人形でやる二度目の人生

@soyogiyu

第1話


プロローグ「元の世界」


「ふう……やりすぎたか」

 俺は頭に着けたヘッドギアを取り外していた。何故俺がそんなものを着けていたのかというと、今話題のVRゲームをやっていたからだった。

 長時間ゲームをし続けたのもあって、少し休憩をする為にVRゲームの世界から現実に戻ってきた。

 時刻は昼の一時を過ぎていた。

 すると携帯が鳴った。

「誰からだ?」

 携帯の画面を見てみると母親からのメールが届いていた。

「何で今更メールなんか?」

 俺は現実というのが嫌になっていた。対人関係が特に苦手で回りと合わせることのできなかった俺は周囲から苛めを受けていた。

 そんな環境から逃げるようにして家で引きこもるようになった。そんな俺は現実ではない世界で二度目の人生が歩めるというVRゲームというものに出会った。

VRゲームは現実が嫌になった俺に新たな世界を見せてくれた。

それからVRゲームにハマっていった。親の金で生活しながら毎日毎日ゲームをやり続けていった。

「は? はああぁぁぁぁぁ⁉ あのクソババア⁉」

 メールを見た俺はその内容にとてつもない怒りを覚えて声を荒げた。

「クソクソクソ⁉」

 俺は携帯で母親に電話を掛けるが一向に電話に出る様子がない。

「クソッ‼」

 携帯をベッドに向かって力強く投げた。携帯はベッドに叩きつけられたが壊れてはいなかった。

 母親からのメールには働きもせずにゲームばかりしている俺に愛想が尽きて生活費や電気代といったものをもう払わないというものだった。

 一度は会社勤めをしていた俺だが、その環境に馴染むことは出来ず、今の俺は一人暮らしをしている。そんな俺のことをもういらないというのだろうか。

 俺はその現実を見るのが嫌になりヘッドギアを頭に着けてVRゲームの世界へと行くのだった。

 いわゆる現実逃避というやつである。

VRゲームを起動するとログイン画面が見えるはずだった。しかし、視界は暗いまま俺の意識は段々と薄れていく。

 俺は意識がなくなった。


第一章「ゲームの世界⁉」


「ううん……」

 暗い視界が段々と明るくなっていった。そこで俺は意識を取り戻した。

「俺はいったいどうしたんだ?」

 俺は目を擦りながら周囲を見るとそこは俺の部屋ではなった。

「ここは……」

 俺は辺りを見渡してみるとそこは草原だった。辺り一帯が何処までも続いているかのような錯覚を覚えるほどに見える範囲には木々や建物といったものが何一つ見えなかった。

 俺は夢でも見ているような気分になった。しかし、その広大な草原には見覚えがあった。

「そういえばゲームをしたんだった」

 それは俺がやっているVRゲームの世界で見た景色とそっくりだった。始まりの草原と呼ばれるゲームを最初に始めた時のチュートリアルを受ける場所だったと思い出した。

「やっぱりゲームか」

 そう思ったら段々と落ち着いてきた。だが普通ならログインすれば前にセーブしていた宿屋か街にあるリスポーン地点に出るはずだった。

「メニュー!」

 俺は何が起きているのかを確認するためにメニューを開くために言葉を発した。だが、メニューは表示されなかった。

「あれ? バグでも起きたのかな?」

 メニューが出てこなかったことに驚いたがまあそのうち直るだろうと後回しすることにした。

 俺はこれがゲームだと思い楽観視していたのかもしれない。

「まあ、まずは街に行くか」

 俺は始まりの草原から近い場所にある街に向かうために歩き出した。

 それから歩いて行くものの一向に街が見えてくる気配がしなかった。

「なぜだ? 進んでいる気が全くしないんだが」

 俺は街に辿り着かないのがおかしいと感じ始めた。

「どうなってんだ?」

 何故全然進まないのかと気になり足元を見る。

「ん?」

 足元を見てみると変なものが視界に映った。それは毛むくじゃらで動物の足のようだった。

「何で動物の足があるんだ?」

 俺は自分の足元に自分の足では無くて動物の足があるのがよく理解できなかった。

「え?」

 そこで俺は自分の足がないことに気が付いた。

 俺は段々と自分の足が無くなっていることに恐怖を感じて体が冷えていくのを感じた。

「まさかな……」

 俺は怖いと思いつつも再び足元を見る。気のせいだと思いたかった俺だったがそこにあったのは紛れもなく動物の足だった。

「何じゃこりゃぁぁぁぁぁ⁉」

 俺は自分の足が動物の足になっていることに驚き発狂しながら飛び上がった。

「え? え? 何で足がこんなのになってんだ?」

 そして俺は自分の足を確かめるために自分の腕を足に伸ばした。

「は?」

 視界に出てきたのは動物の前足のようなものだった。

 そこで俺は気づいてしまった。自分の体が熊の人形になっていることを。

「お、お、俺の体―⁉」

 俺は自分の体が変わってしまったことに耐えられず四つん這いになるようにその場に崩れ落ちた。

 道理で全然進まないわけだ。何故なら体がとても小さかったからだ。子供より小さいだろうと感じてしまう身長をしていた。

 足が短すぎて一歩一歩が短くなってしまっていた。

 これでは普通に歩いていたら進まないように感じるのも当然だった。

「アバターが変わるなんてゲームに無かったはずなんだが……」

 俺は段々とこの世界がゲームではないのかもしれないと感じるようになってきた。

 なんかゲームって感じがしないな。そんなことを思っていた時だった。

「っ……⁉」

 心臓を鷲掴みするような得体の知れない恐怖が俺を襲ってきた。

 俺は咄嗟にその恐怖から逃れようと地面を強く蹴った。俺の体はとても軽くて勢いよく前方に転がった。

「何だ……?」

 俺は後ろを振り返った。そこには一匹のウルフが先ほどまで俺が居た場所に噛みついたようだった。

一瞬でも躱すのが遅れていたら体を噛まれていたところだった。

「グルルルルッッ!」

 ウルフは躱されたのが気に食わないとでもいうかのように唸っている。

「何でここにウルフが⁉」

 俺は草原に現れないはずのウルフに動揺を隠せなかった。俺がやっていたゲームではウルフはもっと先にある森に出現する魔物だ。

 それなのにこんな草原に現れたのが理解できなかった。俺が意識を取り戻してからずっとこれはゲームだと思っていた。しかし、流石に今までやってきたゲームと段々違いが出てくるのに俺は理解し始めていた。

 これは本当にVRゲームの世界なのかと。

 そんな思考をしている俺を待ってくれるはずもなく、ウルフが俺に向かって駆け出して来た。

「ガウッ‼」

 ウルフは鋭利に尖った足の爪で俺の体を切り裂いた。

「うっ⁉」

 俺はウルフのことを考えるのを忘れて少し油断していた。まだ俺の心の中ではゲームの世界だと思い込んでいた。だから攻撃を受けたところで痛くはないだろうと高を括っていた。

 そんな俺の考えを一瞬で吹き飛ばすかのように体に激痛が走る。

「何で痛みが……⁉」

 やはり俺は甘い考えをしていたのかもしれない。俺は痛みを感じてやっと気が付いた。ここはゲームの世界ではないことに。

 VRゲームの世界は痛みを感じることはまだ技術的に再現できていなかった。それで俺はゲームの世界だからと痛い思いなどすることはないと思っていた。

 しかし、ウルフの攻撃で俺は痛みを覚えてしまった。ここはゲームの世界に似た別の何処かなのだと。

「嘘だ……これは現実なのか?」

 俺は痛みを感じたことで目の前にいるウルフが段々と怖くなっていくのを感じた。

 このまま何もせずに立ち尽くしているとウルフは間違いなく俺を殺すのだと理解した。俺はこの世界のことが何もわからないまま、ここで死ぬなんてとてつもなく嫌だと思った。

 俺はウルフの攻撃を受けて死ぬかもしれないという恐怖があった。しかし、それよりもゲームに似たこの世界で自分の新しい人生が待ち受けているのではないかという理想が強くなっていった。

 なのに、ここでウルフなんかに殺されたとあってはとてつもない後悔をするだろうと感じた。

 俺はウルフをこの手で打ち倒して新しい人生を送ろうと決めた。

「ワン公、俺の邪魔をするんじゃねぇぇぇぇ‼」

 俺はゲームの知識をフル活用してウルフの攻撃パターンを読む。ウルフは群れで獲物を狩る習性をもつが今は一匹だけしかいない。群れからのはぐれなのかもしれない。

 群れで行動するウルフはとても強いが一匹だけならば俺でも勝てる可能性がある。

「ガルルルルルル、ガウッ‼」

 ウルフは俺に食らいつこうと駆け出して、強靭な牙で噛み付こうと口を開けて突進してくる。

 俺はこれまでゲームでやってきたウルフの対処法を頭に思い浮かべる。それを実践するために俺はウルフが至近距離まで近づいたところでウルフの横に来るように回避する。

「よしっ!」

 ウルフが俺に噛みつこうと空中に浮いているところを横から顔を熊の手でぶん殴る。

「ギャウッ⁉」

 ウルフは顔を殴られて牙が折れて口から血を吐き出し、草原に勢いよく倒れこんだ。

「よいしょっと、どうだワン公、これでもう立ち上がれまい!」

 俺はウルフの上に上り、熊の手を腕組みしながら小さい体でふんぞり返る。そのまま俺はドヤ顔でウルフを倒した達成感に浸っていた。

「グルルルルッ⁉」

 するといきなり俺が踏み台にしていたウルフが動き始める。

「うわっ⁉」

ウルフの上から俺は転がるようにして草原に寝転がる。俺はウルフが死んだものだと思い込んでいたがどうやら生きていたようだ。

 ウルフは立ち上がるのがやっとというようにゆっくりと体を起こしている。

「びっくりしたじゃねーかよ⁉ くたばりやがれ‼」

 俺は満身創痍なウルフに止めを刺すために駆ける。

 俺の熊の拳による何回もの顔面殴打によってウルフは立ち上がることが出来なくなり倒れる。

 俺はさっきのようなことが無いようにウルフが死んでいることを確認するとその場に尻もちをつくようにして倒れこむ。

 ゲームの魔物狩りとは違う血生臭いものだった。これからこのゲームに似た世界で生きていくのにまたこういうことがあるのだと少しだけ気が落ち込んでしまう。

 それと同時に俺の心にはとてつもない好奇心が宿っていた。自分が好きだったゲームのような世界に本当にこれたことがそこはかとなく嬉しかった。

「これからだ、俺の二度目の人生は!」



「しかし、何で俺はこんな姿なんだ?」

 いきなりウルフが襲ってきたものだから後回しになっていたが、俺の体は熊の人形だった。何故、こんな体になってしまったのだろうか。俺の体を変えたのは誰なのだろうか。そんな疑問が頭から消えてくれることはない。

「まあ、なってしまったものは仕方ないか、街でいろいろと調べることがありそうだ」

 この世界が俺の知っているゲームと似ているのだったらこの近くに始まりの街と呼ばれるゲームで最初の街があるはずだと思い、そこに向かっていた。

 緑あふれる草原と透き通った青空しか見えないところを、時間を掛けて踏破していく。

 それから二時間ぐらい歩き続けたころ、視界に人が造ったと思われる建造物らしきものが入ってきた。

「あれは……」

 歩き続けて重い足取りになっていた俺は、段々と足が軽くなるのを感じ、駆け出していた。

「街だっ‼」

 その建造物が街を魔物から守るようにして作られている壁であることが分かると俺は気持ちが高ぶっていくのを感じた。

 長い時間何も食べていなかった俺は空腹で行き倒れてしまいそうだった。そこで街が見えて俺はやっと飯にありつけると思い、一目散に街に向かった。

 自分の体が熊の人形になっていることを忘れて。

 街に近づくにつれて街の入り口である門が見えてくる。

 そこには他の街から来たのか行商人の馬車や田舎から出てきたみたいな風貌をした旅人らしき人物などが並んでいた。

 街に入るための順番だろうか?

 そう思って俺は最後尾に並ぶ。そこで俺は自分が小さいのだと改めて認識した。前に並んでいる人たちがあまりにもでかく感じたからだ。

「何で、こんなところにクマが?」

 俺の後ろから声が聞こえてきた。俺はその声に振り返り後ろの男と目が合う。男はとても驚いたような顔をしていた。

 男の言葉から察するに熊を見たらしい。俺は男が見たという熊を見たいと思い周囲を見渡す。

 だが、何処を見渡しても熊が見つからない。

「なあ、熊ってどこにいるんだ?」

 見つけることが出来なかった俺は後ろの男に尋ねることにした。

「は?」

 しかし、男からは何とも言えない返答が返ってきた。

 男はこちらをまじまじと見ながら口を開けっ放しで変な生き物でも見たような顔だった。

「おい、どうしたんだよ。熊ってどこにいるんだよ?」

 俺は再び男に尋ねてみる。

「い、いや、何でクマが喋るんだ?」

 男は俺を指さしながら口をパクパクと開けたり閉じたりと繰り返していた。

「あ……」

 そこで俺はやっと気が付いた。自分の姿が熊の人形になっているということを。

「俺だったー⁉」

 俺は自分の頭を両手で押さえながら自分の姿を思い出していた。

「変な生き物がいたもんだな」

「へえ、珍しい生き物だ」

 俺の前に並んでいた人たちも俺のことが気になったのか注目されていた。中には危険な目をしている商人らしき人物もいる。

 そんな出来事がありながら十番は進んでいき、門番の所に辿り着く。

「次の者、前へ」

 門番の言葉に従って前に出る。

「おい、次の者、早くしないか!」

「ここにいますけど……」

 門番が俺に気づいてないようだったから声をかけると門番がこちらを向く。

「ん? なんだお前は?」

「熊です」

 俺は自分が人間だと言ったところで信じてもらえないだろうと思い、今の姿を言うことにした。

「言葉を喋る熊だと?」

 門番は俺を胡散臭そうに疑った目で見てくる。

 まあ、門番の反応は当然だろう。俺だってこんな得体の知れない生き物に遭遇したら同じ反応をする。

「脅威ではなさそうだし問題ないか……」

 俺は門番の言葉を聞いて安堵した。

熊の姿ということもあり、危険な生物として討伐されるかもしれないと思っていたがどうやら順番を守って並んだことと理性があることが分かったのか危険はないと思われたのかもしれない。

 体の大きさがクマのぬいぐるみだったことで小さかったことが良かったのかもしれない。

「入税として小銀貨一枚を貰う」

「あ……」

 俺はそこでこの世界のお金を持っていないことに気づいた。

 どうしたらいいんだ。このままでは街に入れないではないか。

「おい、早く出さないか」

 俺が一向にお金を出さないことで門番が不審に思ってしまう。しかし、俺はそれどころではない。だってお金を持っていないのだから。

「あ、あの……」

「何だ、まだ後ろにも並んでいるんだからさっさとしないか」

「お金を持っていなくて……」

 俺はこのままでは時間だけが進んでいくだけだと思い門番に聞いてみることにした。

「金が無いだと?」

「ああ、こんな身なりだからな、金なんて持ってない」

「……そうだな。熊がお金を持っているわけがないか」

 はぁ……よかった。熊の体だったから不審には思われなかった。

 しかし、門番は困っているようだった。入税もなしに熊を入れるなんてできないのだろうか。

「おい! いつまで待たせるんだ!」

 後ろから怒鳴り声を浴びせられる。振り返ると俺の後ろに並んでいた人たちが不満顔でこちらを睨みつけていた。

「熊は後回しだ。横にずれろ」

「……ええ……」

 どうやら俺は邪魔者扱いされたようだ。文無しだからいけないのか……熊だからなのか……。

 門番は俺のことなどもう忘れたかのように街に入る人の手続きをやっていく。

 俺はそれを少し離れた場所に移動してから眺めていた。

「この人数が終わるまで待てっていうのか……」

 後ろに並ぶ人は視界に映るだけでも数十人はいるのが分かる。この人数が終わるころには日が暮れているかもしれない。

 俺はため息を吐きながらこれからどうしようかと考えることにした。

「街に入れなければ野宿しなければいけないのか……」

 絶対にそんなことは嫌だ。腹も減っているし、魔物がいるこの世界で野宿なんてしたらいつ襲われるか分かったものではない。

 それに俺はこれまで家に引きこもっていた身だ。もう歩き疲れているからベッドで休みたい。

「金になるものなんてあったかな……」

 何かないかと体に手を当てていく。

「あっ!」

 手が何かにぶつかる。それはバッグだった。俺の小さい体にくくりつけるようにしてくっついている。

「そういえばさっき倒したウルフの素材があったな」

 俺は先ほど倒したウルフを解体して毛皮や肉に分けて持っていたバッグに入れていた。何か必要になるかと思っていたがこれを売れば街に入るための入税が払えるかもしれない。

 そんなことをしていると辺りはいつの間にか薄暗くなっていた。空を見てみると日が落ちかけているようだ。

 いつの間にか考え込んでいたらしい。けど、そのおかげで並んでいた人が居なくなっていた。

 俺はウルフの素材が金にならないかを聞こうと門番の所に向かう。

「ん? まだいたのか……」

 先ほどの門番が呆れたような目で俺を見てくる。

「なあ、これ売ったら金にならないか?」

 バッグからウルフの毛皮を取り出す。

「毛皮か。それぐらいなら小銀貨二枚ってところだな。仕方ないそれでいいぞ」

 問題はなかったらしい。門番はウルフの毛皮と引き換えに小銀貨一枚を渡してくる。入税を引いた分のお金を貰った。

「よかった……これで野宿しなくて済むな」

 俺は街に入れることに安堵する。不安が無くなって気分が高くなったまま街に入る。

「うおおおおおおおお! 街だあああああああああ!」

 俺は街の中を見渡していく。

「あれ? ここって……」

 見渡しているとあることに気づく。少し変わったかもしれないが紛れもなくゲームにあった最初の街、ファースティアだ。

 何故ならゲーム内でもファースティアにしかない初心者ギルドがあるのだ。初心者ギルドとはゲームをするうえで誰もが最初に入る場所だ。

 そこで自分がしたい職業を選びそれにあった武器や教えを聞く。そうして皆がゲームを始めるのだ。

 まあ、そこに入らない例外もいるにはいる。それもゲームをやっているプレイヤーのほんの少しだけだが。ゲームだからと犯罪をやってみたいと思う者がいるのだ。俺には理解できないが。

 俺はゲーマーとして冒険者が集う初心者ギルドに行きたいと思った。

「だが、まずは宿を探さないと」

 もう、日が落ちて辺りは暗くなっていて町中にある明かりが光り出していた。このままでは街中だというのに地べたで眠ることになってしまう。

 せっかく街に入れたというのに街の外と変わらないというのは我慢ならない。

 俺はゲームを始めたての時に何度も使った宿屋の場所をなんとなく思い出して初心者ギルドに行く道とは反対方向である道を歩き出す。

 進んでいくと男たちの野太い声が聞こえてくる。俺はそういえばここには酒場があったなということを思い出す。

 道からでも酒場の中が見えていて、飲み食いをする客たちの喧騒が辺りにこだましている。

 腹が鳴る音が聞こえてくる。どうやら俺の腹の虫が鳴っていたようだった。俺は酒場で飲み食いしている人たちを見て自分も食いたいと無意識に思っていたようだ。

 でも俺は酒場に行きたい欲を堪えてその場から立ち去るように宿屋に向かう。このまま酒場に行っていれば飲みまくった挙句に酔い潰れて道の真ん中で寝てしまうかもしれない。

今の俺は子熊のような体をしている。そんな俺が街の真ん中で寝ていると街の人々に見つけられたら檻にでも入れられるかもしれない。

 そんなことになったら目も当てられない。街まで来るのに歩き疲れていて早くベッドに横になって眠りにつきたい。そんな思いが強かったのか足早となりすぐ宿屋へと辿り着いた。

