姦しく、雫

武内颯人

01

 金属が朝靄に響く。珍しく深い眠りのなかにいた私だったけれど、アスファルトの悲鳴で目を覚ましてしまう。


 隣で眠っているのは姉の彼氏だった人で、今は私の恋人になった人だ。家に帰らず、彼の部屋で生活をするようになってから数か月。もう見慣れた風景だった。ベッドからうかがえる本棚の並び、つけっぱなしのパソコン、切り忘れたエアコンのシグナル。ベランダから注がれる光は影を帯びている。これはここ二週間ほど、外壁の工事のために作られた足場や養生シートによるものだった。


 その向こう側から聞こえてきた落下音を確かめるべく、軽く上着を羽織ってからベランダから身を乗り出す。九時過ぎ、八王子のマンションは駐車場に車をお腹いっぱいに溜め込んでいた。



 黒い地面に一つだけ、銀に光った工具が一つ。棒状。


 私にはその工具がなんというものなのか、分からなかった。なんか、スパナとか言っておけばそれっぽいんじゃないだろうか。朝の光を反射させ、私におはようだなんて挨拶もよこさない。仏頂面もいいところ。


「どっから落ちたんだろう」


 シートの隙間から見えた世界に疑問も落としてみる。残念ながら誰に拾われるでもない私の疑問と、慌ててその工具へと駆け寄る若い男。ツナギを着ている人だった。きっとあれは、彼が落としてしまったのだろう。拾い上げる直前、彼へと飛んで行った怒号からして、それは疑いようもない真実になった。


 怒られるのも当然で、あんなものがマンションの何階からか落ちてくれば、当たった人間はひとたまりもない。歩いていて、上から物が落ちてきて死んでしまう。幕切れとしてはあまりに滑稽で、かつなんのドラマもない死に方だ。


 恐ろしいことにならなくてよかったねと、どやされながら仕事に戻る青年へ零した。



「オフだからって、いつまでも寝ているのはどうなの?」


 彼の指を撫でてみる。くすぐったいのか、寝返りを打った彼はその太い指を隠してしまう。口を不規則に動かして、案外少年のような目元を歪ませた。こういう表情をもっとすればいいのに。なんて思ったところでどうしようもない。この人に無垢を求めたって仕方がない。というより、誰にだって求めていいものではないのだろう。心までの清潔を求めたところで、その要望自体が不純なのだから通るわけがない。通るわけがないのだ。



 大学が三限からの日は、のんびりと彼の寝顔を観察したり、いなければゆっくりリビングでテレビを見ていたりする。どちらもくだらない趣味だった。けれど、去年までの忙しさを考えれば、ふさわしいモラトリアムを手に入れられた気がして悪い気はしない。合鍵の在処を内ポケットに見出して、死んだように目覚めなかった彼氏を置いて部屋を出る。


 許されるはずの風が肩を撫ぜる。一一月は、今日で終わる。マンションの掲示板も、外壁の工事の終了が今日であることを強調していた。



 四限の講義を終えて、足早に集団の塊を追い抜かしていく。街灯が道しるべとして私の前を照らしている。といっても、ビル群の中にある大学なのだからほかの灯りだって似たようなことをしてくれている。光はいくらでも代用が効く。それがこの都市が持っている特権なのではないだろうか。なんて荒唐。



「ユキシロさん、しばらくレジお願いね」


 店長の言いつけ通り、私は地蔵のごとく白いレジに身を寄せた。店内には人がほとんどおらず、加えてものを買っていこうとする人間はなおのことだった。みんな花の死体を見つめるのに忙しく、物珍しさにお腹をいっぱいにして帰るのだろうと予想ができた。ここに務めていることにも慣れてきている。だから、買い物に来たお客とそうでない人の区別くらいお手のものだった。


 表参道横の住宅街、地下駐車場をくり貫いたような店内は、いくら暖房を強くしたって底が冷えた。打ちっぱなしのコンクリートに立て掛けられたドライフラワーたち、生花とは違った趣があるということで部屋のインテリアの足しにしようという女性客と、それの付き合いできた少数の男性客に恵まれているお店だ。ただ、平日は伽藍洞のように侘しさ溢れる様相を呈してしまうのがたまにキズだった。


 今日がまさにそんな日だ。木曜日という、人類がもっとも疲れている曜日。仕事帰りに寄るOLだってほとんどいない。


 ここはグリセリンをたっぷりと吸い上げ、生体反応を失った花々のお葬式会場だ。参列者の数が少ないことから、生前の花たちは人望がなかったことを窺わせる。かわいそう。



 姉の葬式を思い出して、彼女の友人の多さを実感した。私なんかよりもよっぽど人当たりがよく、水の上を跳ねる石のような軽快さを見せる人だった。それでも彼女は死んでしまった。みんな泣いていた。私も釣られてしまいそうだったけれど、見方を変えればなんて滑稽なんだろうと思っていた。


 私は姉が、生きているときからずっと苦手だった。



「ありがとうございました」


 店長が花の屍を、花束にしてお客へ渡す。私も笑顔を作ってお辞儀をする。今日は休みだったのであろう、カジュアルな格好の男女。私よりももう少し歳がいっている、麗しくも成熟しつつある二人だった。店長の香水、ローズのシングルノートがごとき花束を抱え、二人は店内から姿を消す。


「ありがとうね」


 ただ突っ立っていた私にも、同質量の笑顔を振りまく店長。三〇代後半でこの店を開き、海外からのお客も訪れるまで成長させた彼女は、姉によく似た人当りを持ち合わせていた。バイトの面接のときから、変わらない印象だった。



 あまりにも、彼女は姉を彷彿とさせすぎる。二〇代で死んだ姉の死体より、シワもシミも多いけれど、香水の趣味も、参考にしているのであろう化粧の傾向も、なにより飲んでいるコーヒーの種類がいっしょだった。コロンビアスプレモ、よく炒られている香りを、朱色のマグカップで飲む仕草までそっくりだった。


 だから、彼氏がこの店に来たいと言っても断り続けていた。いつしか彼もそんなことを言い出さなくなっていたけれど、店長と彼が接触するのはなんとしてでも避けなくてはならない。会うたび、話すたび、その思いだけが強くなっていくのだ。




 店を閉め、同じくアルバイト身分のカネコとクスノキ両名と歩き出す。自宅のある上階へと引っ込んだ店長はいない。今日も足が冷えたとか、客が花を触りすぎてダメになったとか、重要だかも分からないような愚痴を言い合った。


「ユッキーとカネコさ、このあと時間ある?」


 クスノキの彼氏にまつわる愚痴かと身構えた私たちだったけれど、それにしては彼女の表情は朗らかに見える。


「墓行こうよ、墓」


「墓ぁ?」


 カネコは意味が分からないと声を上げる。彼女が、レポートを提出したあとだから、かえって即寝たいとシフト前に騒いでいたのを思い出す。けれどクスノキのお願いを断れるタイプでもないから、渋々と了承していく流れ。いつものやつだった。


 私はそんなやり取りがおもしろいから、いいよってついていく。こうなるとカネコはさらに断りづらくなっていくから、表情筋が険しくなっていくのだ。これもまた、私にとってはおもしろい。

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