3)

 兄の家から逃れ、走ったり歩いたりを、二刻は繰り返しただろうか。

 道は次第に上り坂になった。山に入っていた。今では、通っているのが道なのか、ただの草地なのか、区別がつかない。

 枯れた下草が足へ絡みつく。暗い木立を走り抜けた。

 ユズの手を引いていた男が、腰に巻いていた縄の端を引いた。頑強に思えた結び目が、瞬く間に解ける。おもりを付けた端を投げ上げると、縄は大木の枝に掛かった。反対の端をユズの脇へ回し、手早く結ぶ。

「登って」

 言われるまま幹に足をかけた。男が縄を引き、負荷を軽くする。

 どうにか一番下の枝へかじりついた。ぎりぎり腕を回せる太さの枝へ跨る。直後、男が身軽に登ってきた。まるで、サルだ。

「くそ、どこへ行った」

 罵声が近付く。

 下を覗こうとした頭を押さえつけられた。ぴたりと伏せさせられ、枝と一体化する。白日の下では意味がないだろうが、月光が描く複雑な網目模様のような枝の影が、ユズたちを隠してくれただろうか。

 根元の薄闇を、複数の人影が通り過ぎた。

 息をするのも憚られる。

 追ってきた足音は次第に遠くなり、辺りは風のざわめきが聞こえるのみになった。

「もう、いい?」

 そっと、側の男に尋ねた。親しくもなんともない異性と体を密着させている居心地の悪さから、一刻も早く開放されたかった。

 彼は、静かに首を横に振った。わずかに上を向いた鼻の先にクモの巣が付いているが、笑える状況ではない。

 ユズはため息をつき、足を摩った。町の整備された道はまだ良かったが、逃れてすぐ、足元の悪い山道に入った。脛は、どんな厳しい舞の稽古を終えたときより張りが強く、気だるく痛んだ。

「なんで、こんな目に遭わなきゃいけないの」

 ぼそりと、心の内が零れた。

 本当なら今頃は、担当振付師兼恋人と、ささやかで甘い宴を開いているはずだった。昨日のミカドの聖誕祭で頂いた褒美の代わりに突きつけられた密告書。あれがなければ、寒空の下で、木の枝に擬態するような惨めなことにはならなかった。

 男は、太い眉の端を下げた。

「すまない。しばらく辛抱してくれ」

 苛立ちを含んだ狩人の声が、木立と山の斜面に反響した。

「そっちは」

「いない」

「探せ」

 足音が、右から、左から近付いては遠ざかり、また別の方向から近付いてくる。ユズたちを、血眼になって探しているのだ。

「俺がいいと言うまで、ここでじっとしているんだ」

 ユズの耳元で言い残すと、男は枝を伝ってゆっくりと移動を始めた。身軽に近くの木に移り、何度かそれを繰り返した後に地面へ飛び降りて姿を消した。

 あとには、冷たさを含んだ風に枯れ葉が擦れる音が残った。

 やがて、離れたところで、ものがぶつかり合う鈍い音が生々しく聞こえてきた。ダイチを襲った狩人達の姿を思い出し、胸の辺りが重くなった。

 ダイチは、無事なのだろうか。心配になった。

 一方で、勝手な行動の見返りなのだから、どうとでもなれと恨み言も被さる。

 争う気配は、次第に遠ざかった。

 眼下に薄く広がる闇を透かし見た。ユズが見る限り、動くものはない。

 逃げよう。

 ユズは心を決めた。狩人とカゲから逃げるなら、今しかない。

 地郷公安部なら、話を聞いてくれるはずだ。とうの昔に住民登録上の縁を切った兄の謀反に、自分は無関係であること。

 技芸座の座長や恋人も、ユズがミカドになんら反逆心を抱いていないと証言してくれるだろう。聖誕祭の舞台で舞うための、血の滲むような努力を、彼らは身近で見ていたのだから。

 体にかけられた縄を解いた。

 幹にかじりつく。慎重に、靴先でくぼみを探った。木登りなど、何年ぶりだろうか。

 ようやく、地面に足が着いた。たいした高さではないのに、酷く疲れた。不必要に力を込めた肩や腕が痛んだ。

 吐き出したため息が、白く闇に浮かんだ。

 斜面を見下ろす。

 帰る道は、分からない。そもそも、道がない。だが、その点、ユズは楽観的だった。ただひたすら上ったのだから、下ればいい。

 耳をすませた。周囲に、人の動きがたてる音は聞こえなかった。

 ユズは走り出した。踵を付けず板張りの舞台を音もなく移動する術は、もう何年も前に習得している。

 順調に、地面を滑るように走った。木立がまばらになる。遠くに光が見えた。

 地郷で夜も明るいのは、花街か、地聖町に聳える『方舟』だけだ。特に、ミカドの居城でもある方舟は、南部の海岸で風力により発電した電気を使用している。

 光は明るく、遠くから、ユズを導いているようだった。

 このまま逃げおおせる、と思った。

 足元を、何かが掠めた。

 小さく叫び、つんのめった。横倒しになり、枯れ草の表面を滑る。咄嗟に、足を庇った。

 滑落が止まった。まず、足を確認した。動かせる。舞い人として、安堵した。

 刹那、背後で風を切る音がした。

 夢中で地面を転がる。頭上すれすれで白刃が弧を描いた。振り返ると、覆面をした狩人が、長い刃を構えていた。

「ちょっと、話を聞いて」

 両手を挙げた。敵意が無いことを示しながら、ゆっくり立ち上がった。

「私は、何もしてないから。ダイチとも、関係ないし」

 真摯に訴えるが、覆面の刃は再度迫ってきた。話を聞く気など、微塵もない。

 全身の血の気が引いた。動けない。

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