「ここに来るのは久しぶりだな……」

 目の前には清き森の蜂蜜亭と書かれた看板がでかでかと掲げられており、そこらにある宿屋よりも清潔で評判の高い所だったと記憶している。

 そこで、ふと思った。俺は熊である。そんな俺がこの宿屋に入るということは蜂蜜を求めてやってきたのではないかと噂されてしまうのだろうかと。

 そんな馬鹿馬鹿しい考えをしていると後ろから驚いた声が聞こえてくる。

「何で家の前に熊が⁉」

 俺が振り返るとそこにはあどけない顔をした少女が目を見開いて口をパクパクとさせながら俺を指さしていた。

 俺はいきなりのことでどうすればいいのか分からず呆然と立ち尽くすことになった。

「う、家に何のようですか……?」

 少女はどうやら清き森の蜂蜜亭の関係者らしい。

「泊まりたいんだが……」

「しゃ……」

「しゃ?」

 少女が俺を見ながらわなわなと体を震えさせていることに首をかしげる。

「喋ったあぁぁぁぁぁぁ⁉」

「うわっ⁉」

 少女がいきなり大声を出すもんだから俺は驚いて飛び上がってしまう。そのまま後ろに転がって蜂蜜亭の扉に激突する。

「痛たたたた……」

 俺は背中をぶつけた痛みに顔を顰めながら背中を摩る。

「ひっ⁉」

 少女は俺を見て悲鳴を上げたかと思えば顔色が青くなっていく。俺の顔を見て怖がるというのはどういうことだ。傍から見ると俺が少女を怖がらせているというように見られてしまうではないか。

 するとまた後ろから声がする。

「何してるんだい……」

 後ろには怒りの形相で少女を睨みつけている割烹着を着ているおばさんが居た。俺がぶつかったことで扉が開いていたようだ。

 そこで俺は少女が怖がっているのが理解できた。

 少女は俺を見て怖がっていたのではなく、俺の後ろから鬼の形相で見ていたおばさんが怖かったらしい。

「ごめんなさい……」

「ミーナは引っ込んでな」

「はいっ⁉」

 少女は慌てて宿の中に駆けこんでいく。

「珍しい客もいたもんだね、うちに泊まっていくのかい?」

 おばさんはどうやら蜂蜜亭の者らしい。

「ああ、お金はどれくらいかかるんだ?」

 俺は小銀貨一枚しか持っていない。今持っている金でも一泊は出来たはずだ。それよりも宿泊費用が高かったら俺は野宿しなければならなくなる。

「一泊銅貨三枚だよ」

「じゃあこれで三泊頼む」

 俺は残りの小銀貨一枚を差し出す。

「あいよ、おつりは銅貨一枚だね。それとこれに名前を書いておくれ」

 そう言っておばさんが出して来たのは帳簿だった。宿泊するときに誰かわかるように名前を記すのだろう。

「分かった」

 俺は帳簿を受け取って名前を記そうとする」

「え?」

 そこには変な文字が書かれており読むことが出来なかった。

「どうしたんだい、ボーっとして」

「文字が読めなくて」

 俺は正直に話すことにした。このままでは泊まることが出来なくなってしまうから。

「あら、知らないのかい?」

「山で暮らしていてね、最近街に来たばかりなんだ」

「そういや熊だったね、そりゃ文字なんてわかるわけもないか」

 どうやら怪しまれることはないようだ。今ではこの体でよかったと思う。ありがとう熊の体。

「どうすればいいんだ?」

「なら名前を教えてくれ。あたしが書くさね」

「俺は隆……」

 名前を言いかけては口を閉じる。ここで現実の俺の名前を言うのはなんか嫌だった。

「ウルスだ」

 俺はゲームで使っていたアバターの名前を出した。この世界で生きていくならば元の世界の名前ではなくアバター名を名乗っていこうと決めた。これまでゲームばかりしていたからこちらの名前の方があっていると感じた。

「ウルスね。じゃあ、これが部屋の鍵だよ」

 おばさんかあら差し出された鍵を受け取り俺は部屋に向かう。鍵には部屋番号が書かれており、迷うことなく二階の部屋に辿り着いた。

「へぇ、ゲームとは少し違うな」

 部屋の中は木造で出来たベッドに服を入れておくタンスしかなかった。寝泊りするための場所ってことだろう。

「そういえば朝と夜に一階で食事が食えると言っていたな」

 もう遅い時間だ。寝ることにしよう。明日は街の探索をした方がいいだろう。金も稼がなければいけないしやることが多い。

「ゲームと似た世界でよかった」

 知らない世界だったら俺は街に辿り着くこともできなくて野垂れ死んでいただろう。

 ベッドに寝転がる。すぐに眠気が襲ってきて俺は意識を失う。



「うーん……」

 俺は眩しすぎて目を開ける。窓から太陽の日差しが俺の顔に当たっている。

「もう朝か」

 昨日は疲れていたのかいつの間にか眠っていたらしい。

「うわっ⁉」

俺はいつものようにベッドから床に降りようとしたら足がつかなくて転げ落ちてしまう。

「そういえば熊の体なんだった」

 現実の身長よりも低すぎる今の体のことを忘れていた。やっぱり俺は眠ったら自分の体が元に戻っているのではないかと期待していたのかもしれない。

 そう思っていると部屋の扉を叩く音がする。

「大丈夫ですか? すごい物音がしましたけど」

 聞こえてきた声には聞き覚えがあった。昨日、蜂蜜亭の前であったミーナという少女だ。

「ああ! 大丈夫だ。ベッドから落ちただけだから」

「そうですか。なら良かったです」

 ミーナは俺のことを心配してくれたらしい。昨日の態度とは大違いだ。おばさんにでも怒られて心境の変化でもあったのかもしれない。

「開けて大丈夫ですか?」

「ん? 大丈夫だけど」

 部屋の扉を開けてミーナが入ってくる。ミーナは昨日とは違った服を着ていた。おばさんと同じ割烹着のようなものを身に纏っている。どうやら蜂蜜亭の仕事服みたいだ。

 手には水の入った桶らしきものを持っている。

「これで体や顔を洗ってください」

 昨日は夜遅くというのもあったから朝持ってきてくれたのだろう。なかなかサービスのいい宿だ。

「ありがとう」

「いえ。あ、昨日はすみませんでした」

 ミーナは頭を下げる。昨日のことを反省しているのだろう。まあ、仕方ないと思う。家の前に熊が居れば誰でも驚くだろう。

「いいよ。気にしないで」

「それではっ!」

「あっ……」

 ミーナは恥ずかしくなったのか顔を赤らめて部屋から飛び出していく。

「聞きそびれてしまった……」

 街のことを聞いてみたかったのだが飛び出していっては止めることもできない。

「まぁ、いいか」

 俺は開けっ放しになっている扉を閉めて扉の横に置かれた桶に手を伸ばす。水の入った桶に一枚のタオルが用意されている。

俺はタオルを手に取り水に入れて濡らす。濡れたタオルを桶の上で絞って身体を拭く。人形の体ではあるがなぜか湿ることはなく、タオルで葺いたところから汚れが落ちて綺麗になっていく。

「しっかしまぁ、この体はどうなっているんだか」

 手足の長さが変わったのにそこまで不自由なく動かせる体。何故この体に変わってしまったのだろうか。いまさらそんなことを考えても仕方ないが、とても不思議に思ってしまう。

 何で俺はこんな体にされてゲームによく似た世界に来たのだろうかと。

「よし、これで綺麗になったな」

 俺は昨日のウルフとの戦いで汚れてしまった体を洗うと清々しい気分になってきた。

 そんな気分の中、ぐぅぅっとお腹が鳴る音がした。

「そういや昨日から何も食ってなかったんだった」

 体を休めたことで気が抜けたのか空腹を知らせてきた。

「まずは飯を食わないとな」

 寝るときに外していたバッグを腰に着けて腹ごしらえをする為に部屋を出て一階に向かう。

 一階に続く階段を降りるといくつかの視線が俺に向けられる。

「熊が居るぞ」

 俺に視線を向けていたのは蜂蜜亭に一階にある食堂で飯を食べている宿泊客たちだった。

「何か可愛らしい熊だな」

「つうか何で熊が居るんだ?」

「蜂蜜に誘われてきたのかもな」

 宿泊客たちは談笑している。

「さっさと食って働きに出るんだねアンタたち!」

「うわっ⁉ マリアさんだ⁉」

「急げ、急げ!」

 宿泊客である男たちはおばさんの怒声に忙しなく飯を口の中にかきこんで慌てて蜂蜜亭から出ていった。

 というか、おばさんの名前はマリアなのか……。

「ったく、あいつらは」

 どうやら俺のことを心配してくれたのかもしれない。

「ありがとうございます」

「気にしなくていいよ、それより飯を食っていくのかい?」

「はい、お願いします」

「じゃあ、食堂で待ってな」

 そう言ってマリアさん――いや、おばさんでいいや。マリアってイメージがしないし。おばさんはカウンターの後ろにある部屋に行く。厨房だろうか。

 ここでは何が食えるのだろうか。

「そういえばこの世界に来て初めて食べるまともな食事かもしれない。これまでほとんど野生の熊のようだったし。食べられるものなんてそこら辺に生えている木の実や川で採れる魚ぐらいだったし。あれ? もしかして今まで本当に熊の暮らしをしていたのではないだろうか。

「いや、あんまり考えないようにしよう。俺は人間のはずだ」

 そんな馬鹿なことを思っているとおばさんが料理を運んでくる。

「はい、蜂蜜亭特性の狼肉の香草焼きだよ」

 出てきたのは狼の肉を食べやすく切って、臭みなどを消すための薬草と一緒に焼いたもののようだ。それに乾パンと温かい汁物が付いてきた。

「ごゆっくり」

 おばさんはカウンターに向かい、仕事をするらしい。俺だけに構っているわけにもいかないのだろう。

「いただきます」

 俺は目の前にある狼肉の香草焼きが食べたくて仕方なかった。食欲をそそる香ばしい匂いが空腹には耐えられなかった。

 テーブルにはフォークとナイフがある。これを使って食べればいいのだろう。俺は日本人だから箸があればよかったけど日本ではないのだから我慢するしかないだろう。

 フォークとナイフを手に持って肉を一口サイズに切ってから口に運ぶ。口を開けてその中に肉を入れる。

「美味いっ!」

 しっかり焼かれているのか、それとも狼肉がそういうものなのかは分からないがとても柔らかくて食べやすい肉であった。

 香草焼きということもあり、野生の動物の臭みなどが無くなっていていくらでも口に入りそうだ。

「ふふっ」

「あっ……」

 俺が食事に夢中になっているのをおばさんが見て笑っている。俺はとても恥ずかしくなり顔が熱くなっていく。声を押さえて食事を再開する。俺は恥ずかしくても飯を食いたい欲求には勝てなかった。

「あがっ⁉」

 パンを食べようとして口に入れたが硬すぎて食うことが出来なかった。

「それはスープにつけて柔らかくしてから食いな」

 俺がパンを食うのに苦戦しているとおばさんから助言を貰う。

「はい」

 俺は素直にパンをスープにつけて食べる。

「温かい」

 スープの温かさで柔らかくなったパンは口の中でほぐれるようにして崩れていく。スープの味が染みたパンは元の世界の食事と比べるとどれも劣っているだろう。しかし、この世界に来てからの食事に比べたら天と地を差だった。

 頬から何かが落ちるのを感じる。俺は手を頬にあててみると手が濡れていた。俺は涙を流していたらしい。

「っ……⁉」

俺は驚きを隠せなかった。涙が出てしまうほど心が擦り切れていたのだと知って。食事一つで無意識に安心していたことに気づいたからだ。

 この世界に来て街まで着くのにだいたい二、三日たったくらいだろう。元の世界では一人でいるのは慣れていたと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。

「あっ……」

 濡れた目を腕で拭い、食事を再開しようと手を伸ばすが先には空になった食器だけだった。俺は無我夢中で食べていたらしい。もうお腹は空いていなかった。

「行くか」

 腹ごしらえも済んだし俺は街を散策するために蜂蜜亭から出る。出るときにおばさんから夜の飯は、日が落ちた時間帯だと教えてくれた。

 蜂蜜亭から出ると街並みがしっかりと視界に入ってくる。昨日は夜で暗かったこともありあまりどういう造りで街が出来ているのかは分からなかった。

 今いるところは宿屋が何軒もある通りのようだ。蜂蜜亭以外にも木造で造られた年季の入ったものなど様々な宿屋がある。

 泊まる代金など質が違ったりするのだと思う。まぁこの街――ファースティアにいる間は蜂蜜亭に泊まるともう決めている。

なんたって俺みたいなわけの分からないやつでも親切に泊めてくれるのだから。


第二章「少女との出会い」


「はぁ……はぁ……」

 私は逃げている。

「おい! 何処に行った⁉」

「あそこだ! 追え!」

 後ろから私を追う者の叫ぶ声がする。私が何故追われているかって? それは盗みを働いたからだ。私が盗んだのはグリーと呼ばれる果物だ。

 盗みをするのは悪いことである。だが私にはそれをやらなければ生きていけない。

 私は貧民街に住んでいる。十歳の私がそんな貧しい生活を送ることになったのは、私が悪魔付きと呼ばれる者であるからだ。悪魔付きとは目の色が左右で違う者のことを言う。

 私は目の色が左右で違うから、親に捨てられた子だ。貧民街に捨てられた私はそこに暮らす一人のお婆さんに育てられた。だがお婆さんは昨年に無くなってしまった。それから私は一人で生きていかなければならなくなった。だが悪魔付きで人々から嫌われ者であり、子供だからお金を稼ぐことなどできない。

 お金を稼ぐことが出来ない私が食べ物を食べるには人から盗むしかない。悪魔付きの私が食べ物を恵んで貰えるわけもない。

「居ない……」

 私が物陰に隠れていると追ってきていた者が遠くに走って行った。私はこの好機を逃すわけにはいかないと貧民街に向かう通路を走る。

「……ここを抜ければ!」

 私が逃げることが出来ると希望が芽生える。私は追われる恐怖から解放されるという安心が近くまできて、焦ってしまった。

 心が急いてしまい、足が縺れる。

「あっ……⁉」

 私の体が宙に浮く。走っていた勢いで頭から地面にダイブする。

 頭に強い衝撃を受けたと思ったら意識が途切れる。



 ギルドに続く道ではなくそこから逆に行く道を俺は進む。こんな姿の俺がギルドにいった所で笑われて追い出されるかもしくは魔物だとでも思われて討伐しに来る冒険者がいるかもしれない。

まだ力を手に入れていない俺は早くスキルと呼ばれる戦うための技術を身につけなければならないと思っていた。

ここがゲームと変わらない世界であるならば魔法などが存在するし、今向かっているところに今の俺でも有能なスキルを覚えられる場所がある。

 そこは神を信仰している教会だ。ゲームの知識だが、確かこの世界には神が何体もいるという。亜人と呼ばれる人族でない種族はその種族が進行する神がいる。人族は職業に合わせてそれに見合った神を信仰して恩恵を貰える。

 ゲームで言ういわゆる剣士といった職業のことだ。ゲームではキャラを作成するときにメイン職業とサブ職業を選ぶ。そのメインにした職業で信仰する神が決められる。

 ゲームをプレイするプレイヤーは亜人を種族に選ぶことは出来るがそれで信仰する神は決まらない。職業で決められる。

 しかし、NPCと呼ばれるゲームに住む住民たちは亜人であればその種族が信仰する神の恩恵しか貰えない。

 ゲームをやっていた時はあまり気にしなかった設定だったがこの世界に来てから俺はどっちになるのだろうかと思っていた。

 今は熊の人形であるが元は人間である。そんな俺が信仰できる神はどちらなのだろうかと。もしくは二人の神を信仰できるのではないかとゲーマーである俺の攻略魂に火を点ける。

 俺が欲しいのは二つある。まず絶対に手に入れたいのは獣人の心得である。今は熊の人形という体のこともあり、武器を持って戦うのは向いていない。獣人の心得とは格闘家という体術で戦う職業で手に入る恩恵だ。

 それがあればこの体でもうまく扱えることが出来るだろう。そしてもう一つは癒しの心得だ。ゲームでは主にヒーラーというパーティーの回復役に位置する職業の恩恵である。

 この世界はゲームとは違い現実と同じ痛みを感じてしまう。ゲームでは強かった俺でも痛みがあるとないとでは根本から違ってくる。

 痛みで的確な判断が出来なくなったり、動けなくなったりすれば戦う力があっても意味がない。

「っ……⁉」

「うわっ⁉」

 考えに耽っていながら歩いていると右から何かがすごい勢いでぶつかってきた。俺は人形の体で体重がものすごく軽くなっているからその場に耐えることなどできなくて吹っ飛ばされる。

 地面を三回転ほどしてようやく勢いが止まる。

「うう……何だ、いったい?」

 俺は右わき腹を襲った痛みに堪えながら立ち上がり衝撃が来た方向を向く。そこにいたのはボロボロになった布切れのような服を身に纏った少女が倒れている。腰まで伸ばした深紅の髪が印象的である。

「おい! 大丈夫か⁉」

 俺は少女が倒れてからピクリとも動かないことに焦り、体を揺すって意識を確認するが目覚めることはない。

「どうすれば……」

 こんなところを誰かに見られれば少女を襲っている変態だと思われてしまうかもしれない。いや待て、今の俺は熊だ。今の状況を誰かが見ても少女が変態に襲われているなどとは思わないだろう。って少女が熊に襲われている方がヤバイか……。

「ああもうっ」

 俺はこんなところを目撃されてはなるものかと少女を担いで建物と建物の間にある薄暗い通路に身を隠すことにする。

 今の俺は少女よりも小さいが力だけはある。少女を引きずるようになってしまうがそんなこと知ったことではない。今、街の住人にでも見つかってしまったら俺が討伐しなければいけない魔物だと思われてしまう。

 それだけは絶対に阻止しなければいけない。俺はまだこの世界で生きていきたいのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。

「ここに隠せばバレないはず……」

 通路を進むと左に曲がる角に突き当たる。曲がると木箱が置いてあった。木空箱は中身に何も入っていない空洞で少女一人分なら入れる広さだった。俺は少女をいつまでも担いでいるのは良くないと木箱の中入れる。そして見つかってはいけないと思い蓋をする。少女が入れる大きさでよかった。

 俺が少女を木箱に入れていると先ほど歩いていた大通りから騒がしい声が聞こえてくる。

「さっきのガキはどこ行った!」

「まだ遠くには行ってないはずだ! 探せ、今日という今日はただじゃ置かねぇ」

 通路から顔を覗かせるようにして騒がしい声の方を見てみると血眼で辺りを凝視している二人の男が居る。

 男たちは棍棒を片手に腰に前掛けを巻き付けている。八百屋かなんかだろうか。この世界でもそれをしているとは思わなかった。

「向こうを探すぞ!」

「ああ!」

 男たちは俺がいる場所の逆方向に走って行った。

「ふう……」

 どうやらバレなくて済んだらしい。しかし、あの男たちはいったい何だったのか。まぁ、俺のことがバレなかったんだし別に何でもいいか。

「さて、少女のことはどうしたもんか」

 俺は再び通路を歩いて角を曲がる。

「えっ……⁉」

 まがった先で俺が見たのは木箱には蓋がされていなくて、中から押し開けてどかしたのか、木箱の横に無造作に落ちている蓋だった。

「そんなまさか……⁉」

 俺は気が付いたら駆け出していた。木箱まで行き、中を除く。

「いない……」

 俺が騒ぎに気をとられていた少しの時間でいつの間にか少女は木箱の中から消えていた。ここは一方通行に道だ。俺が通ってきた道で少女とはあっていないからそのまま奥に向かったのだろう。

「やばい、やばい」

 俺は少女が熊に襲われたと衛兵の所にでも駆け込まれたら一巻の終わりだとすぐさま少女を追って駆け出す。

 通路に先には大通りに面していた。そこは商店街になっている通りだった。商店街ということもあり、朝という今の時間帯は食材を買いに来た大勢の人が行き交いしている。

 俺が商店街の通りに飛び出すと多くの視線を感じる。

「熊がいきなり飛びだして来たぞ」

「小さいな。子熊か。いい毛皮してそうだねぇ」

「可愛いわね。食べちゃいたい!」

 俺は咄嗟に来た道に向かって逃げ出す。一人となってこの世界に来て、頼れる人間も居なくなり、生きることに必死だったのと、ゲームに似た世界というゲーマーである俺の好奇心がくすぐられて今まで気にしていなかった。

 元の世界にいた頃の俺をやっと思い出した。

俺は元の世界で大人になり仕事を始めた新人のサラリーマンだった。しかし、俺には人との協調性というものが無かった。それが原因で周りの人間から嫌がらせ行為や陰口が頻繁にされるようになっていた。

