目を覚ました。


 寝ぼけ眼を擦って回りをきょろきょろと見回した辻は困惑を隠せずにいる九郎丸と、その正面で号泣する見知らぬ女に目を白黒とさせた。



「辻、寝起きで済まないが女将を呼んできてくれ。俺の手には負えん」



 ともすればまた叱責を食らった上で迷惑料をも分捕られるかもしれないが、あの女将以外に今ここで頼れる相手も居らず。辻は寝起きの頭を暫く揺らしていたが、眠気を飛ばすように頭を勢いよく振ると襖を開け、部屋を出ていった。



「…………その、男のもので悪いが、これ……」



 さしもの九郎丸にも、泣きじゃくる女子に手ぬぐいを差し出すくらいの分別はあった。マサは差し出されたそれを見て何か礼のような、あるいは詫びのようなことを口に出したらしかったが、その言葉は嗚咽にかき消され聞き取ることはできなかった。


 受け取った手ぬぐいを顔に押し付けて、その奥でひっくひっくとしゃくりあげる若い女の声は居心地が悪くてたまらない。まるで針の筵である。



 辻が漸く忙しい女将を無理に引っ張って戻ってきた時には、少し見ないうちに九郎丸は随分弱ってやつれていた。



「まぁ、まぁ……」



 張り付けたような蒼白の笑みに冷や汗を流す九郎丸と、嗚咽を漏らしながら肩を震わせるマサを見て、女将はそう言ったという。



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