地聖ちせい町の街道でコウと別れた翌朝、マサキはすでに元時埜ときの村の地を踏んでいた。

 草の上に立ち、大きく息を吸った。空気には、雪の匂いが残っていた。空の近さ、澄み具合も町とはまったく違う。やはり、自分の肌には山の空気が心地よい。村を離れて半年しか経っていないというのに、懐かしさが溢れてきた。

 今日は晴れている。夜になれば、満天の星空が広がるだろう。しかし、秘密の近道を使っても尚、星を眺める時間まで滞在できないのが悔やまれた。

 提げていたランプの硝子カバーを上げると、火を吹き消した。油の匂いが風下へ流れ去る。

 尾根には、蔓草に覆いつくされた廃屋が、いくつも放置されていた。なだらかな山肌にぼんやりと曲線が描かれているのは、かつて、薪にする木材や掘り出した鉱石を麓へ運んだ、トロッコのレールが埋まっている筋だ。

 祖父が若かった時代、ここには、賑やかな村があった。抗夫が料理に舌鼓を打ち、仕事の疲れを癒し、労働力にもなる山羊を育て、家族と共に過ごしたという。

 現在、時埜村の住民を名乗るは、マサキの両親であるヤマト夫妻だけだ。住民台帳上では、彼らもすでに、麓の陽暮ひぐれ村に属していた。

 山を愛するあまり、最後まで残り、坑道を知り尽くした祖父の代から、マサキの血筋は周囲から浮いていた。ヤマトも、日暮村の住民と慣れ合うことはせず、だが、険しい崖の上などにのみ生息する貴重な薬草を売ることで、頼りにされていた。彼は、マサキの誇りではあったが、素直に自慢する気にはなれない。

 おもむろに、マサキは、いましがた出てきた地中の穴へ呼びかけた。

「なに、コソコソ息子の後をつけてるんだよ」

 光を拒む闇を湛えた坑道の奥から、わざとらしい靴音と忍び笑いが近付いた。目を細め、ニヤニヤと現れた無精髭の父を、呆れ半分、怒り半分で睨む。ヤマトは悪びれず、大きな荷物を担ぎ直した。

「振り向かないから、うまくいっていると思ったが」

 マサキは、半眼で父親を睨みつけた。

「親父だって分かってたから、無視してただけだ。途中でその荷物を押し付けられても困るし」

「丁度、麓に美味い肉とチーズが入ったと聞いてね。お前のことだから、本配属の前に帰ってくるだろうと思ったよ。そうそう、特別に早い異動だって?」

「その話、どこから聞いたんだよ」

 ぐははと笑い、ヤマトは軽い足取りで坂を上った。健脚も、耳敏さも、衰えていないようだ。内心安堵しながらも、彼に振り回される自分のふがいなさに舌打ちした。まだまだ、敵う相手ではない。

 畑を囲む柵を越え、マサキは父親を呼び止めた。

「先に、寄っていいか?」

 目で、家と並んで建つヤギ小屋を示した。ヤマトはあっさり頷くと、上着のポケットから鍵の束を出した。目の高さに掲げ、顔をしかめながら形のよく似た鍵を見比べた後、一つを外して投げて寄越した。

 未だにヤギ小屋と呼んでいるが、最後のヤギが寿命を全うして十年近くが経つ。その頃すでに、閉山が決まり、村人は麓へ移住を始めていた。マサキが六才になるか、ならないかの時だ。積もった埃で白く浮き上がる木枠は、今は農機具を立てかけるのに使われているだけだった。それでも、取り壊さず、最低限の手入れを続けているのには、わけがあった。

 奥の壁と床の間へ手を添えると、軽く押した。音も無く壁の一角が持ち上がり、大人が一人ようやく身を滑り込ませるだけの入り口が開ける。先には、暗がりに飲み込まれた階段が続いていた。身を屈めて潜ると入り口は再び沈黙のうちに塞がり、あとはもう、自分の鼻先すら見えない闇に包まれる。段数を数えながら下りていき、手を伸ばすと扉に触れた。預かった鍵を手探りで差し込み、ノブを回すと、淡い光が目を射した。

 祖父は、趣味で掘ったのだという。それをヤマトが引継いだらしい。ここに、物心ついたときには、サクラの祖母であるマリが住んでいた。

 大人になり、冷静に考えると、いくつもの疑問点があった。

 マリとヤマトの間に、血縁関係はない。マリは、町で暮らしていた。息子のチハヤを女手ひとつで育てていた。閉山前の村は、テゥアータを含む様々な土地から仕事を求めて人が流れてきていたというから、マリ母子も移住してきたのだろう。年も家も近かったチハヤとヤマトが親友になった。そこまでは、分かる。