 俺はそれに耐えることが出来なくなり、家に引きこもってゲームばかりする糞野郎へと成り下がってしまった。俺は顔を合わせて対面することにすごく怯えるようになっていた。

 それがゲームでは本当の俺ではなくかっこよく作ったアバターだった。しかも、侮辱してくる奴はぶちのめすことのできる力があった。

だから、ゲームの中では視線に怯えることもなくなっていた。それからというもの俺は仕事もせず、親のすねをかじりながらゲーム三昧の日々を送るようになっていた。

 そして、この世界に来るほんの少し前に俺は親から見捨てられた。

「クソッ! 思い出したら最悪の気分だ」

 いつの間にか居なくなっていた少女のことも気がかりだが、それよりもあの大勢の人だかりに行くことなど俺には到底できない。

「こうなったら早く職業の恩恵を手に入れなければ……」

 俺は少女に通報されてしまったらすぐさま街中で熊狩りが起きてしまう。そうなってしまえば戦うための力をまだ手に入れていない俺では手も足も出ずに討伐されて珍しい素材として解体されてしまう。



「っ……⁉」

 気が付くと辺りは真っ暗だった。

「ここは……」

 目を開けたはずなのに光が見えてこない。これは夢? さっきも熊さんのようなものが見えた気がする。熊さんが街中にいるわけない。しかも倒れている私を運ぶなんて思えない。

 現実逃避気味だった頭はようやく今の状況を理解し始めた。身動きをすると何かにぶつかる。それに狭い場所だ。ここから出ようと壁らしきものを手で押していく。横は押してもびくともしない。私は天井にも手を当てる。押してみると眩しい光が私の顔に直撃する。

「眩しっ……⁉」

 私の視界に入ってきたのは街の裏道だと思われる。どうやら私は木箱に入れられていたようだ。

 何でこんなところにいるのか見当もつかなかった。

「さっきのガキはどこ行った!」

「まだ遠くには行ってないはずだ! 探せ、今日という今日はただじゃ置かねぇ」

 その声に私の体がビクッと震える。私を追っていた奴らの声だ。私は恐る恐る声のする方に歩みを進める。

 裏道の曲がったところの角から覗き込む。

「あ……」

 覗き込んだその先では夢で見た熊が周囲を警戒していた。

 私は怖くなって逆の方向に駆け出す。

 その場から立ち去り、貧民街に辿り着く。

「……何とか逃げきれた」

 それにしてもさっきの熊はいったい何だったのだろうか。さっきは夢だと思っていたのに熊が居るなんて。

「あれ……そういえば襲われてない」

 私は通路の真ん中で倒れていたと思う。それなのに襲うわけでもなく木箱に入れられていた。

「……まさか」

 私が熊を見た時は周囲を警戒していた。それに私を追っていた男たちの叫ぶ声が聞こえていた。私が通路の真ん中で倒れていたら男たちに捕まっていたかもしれない。

 もしかしたらあの熊は私を助けてくれたのかもしれない。

「……また会えるかな」

 結果的に私は熊に助けられたのだろう。熊が何をしたかったのかは分からない。それでも私にとってはありがたいことだった。私を助けてくれる人なんてもういないと思っていた。悪魔付きな私が助けられることなど無いと思っていた。私を貧民街で拾ってくれたお婆さんは盲目で私が悪魔付きだと分かっていなかった。

 お婆さんが盲目でなければ私を拾ってはくれなかっただろう。

 でも熊に会うことは少しだけ怖かった。先ほど私は気絶していた。私が悪魔付きだと知らないかもしれない。

 そのことを知って熊さんが私を嫌いになってしまうのではないかと不安でいっぱいになる。それでも期待している私がいる。



「急げ!」

 少女と出会った大通りに戻ってきた俺は、少しはいる人の視線など一切考えずに無我夢中で目的の場所である協会に向かって駆け出した。

 しかし、あまりにも協会に辿り着けないことに焦りが生じてくる。

「はぁ……はぁ……」

 ゲームの時はそんなに距離があるなんて思ったことはない。普通なら辿り着けている距離だというのに未だ協会すら見えてこない。

「なんでだ……ゲームの時とは違うっていうのか」

 俺は一種の不安を覚えていた。確かにこれまではゲームのような世界であるという認識だった。しかし、だからといって全てがゲームのままであるわけがないんだ。この世界に来てすぐに感じたのは痛みだった。それはゲームではなかったことだ。

そのことを俺は今まで考えないようにしてきた。だが、今は考えてしまう。ここは俺の知っている世界ではないのだと。ただ酷似しているだけで協会なんてこの街にはないのではないかと。

 不安で頭がいっぱいになっていた俺は足元に注意がいっていなかった。

「うわっ⁉」

 足を踏み外して体が宙を浮く。俺の体はそのまま石畳の地面に転がっていく。

「……痛ってぇ」

 俺は不安でいっぱいだったのか周りに気を配ることすら出来ていなかった。俺は落ち着こうと深呼吸をして体を起こす。

「あれ? あった……」

 その時やっと気が付いた。俺の視界の先にはゲームでよく見る協会がでかでかと存在を主張していた。

 どうやら先ほどの不安は杞憂だったらしい。

「あっ! そういえば俺の足、短いんだった……」

 俺は今まで馬鹿なことで不安になっていたと感じてきた。ゲームの時は元の世界と同じぐらいの身長だったから足も長かった。今は熊の人形であり、元の身長の三分の一ぐらいしかない。手足の長さは短すぎる。これではゲームの時と同じように歩いたとしても歩幅が違うから時間がかかるのは当たり前だった。

 それを俺は今まで気づかなくてとても恥ずかしくなり顔が熱くなっていく。今の俺の顔を見たら真っ赤になっていると思うかもしれない。熊の人形だから顔の色が変わるかなんてわかるわけがないが。

「……こうしちゃいられない。急がなければ」

 俺は一喜一憂している場合ではないと教会に向かって走りだす。さっさと職業の恩恵を手に入れないとヤバイ。

 俺は教会の前に来ると立ち止まる。どうやって入ったものかと疑問が出来てしまったのだ。ゲームではNPC――住民だから勝手に入ってもシステム的に大丈夫だったが、ここはいわゆる異世界だ。

勝手に建物の中に入ったら不審者だと思われてしまうかもしれない。思われるだけならいいが衛兵を呼ばれたら、職業の恩恵を受けるどころではなくなってしまう。

「うーん……」

 俺は教会の前でどうしようかと右往左往していると教会の扉が開く。扉から出てきたのは神父のような真っ黒い服を身に纏い、鼻から口と顎を隠すように長く伸びた白髭が特徴的な爺さんだった。

「おや、こんなところに珍しい客もいたもんじゃ。獣人の子供かのう……」

 爺さんは俺のことを観察するように凝視してくる。しかし、爺さんの目には不快な感じがしなかった。どこか優しい感じがした。

「あ、あの……」

 俺はいきなりのことで言葉を上手く出すことが出来なかった。

「ふむふむ。協会に用があるのかいのう?」

 爺さんの声は俺を落ち着かせようと安心さえるかのような優しい声音だった。

「……はい」

「そうか、なら入るといい。教会は困っている者のためにあるからのう。君が困っているのなら力になれるはずじゃ」

 爺さんはそう言って俺の頭を撫でてきた。

「…………」

 俺はどうしたらいいのか分からなくて身動きが出来なくなった。

「では、また会えるといいのう……」

 爺さんは俺が来た道を歩いて何処かに行ってしまう。俺は爺さんの威厳のある後ろ姿から目を話すことが出来なかった。

「ってこんなことしている場合じゃなかったんだ」

 視界から爺さんが居なくなると俺は何故ここに来たのかを思い出していた。

「爺さんがいいって言っていたし、入るか」

 俺は教会の扉を開けて中に入る。中に入った俺は衝撃を受けることになってしまった。ゲームでは特に気にしなかったことだが教会の中は清潔であり、何十年も経ったであろう古い木で造られているであろう建物なのに、いまだ健在であるかのような力強さが分かるしっかりとした建築ある。

 ゲームではこんなところまで見ることはなかった。誰よりも早く攻略するんだという想いが強かった。俺はあのゲームであまり世界観について詳しく知ろうとはしていなかった。

 知っていれば俺がなぜこんな姿になったかも知ることが出来たかもしれない。

「まぁ、今更そんなこと考えたって何も変わらないか」

 俺は教会の奥に進んでいく。教会は広大な建物である。その中には様々神の神像があり、その前で適性があるかどうかが分かってしまう。

 最初の街であるここファースティアの教会に全ての神の神像があるわけではない。また悪神と呼ばれる魔物が信仰するとされる神の神像は何処にあるのか分からない。

 奥に辿り着いた俺の前にはいくつもの神像が並んでいる。戦の神、魔の神、獣の神、癒しの神、鍛冶の神、自然の神がファースティアの教会にある神像だ。

 戦の神は戦士という職業の恩恵が貰える。筋力と耐久が高い職業である。

 魔の神は魔法師という職業の恩恵が貰える。魔法を得意とする職業である。

 獣の神は武術家という職業の恩恵が貰える。筋力と素早さが高い職業である。

 癒しの神は治療師という職業の恩恵が貰える。治療を得意とする職業である。

 鍛冶の神は鍛冶師という職業の恩恵が貰える。筋力と器用が高い職業である。

 自然の神は弓術師という職業の恩恵が貰える。器用と素早さが高い職業である。

 俺はこの中から武術家と治療師の恩恵が欲しい。しかし、ここはゲームではない。種族で決まってしまうかもしれない。種族で決まるのはこの中の三つだけだ。獣人は獣の神。ドワーフは鍛冶の神。エルフは自然の神。俺は今、熊の人形という南夫種族に該当するか分からない状態だ。熊というところをとれば獣人に当てはまるかもしれない。しかし、元は人間の俺だ。適性が無いかもしれない。

 俺は獣人の神である神像の前で立ち止まる。獣人の神像は、筋肉隆々な偉丈夫で獣の毛皮を身に纏った像である。

「獣のように獲物を狩るための強さを。獣のように自由に駆け回る速さを」

 俺はゲームの中で転職をするときにしなければいけない誓いを口にする。これを人前でやるのはとても恥ずかしいが今は教会には誰もいる気配はしない。

 すると俺の体が紅い光を放ち始める。

「……っ⁉」

 俺は体が光ったことに驚いてしまう。俺は知っている。この光は適性があるという証である。今の俺の体は獣人として扱われるのかもしれない。

「獣のように自由に生きようと思います」

 俺は獣の神から恩恵である獣人の心得を獲得することが出来た。しかし、問題は次だ。癒しの神からの恩恵を貰えるか貰えないかではこれから生きていく中で大きく違ってくるだろう。

 戦争のない平和な世界で生きてきた俺は戦いということをゲームの世界以外でしたことが無い。それも痛みが無いのだ。だがこの世界では痛みが存在する。ゲームではないのだ。

 この世界は魔物が居る。俺はこの世界に来てすぐ魔物に襲われたのだ。忘れるわけがない。あの時に痛みを受けていなっかったら俺は癒しの恩恵を取りたいとは思わなかっただろう。あのウルフには感謝しかない。……やっぱり感謝なんてないな。だってウルフの攻撃痛かったし。

「この世界で自由に生きていくための癒しを。自分の生きる道に光を」

 目の前にある天翼を二対生やした女神の像に向かって片膝をつき両手を前で組んで祈りを捧げる。

 今の俺の姿を見た者は絶対に首をかしげるだろう。何故なら熊のぬいぐるみが神像の前で祈りを捧げているのだ。明らかにおかしな光景だろう。

 俺が変な考え事をしていると微かに声が聞こえてくる。

「別の……から来て……変えられ……よ。貴方の……からの……に幸あらん……を」

「えっ⁉」

 俺はいつの間にか立ち上がっていた。どうやら驚きのあまり体が勝手に動いたのだろう。

 何せかすかに聞こえてきた言葉が明らかに俺のことを言っていたからだ。聞こえた個所は少なかったがそれでも今の俺のことを言っているのは間違いなかった。教会は俺しかいなくて周囲の音が何もない無音だ。

今のが幻聴だったとは到底思えない。幻聴なら俺のことを言うはずがない。もしも、放蕩に幻聴だったら俺の頭はお花畑に侵食されていたということだろう。

「やっぱり今の声はこの女神の……」

 すると俺の体が緑色に光り出した。これはさっき起きた現象と同じだ。どうやら無事に癒しの恩恵である癒しの心得を習得することが出来た。だがこれは始まりに過ぎない。心得といったってすぐに強くなるわけではない。

熟練度と呼ばれるものがある。それは心得の技を何度も使っていくことで能力が上がっていくというものだ。そのため最初はあれば良い程度のごくわずかな力でしかない。

「まずはこれで何とか出来るだろう」

 少女が俺を指名手配してもこれなら逃げることが出来るかもしれない。

 二つの恩恵を手に入れた俺は教会から出る。教会にいる間にそれなりに時間が経っていたのか外は日が落ちて暗くなっていた。そういえば俺が教会にいる間にあの神父は帰ってこなかった。

 暗くなっても帰ってこなかった神父に俺は疑問を持ったがそれどころではないと思いすぐに蜂蜜亭のある方向に向かって歩き出す。

 少女が居なくなってからどれくらいの時間が経ったかなんてわからない。少女の足取りが悪くても衛兵の所には辿り着けているだろう。俺のことを衛兵に言っていたらすぐに見つけられるだろう。俺は良くも悪くも目立ちやすいから。

「あと少しで蜂蜜亭だ」

 俺は小柄な今の自分の体形を活かして人に見られないように慎重に隠れながら移動してきた。

 俺にはもう一つ不安があった。それは蜂蜜亭に女将が俺を衛兵に突き出すのではないかということだ。

 俺はこの世界の住人にとって異物な存在だ。変なものや不気味なものには興味を持つ人はいるかもしれないが関わろうとする人は稀だ。そんなものに関わって不幸にでもなったら損をするだけだ。だから関わりたくないというのが人間だ。

 俺はまさにそれだ。誰もが使う宿屋で俺みたいなやつ泊めたことで客が来なくなるかもしれないのに、理由も聞かずに泊めてくれた人だ。

 そんな優しい女将が今になって俺を衛兵に突き出すなんてされたら俺はもうこの世界の住人を信じられる自信がない。

 俺はこの世界に来る前、元の世界でそういった体験をしている。そうあれは俺がまだ引きこもりになる前の話だ。

 当時、俺が高校生で人を信じることが出来る心が折れていなかった時代。あの時のことはよく覚えている。俺が引きこもりになる一つ目のきっかけだった。


 俺には親友が居た。小学生の頃に知り合ってそれから苦楽を共にしてきた奴だ。名は浦議理海人。海人は容姿端麗で女子たちにモテていた。勉強や運動は何でもできていた。

海人とは違い俺はモテる方ではなかった。勉強は中の下。運動は出来るほうだったが一番というわけではない。

だがそんな俺でも場を盛り上げるという面においては一番だった。クラスのムードメーカーという奴だ。

そして俺たちは同じ高校に進学して一緒のクラスになった。海人は俺が勉強に困っていると教えくれたり、好きな人が出来たら手助けしてくれたりした。

俺のことをいつも助けてくれる優しい奴だ。あれが起こるその時までは俺もそう思っていた。

 高校三年の夏休み。俺は一世一代の大勝負。好きな人に告白という彼女が欲しい男子にとっての青春の一大イベント。俺は告白するまでに好きな女の子のために気に入られようと努力した。

 彼女の好きなものをあげたり、学園祭などで一緒に作業をしたりとこれまで自分のことをアピールしてきた。

海人は俺のために好きなものを教えてくれるなどして俺の恋のために手伝ってくれた。俺にとって海人は一番の親友だ。海人は俺と彼女の橋渡しになってくれた。

 そして海人の協力のもと彼女の俺の前にいる。俺は彼女と一日を共に過ごしていた。そうデートだ。彼女が俺とのデートを了承してくれたのはとても嬉しくてテンションが上がりすぎていた。デートの時、おかしい言動があったかもしれない。

 デートが終わり、別れ際に俺は告白をしようとしていた。夜景をバックに彼女に気持ちを伝える。

「好きです。俺と付き合ってください」

 俺が前に出した手を何秒か見つめていた彼女が次に発した言葉は理解できるものではなかった。

「ごめんなさい。私は海人君と付き合っているので貴方と付き合うことは出来ません」

「え……?」

「今日は楽しかったです。さようなら」

 呆然とする俺を無視して彼女はその場を去っていく。俺は衝撃的過ぎる彼女の告白に驚きのあまり立ち去るのを止めることなどできなかった。

 俺の一大イベントは親友と思っていた海人によって無慈悲にも壊されることになってしまった。

 俺は後日、海人に何故そんな残酷なことをしたのか問いただした。そこで海人から聞いた真実は俺のこれまでの人生が嘘で塗り固められていたことを知らされるものであった。

海人が何故俺の親友になってくれたのかと言うと、俺が場を盛り上げるのが上手くて女子から全くモテないからだった。

 俺が隣にいれば自分がモテるのに役立つからだという。そして俺が好きだった彼女を橋渡しとして自分が関わることで彼女を手に入れようと画策していたそうだ。

 俺が彼女に好かれようとしていた時に裏で俺のことを笑い話にしながら交際をしていたのだ。

 俺はそれに怒り海人に殴りかかったが海人の方が体格も力も大きくて返り討ちにあった。

 それから高校に行くことはなかった。俺を弄んで楽しむ彼女の顔も小学生のころからという長い間、俺のことを騙し続けていた海人の顔も見たくはなかった。

 こんな負け犬のような俺が学校に行ったって惨めな思いをするだけだ。そう理解した俺は一時的な引きこもりになった。


だがあれは俺が引きこもりになる一つ目のきっかけに過ぎない。

俺が隠れながら蜂蜜亭の近くにある酒場の裏道を通っていると酒場から話し声が聞こえてくる。

「おい、見たかおめぇ」

「あ? 何をだよ」

「熊だよ、熊! 蜂蜜亭から熊が出てきたんだ」

 俺は聞こえてきた言葉で一瞬思考が止まる。何かの間違いではないかと俺は酒場の裏道で耳を澄ませて酒場から聞こえてくる男たちの声に集中する。

「はぁ? お前の見間違いだろ。蜂蜜亭から熊が出てくるなんてありえねぇだろ。そもそも街中に大きな熊が居たら大騒ぎになるだろ」

「いや、ちげぇって。小さい子熊だよ。あの有名なバカ三人衆だって証人だぜ」

「何だってあのバカ三人衆も見たってのか。なら本当のことか」

「何で俺の言葉は信じられねぇのにバカ三人衆なら信じるんだよ⁉」

「そりゃあ、バカで有名なあいつらは確かにこの街では底辺の人間だ。もしかしたら貧民街に住む奴らよりも低いかもしれないという噂があるのは事実だが、良くも悪くもあいつらは有名だ。そんなあいつらが嘘をつくなんてありえねぇ。そんなことをしたらこの街で生きていけなくなる。だからあいつらの言ったことは本当のことなんだ」

 どうやら俺が少女を誘拐したということではないらしい。バカ三人衆とは多分蜂蜜亭の食堂にいた三人の男達だろうか。悪い意味で大層なあだ名を付けられているようだ。

 酒場で話題になっているのは俺のことも少しはあったがほとんどが熊の見た目のことのようだった。

 それ以外で話題なのは新人冒険者で誰が優秀かどうかといったものである。

「そういえば最近なったばかりの孤児のガキがなかなか優秀だって聞いたがお前らは知っているか?」

「いや、俺は知らんな。孤児で優秀ってのは不正でもしてそうだな」

「ああ、そいつなら知ってるぞ」

「本当か⁉」

「お、おう。どうしたそんなに大声をあげて、びっくりするじゃねぇか」

「あ、いや。すまん、何でもないんだ。それよりもその話を詳しく教えてくれ」

 孤児で冒険者になりたてってことは冒険者になれる最低ラインの十歳ってところか。

 冒険者の依頼には薬草を採取するというクエストがある。近くの森に生えている薬草を採るという一般的簡単なクエストは冒険者になりたての子供が仕事を熟すということと少しでも金を貰えるという体験をさせるようなものだ。

貧民街に住む孤児のように生きていくにも精一杯の者たちは力が弱くてもできる薬草採取のクエストなどの簡単なクエストをやることで金を稼いでいる。

 だがそんな孤児が優秀とはどういうことだろうか。薬草を採取する量が多いとか、もしくは魔物を討伐するクエストでもやっているのだろうか。

 冒険者にはランクというものがある。冒険者に初めてなる人がFランク、一度でもクエストをクリアするとEランクに上がる。孤児である優秀な冒険者はEランクだと思われる。

 Eランクになれば魔物討伐をすることが出来る。だが魔物討伐が出来ると言ってもゴブリンと呼ばれる小さな魔物の一体や二体といった所だ。だが十歳の孤児にしては優秀すぎるぐらいだろう。

 それから男達の会話を聞いていたが誰かの愚痴や、彼女が欲しいだのの話になり、聞く気が失せた俺は蜂蜜亭に足を運ぶ。

 酒場から蜂蜜亭まではほんの数分という距離であるにも関わらず、俺にはそれが数十分という長い時間に感じられた。

 やはり、女将が俺を衛兵に突き出そうとしているのではないかという不安が頭を過る。

「いや、あのおばさんに限ってそんなことはないって……」

 俺は信じたいのかもしれない。しかし、俺が口に出した言葉よりも不安は一層大きく膨れ上がるばかりだ。

 それもこれも過去にあんなことがあったからだ。親友と思っていた奴からの裏切りは、俺の心にとてつもないダメージを与えていた。

あれが無ければ俺がこんな暗い人間にはなっていなかったかもしれない。だが逸れは結果論に過ぎない。

あんなことが起きなくても俺は引きこもりという現代では底辺に位置する場所の住人へとなっていたかもしれないのだから。

 そうした不安を抱えながらも俺は歩みを止めることはなかった。あの少女が俺のことを見ていなかったら俺は指名手配されることも無いし、それを祈るしかない。

 起きてしまった現実はもう過去に戻れないのだから今できることをしなければいけない。

 早く蜂蜜亭で夕食にありつきたい。

 俺は蜂蜜亭の前に来ていた。

「っ……」

 不安を押し殺して蜂蜜亭の扉を開く。

「あら、やっと帰ってきたんだね」

 最初に俺の視界に入ってきたのは蜂蜜亭の女将であるおばさんだった。

「夕食出来ているから食堂に行ってな」

「え……?」

「どうしたさね、そんなボケーっとした顔して」

 俺は無意識に声を漏らしていたようだ。どうやら何もなかったらしい。ここにきて俺は安堵した。まだ俺の人生は終わっていないようだと。

 しかし、これで疑問がまた一つ増えた。あの少女が衛兵に俺のことを言っていたら絶対にこの蜂蜜亭に泊まっていることがバレているはずだ。

それなのに衛兵が来ないということは俺のことを見ていなかったか、もしくは衛兵に俺のことを話していないということだ。

 だが、そんなことはあり得るのだろうか。少女が目を覚ましたのは木箱の中だ。そんなところで目覚めたらさすがにおかしいと気づくはずだ。

「まぁ今、そんなこと考えても仕方がないか……」

 不安の種はまだ消えてはいないが今は夕食を食べたくなっていた。


 蜂蜜亭の食堂で食事をした俺は二階の泊まっている部屋のベッドに横になっていた。

 夕食に出たものは魚だった。シールフィッシュという名前の魚で何でも盾のようなとても硬い鱗を持つからその名前が付いたらしい。

 何でそんなことを俺が知っているかって。それは俺が食事をしている時におばさんの目を盗んで嬉々として話してくる女の子が居たからだ。まぁ女の子って言ってもミーナのことであるが。

 夕食は魚だけではない。魚に加えてスープやパンが付いてきた。パンは朝食と同じだったがスープは違った。前のスープは野菜を煮込んで出した旨味が特徴的なものであった。だが今回は違う。魚から出る出汁に魚の解された身や野菜が入っているスープであった。

 スープはパンともあっていて美味なものだった。俺はお代わりをしてしまうほどにおばさんの出した料理を堪能してしまった。

 料理を食べ終わり、自分の部屋に戻る。

 夕食を多く食べすぎたからなのかお腹がとても苦しい状態にある。美味い飯を食いすぎて辛い目に遭っているのはほんと情けなく思う。

 お腹がとてつもなく重く感じてベッドの上から動くのも億劫に感じている俺はそのまま寝転がりながら明日はどうしようかと考えていた。

 俺の手持ちにある金は残りわずかとなっていた。あと一日二日泊まれるかどうかというところだ。まずは初心者ギルドに行って金を稼がなければいけないと思う。そうしなければ悲しい野宿生活に逆戻りになってしまう。

 これからのことを考えていたがいつの間にか意識が薄くなっていった。


 気が付いたらベッドの上にいた。

「あれ、寝ていたのか……」

 お腹いっぱいになって眠気が強くなっていたのかもしれない。それはそうと早く朝食を済ませて初心者ギルドに行かなければならない。

 俺はすぐに行動に移した。食堂で美味しい朝食を食べ終えたら蜂蜜亭を後にする。俺が蜂蜜亭を出るときに何故だか背後から異様な視線を浴びせられていたが気のせいだと思いたい。後ろを振り向けば何故だか慌てたように掃除をしていたミーナの姿を目にしたのだがあれは隠せているとでも思っているのだろうか。


 蜂蜜亭から初心者ギルドに向かうまでの道は、ゲームの時とあまり変わっているところは見受けられなかった。

やはり、ここはゲームが現実になった世界とみるべきなのかもしれない。だがいつまでもゲームだと思っていられるかなど分からない。

この世界の住人だって生きているのだ。ゲームで起きないようなことでも起きるかもしれない。

 俺は正直そのことが気にかかっている。昨日の少女もそうだ。ボロボロな布切れを身に着けている住民などいなかった。

 それに貧民街と呼ばれる場所はマップ上にあった記憶が無い。だが酒場での会話ではその名が出ていた。ならばゲームの世界と全てが同じというわけではないかもしれない。

 朝っぱらからだというのに行き交う人が多くいる。初心者ギルドに近づいてきたからだろうか。初心者ギルドには多くの人が集まる。

冒険者になりたくて来る者。生活するためのお金を稼ぎに来る者。

依頼したいクエストを初心者ギルドに頼みに来る者。人種や性格など様々な人間がやってくる。

 視界に大きな建物が入ってくる。

「ゲームで見た時よりも迫力があるな」

 俺は初心者ギルドに足を踏み入れる。

 中は多くの人で溢れている。剣や盾、弓に杖などといった自分にあった武器を追っている者が多い。この街の冒険者達だろう。

「おいおい、あれって……」

「あいつらが言ってた熊か」

「ああ、そうに違いねぇ」

「獣人ってわけでもなさそうだが」

 周りからの視線が俺のいる入り口に集まってくる。まぁ仕方ないだろう。目立つのは分かり切っていたことだ。

 それよりも会話に聞こえてきたあいつらってまさかバカ三人衆のことか。めちゃくちゃ言われているじゃねぇか。

 俺を気にしている冒険者のことなど知ったことではない。今は金を稼がなければいけないのだから。

 俺は冒険者たちの視線を無視して受付に向かう。

「暇だなー」

 受付にいたのは猫耳を生やした女性だった。髪は茶色で短く可愛い容姿をしている。

「あのー」

「はぁ……冒険者はむさ苦しい男しかいなくて嫌なのよねぇ」

 猫耳受付嬢は冒険者が多くいるギルドの受付で盛大に愚痴を漏らしていた。

「……あのー」

「ってか何でこんな混む時間帯にあたしが受け付けやんなきゃいけないのよ。これもあの髭おやじのせいだわ」

「あのー!」

「うるっさいわね! さっきからごちゃごちゃと」

 呼び声に答えたかと思ったらいきなりの大声にびっくりして俺は耳を塞いだ。

「ってあれいないわね」

 受付嬢はカウンターから乗り出すようにしてきょろきょろと辺りを見渡していた。

「さっきから呼びかけの声が聞こえてきたと思ったんだけど。気のせいかしら」

「こっちだ! こっち!」

 俺は未だにきょろきょろと視線を右往左往している猫耳受付嬢に向かって大声を張り上げながらジャンプする。

「うわっ⁉ 熊がいる⁉ 何で⁉」

 俺が目の前にいることにやっと気づいたのか驚いた表情でこちらを凝視している猫耳受付嬢。

「ね、ねぇぼくちゃん! どこから来たの? こんなむさ苦しい場所じゃなくてお姉さんと一緒に良い場所に行きましょうよ!」

 猫耳受付嬢がやばいんだが。興奮したかのように獲物を見つけたとでも言わんばかりの捕食者の目をして口から涎が垂れ流しになっている。

すげぇ汚い受付嬢も居たもんだとドン引きである。こちらが下手に出ればすぐに襲い掛かって来るんじゃないかと思ってしまうぐらい受付嬢は危険な状態だと認識させてくる。

「俺は冒険者になりに来たんだ!」

 目の前で猫耳受付嬢がポカーンとした顔になっていた。俺は何か間違ったことでも言っただろうかと不安が出てくる。ここは冒険者になるための場所である初心者ギルドだよな……。

「おいおい! あのちびっこい熊が冒険者になるだってよ」

「ぶふっ。あははははは、まじかよ、それ」

「あんな子熊に何が出来るって言うんだよ」

 俺の宣言を聞いた周りの冒険者のほとんどが嘲笑していた。俺のことを何も知らない奴らが見た目であざ笑ってくることに怒りを覚えた。

 ここにいるほとんどの冒険者は元の世界の奴らと一緒なんだと感じた。ここでもまた俺は笑われる存在でしかないのかと。

「ぐっ……!」

 拳を強く握りしめる。俺は歯を食いしばって嘲笑されるのを耐えることしか出来ない。怒りに任せてこんな奴らを殴ったりしたら海人のようなクズ野郎と同じになる。それだけはごめんだ。

「ちょっとアンタたち! 邪魔するんじゃないよ! 君もごめんね。荒くれ者しかいなくて。でも冒険者っていうのは君みたいな子供? 子熊? がやるようなものじゃないのよ。危険な事ばっかりなんだから。それよりもお姉さんとデートでもしましょう」

「いえ、結構です。それよりも早く冒険者になる手続きをしてください」

 俺はこんな能天気な受付嬢に関わっている暇はないのだ。それよりも早く強くなって自分の体を取り戻すための情報を探さなければいけないんだ。

「手続きって言っても冒険者になるには十歳以上っていう年齢制限があるの。子供に危険な仕事を任せることは私たちには出来ないの」

「俺、子供じゃないんですけど」

「子供はみんなそういうのよねー。こればっかりは私にもどうにもできないんだ、ごめんね」

 そして俺は体が小さいからと子ども扱いを受ける形となり門前払いを受けてしまった。

「くそっ!」

 俺はギルドから逃げるようにして出ていく。その時の冒険者たちの顔といったら腹が立って仕方がない。大声で笑いながら嫌な笑みを浮かべて逃げる俺をずっと見続けてくるのだ。

 それに逃げる俺も自分自身が惨めで悔しくて涙が出てきてしまう。ギルドから出た後も俺はなりふり構わず走り続ける。

「おいっ⁉ どこ見てんだ! あぶねぇだろ!」

 誰か人とぶつかりそうになったのか後ろから怒鳴り声が聞こえてくるが徐々に小さくなっていく。

 それでも俺は無我夢中で走り続ける。これからどうすればいいのか分からない。冒険者にすらなれないでどうやって金を稼げばいいんだ。恩恵が手に入って浮かれていたのかもしれない。街を出てまた野宿生活に戻るしかないのか。俺が野宿生活に戻ってしまったら本当に野生の熊として生きていくのではないか。

 もうあんな思いはしたく無かったのにこの世界でも俺を苦しめるというのか人間関係ってやつは。あれは俺が海人に裏切られて引きこもってから二年後。


高校を途中退学した俺は親から無理矢理連れ出されて、親が知り合いに頼んで働かされることになった。

 俺が抜け殻のように何もやりたいという熱意が無くなっていて、仕事などまともにやっていける心境ではなかった。それで俺は仕事中に何度もミスをすることが徐々に多くなっていった。

 そんな俺を快く思う奴など仕事場にいるはずもなく俺はまた孤立していった。そして仕事場の奴からの俺に対する仕打ちは無視から始まって徐々に段階が上がっていくようにエスカレートしていった。作業服をズタボロにされていたり、使用しているロッカーから荷物が無くなっていたりなどの嫌がらせを受けるようになっていた。

 俺の心が傷ついているというのに無理矢理働かせようとする親も、俺の事情も知らずに嫌がらせをする奴らも大嫌いだった。そして俺はまた引きこもるようになった。もう誰にも邪魔されないように家を私物化するようになり、親たちはもう俺と関わりたくないのか家から出ていった。

 親は俺が問題を起こして自分たちの評判に傷を付けたくないのか、仕送りだけは送ってきていた。

 俺はそれに甘えて現実から逃げるようにしてゲームにのめり込むようになった。

 それからはもうゲームばかりの日々だった。


「あれ……ここって」

気が付いたら周りは寂れた家というにはあまりにもお粗末なボロボロの建物ばかりの光景を目にする。

 壁は壊れていて中は見えるし、屋根はほとんどなく雨が降ったら防ぐこともできない廃れた場所。

 ここは酒場で聞いた貧民街だとすぐに気が付いた。いつの間にか貧民街に辿り着いているとは思わなかった。それだけ俺は逃げることしか眼中になかったのかもしれない。

 無我夢中で来た道を戻るにしてもどう行けばいいのか分からなくなっていた。

「何やってんだ、俺は……」

 自分の行動に後悔しながら道を歩いていく。

 貧民街を歩くこと数十分。俺が目にしたのは貧民街に住むこの世界でのいわゆる負け組たちだった。

空気が重い。どこもかしこも生きるのを諦めたような表情で何処かをボーっと見続けている者ばかりだ。

 ここに住む人々は俺とほとんど同じだ。世界の負け犬。人生を上手く生きることが出来なくて社会から蹴落とされた奴らがここにいる住人なのだ。

 一度負けて何もかもやる気をなくしてしまった意気地なしたち。やる気もないのに死ぬのは怖いから底辺の環境でも生きることしか出来なくなった者たち。

 それが貧民街にいる大人たちだ。

 だが貧民街にも希望がある。親を亡くしてここでしか暮らすことが出来ず、貧しい生き方しか知らない子供たちだ。

 初心者ギルドでは十歳からという年齢制限があるからそれよりも低い子供たちはここで食べるものを恵んで貰わないと生きていける丈夫な体ではない。

 だがそんな酷い環境の中でも子供たちは協力してこの貧民街で生きている。

 例え、食べ物を盗むといった犯罪に手を染めようとそれしか食べ物を手に入れることは出来ないのだから。

 俺は貧民街を歩いているうちにそこに住む人々がどうやって暮らしているのかを理解した。

 俺に力や金があれば貧民街の奴らを助けることが出来たかもしれない。だがそんなのは夢物語に過ぎない。

俺にはまだ自由に生きられる力も無く、多くの者を養う金を持っているわけでもない。

「俺もいずれここに来るかもしれない……」

 今の俺は冒険者にすらなれない落ちこぼれだ。

「何で俺はこんな身体なんだ……」

 俺の体は熊のぬいぐるみ。何故この世界での俺の体は熊のぬいぐるみなんだ。こんな身体でなければ冒険者になれたはずなのに、他の奴らにだって笑われることなど無かった。

 それもこれも全てこの体がいけないんだ。

「もうこんな身体は嫌だっ!」

 俺は地面に拳を何度も打ち付けて振り払えない怒りをぶつける。

「痛っ……⁉」

 俺の拳は地面を何度も思いっきり殴ったから痛みを覚えていた。固いものを殴れば痛いに決まっている。そんなことは分かっていた。だけどそれでも何かを殴らずにはこの怒りは抑えきれなかった。

「この世界も俺を見放すのか……」

 前の世界でも俺の周りにいた奴はクソな人間ばかりだ。親だって俺のことなど心配してなどくれなかった。

 俺のことなど二の次で仕事だの、近所に知られたく無いだのといつも自分たちの保身ばかりを考えているクズな親だった。

 親友だと思っていた海人だってそうだ。あの時の俺はバカだった。海人のことを何も知ろうともせず、表面しか見ていなかった。

 だから俺は騙されることになった。今になって思うとおかしいことはいくらでもあったと思う。だが俺は海人を信じすぎてしまったが故に元の世界では負け犬になった。今の世界で言うなら負け熊なのかもしれない。



 昨日、食料を手に入れることが出来て気分がいい。

貧民街を歩いていると、見覚えのある熊が道の真ん中で四つん這いになっている。

「熊さん……!」

 私は熊さんもとに駆け出す。貧民街で見かけるなんて思わなかった。

 熊さんも貧民街に住んでいるのだろうか。

 でもどうしたんだろうか。地面に手をついたまま動こうとしない。

 熊さんに近づくにつれて何かが私を引っ張る感じがした。このまま熊さんに出会えば悪魔付きということがバレてしまう。

 悪魔付きだと知った熊さんが私を気味悪がってしまうかもしれない。悪魔付きが私の心を苛んでくる。

 何で私は悪魔付きなのだろうか。親が悪魔付きではないのに、私だけが辛い思いをしなければならないのだろうか。

 そんなにも私はこの世界に嫌われているのだろうか。

 そういった不感情が私の中でどんどんと増長していく。

 私はこのままではいけないと頭を振って嫌なことを考えないようにする。

 私は嫌われることよりも熊さんの方が心配になり、無意識に駆け寄っていく。



 地面に手をついて俯いている俺の背中を何かが摩ってくる。

「……どうしたの? ……大丈夫?」

 聞いたことのない澄んだ声が俺の耳に届く。

 振り返るとそこには一人の少女が立っている。

「っ……⁉」

 その少女を見た俺は目を見開いた。

 俺はこの少女のことを知っていた。それもそのはず、昨日見たのだから。今俺の目の前にいる少女は昨日俺が木箱の中に入れた少女であった。

 何故ここにいるのかという疑問が頭を過った。

 だが少女の姿を見てその理由はすぐに気が付くことになる。少女の格好はみすぼらしい服を一枚纏っただけなのだ。それに深紅のように印象的な髪は所々に砂や土といったものがこびりついていて明らかに貧しい生活をしていると分かった。

今になって俺は少女の姿をしっかりと認識することが出来た。昨日は倒れているということもあり、慌てていたから少女のことをあまり見ていなかった。昨日見た時も思ったが深紅に染まった腰辺りまである長い髪が目立つ。

それに汚れてはいるが整った顔立ち。さらには目に留まったのは少女の持つ瞳だった。少女の瞳は右が髪の色と同じで深紅に燃える赤色。それとは違い、左の目は輝かんばかりの金色だった。

俺はこれまで生きていた中で見るのは初めてだった。左右の瞳が違う色になっているのは。通称オッドアイと呼ばれるものである。

普通の人間はどちらの瞳も同じ色である。前の世界ではオッドアイの人間が居るなんて思ってはいなかった。創造の中だけの幻想であると思い込んでいた。

だがそれを持つ少女が今、俺の目の前にいる。俺はとても素晴らしいものを見たと感動している。

 おそらくこの少女も貧民街で暮らしているのだろう。こんな時に会うなんて思ってはいなかった。

「あ……」

 そこで俺はあることを思い出した。さっきまでは心に余裕がなくなっていて忘れていたが少女に会ったことで昨日のことを思い出す。俺は自分の保身のために少女を木箱に入れたのだ。少女からすると知らない奴から連れ去られるということになる。こんな幼い少女にとってそんな体験は恐怖でしかない。

 昨日少女が居なくなってから長い時間が経っている。幼い少女の足でも衛兵のいる場所には行くことが出来るはずだ。だが俺を探している者を見た覚えはない。となると少女は俺のことを見ていなかったのだと思う。