 マリに勉学を教わり、チハヤが地郷公安部員となり、村の英雄となった。それも、理解できた。公務の利便性も考え、家族向けの官舎にマリを呼び、世帯をもって、サクラが生まれた。

 本来なら、親友とはいえ、地理的にも身分的にも遠のいたチハヤとヤマトの関係は、そこで自然消滅してもおかしくなかった。が、ある事件で冤罪逮捕され、拷問まで受けたマリが釈放された後、ヤマトが身柄を引き受けた。

 記憶にあるマリは、穏やかな笑みを絶やさない、優しく理知的な女性だった。しかし、マサキは、彼女の顔を正面から見ることができなかった。顔面の半分は、拷問により、醜く焼けただれていたからだ。指の爪も、失われていた。

 あの顔で、町に住み続けるのもまた、拷問だったであろう。治安の平定をミカドから任されている地郷公安部員の身内から、冤罪とあっても逮捕者を出したあと、醜聞も酷かったと予想はつく。村にも、まだ数名は、マリを知る年配者が残っていた時だ。恐ろしい容姿になったマリを、人目に晒したくなかったのだろうか。

 彼女が望んだのか、どうなのか。マリは、母屋ではなく、この地下室で余生を過ごした。そのおかげで、家出同然で忍び込んできたサクラと出会えたのだから、父親同士の強い絆に感謝すべきなのか。いつもマサキは、そこでマリについて考えるのを止めてしまう。

 行方をくらましたサクラが身を置きそうな場所として、真っ先に浮かんだのが、ここだった。しかし、部屋にこもった空気が、彼女の不在をはっきりと証明していた。

 壁に触れた。天井付近の採光窓から射し込んだ淡い光が、白っぽい壁に日焼けの痕を浮かび上がらせていた。マリが若いとき縫った、キルトの壁掛けがかかっていたところだ。

 サクラと出会い、過ごした時間が、五感を通して蘇った。

 崖から滑落した彼女を背負ったときの軽さ。

祖母を亡くした悲しみに声をあげて泣いていた、震える肩のか細さ。

初めて触れた唇の冷たさ。

重ねた肌の滑らかな温もり。

 全てがこの空間にあり、淡い光の中に散っているように感じられた。

 取り戻すのが不可能でも、せめて、これから前に進むためにも、一度じっくり話をしたかったのだが。手紙に思いを綴ろうにも、サクラと違って、マサキには手紙の宛先すら分からない。一方的に、どこかから見守られている状況が歯がゆかった。

 やはり、嫌われてしまったのだろうか。好きだからというのは、マサキを傷つけないための優しさだったのか。

 マリの傷はチハヤのせいだと、幼いサクラは憤っていた。チハヤに憧れ、マリに勉強を教わるマサキを、半年先に生まれた彼女は、腕を組んで見下ろした。

『地郷公安部員なんて、みんなを虐める悪人なんだよ。マサは、そんな悪い人になりたいの?』

 教書には、そのようなことは書かれていない。チハヤも、凛々しく、誠実な面立ちと振る舞いをしていた。村で地郷公安部に似た役割もこなす代表者は、諍いを起こした農民の意見を丁寧に聞き、問題解決に努める頼りがいのある人だった。町を知らない純粋な少年だったマサキに、サクラの言葉の裏にあるものを感じ取ることはできなかった。だから、約束した。

『じゃあ、僕は、みんなの笑顔を守る公安部員になるよ』

 そのときのサクラの、驚いたような、泣きそうな顔は、今でもはっきりと覚えている。彼女との距離が縮まったのも、そのときからだったはずだ。

 そのこともあり、マリの死後も勉強や射撃の練習に付き合ってくれたサクラが、地郷公安部員になることを認めてくれたと思っていた。なんのかんの言いながら、町で学問所へ通うサクラの目標も、他の地郷公安部員の子ども同様に、親の後を継ぐことになっているのだと、信じていた。

 受験もせず、成人と同時に、チハヤと絶縁して行方をくらませたサクラが、今、どこで何を考えているのか。マサキの死を夢で予知し、知らせてきたのは、少なからず好意が残っていたからと捉えるのは、自惚れなのか。

 確かめる術は、全くつかめなかった。

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