昨日は倒れていたし、木箱から居なくなった時にはその場から離れていたので知らなかったのだろう。

 それに少女は俺を見ても逃げ出す素振りも見いせない。どうやら俺が不安に思っていたことは杞憂だったらしい。俺はそれを知って心の中で安堵する。

「大丈夫! 大丈夫!」

 俺は少女に心配されないように立ち上がる。

「……本当?」

 幼げな少女が何か言いたげな表情をしてこちらを見てくる。

「ああ! ちょっと転んだだけだから」

「……そう」

 そこで少女は黙ってしまう。少女が何かを考えているのか分からず、時間だけが過ぎていく。

「ねぇ、君の名前はなんて言うの?」

 俺は沈黙に耐えられずに話題を振ってみる。話題と言っても幼い少女に何を言えばいいのかなんてわからない。俺は簡単に人と打ち解けられるような人間ではないのだ。

 だから名前という安直なことを聞いてしまう。いきなり名前を聞くなんてただのナンパ野郎にしか思えない。聞いた今になって恥ずかしく思えてくる。

「……マリー」

 俺が羞恥心に苛まれていると少女が言葉を発してきた。

「そうか、マリーっていうのか。俺はウルスって言うんだ」

「……ウルス」

 俺が名前を言うと少女――マリーは復唱するかのように俺の名前を口にする。

「マリーは貧民街に住んでいるのか?」

「……うん」

 どうやら俺の思った通りに貧民街に住んでいるようだ。そうじゃなければこんなところに幼い少女であるマリーが居るはずがない。マリーは十歳ぐらいの見た目だ。

 こんな年端も行かない子供が今日食べる飯にすら困っているというのはどうも嫌な気分になる。

 マリーは厳しい環境の中で生きるのが辛いはずなのに元気なように見える。俺が先ほど見た貧民街の人々はこれからの人生がどうでもいいと言わんばかりに死んだ魚の目をしていた。

 だがマリーは俺の見てきた貧民街に暮らす者達とは違う。マリーの二色の目は死んだ魚のようではない。こんなゴミ溜めのような場所でこれから楽しい未来が待っているとは思えないのに、それでも生きようという強い意志がマリーの瞳から感じられた。

 そんなマリーを見て俺は自分のことで悩んでいたことが馬鹿らしいと思えた。他の人からの自分に対する評価を気にして自分の保身を気にするばかりになっていた。

自分が騙されただけで塞ぎ込むというとても心が弱い人間だったと自覚することになった。目の前にいるマリーは劣悪な環境でも生きようと必死に生きているとても心が強い人間だと感じ取れた。

 そんなマリーのことを気にかけてやりたいと思った。俺みたいな、何からも逃げて塞ぎ込む糞野郎なんかじゃなくてマリーのように頑張って生きている奴が報われないのは間違っている。

 俺はマリーをこんなゴミ溜めから解き放ってあげたいと思った。だが俺にはそんな力はない。マリーを救ってやれるほどの金を持っているわけでもない。そんな金をすぐに稼げるほどの力を持っているわけでもない。それに金を稼ぐにも今の体では冒険者になって手っ取り早く稼ぐことすら出来ない。

 今の俺には何もない。それがどうにも悔しかった。何故俺はこんな身体になってしまったんだと。

「なぁ、マリー」

「……何? ウルス」

「今の俺にはこんなことしか出来ない。ごめんな」

 そう言って俺は一つの花をマリーに渡した。それはこの世界にはどこにでも咲いているリトルフラワーと呼ばれる花である。これは俺がこの世界に来て初めて拾ったものである。この世界の住人にとっては何とも思わないかもしれない。

 マリーにとってもただの花だと思う。だけど俺にとってはこれが今できる最高の贈り物である。

 これは俺の自己満足でしかない。

「…………」

 花を受け取ったマリーは何も言葉を発しない。俺から花を渡されたことで戸惑っているのかもしれない。もしくは何故花を渡されたのか理解できないのかもしれない。

 こんなものを貰っても嬉しくは無いだろう。貰えるものなら金か食べ物がいいだろう。

「じゃあな」

 俺は沈黙を続けるマリーを置いてその場から立ち去る。これ以上マリーの傍に居たら涙が出てきてしまいそうだった。そんな姿を見られるわけにもいかず、俺は再び初心者ギルドに向かう。

 俺が立ち去ってもマリーは一歩も動こうとはしなかった。


第三章「初心者ギルド」


 俺がマリーと別れてから時間が経ち、今は昼過ぎといった所。俺が今いる場所は初心者ギルドの前。朝に悲しくも追い出されてからまた戻ってきた形になる。俺は金を稼がなければいけない。

 俺は冒険者に何が何でもなってやると誓ってここに来た。この体で大人だと言ってもここの者たちは聞いてくれない。だったら俺が冒険者でやっていけると力の証明をするだけだ。

 こんなところで足踏みしているわけには行かない。俺よりも辛い環境で生きているマリーが居る。俺はマリーに出会って自分が甘ったれた糞野郎であることに気が付いた。

 あんなに幼いマリーですら頑張っているというのに、大人である俺がいつまでもくよくよしているなんて出来るわけがない。

 俺はもう決めたんだ。自分の体を戻すためにこれから必死に頑張ると。いつまでもこんな可愛がられる姿は嫌だ。俺はマリーにかっこいい姿を見せてやりたい。それなのにこんな熊の格好では誰からも馬鹿にされてしまう。

 だから俺は早く元の姿に戻りたい。

 それには絶対に冒険者にならなければいけない。金を稼ぐにしてもそうだが、一番重要なのは情報だ。冒険者であれば情報が多く集まってくる。

それに他の街にも行くだろう。稼ぎながら他の街に行くとなれば冒険者が一番行きやすい。

冒険者になれば身分の証明にもなるから、他の街に入る時に門番に止められなくなる。

 俺がこの街に来た時のようになるのはごめんだ。

 俺は再び初心者ギルドに入る。

「っ……」

 俺が入ってきたことでギルドの中にいる者たちが視線を向けてくる。

 視線を向けてくる者の中にはニヤニヤと口角をあげて下卑た顔を歪める者たちが居る。

 俺は先ほど決意してここに戻ってきた。だが俺に向けてくる嫌な笑みを見て受付に向かっていた俺の足が止まる。

 俺の身体は思い通りに動かすことが出来なくなってしまう。先ほどの決意は何だったのかというほどまでに俺に刻まれた恐怖は消えてはくれなかった。マリーと出会ったことで俺は前の塞ぎ込んでいた時から変われたと思い込んでいたようだ。

 何も変わってはいなかった。俺を見る奴らの表情が俺に恐怖を与えてくる。俺はまだ引きこもりで塞ぎ込んでいたあの頃のままなのか。

「戻ってきてどうしたんだ、子熊ちゃんよー」

 それは下卑た笑みを浮かべる男の声だった。初心者ギルドにいるのはおかしいと思える、図体がでかく筋肉質な大男だった。鎧を纏い大男の身体ぐらいある大きな大剣を背負っている。

「おいおいバルクスそんなに怯えさせるなって」

「そうだぜ、可哀そうだろ。こんなちっこい子供なんだから」

 大男の名はバルクスというらしい。しかし、バルクスを注意している二人の男だが表情はバルクスと同じで下卑た笑みを浮かべている。こいつらも俺をからかって楽しんでいる奴らのようだ。

「ここは子供が来るところじゃねぇ。さっさと帰りな」

バルクスが背負っている大剣を手に持つ。それを見た他の冒険者たちは俺たちから離れ出す。

 他の冒険者たちは止めるような気配がない。どこか関わり合いたくないとでも言うような表情をしている者が多い。

 このギルドにはバルクスに逆らえる奴がいないのかもしれない。まぁ初心者ギルドと呼ばれるだけに強くなれば他の街に行くからだろう。どうやらバルクスは新人いびりを楽しんでいるのだろう。弱い冒険者ばかりが集まる初心者ギルドならそれがやりやすいからこの街に拠点を構えているのかもしれない。

「ちょっと困ります! 冒険者同士での争いはご法度ですよ!」

 騒ぎに気付いた猫耳受付嬢がこちらに注意してくる。

「追い出すだけですって。身の程知らずなガキをね」

 注意を受けてもバルクスは止まらない。それに加えて俺の足はまだ恐怖で動くことが出来ない。

 何故だ。何故なのだ。動いてくれよ! 俺がそう強く思っても体が言うことを聞いてくれない。体を何かに縛られたかのように身動きが取れなくなっていた。このままではまた追い出されることになる。

 先ほど誓ったことは何だったのか。俺はまた嫌なことから逃げ出そうとしている。決めたことをすぐに諦めてしまう。そんなにも俺はどうしようもない糞野郎だったのだと思ってしまう。

「もう二度とここに来るんじゃねぇよ!」

「やめなさい⁉」

 受付嬢の悲痛な制止の声が聞こえてくるがそれよりも早くバルクスの振り上げた大剣が振り下ろされようとしていた。

 その時、俺は走馬灯のようなものが見えてくる。元の世界であった嫌な出来事の数々、どれもこれも俺にとって忘れ去りたいものであった。元の世界での人生は嫌な思いでしかない。だから新しい人生でいい思い出が出来ると思っていた。しかし、今のこの状況ではもうそんな夢物語は現実になることはない。

 そこでマリーのことが頭を過る。昨日今日あったばかりの一人の少女。貧民街という生活をするのにも辛い場所で必死に生き続けている彼女はどうしても頭から離れてはくれない。彼女を見て俺は変わろうとしたはずなのに。今の俺はなんだ、過去のトラウマを引きずって新しい人生を終わらせようとしている。

 訳の分かれない熊の人形にされて、まだこの世界のことをゲームの知識でしか知らないまま終わってしまう。まだこの世界で冒険をしていない。

 それなのに俺はここで人生を終えてしまっていいのだろうか。

 俺の頭を後悔の念で溢れていったその時、ガチャっと扉が開く音が耳に届いてくる。

「ウルス⁉」

 いきなり俺の名を叫ぶ声がギルド内に響き渡る。バルクスが大剣を振り上げたまま動きを止める。

「悪魔付き⁉」

 バルクスが驚愕した顔になっていた。俺が振り返るとそこにいたのはマリーだった。息を荒くしていて、ここまで走ってきたのだと分かるような状態だった。

 俺には何故マリーがここに来たのか見当もつかなかった。

「ウルスを苛めないで!」

「ハッ、この熊の連れかよ。こんな悪魔付きの連れが居るなんて悪い奴だな。まずは悪魔付きから始末するか」

 バルクスの言葉を聞いて俺は思い切り殴られたような衝撃が頭を襲う。物理的に殴られたというわけではない。恐怖とは違う何か覚えのあるようなものだった。

「っ……」

 受付嬢も周りにいる冒険者も誰もバルクスを止めようとする者はいない。周りの冒険者は分かる。先ほど俺が襲われそうになっても止めようとはしなかった。だが受付嬢が同じように止めようとしないのが腑に落ちなかった。

 そこで俺は気が付いた。バルクスがマリーに対して何と言ったかを。悪魔付き。それを俺は知っている。ゲームの中に存在した言葉だった。だがゲームでその言葉を聞いたのはNPCの会話だけだった。ゲームをプレイした者たちは皆こう言った。悪魔付きとはまだ実装されていないものであると。だが俺が元の世界にいた頃はゲームでそれが出てくることはなかった。

 何故悪魔付きと呼ばれるのか。言葉だけが存在していた。しかし、その言葉を発するときのNPCは誰もが忌避していた。そんなNPCを見てきたプレイヤーたちはその言葉を侮辱の言葉として使うようになっていた。

 それがマリーに向けられて言われている。受付嬢の態度からマリーが悪魔付きという存在なのだと理解できた。

 マリーが何故、貧民街で暮らしているのか。おそらくそれは悪魔付きだからなのだろう。親によって捨てられたのかも知れない。

 俺はここにきてやっと思い出した。先ほど頭を襲った衝撃のことを。あれは海人に裏切られた時だった。怒りだ。先ほど俺を襲ったのは怒りの感情。先ほどまで俺が笑われようが怒りの感情が出てこなかった。悔しさや恐怖といったものしか感じていない。それなのにどういうことなのだ。今になって怒りの感情が呼び起こされる。あの時以来俺の中で起きることのなかった怒りは今になってやっと封印が解き放たれた。

 何故今なのか、それはマリーが居るからだった。俺にとって新たな人生で必死に生きる彼女を見た俺はそのようになりたいと思った。そんな彼女だからこそ、彼女を侮辱する奴らが許せなかった。

 先ほどまであった恐怖は無くなっていった。俺の身体はもう動く。

「悪魔付きが生きてんじゃねぇ!」

 マリーの目の前にまで行ったバルクスは再び大剣を高らかに振り上げて、マリーの身体目掛けて上段から縦に振り下ろす。

「獣走!」

 バルクスの振り下ろした大剣がマリーに当たる寸前で俺はスキル名を叫ぶ。獣の心得の一つ、獣走。短時間だが素早く動くためのスキル。

 俺の身体を紅い光に包まれる。そして俺はマリーを助けるべく突っ込む。

「マリーに手を出すんじゃねぇ! 獣拳!」

 俺の右拳に紅い光が集まりだす。俺はバルクスの大剣に紅く染まった右拳を解き放つ。

 俺の渾身のパンチは大剣の側面を叩き、弾き飛ばす。バルクスは強い衝撃を受けたことにより手から大剣が離れてしまう。大剣は振り下ろされた勢いで床に突き刺さる。

 咄嗟にやったことだから間に合わないかもしれないと思ったが、何とか間に合ってくれたようだった。

「大丈夫かマリー」

「う、うん」

 マリーは目の前で起きたことにパチクリと目を真ん丸にして驚いていた。

「なっ……⁉」

 俺がマリーの安否を確認していると何が起きたか理解できていないらしいバルクスが驚きのあまり変な声を漏らす。

「何しやがったてめぇ⁉」

 バルクスはお怒りである。訳も分からずに吠える犬のようだ。

「おい! お前らも手伝え!」

「お、おう」

「ああ」

 バルクスの腰巾着二人がこちらに寄ってくる。今度は三人がかりで来るようだ。だが今の俺にはもう恐怖はない。マリーを守るという一点において俺はここから退くわけにはいかない。

 俺はマリーを庇うように前に出て立ちはだかる。

「お前から先にやってやる!」

 大剣を手に戻したバルクスはこちらに突撃してくる。

「うおおおおお」

「死ねぇぇぇぇ」

 バルクスの後を追うようにして二人の腰巾着が片手剣を手に向かってくる。

「これで終わりだ! パワースラッシュ!」

 バルクスの大剣が青く光り出す。剣士の職業スキル。パワーに特化したスキルだ。だがスピードは遅い。それが欠点である。

 バルクスの攻撃は横に一閃するなぎ払い。上段からの振り下ろしでは隙が多いとともに俺の身体はとても小さい。バルクスはそれを見越して横のなぎ払いを選択したのだろう。

 その判断の速さから冒険者としてはそれなりに出来るのだろう。だがその程度の実力では俺を倒すことなど無理だ。

 俺にはゲームで磨いてきたバトルセンスがあり、だいたいのスキルのことは分かり切っている。

「獣走! 獣脚!」

 俺はバルクスの目の前に駆け出す。獣走による勢い余ったスピードでバルクスの大剣が薙ぎ払う前に懐に入り込む。そして追加のスキルを使う。

 俺の右足にスキルが発動するときに出る紅い光が纏いだす。獣走による勢いのまま獣脚がバルクスの腹に突き刺さる。

「がはっ⁉」

 バルクスの大剣に集まっていた青い光が霧散し始める。バルクスは獣脚を受けて後ろに吹き飛ぶ。

 鎧を纏っていたが獣走からの獣脚による衝撃を耐えることは出来ずに後方に吹き飛ぶ。

 後ろから向かってきていた腰巾着どもにバルクスがぶつかっていく。

「なっ⁉」

「バルッ……⁉」

 ギルド中央にあるテーブルへと突っ込んだ三人。三人は起き上がってくる気配がない。どうやら先ほどの衝撃に耐えることが出来ずに伸びてしまったらしい。

「何だ⁉ あの熊⁉」

「あのバルクスがやられたっていうのか⁉」

「このギルドで一二を争う奴だぞ⁉」

「えぇぇぇぇぇ⁉ ギルドのテーブルがぁ⁉」

 周りにいた冒険者たちが驚愕に染まった顔でこちらとバルクスの方を見てくる。最後の方に違った悲鳴を上げる猫耳もいるようだったが。

「マリー大丈夫だったか?」

「うん。ウルスが守ってくれたおかげ」

「そうか」

 マリーを守ることは出来た。しかし、この現状をどうしようかと考えなければならない。冒険者でもない俺が冒険者と争ってしまった。しかもギルド内でだ。

 まぁ仕方ないだろう。バルクスが襲ってきたのだから。俺たちは正当防衛だ。この世界にそんなものがあるなんて知らないけど。

「何の騒ぎだ‼」

 ギルド内に大きな声が響き渡る。

「ギルドマスター⁉」

 猫耳受付嬢の驚いた声によってバカでかい声の主が誰なのか分かることになった。

 受付の奥にある部屋から出てきたのは小柄な爺さんだった。小柄ではあるがとても引き締まった身体をしている。

さらに身体のあちこちに何かと戦って出来たような切り傷が遠くからでもはっきりと見える。

「いえ、ちょっと冒険者の喧嘩が……」

 猫耳受付嬢はしどろもどろになりながらギルドマスターに説明している。

「そうか、それでお前は何をしていたんだ?」

「え?」

「喧嘩も止めずに何をしていたんだと聞いているんだが」

「あ、いや。それはですねぇ……」

 猫耳受付嬢はギルドマスターの尋問に答えられずに声量がどんどんと小さくなっていく。

 ギルドマスターは受付嬢に向けている視線をこちらに向けてくる。その先は俺をよりもマリーに向いていると分かった。

「ふん! 悪魔付きだから止めなかったてところか」

 俺は今、ギルドマスターの言動にイラっとくる。

「それは……」

 受付嬢が縮こまりすぎて、出会ったときの明るさが消えていた。

 もういいとでも言わんばかりにギルドマスターは受付嬢から離れてこちらに歩いてくる。

「すまなかった。わしの部下が不甲斐ないばかりに不快な思いをさせた」

 ギルドマスターが冒険者ですらない俺たちに頭を下げて謝ってきた。

 俺はこの爺さんを勘違いしていたかもしれない。先ほどの悪魔付きという発言は侮辱として使ったわけではないのかもしれない。

「いえ、それはいいです」

「……うん」

「君たちはいいかもしれないがこちらはそれでは納得がいかない。償いをさせてくれ」

 ギルドマスターの言葉に周りにいる冒険者と受付嬢は驚愕に目を見開いている。

 俺はこれがチャンスであると思った。そのチャンスを棒に振るわけにはいかない。

「なら、俺を冒険者にしてください」

 俺が冒険者になるにはこの時しかない。これを逃したらまた身体のせいで冒険者になることは出来ないかもしれない。

「私もお願いします」

 マリーが俺と同じことを言う。マリーも冒険者になりたいらしい。貧民街で暮らすものが働くには自由度の高い冒険者がやりやすい。しかし、マリーは悪魔付き呼ばれていてそう簡単に冒険者になることは出来ないのかもしれない。

「それでいいのか?」

「はい!」

「……うん」

「分かった。こちらでお前たちのギルドカードを作ろう」

 ギルドマスターが俺たちの手続きをしてくれる。

「ここに血を垂らせ」

 白紙のギルドカードをカウンターに出される。そしてナイフを受け取る。俺はナイフで手を少しだけ刺す。すると俺の人形の手から血が出てくる。赤い色をしている。どうやら何もかもが人形になっているわけではないらしい。

 白紙のギルドカードに俺の血が数滴落ちる。すると白紙だったギルドカードの色が変化していき、文字が記されていく。

 青く染まったギルドカード、そこには俺の名前とギルドランクが記されていた。

 マリーも俺と同じようにしてギルドカードを作る。俺と何にも変わらない作業であった。悪魔付きだからといって何かが違うわけではないようだ。

 何故悪魔付きと呼ばれているのか分からない。何か重要なことがあるのかもしれない。今はまだ分からないことだらけだ。

「今日は本当にすまなかった」

 ギルドマスターは何度も謝ってくる人であった。ギルドマスターとしてギルドの一員がやらかしたことに対する責任があるのかもしれない。

 俺たちはギルドカードを作り終えたから、居心地が悪いギルドを出ていく。


「……また会える?」

 貧民街についてマリーと別れようとしたらそんなことを訪ねてきた。

「ああ、お前も冒険者になったんだし一緒に行くか? 何処にも行く当てがないならな」

「……行く。明日また来てね」

 俺たちは一度別れることにした。一緒に行くにしてもいろいろと準備が必要になるだろうから。

 マリーと一緒に旅をするなら困難がいっぱいだと思う。だがそれでも俺は良いと思う。ここでマリーと行かないなら俺はいつまでも糞野郎のままだと思っているから。

 マリーと一緒なら俺は何処までも行けるかもしれない。そう思わせてくれる不思議な子だ、マリーは。

 マリーと別れて俺は足早に蜂蜜亭へと戻った。そこで一日だけ宿泊を延長した。食堂で飯を食べ終えたら、部屋でさっさと眠りにつく。

 俺に金が有ったらマリーを蜂蜜亭に泊めることが出来たかもしれない。マリーは辛い思いをしているかもしれない。

 少しだけ不安を覚えていた。そこで急に眠気が襲ってきた。

「うーん……」

 視界がどんどんと狭まっていく。瞼がとても重く感じる。俺は力尽きて瞼を閉じてしまう。

 疲れから意識が途切れてしまう。



 翌朝、俺は起床してからすぐに身支度をして蜂蜜亭を出る。

 マリーと会うために貧民街に向かう。その道中、多くの視線に晒されることになる。

「あれが噂の……」

「あのバルクスを倒したっていう……」

「本当に熊だ……」

 道行く者たちが俺を見てはひそひそ話をしている。俺の聴力は元の世界の頃とは違う。獣の心得を獲得して以来、身体能力といったあらゆる力が強くなっている。あらゆる獣の力を少しだけ借り受けたような感覚だ。

 俺に聞こえないように話しているつもりのようだが、しっかりと聞き取れている。どうやら昨日、ギルドであったことが知られているようだった。

 こればかりは仕方が無いだろう。バルクスはこの街で有名であったようだし、それにこんな話題を話さないでいられる奴が多いとも思えないし。

 それでも広まるのが早すぎやしないか。あったのは昨日の昼過ぎだというのに一日も経っていないのにもう知れ渡っているなんて思いもしなかった。

 多くの者から視線を浴びる中歩くこと数分、いつの間に寂れた家が並ぶ場所にいた。

 俺は貧民街に辿り着いていた。珍妙なものでも見るような視線から逃れようと足早になっていたようだ。

「マリーは何処にいるかな……」

 そういえばマリーが貧民街にいることは分かっていたものの、貧民街のどこに住んでいるのか知らなかった。

 貧民街に来たのはいいもののこれからどこに向かえばいいか分からない。

「はぁ……仕方ないか」

 俺は貧民街を適当にぶらぶらすることにする。立ち止まっていてもマリーを見つけることは出来ないだろうと虱潰しに探していこうと思い、行動に移す。

「それにしてもここは嫌だな……」

 こんなところに長い間居たいとは思えない。こっちまで生気のない人間になってしまいそうだ。

 早くマリーを見つけてここから出よう。

 貧民街を歩き続けると、視界の端に紅い髪を確認する。

「マリー!」

 俺は無意識的に駆け出していた。いつの間にか俺は、マリーのことを最近知り合った中とは思えないぐらいに心を許しているようだった。

 マリーがこちらに振り向く。俺に声に気が付いたようだ。目を輝かせてこちらに向かってくる。

「……熊さん!」

 マリーが俺に抱き着いてくる。

「わぷっ⁉」

マリーの身長は俺よりも少し大きいから、マリーのお腹辺りに顔を埋めることになった。

「……ん」

 ぎゅっと俺の頭が凹んでいく。マリーの抱き着く腕の力が徐々に上がっていき、最初は平気だったのに少しずつ痛みが走ってくる。

「ちょ、ちょっと⁉ マリー⁉」

 俺はミシミシと言って凹んでいく頭に危機感を覚えて抱き着くマリーの腕を叩く。このままでは俺の頭が潰れてしまう。それだけは防ごうと必死になって抜け出そうとするが、小さい俺の身体が裏目に出てしまい上手く抜け出すことが出来ない。

「……あ、ごめん」

 俺を落としかけていることに気づいたマリーが腕の力を緩めてくれて何とか抜け出すことに成功する。

 マリーが正気に戻ってくれなかったら、跡数分で俺はこの世を去っていたかもしれない。

 マリーも反省しているのか、声の大きさが徐々に小さくなっている。それだけ俺に会えたことが嬉しかったのかもしれない。俺だってそんなマリーを見たら怒ることなんて出来るわけがない。

 俺は子供に悪戯されたからといって怒るような糞野郎ではない。

「もう大丈夫だから、心配するな」

「……うん」

 まだ落ち込んでいるようだが、そこまで酷く落ち込んではいなくてほっとした。

「冒険者にもなれたことだし、依頼にでも行くか?」

「……うん!」

 さっきまで落ち込んでいたマリーが目をキラキラさせて頷く。それと同時にぐぅぅぅっと重低音が鳴る。

 するとマリーが顔を赤くしてお腹を抑えている。

「あー……」

 重低音の正体はマリーの腹の虫が鳴った音のようだ。それを俺に聞かれたことにマリーは恥ずかしがっている。

 それもそのはず、マリーは貧民街で暮らしていてまともに食えるものが無い生活を送っているのだ。

 俺はそんなことも気づいてやれなかった。マリーと冒険できることが嬉しくて、マリーことを忘れて自分のことばかり考えていた。マリーが一番辛い時に俺は悠々と蜂蜜亭に泊まって美味い飯を食っていたのだ。

 やっぱり俺は糞野郎でしかない。それなのにマリーは俺に会えて嬉しそうにする。そんなマリーを見て俺は絶対に幸せにしてやりたいと思った。

「まずは腹ごしらえだな!」

「……え⁉」

 俺の言葉に驚いたのか目を大きく見開いて口をポカーンと開けているマリーがいる。

 マリーの手を優しく掴んで歩き出す。向かうのは目的の場所であるギルドではなくて蜂蜜亭だ。

 マリーが悪魔付きで住人から嫌われているのはもう分かっている。蜂蜜亭に連れて行けば追い出されてしまうかもしれない。だが俺は追い出されることはないと思っている。蜂蜜亭の女将であるアリアさんはそれぐらいでこんな幼気な少女を追っ払うような人ではないと知っている。

 あの人は俺のような者でも受け入れてくれる人だ。それなのに悪魔付きだというだけで少女を蔑ろにするわけがないと信頼している。

 マリーは俺に手を引かれても嫌がることなくついてくる。了承も受けずに連れていこうとしているのだが抵抗するそぶりを見せない。

 俺のことを信頼してくれているのだろうか。そう思うと嬉しくなってくる。

 そして俺たちは蜂蜜亭の前に辿り着く。

「っ……」

 おばさんを信頼しているが、それでも悪魔付きということで追い出されたらどうしようと不安を覚える。

 俺は少しだけ弱気になっていたがマリーを連れてきた手前、後に引くことは出来ない。

 俺の手を通してマリーの身体が震えているのが伝わってくる。俺の案内とはいえ覚えているようだ。無理もない。これまでマリーは悪魔付きのことで、嫌なことが多くあったのだろう。

 それでも逃げ出さずに俺についてきてくれた。それなのに俺が臆病になって馬鹿らしいとさえ思えた。

 俺はマリーに恥ずかしい所を見せまいと、心を強く持ち、蜂蜜亭の扉を開く。

「おばさん、飯をください」

 カウンターにいたおばさんは何事かとこちらを見てくる。マリーをじっくりと見てからため息をつく。

「その前に髪や身体を洗ってきな」

 おばさんはそう言ってお湯の入った桶とタオルを渡してくる。

 やっぱりおばさんは優しい人だ。マリーのことに突っ込むこともせず、さらにはお節介まで焼いてくる。

「ありがとう」

「……あ、ありがとう」

 おばさんに俺を言って二階の俺が止まっている部屋に向かう。

「一人で洗えるか?」

「……ううん」

 マリーは長年貧民街で暮らしていたから洗い方が分からないらしい。しかし、困ったものだ。それでは俺が洗わなければいけなくなる。

 まぁ、いいか。マリーは十歳の子供だ。子供の裸ぐらい見たって大丈夫だろう。

「じゃぁ、俺が洗ってや……」

「それはダメに決まってます!」

 俺がマリーを洗うと伝えるも、途中で誰かの声が割って入る。

「ウルスさん! か弱い女の子を脱がそうなんて変態さんですね!」

「なっ……⁉」

 割って入ってきたのは誰あろう、蜂蜜亭の自称看板娘ことミーナだった。

 部屋の鍵を閉めていたはずなのだが、なぜか部屋の中に居る。

「鍵は閉めたはず⁉」

「合鍵がありますので」

 ミーナはこれ見よがしに手に持っているいくつもの鍵が付いている鍵束を見せてくる。

 こいつは蜂蜜亭の定員ってのをいいことに勝手に部屋に入ってきたようだ。

「この宿は勝手に人様の泊まっている部屋に上がり込んでくるのか⁉」

「そんなことないですよ」

 俺の訴えにミーナは不服そうに見てくる。

「お母さんに洗うのを手伝って来いって言われたんですー」

 どうやらおばさんの根回しだったようだ。

「ならノックぐらいしろ」

「だってウルスさんが変な事言いだしていたので、つい」

 俺がマリーを洗おうとするのを止めに来たのか。まぁ、俺が悪かったと思うけど。そんなに蔑まなくてもいいだろう。俺だって可愛い女の子とイチャイチャしたい。

「ウルスさんはさっさと出てってください」

「あっ……」

 ミーナは俺を軽々と持ち上げて部屋の外に投げる。邪な考えをしていて油断していた。それにしてもミーナのような子供に投げられるというのは納得がいかない。それもこれも小さくて軽い熊の身体のせいだ。

 こんな身体さっさと脱ぎ棄てたい。これが着ぐるみであったらとっくの昔にそうしていたであろう。

「はぁ……」

 俺は自分の身体に虚しい想いをしながら部屋の前で座り込んでいる。そのままマリーたちが終わるのを待った。



 ウルスに連れてこられたのはこの街で有名な宿屋――蜂蜜亭だった。私はここに入っていいのだろうかという不安で心がいっぱいだった。

 そんな私の心情を知らずにウルスは私の腕を掴んで離そうとしない。だけどその手はとても優しいものであった。

 そして蜂蜜亭へと入ることになる。ウルスは蜂蜜亭の女将と何か話していたが、私はそれどころではない。木造で造られている綺麗なテーブルやイスが目に入る。そこは私にとって非現実的な場所に思えた。貧民街で暮らしてきた私にとって、汚れが一つもなく壊れていない家具など初めて見る。私がここにいるのはどう見ても場違いだった。

 そんなことを思っていると、ウルスと女将の話がいつの間にか終わっており、ウルスと共に二階に部屋に連れていかれる。

 何でそうなったのか分からないが、私の髪や体を洗うことになったらしい。

 いきなり現れた私と同じぐらいの少女がウルスを部屋の外に放り出していた。

「じゃぁ、洗おっか」

「……え?」

 少女の言葉を最後に私のその後の記憶は曖昧で覚えていない。

 気が付いたら私は部屋に取り付けてある鏡を見ていた。そこに映っていたのは見たことも無い美少女であった。

艶のある深紅の髪に、汚れの無い綺麗な肌。悪魔付きと忌み嫌われる左右で色が違う赤と金の瞳。

 生まれ変わったかのような私だった。

「……これが私⁉」

 さっきまで薄汚れていた肌や髪が綺麗になっていた。

「綺麗になったね!」

 少女――ミーナは私のことを忌み嫌うことなく接してくれる。先ほどの女将も私のことを嫌っているようには見えなかった。

 ここの人たちはとても優しい。

 ぐぅぅぅっとお腹が鳴る。優しさに触れて気が緩みすぎたのか、恥ずかしい音が聞かれてしまう。

「っ……」

 恥ずかしさのあまり顔が熱くなっていく。鏡には顔を赤く染める私が居る。

「早く下に行こう! お母さんの美味しい料理が待ってるよ!」

 少女に背中を押されて部屋を出る。



 部屋を追い出されて不貞腐れていると、ガチャっと部屋のドアが開く。俺は出てきた人物を見て目を見開くことになった。

 部屋から出てきたのは先ほどまでとは違う、土埃などが付いていて汚れていた髪は艶があって潤いが出ている。それによって深紅の髪がとても綺麗になっている。そして肌もピカピカになっていて初めて会った時とは思えないほどの美少女に変身していた。

 洗っただけでここまで変わるものかと驚愕した。

「……可愛い」

 俺は無意識にその言葉を口にしていた。俺は言った言葉を理解すると咄嗟に口を覆う。マリーの前でとても恥ずかしい言葉を口にしてしまったと慌てる。

「っ……」

 俺が口にした言葉に反応したのか顔を真っ赤にするマリー。

「こんなところで何やってんですか! さっさと下に行きますよ!」

 俺たちがしどろもどろしているとミーナが割り込んでくる。立ち止まっている俺たちに我慢ならなくなったのだろう。

「ほら、行った。行った」

 ミーナに急かされて俺たちは一階の食堂に向かう。

 食堂に着くと暖かそうな食べ物が並んでいた。

「食べやすいものにしといたからね」

 おばさんが最後にスープを持ってくる。それをテーブルに置いてマリーを座らせる。

「……いいの?」

 マリーは食ってもいいのか分からず、申し訳なさそうに聞いている。

「いいんだよ、こいつのおごりさね」

「いっ⁉」

 おばさんにいきなり背中を叩かれる。容赦のない一撃だった。獣の感覚を得た俺でも捉えることのできないはたきだった。

 このおばさんはバルクスよりも断然強いだろう。俺でもこのおばさんに逆らおうとは思えない。

「…………」

 マリーが心配そうにこちらを見てくる。こんな豪華なものは受け取れないとでも思っているのだろう。まぁ、俺のなけなしの金が消えるぐらいどうってことない。それよりもマリーが食べられないで辛い思いをする方が俺は嫌だ。

 それにマリーは申し訳なさそうにしているが、口から涎が出てしまっている。食べたいのは明白だ。

「食べていいぞ、マリー」

「……うん!」

 俺が了承したことで我慢が出来なくなったのか、目の前にある食べ物に手を伸ばす。拙いながらもスプーンとフォークを使って口の中に食べ物を運んでいく。

「うっ⁉ ゲホッゲホッ⁉」

 これまで全然食べることの出来ない生活をしていたから、胃が小さくなっているうえで、急いで食べるあまり噎せ返ってしまった。

「そんなに急いで食べなくていいから、ゆっくりと食べろ」

 俺はテーブルに置かれていた水を、マリーに飲ませて背中を摩る。

「……うん」

 マリーは涙を流していた。これまで俺の想像できない辛い生活をしてきたのだ。こんな幼い少女がそんな環境で心を折らずに頑張って生きてきた。だからマリーは幸せになっていいはずだ。

 マリーが幸せになれない世界なんて間違っている。

 マリーは泣きながら、でもゆっくりと飯を口に入れていく。

「……美味しい」

 涙が出ているのにその笑顔はとても可愛いものであった。



 蜂蜜亭で飯を食べ終わると俺たちはギルドに向かう。その足取りはとても遅い。まだマリーの心が安定していない。

 先ほどのことが嬉しすぎたのか俺を抱えて放してくれない。俺は今、マリーに持ち上げられている。本当にお人形さんのような状況です。

 マリーは俺の後頭部に顔を埋めたままギルドに向かって歩いている。そんな俺たちを目撃した者たちは離れた位置でずっとこちらを見続けている。

 お兄さんとても恥ずかしいです。だが今のマリーに放してなんて言えない。そんな極悪非道なことが出来る俺ではない。

 そんなことをしたら俺は罪悪感で押しつぶされてしまう。

 マリーが顔を埋めているから真っすぐに進むわけもなく、住宅の方に向かっていってしまう。

「マリー、右! 右!」

「…………」

 マリーは返事をしてくれないものの俺の言葉に従って方向を直してくれる。

 さっきからこうやって俺たちはギルドに向かっている。

 ギルドまでの辛抱だ。俺の羞恥心よ、持ってくれ!


第四章「人形姫」


 そうこうしながら俺たちはギルドに辿り着く。ギルドに辿り着いた頃には俺の足は地面についていた。マリーも落ち着いたようだし、あんな恥ずかしい姿でギルドに入らなくてよかった。

 ギルドの扉を開ける。俺たちに集まる視線、散々見られるからもう慣れてしまった。

「お待ちしておりました」

 俺たちが受付カウンターに行くと、猫耳受付嬢が元気に挨拶してきた。どうやら俺たちに用があるみたいだ。

「何ですか?」

「ギルドマスターからの贈り物です」

 そう言われて受付嬢から何かが入っている袋とギルドカードに似たカードを貰う。袋を開けてみると銀貨が十枚ほど入っていた。

「……これって」

「はい、銀貨です。この前は大変申し訳ありませんでした」

 どうやら昨日の謝礼金や口止め料とでもいったところか。まぁ貰えるなら貰っておこう。マリーに貧しい生活をさせたくないので。決して俺が働かずに楽をして金が手に入ったのを喜んでいるわけではない。断じてない。

 あれはバルクスが悪いのであって、それでお金が貰えるのであれば喜ばしいことだ。

「じゃぁ、このカードは?」

「それはセカンダリアにある冒険者ギルドのギルドマスターに渡してください。貴方たちは絡まれることがあるだろうと」

 救済のようなものを貰えるのは嬉しいが、それって俺たちにさっさとセカンダリアに行けという厄介払いではないだろうか。

 あの爺さんは俺たちをこの街から追い出したいらしい。昨日は助けてくれたと思ったのだが、腹に一物を抱えていたようだ。

 道理で昨日はスムーズにあの場を収めたものだ。俺とマリーを冒険者にしたのも手切れ金を渡したのも、早くこの街から出ていかせようということだろう。

 まぁ確かに、この街に居てもいいことは無いだろう。またバルクスが襲ってくるかもしれない。マリーが一人でいる時を狙われたらどうしようもない。こんな所にいるのは危険かもしれない。

 ギルドでもめた後のバルクスの行方を俺は知らない。

 だが俺にはまだここで探したいことがある。それは俺の身体を元に戻す方法だ。

 それを見つけることが最優先だ。この街を探さずに次の街に行って、もしこの街に俺の身体を元に戻す方法があったら立ち直れなくなる自身がある。ゲーマーとしての俺がまだこの街を出るなと訴えている。

「そうですか。では貰っておきます」



 受付嬢は俺たちに護衛依頼や荷物運搬といった、ファースティアからセカンダリアに向かう依頼ばかりを勧めてきた。

だが、まだ俺たちにはこの街でやることがあるから、付近の採取依頼を受けてギルドを後にする。

 依頼はその日のうちに終わってしまい拍子抜けすることになったが当分の金は手に入ったので明日は街の探索をすることに決めた。

 俺たちは蜂蜜亭に泊まり次の日に備えて眠りについた。



 俺たちはファースティアの街で情報を集めようと探索に乗りだしていた。

 まず向かったのは初心者ギルドだったが、これといって人形に関する情報を得ることは出来なかった。

 俺が人形だと言った所で聞く耳を持つも者などいるはずもない。それに加えて俺やマリーと関わり合いたくない者が大半で、聞こうとしても逃げていくばかりだった。

 俺たちは悪い意味で有名になってしまった。ギルドに居ても情報を手に入れることは出来ないから、他の場所を探すことにした。

 俺たちは小さい少女、それよりも小さい熊の人形。歩く歩幅も小さいため、街中を見て回るなど何日あっても足りないだろう。それほどまでファースティアはでかい。

 何といってもゲームを始めるうえでの最初の街。多人数でやるオンラインゲームの最初の街となると、小さくてはダメだ。それでは街が人で溢れかえり、歩くのも儘ならなくなる。

 だからファースティアは他の街と比べてもかなり大きい。

「手掛かりはなしか……」

「……うん」

 もうそろそろ昼といった時間、俺たちは初心者ギルドの周辺にある店を何軒も訪ねていた。人形の情報が載っているものはないかと、本の売っている店にも行った。しかし、めぼしい情報が見つかることはなかった。

 売っている本はどれも、ファースティアの歴史や周辺に生息する魔物といったものばかりで、実益になる物もあったが、ゲームで知り得た情報が多かった。

「……お腹空いた」

「そうだな、何か食うか」

 マリーが少しずつ我儘を言ってくるようになった。徐々に心を開いてくれていると感じて俺はとても嬉しかった。

 香ばしい香りが何処からか漂ってくる。

「っ……」

「っ……!」

 口から涎が出てしまうほど、俺たちはその香りにくぎ付けとなってしまう。

「……何この匂い! 美味しそう!」

「マリー、あっちからだ!」

 匂いの場所を見つけて足早に向かう。匂いのもとは道の横に出されている屋台からだった。その屋台では店主であろう、つるピカに禿げたおっさんが串に何かの肉を刺して焼いているではないか。串肉を売っている屋台だろう。この世界に串肉という文化があるなんて驚きだ。

 ゲームの時は屋台というものが出ていなかった。食べ物は存在したものの、食事が出来るのは宿屋や購入したマイホームといった特定の場所だけだったのだ。

 ここはゲームに似た世界であってゲームではないのだ。俺はまだゲームの世界と切り離せていないのかもしれない。

 それよりも今は、串肉だ。店主のおっさんが壺を取り出して小さじをその中に入れる。

 小さじを取り出すと黒色に近いソースが掬われていた。そしておっさんは焼いている串肉の上から適当にソースをかける。するとジュワッと水分が焼ける音がする。それと同時に先ほど俺たちを虜にした匂いが辺りに充満する。

「おっさん串肉頂戴!」

「私も!」

 俺たちは充満する香ばしい香りに抗うこともできず、串肉を求めてしまう。

「お、おう……⁉」

 おっさんは俺たちの人を殺さんばかりの剣幕に驚くも、串肉を売るのが生きがいだとでも言うかのような胆力で持ちこたえて、焼きあがった串肉を差し出してくる。

 マリーの分も合わせて代金を払い、串肉を受け取る。

 串肉を受け取ったマリーは、もう待てないといった感じで肉に噛り付く。マリーが齧ったところから肉汁が溢れ出してぽたぽたと地面に落ちていく。

 肉汁は串を伝って、串を持つ手にも流れていたが気にした様子が全くない。それどころかキラキラとした目で、肉を頬張った口が動いている。他のことが一切気にならないとでもいうのか串肉を食べるのに夢中のようだ。

 とても微笑ましい光景を見た俺は、手に持つ串肉を目で捉える。

「っ…………」

 俺はマリーを夢中にさせてしまう串肉がどれほどのものなのかと、喉を鳴らして考える。

 このままでは埒が明かないと意を決して串肉に齧り付く。

 その味はよく分からなかった。美味いのだろう。だが俺はその記憶が思い出せない。串肉を食べている時の俺は表情が緩んでいたかもしれない。

串肉を食べている間、俺はとても幸福な感じがした。けれど、その時間は一瞬にして終わりを告げた。

 気が付いたら俺の手には肉が無くなっている串だけとなっていた。そんな俺の前では、俺と同じようにポカーンと驚いた顔をしているマリーが居た。俺たちはいつの間に串肉を食べ終わっていたようだ。

 店主のおっさんが言わなかったら気が付くことはなかったかもしれない。

 今の時間は夢でも見ていたと思えるほどふわふわと記憶が曖昧になっている。

 この世界に来て我を忘れてしまうほどの食べ物を口にしたのは初めてだった。つるピカ禿おっさんの串肉、恐るべし、そう思う昼食であった。

俺たちはもうお腹いっぱいだった。串肉を何本も食ったわけではない。たったの一本しか食べていないのにお腹がいっぱいになったのだ。あれを食ってからすぐに何かを食べようとは思えなかった。

 後から聞いた話だがつるピカ禿おっさんの屋台では一人一本の串肉しか買わないらしい。美味過ぎるというのも良くないらしい。そのせいで売り上げは全然のようだった。


 至高の一時を送った俺たちはある所に向かっていた。そこは俺がマリーと初めて出会った日に訪れた場所。

 ファースティアで初心者ギルドに並ぶほどの有名な施設。その名も教会。

 マリーが神の恩恵を貰うためだ。マリーは貧民街に住んでいたからここに来ることは無かった。そのせいで、これまで心得を貰うことが無かったのだ。

 マリーが何の心得を貰えるかはまだ分からない。だが、貰えるものは貰っておきたい。

 俺たちは教会に勝手に入る。前に来た時もそうだった。前までは教会に多くの人がいると思っていたが、そうではなかったらしい。

 教会の中を進み、奥にある神像の所にやってくる。六体の神像が並んでいる。前にも感じたが、汚してはならないと思ってしまうほど、神聖な場所だ。

「っ……⁉」

 俺が神聖の雰囲気に魅了されていると、いきなりマリーが魔の神である神像の前で片膝をつく。

「マリー?」

「…………」

 マリーは聞こえていないかのように返事をしない。俺がマリーの異変におかしいと感じ始めた時、マリーの口から言葉が発せられる。

「貴方を助けるための力を。貴方と共に歩むための力を」

 それは神から恩恵の適正を知るための行為。しかし、聞いたことのない言葉だった。魔の神の適性を知るための言葉は、魔法に関連するものだ。しかし、マリーが口ずさんだ言葉は俺の知っているどの言葉でも無かった。

 マリーの身体が紫色に光り出す。これは魔の神の恩恵を受け取った時に現れる光景だ。

「大丈夫かマリー⁉」

 マリーが心配になり、駆けつける。

「……あれ? 何で私ここに……」

 マリーはさっきまで何をしていたのか分からないと言う。マリーはいつの間にか神の恩恵を貰っていることに驚いている。

 この世界の住人は皆こういったことになるのかもしれない。

 まぁ、目的は達した。俺たちは一度蜂蜜亭に戻ることにする。

 教会を出ようとした俺たちの前に一人の男が現れる。

「やぁ、また会ったのう」

 俺たちに声をかけてきた人物、誰あろう、俺が教会であった爺さんであった。

「珍しい子と一緒にいるようだのう」

 爺さんがマリーのことを知っているかのような発言をする。

「っ……⁉」

 マリーは爺さんに恐怖を感じたのか俺の後ろに隠れる。マリーを怖がらせる爺さんを睨みつける。

「そう怖い顔をするな。熊のお人形さん」

「え……⁉」

 爺さんから出た言葉は聞き逃せる言葉ではなかった。それは俺のことまで知っているということだ。

「何で知っている、爺さん!」

 吠えずにはいられなかった。それは俺がこの世界に来てから、ずっと知りたかったことだから。俺の身体が何故、熊の人形になっているのかを。

「それは言えないのう」

 しかし、爺さんは俺の知りたい答えを出してはくれない。

「セカンダリアに行くと良いのじゃ」

 そう言って爺さんは教会に入っていく。

「っ……⁉」

 俺は振り返って爺さんを呼び止めようとしたが、何かの恐怖が俺を襲う。口を開けることもできず、冷や汗が体から流れていた。

 俺たちは少しの間、動けなくなりその場に立ち尽くすことになった。



 教会から蜂蜜亭に戻り、直ぐに部屋で眠りにつく。爺さんと会ってから俺たちはまともに何も考えられるほど、心は強くなかった。

 俺の身体に関する情報とも呼べるか分からない曖昧なことを聞いた翌日、俺たちは蜂蜜亭に別れを言ってセカンダリアに向かっていた。

 ファースティアからセカンダリアまで、俺たちは歩きで向っていた。その日は馬車が出ていなかった。セカンダリアまでは歩きで半日かかるということで、時間を無駄にしたく無いと思い、セカンダリアに続く街道を歩いていた。

 馬車が二台分通れるぐらいの街道が続いており、その周りは草原が広大に広がっている。

 俺たちが街道を進むこと数時間、ふと疑問が頭を過る。

「全然魔物に会わないな……」

「……そうだね」

 俺たちが街道を進んでいる間、何処にも魔物の姿はなく、気配すら感じられない。

 それは異常な事である。ファースティアからセカンダリアの道中には魔物が多く生息するとギルドから聞いている。ここを通る馬車は冒険者を雇うのも、その魔物たちが襲ってきても対処できるようにするためだ。

 それなのに魔物が見当たらない。明らかに何かがあったと思われる。

 俺たちは油断なく警戒して進むことにした。

 時間が経ち、空でずっと主張していた鬱陶しいほどの熱線を放出していた太陽が、落ちていき辺りは徐々に暗くなっていく。

 そろそろセカンダリアに着く頃だろうと考えていたら、いきなり何かの襲撃に会う。

「危ないマリー⁉」

「っ……⁉」

 背後から俺と同じぐらいの大きさをした何かが突っ込んできた。辺りは暗く、襲ってきた者が何者かよく分からない。

 マリーと共に草原の上を転がるようにして回避する。

 すぐに立ち上がり、戦闘態勢に移る。

「誰だ⁉」

 問いかけに答える気配はない。魔物かと思い始めた時、後ろから覚えのある声が聞こえてくる。

「やっと、みぃつけた!」

 声につられて振り向いた俺たち。視線の先にいたのは紫の服を纏い、頭を覆うベールの下には地面についてしまうほどに長い緑色の髪が見える。

 長身ではっきり女性であると分かるほどの体つきをしており、魅了されてしまいそうになる妖艶さを醸し出している。

 辺りは薄暗いというのに、女性は認識することが出来る。それは女性の身に纏う服が紫色に薄い光を放っているからだろう。

 あの服を俺は知っている。それはゲームに存在したある装備と見た目が一緒だった。名を魔女の纏い衣。魔法使いにとって頂点と言ってもいいほどの性能を持つ装備だ。

「魔女……⁉」

 マリーから驚きの声が出る。どうやら知っているらしい。しかし、俺はこの女性――魔女を知らない。ゲームで存在しなかった。この世界の住人とも思えない。何か危険な気配がひしひしと感じられる。

「それにしても私の人形が何でこんなところにいるのかしら?」

 魔女の言葉は俺に対してのものであった。その時、俺は思いだした。

 あれは俺がこの世界で目覚める前に見た夢。そこで俺は彼女にあっている。俺の身体が熊の人形にされた原因がこの魔女であると直感が言っている。

「まぁ、いいわ。そんなことよりも欲しい娘がいるんだもの」

 魔女は怪しい笑みを浮かべてマリーを凝視している。魔女の目的がマリーであることは明らかだった。

「そんなことさせるか!」

 俺はマリーを庇うために前に出る。

「私の邪魔をしないで頂戴」

 魔女は右手を右から左に振るう。手は何かを引っ張るような動作で伸ばされた指が折り畳まれる。

 俺は魔女が何かの魔法を放ったと思い込む。しかし、魔法が発動する気配がしない。

「……?」

 魔女のフェイントだったと認識した俺は、身構えた身体を戻してしまう。

「ぐぅっ⁉」

 俺が油断した隙に左から俺の横腹に何かが蹴りを入れてきた。俺は勢いよく右に飛ばされて草原を転がる。

「癒纏い!」

 転がる俺は痛みを堪えながら癒しの心得の一つ、癒纏いを発動させる。俺の身体が薄緑の光を放っている。癒纏いとは一定時間の間、痛みを和らげてくれる効果を付与するといったものである。

 何が攻撃してきたのかと、俺が先ほどまで居た場所を見ると兎の人形が立っていた。

 どうやらあれが襲ってきたらしい。最初に襲ってきたのもおそらく、あの人形だろう。

 しかし、どうやってあれは動いているのだ。俺と同じ存在のような気がするものの、生きているようには見えない。どちらかと言うと操られているといった方が正しい。

 では先ほどの手の動きは兎の人形を操っていたのかもしれない。だがそんな魔法は聞いたことが無い。

 けれど合点はいく。そうでもなければあんなにタイムラグは無いと思う。

 どのように動いているのか分からないが、魔女は手を動かしていた。それならば魔女の一動作さえ見ていれば対処できるだろう。

 すぐに魔女を確認すると、魔女は目に伸ばした手を後ろに引っ張っていた。

 それを見て、兎の人形を見るも、ピクリとも動き出さない。

「どういうことだ?」

 今度は本当にフェイントだったのか。そういう考えが頭を埋め尽くす。

「後ろっ⁉」

 それはマリーの叫び声だった。俺に向けられた叫びの声。俺は一瞬だけ硬直してしまった。そのせいで回避に少しだけ遅れることになる。

「くっ⁉」

 マリーの声を信じて前に飛び込む。背後から空気を切る音がする。刃物か何かを振るったときに出る音だった。

 それと同時に背中に鋭い痛みを感じる。どうやら俺の背中が切られたようだ。痛みはすぐに引くものの、張り詰めた緊張感が俺を支配していく。

 マリーの声が遅かったら致命傷を受けていたかもしれない。後ろに居たのは猫の人形。その手からは細長い爪が見え隠れしている。

 俺の背中を切ったのはあの爪だ。刃物と同じかそれ以上の切れ味を持っている。

 魔女が操る人形は兎だけではなかったらしい。今見えているだけで二体。他にもあるとすればとても厄介である。

「獣走! からの獣拳!」

 俺はスキルを発動させてマリーのもとに向かう。マリーの後ろで、蹴りを繰り出そうとしている兎の人形を見てしまったからだ。マリーを傷つけさせないという強い意志が俺に力を与えてくれる。俺のトップスピードから繰り出される紅の拳は兎の蹴りぶつかり、衝撃波を生み出す。

「うわっ⁉」

「きゃぁっ⁉」

「っ……⁉」

 衝突した俺と兎、それに加えて近くに居たマリーが衝撃波に巻き込まれて吹っ飛ばされる。幸い、吹っ飛ばされただけで怪我はなかった。

 俺の拳と兎の蹴りが同等の力を出していることに驚愕する。スピードも加わった俺の最高の一撃が、ただの蹴りと同じぐらいだったのは納得できなかった。

 それほどまでに魔女の操る人形は強いようだ。

「あと少しで私の物になっていたのに、邪魔しないでよ!」

 怒りで顔を歪ませた魔女が近づいてくる。魔女を守るようにして兎と猫の人形が前を歩く。

 人形一体で俺よりも強いというのにそれが二体。さらには魔女までいる。マリーの援護があったとしてもこの絶体絶命の状況を覆せる気がしない。

 魔女たちが目の前まで来る。俺は何が何でもマリーだけは守ってやると、砕けそうになる心に鞭を打って、魔女の前に立ちはだかる。

「もうこれで終わりよ!」

 魔女が手を上に振り上げる。それからどれくらい時間が経ったのか分からない。一秒もしていないかもしれない。もしくは一分ほど経っていたかもしれない。それほどまでに俺の心は恐怖と緊張感で時間の感覚が狂っていた。

 そしてその時は来る。魔女が手を振り下げようとした。

「っ……⁉ 何で、よりにもよってこんな時に⁉」

 魔女の振り下げようとした手は途中で動きを止めてしまう。魔女は何かに苛立ち、こちらを睨みつけてくる。

「覚えてなさい! 次こそはその娘を手に入れてやるんだから!」

 魔女はそう言い残して、暗闇に飲み込まれていくようにして姿を消す。魔女が姿を消すと、二体の人形も同じように消えていく。

「……助かった」

「うっうっ、よかったぁ……」

 マリーが泣きながら俺に抱き着いてくる。俺たちはその場にへたり込んで放心状態になってしまう。

 先ほど起きたのは夢だったのかと思うほど、突如として姿を消した魔女。魔女との戦闘で得たものは敗北という二文字だった。それに加えて、次はマリーを守れないという恐怖が俺の心を包み込んでいく。

 あの魔女が何故マリーを狙うか分からない。俺の身体を変えたのがあの魔女だということは分かった。だが、俺の身体を戻すには魔女を倒すしかないだろう。

 数分という時間しか経っていない戦いで、俺はまともに相手が出来たのは人形一体だけだ。二体同時に来られていたら、俺はやられていた。

 マリーを守れたのは運が良かっただけだ。次来られたらマリーを守れる自信がない。

 俺はマリーを守れない未来が怖くて、目が虚ろになり現実逃避をしてしまう。

 今の俺の姿は、兎や猫の人形と同じように魔女から操られている姿にそっくりである。



 魔女との戦闘を終えて俺たちはセカンダリアに辿り着いていた。戦いの消耗が激しく、俺たちは街に着いてすぐに宿屋に泊まった。

ボロボロの宿であったが、今の俺たちには相応しいだろう。負け犬の俺たちにはおんぼろ宿屋で十分だ。

 セカンダリアに来て、五日。あれから魔女の襲撃はない。それでも俺は宿屋から出ることは無くなっていた。この世界に来てまたも俺は引きこもりになってしまった。

 元の世界での引きこもりとは原因が違った。元の世界で引きこもりになったのは人間界のトラブルだった。しかし、今回は俺の不甲斐なさである。マリーをファースティアから連れ出したその日、危険にさらしてしまった。

俺がもっと強ければマリーを怖がらせることも無かったと思う。さらに力の差を見せつけられて負けたとあっては、もう立ち上がる気力が湧いてこない。

 俺を強く支えていたゲーマーとしての強さは、魔女との戦いで木っ端みじんに崩れ落ちた。ゲーマーとして誰からも憧れられていた強さはもうない。あれは長年、引きこもりで培ったゲームのプレイ時間があったからこそ手に入れられた力。

今の俺はゲームで言う初心者プレイヤーだ。戦いの知識はあるものの、鍛えられていない力では勝てるものも勝てない。

 次に魔女と相対したらマリーを守ってやることが出来ない。そんなことがあればもうこの世界で生きているのが出来なくなってしまう。俺が守らなければマリーは魔女に捕まるだろう。だが俺はマリーを守れる自信がない。

嫌な思いをするのはもうこりごりだと宿屋にあるぼろいベッドに寝転がり、薄い布に包まってそこから動くことをやめる。



 ウルスが宿屋の部屋から出てくることは無くなった。ウルスは必死に私を守ってくれた。だけど、魔女に心を壊されてしまった。

あの魔女――人形姫を私は知っていた。それは私が貧民街に捨てられた日、私を拾ってくれた盲目のお婆さんが教えてくれた。

 人形姫と呼ばれている魔女は、気に入られたら人形に変えるまで追いかけてくると。特に好きなのが悪魔付きらしい。

 何故悪魔付きなのかは知らないが、悪魔付きなら何が何でも捕まえようとするそうだ。

 人形に変えた者を操って戦闘する人形遣い。人形姫に支配されてしまった者はもう生き返ることはない。

 それが盲目のお婆さんから聞いた話だった。

「私が何とかしいないと……」

 ウルスは私を救ってくれた。悪魔付きと呼ばれて忌み嫌われていた私を、普通に接してくれた。それに花を貰った。名をリトルフラワー。あれの花言葉は小さな希望。生きるのに必死で、生きるのが辛い毎日だったのに、あの花を貰って私はとても嬉しかった。それは私にとって何にも代えることのできない宝物だ。

 ウルスが何を思ってあの花を私に渡したのかなんて知らない。だけど、これまで生きてきた中で初めてもらった物があの花でよかった。私に生きる希望を与えてくれたのはウルスだけだ。

 人形姫との戦いで私はウルスの後ろで見ていることしか出来なかった。

 ウルスが苦しんでいたのに私は人形姫のことが怖くて何もできなかった。ただの足手纏いだった。

 その戦闘が終わってから正気に戻った私はとても自分に嫌気がさした。私はもうウルスに守ってもらうだけの弱いままでいたくない。

 ウルスの隣で支えてあげられるようになりたい。

 なら私のやることは一つだけ。ウルスを立ち直らせること。ウルスは希望を失いかけている。私がウルスから貰った希望。今度は私が与える番だ。

 ウルスが宿で引きこもっている間、私はセカンダリアの街中を走り回っていた。私はこの近くにある花を探していた。

 だけど、悪魔付きの私は誰からも相手にしてもらえなかった。何度も挫けそうになった。だが、こんな痛みなんて今のウルスが受けている痛みに比べれば痛くもなんともない。

 探し続けて何日経っただろうか。よく覚えていない。でも私はやっと花の情報を手に入れることが出来た。

 その花の名はスカーレットタイム。花言葉は勇気。場所はセカンダリアの北門から出て一時間ほどの距離にある山の上層にあるそうだ。

「……取りに行こう」

 私はスカーレットタイムがある山へと向かった。

 そこは空を覆うように高々とした木々があった。道と呼べるほどの道が無い所を私は歩いている。私は周りが草木だらけで道が良く分からなくなりながらも山を登り続けていく。

 それでも私はめげなかった。私よりもウルスの方が苦しんでいる。そう思えば、山を登るだけなんて辛くなんかない。

 そうやって心を鼓舞し続けて進んでいく。だが、それも長くは続かない。時間が経ち、日が暮れてくるにつれて周囲の気温がどんどんと下がっていく。

 視界の悪い山道、体力を奪っていく寒さ。私には限界が近づいていた。

「っ……⁉」

 暗闇の中で草木をガサガサとかき分ける音がした。私はすぐに身を屈めて、必死に息を殺す。周囲にはまだ草木をかき分ける音が鳴り続ける。

 恐怖と緊張で心臓がバクバクとなり続ける。

 気が付くと周囲の音は無くなっていた。どうやら居なくなったらしい。

 私は音を鳴らさないように慎重に歩みを進めていく。

 魔物が生息する夜の山を登り続けた私は開けた場所に辿り着いていた。視界には赤一面という不思議な光景だった。

 周囲は暗くて遠くのものなど見えなかったのに、赤だけが遠くからでもはっきりと見ることが出来た。

 やがて日が昇っていき闇の中に垢一面という光景が、日に照らされて変わっていた。

「綺麗……」

まるで幻想の世界に入ってしまったのではないかと錯覚してしまうほど、そこは現実離れしている美しさだった。

 赤一面だったのは開けた場所に咲く無数の赤い花だった。紛れもなくスカーレットタイムの原産地だった。

「……これでウルスが元気になってくれる」

 私はウルスが元気になってくれないとは思っていなかった。本当はそうではない。ただ、元気にならないと思いたくなかったんだと思う。

 私にはこれぐらいしか出来ないから。何かやらないと私も壊れてしまいそうになるから。

 私はスカーレットタイムを一つだけ取る。

 もうここでやることは無くなったと、直ぐにウルスのもとに行きたい衝動にかられた私は走る。スカーレットタイムを手に入れたことで私は舞い上がっていた。だから、これから起きることは必然だったのかもしれない。

 私が登ってきた時間は何だったのかというほど、下山にかかる時間が少なく感じていた。もうそろそろ山を下り終えるという時だった。それが現れたのは。

 草木をかき分けて降りていた私の耳に、私が草木をかき分けた音とは別のガサガサという音が響いてきた。

「何でこんな場所に……⁉」

 草木をかき分けて出てきたのはウルフだった。しかし、そのウルフは私の知るウルフではない。普通のウルフよりも一回り大きな体、ウルフの血か、もしくは返り血で染まったと思われる所々薄い濃いがある赤に染まった毛。だというのに汚れが全くない綺麗な毛並み。

 ウルフは集団行動で生きる魔物だ。しかし、このウルフは一体しか見受けられない。

 はぐれウルフとはまた別物だと認識させてくる威風堂々な姿。

 私は走った。手に持っているスカーレットタイムを絶対に放さないように胸の前に両手で抱くような体勢で走る。

 だが後ろから草を踏みしめる音が徐々に近づいてくる。その足音は早くなったり、泊まったりと私を弄んでいるかのように追ってきた。

 赤ウルフの足の速さに私が勝ることなんてなかっただろう。それなのに追いつかれないのは赤ウルフが私を玩具にして遊んでいるということだ。

 遊ばれて良い思いをする人などいない。だけど、今は遊ばれていることが救いであった。赤ウルフが遊んでいなかったら私はもう食われていただろう。

 私は死にたくなどない。ウルスと会ってからまだ日が浅い。けどこれまでの人生でウルスと一緒にいる時間だけが楽しいと感じることが出来たのだ。

 まだ、ウルスといろんな街を旅したい。私がこれまでの辛い人生を忘れられるぐらい、ウルスと一緒に想い出を作っていきたい。私はこんなところで死んでなんかいられない。

 赤ウルフから必死に逃げていると、草木の見えるところが徐々に無くなっていく。そして私はとうとう山の麓にやってくる。視界の先にはセカンダリアの街並みが見えている。

 これで逃げられる。私の心にそういった安堵の感情が芽生えてしまう。それは油断となり、私の走る速度が少し下がってしまった。

「きゃっ⁉」

 背後から強烈な風が襲い掛かり、私は顔面から地面にダイブしてしまう。

「痛っ……⁉」

 私は額に傷を負ってしまうが、直ぐに立ち上がる。

「あっ⁉」

 そこで私は見てしまった。スカーレットタイムを踏みつける赤ウルフの姿を。

 転んだ拍子に手に抱えていたスカーレットタイムが前方に投げ出されてしまったのだろう。そして私の前に立ちふさがった赤ウルフが、落ちたスカーレットタイムを踏みつけることになったようだ。

 頬を涙が流れる。

「それは大事なものなの……返して!」

 私は咄嗟にスキルを発動させる。それは私が持つ唯一の攻撃魔法。名は火花。

 私の手から小さい火の玉が赤ウルフに向かって放出する。私が放った魔法は威力などほとんどない。赤ウルフに当たったところでダメージなど皆無だろう。

 それでも、今その魔法には意味があった。

 小さな火の玉が向かってくるだけの攻撃に赤ウルフは動こうとすらしない。そんなものくらった所で痛くなど無いとでも言うかのような態度だ。それが命運を握る。

火の玉は赤ウルフの目の前まで行き、花開く。

 それにダメージなどない。ただそれは火の花を開くだけ。だが、いきなり目の前で小さな火の玉が大きく開いた経験など、赤ウルフは持ち合わせていない。

 赤ウルフは突如として目の前で視界を隠すほどの大きな火の花が現れる。

「ギャウッ⁉」

赤ウルフは驚愕して咄嗟に横に大きく飛んで回避する。

 それと同時に私は花開いた場所に駆ける。火花はすぐに霧散して辺りを明るくするだけに終わる。

 私は踏みつけられて萎れてしまったスカーレットタイムを取る。駆けた勢いを殺さずにセカンダリアに走り抜ける。

「グルルルルッ……」

 セカンダリアに近づくのを嫌った赤ウルフは、唸り声をあげて山に向かってその姿を消す。

 私は擦り傷などでボロボロになったものの、何とか無事にセカンダリアに戻ってきた。私はウルスの泊まるおんぼろ宿屋に向かった。


第五章「人形屋敷」


 俺にはマリーを救ってやることなど出来なかったんだ。元の世界で引きこもりだった俺が違う世界に来たからといって、人生が上手くいくなど夢物語だったんだ。

 おんぼろ宿屋の部屋で蹲っていること数日。何度も俺は後悔し続けていた。魔女との戦いで不甲斐なかった俺。マリーを救いたいと思ったのにたった一度の敗北で引きこもりに戻ってしまう俺。

 こんな俺をマリーは認めてなどくれない。それもそうだ。俺が引きこもってからマリーは部屋に訪れることは無くなった。マリーが何処に行ったのかを俺は知らない。俺に愛想を尽かして出て行ってしまったのだろう。

「はは……俺は何をやっているんだか」

 元の世界で捨てられた俺は、この世界でも引きこもりになって捨てられた。

 この世界に来て生まれ変わったと思っていた。だが、所詮それは思い違いだったのだろう。どこに行っても俺の本心は変わることなどない。

 俺がまたも現実逃避していると、部屋の扉が開く。

 俺はマリーが帰ってきたのかと、ちょっとした淡い期待を持ってそちらを向く。そこには転んだだけでは説明のできないほどボロボロになっているマリーの姿があった。

「マリー……マリー⁉」

 ボロボロのマリーを見た俺は、直ぐには現実を受け入れることが出来なかった。だが徐々に現実を受け入れ始めて、何があったのか心配になり、マリーに駆け寄る。

「どうしたんだ⁉ その怪我は⁉」

 マリーの額からは血が出ている。手や足にも少しだけ擦り傷が出来ていて、痛そうだった。

「癒纏い!」

 マリーの怪我を直すためにスキルを使う。マリーの身体が薄緑色に包まれて徐々に傷が癒えていく。

「……ごめん。ボロボロになっちゃった」

 マリーは涙を流しながら何かを差し出して来た。それは萎れている赤い花だった。

「……綺麗な花を持ってこれなくてごめん」

 マリーはこの花を俺のためにどこかから取ってきたのだろう。その道中で危険な目に遭い、花が潰れてしまったのだ。

 マリーは綺麗なままの花を持ってきたかったのだろうが、そんなことどうでもいい。

 俺にとってはボロボロになった花でもマリーから渡された花はとても嬉しかった。

「ありがとう、マリー。俺のために頑張ってくれて」

 俺はマリーの頭を撫でようと手を伸ばす。

「あれ……」

「……バカ」

 俺の手はマリーの頭に届くことはなかった。マリーはそんな俺を見て笑顔を浮かべてくれる。

 俺に、魔女との戦いでの恐怖や失望感はもうない。俺のために傷ついてまで花を取りに行ってくれたマリーを見て、もうくよくよしていることは出来ないと思い、俺は再び立ち上がる。

 魔女に受けた敗北を乗り越えた俺たちは、宿屋を出る。

 これから人形遣いの魔女――マリー曰く、人形姫と対峙するだろう。それに備えて俺たちは強くならなければならない。

 そう決意したのもつかの間、俺たちが宿を出たその時、突如として人形姫が現れる。

「やっと手に入れたぁ!」

「なっ……⁉」

「えっ……⁉」

 街の中に現れるなど思っても居なかった。突如として黒い渦と一緒に現れた魔女はマリーを軽々と抱えて黒い渦に吸い込まれていく。

「ウルス⁉」

「マリー⁉」

 マリーは焦った顔で俺に両手を伸ばす。俺はマリーを取られまいと右手を伸ばす。だが俺の伸ばした手は空を切る。

 マリーの伸ばされた両手と俺の伸ばした右手が触れ合うことはなかった。

 マリーは魔女と共に黒い渦に飲み込まれて消えた。魔女と戦った時と同じだ。またあの黒い渦で消えていった。

 あの黒い渦が続いている場所はおそらく魔女の住処であろう。そんなところにマリーが連れていかれてしまった。急いで助けに行かなければ、マリーが人形に変えられてしまう。

「くっ……⁉」

 俺は走る。だが場所が分からない。急がなければいけないというのに、何処に向かえばいいのか分からない。焦りで考えが纏まらない。このままではマリーの身が危ないと危機感が俺の冷静さを失わせていく。

「人形屋敷は怖いものだ。あそこに行ってはいけないよ」

 パニックに陥っていた俺の耳にその声は聞こえてきた。

「この街から東北にまっすぐ進んだところに、その人形屋敷はあるんだ。その屋敷には人形好きの魔女が居るのさ」

 声のする方を振り向くと全身を隠すほどの真っ黒なローブを着た怪しい人物が居た。その者の周りには数人の子供が居る。ローブの人は子供たちに物語を聞かせているようだった。だがその内容は人形姫の物語だと理解できた。何故こんなにも都合のいいタイミングで人形姫の情報が聞けたことに疑問を感じる。それは前にもどこかであったような気がする。

 すると、ローブから少しだけ横顔が見える。その横顔には見覚えがあった。セカンダリアに行くと良いと勧めてきたファースティアの教会にいた爺さんの横顔とそっくりだった。

 何が目的であの爺さんが俺たちに接触してくるのか分からない。

 だが、そんなことは俺にとってどうでもいい。今はマリーを助けに行かなければならないのだ。

 俺はその情報をもとにセカンダリアから出て東北に向かった。

 先ほど聞いた内容が違ったらもうマリーを助けることは出来ない。でもそれ以外に手掛かりはない。藁にも縋る気持ちで俺は走る。



 草原を東北に進むこと数十分、目の前には何十年も放置されていたと思われるほどの屋敷が建っていた。周りは鬱蒼とした草木が生い茂っている。長く伸びた草木により屋敷は隠されていた。俺が見つけたのは偶然といってもいいほどだ。

 屋敷の情報を持っていなかったら絶対に見つけることは無理だっただろう。それぐらい屋敷は自然に取り込まれていた。

 俺は屋敷のへと入る。屋敷のドアは軋んでいるのか、無理矢理開けることになってしまった。

「まぁ、いいか……」

 なんたってここは人形姫の屋敷だろうから。

 俺は屋敷の中を慎重に進んでいく。広々とした玄関から長く続く通路。外から見た時はそこまで奥に空間があるとは思えなかった。それに、外観とは違い、屋敷内は埃一つない綺麗なものである。

 奥に続く通路を進んでいくとやがて扉が見えてくる。

「っ……⁉」

 俺は扉をゆっくりと開けて中を覗き込む。その中を見て俺は叫びそうになって口を両手で抑えることになった。

 扉の先にあったのは広々とした部屋だった。棚が多くあり、俺と同じ動物の人形がずらっと並んでいる。

 二体でも苦戦したというのに、数十体といった数もある。これを同時に操られでもしたら俺一人の力でマリーを救うことが出来るのか。そういった弱気が一瞬だけ頭を過ったが、俺は頭を振って弱気を打ち消す。

 マリーは俺のために危険なことまでしてくれたんだ。マリーは今、連れ去られて怖い思いをしている。俺意外にマリーをたすけてくれる奴はいない。俺が助けないでそうするんだと自分の弱がる心に叱咤する。

 気を取り戻した俺は部屋を探索していく。俺が部屋を探し回っていると、人形に違和感を覚える。

 人形たちをよく見ると一体だけ、向きが少しずれている。俺はその人形に何かあると直感が告げてくる。

 ゲーマーとして培った俺の直感はバカにできない。俺は自分の直感を信じてその人形を調べる。

 他の人形と同じ向きに直してみるが何も起こりはしない。

 俺の直感は外れだったようだ。そう思い、俺は動かした人形をまた向いていた向きに戻す。

「何だ⁉」

 いきなり歯車が動く音がして俺は飛び上がる。すると部屋の隅にある壁が開きだした。どうやら隠し部屋のようだ。人形を動かした後にまた戻すという動作が隠し扉を開ける方法だったらしい。

 俺の直感は間違ってはいなかった。

 俺は隠し扉を通り、先へと進んでいく。

 マリーは無事であって欲しいという想いがどんどんと強くなっていく。ここまで来てマリーが無事でなかったらどうしようという焦りがひしひしと感じてきた。

 奥には小さな部屋があった。そこには犬の人形が天井に通された紐で吊るされている。犬の人形の目がこちらを観察するかのように向けられている。

 犬以外にもドラゴンの人形なども吊るされているようだ。

 この中にマリーが居るのではないかと思いかけるも、まだマリーが人形になったわけではないと希望を捨てることはしない。

 その部屋には、入ってきた扉意外に二つの扉があった。豪華に装飾されている扉と、質素な木造で出来ている扉。その二つを比べると、豪華な扉が存在感を強く醸し出している。

 だが俺は質素な木造の扉を開けて、その部屋に入る。

 マリーが豪華な扉の先に居るとは思えなかった。

「……⁉」

「マリー⁉」

 部屋に入った俺を出迎えたのは椅子に紐で縛られているマリーだった。

「無事か⁉」

 マリーに駆け寄り、拘束している紐を解く。拘束していたといってもマリーが動けないようにするためだけだったようだ。

 人形姫は俺が助けに来れるなんて思ってはいなかったのだろう。そうと分かれば直ぐにこの屋敷から脱出するべきだろう。

「……ありがと」

「気にするな、それよりも走れるか?」

「……うん!」

 マリーを救い出すことに成功し、俺たちはこの部屋から出る。

「え……⁉ 何でここに居るのよ⁉」

 人形が吊るされている部屋に戻った俺たちの前に人形姫が現れた。やはり、人形姫は俺が来たことを知らなかった。もっと早く来ていれば人形姫と出くわすことはなかったのだが、出くわしてしまったのなら仕方がない。

「くそっ! その娘を返しなさい!」

 人形姫は腕を振るう。すると吊るされていた人形たちが一斉に床へと落ちる。

 人形が一斉に襲い掛かってくると感じた俺は戦闘態勢に移る。だが動いたのは二体の犬の人形であった。

「獣走!」

 俺は人形ではなく人形姫に向かって突進する。

「獣脚!」

「くっ……⁉」

 俺の蹴りが人形姫にぶつかる直前で横から急接近した犬の人形が盾となる。犬の人形はこと切れたようにその場に落ちるが、人形姫への攻撃は防がれた。

「さっさとくたばりなさい!」

 魔女はドラゴンの人形をこちらに突っ込ませてくる。

「獣走!」

 何とかスキルを発動するのが間に合い、突進を回避する。だが回避した方向に二体目の犬の人形が待ち構えていた。

「ヤバッ……⁉」

「これで終わりよ!」

 犬の人形が口を大きく開ける。人形なのに鋭利な牙を内蔵しているという恐ろしい姿に変貌し、俺を噛み殺そうと飛び掛かってくる。

「……友速!」

 マリーが叫ぶと同時に俺の身体が紫色に光り出す。これはマリーのスキル。指定した相手のスピードを上げるものだ。

 目の前に迫る凶悪な牙をぎりぎりで躱す。マリーのスキルを受けていなければ牙の餌食になっていたであろう。

「助かった。マリー!」

「……一緒に乗り切ろう!」

「ああ!」

 人形姫から距離を取った俺たち。前のようにはいかないまでも、長く続くとこちらが不利になっていく。

「やぁっと溜まったぁ!」

 先ほどまで苦渋に歪めていた顔を、愉悦の笑みに変えた人形姫。さらには、犬やドラゴンの人形がこと切れて床に倒れる。

 何かしてくると警戒していると、そいつらは現れた。

 豪華な扉の向こうにある部屋から二体の人形が出てくる。それは初めての人形姫戦で戦った兎と猫の人形であった。

 どうやらその二体は人形姫の口ぶりから力を蓄えていたのだろう。

「こいつらさえいれば、貴方たちなんてどうってことないのよ!」

 人形姫の言う通りだろう。あの二体には前の戦いで、力の差を見せつけられて負けているのだから。

 俺はマリーの手を握る。そこで俺はゲームにあったある技を思い出した。それは二人にとって共通のものを対価とした極大魔法。

「マリー、花に想いを込めるんだ!」

「……うん!」

 俺たちにとって対価になるものは花だ。

マリーもまた俺の手を握り返す。俺たちはもう弱音なんて吐かない。ここまで来てもう逃げることはしない。

 俺はスカーレットタイムを右手に持つ。マリーもまた左手にリトルフラワーを持つ。

 俺たちは花に想いを込めていく。

「何をしたって無駄だわ! もう貴方たちは終わりよ!」

 人形姫が両手を俺たちの方に伸ばす。それに伴って兎と猫の人形が俺たちに向かってくる。

「私の邪魔をした罰だわ! 死になさい!」

 兎の蹴りと猫の爪が俺たちを串刺しにしようと迫ってくる。

「こんな!」

「ところで!」

「「負けるもんかぁ!」」

 俺は右手に持つスカーレットタイムを前に突き出す。マリーもまた左手に持つリトルフラワーを前に突き出す。

 前に突き出された二つの花が合わさっていき、金色に光り出す。マリーの金色の瞳が共鳴して強い輝きを放つ。

 光は俺とマリーが繋いだ手に集まっていく。

 俺たちは繋がれた手を前に突き出しスキル名を叫ぶ。

「「グラジオラス!」」

 金色に輝く光は兎と猫の人形を包み込み、黄金の花を咲かせる。

「なっ……⁉」

 黄金の花が咲いた途端に花びらが散っていき霧散する。

 兎と猫の人形は跡形も無くなっていた。人形姫はその光景を見て、目を見開いて床にへたり込んでしまう。

 人形姫は切り札を失って放心状態になった。


エピローグ「熊の人形で生きる」


 人形姫との戦いは俺たちの勝利で終わりを告げた。最後のスキル、グラジオラスは俺たちの絆がなした奇跡であった。今は使うことが出来ない。あれは絆という想いの力が集まらなければ使えない。

 あの時は俺たちの出会いからの想い全てを使ってやっとできたものだった。

 また使うにはこれから絆を深めて行かなければ出来ないだろう。

 俺たちに負けた人形姫は人形屋敷から出ることを止めたらしい。昔の俺みたいに引きこもりになったようだ。

 俺の身体が熊の人形になったのはやはり人形姫が原因だったらしい。人形姫は、草原に空気が重い。どこもかしこも生きるのを諦めたような表情で何処かをボーっと見続けている者ばかりだ。倒れていた俺を手駒にする為に熊の人形に変えたらしい。だが、支配することは出来なくて、気に食わなかったから草原に捨てたのだそうだ。

 ひどい話である。

 その時に俺の身体を戻すことが出来ると言われたが、俺がこの世界で生きてこれたのは熊の人形の身体だったからだ。この身体だったからこそマリーたちと出会えることが出来たのだ。

 だから俺は元の姿に戻るのをやめた。これからの人生は熊の人形の身体で、マリーと一緒に生きていく。

 この世界には俺のように転生してくる者が少なからず存在しているそうだ。なんでも、神が他の世界から気に入った者を攫ってくるらしい。街に戻ったら爺さんがそう言っていた。

 それにしても爺さんはいったい何者だったのだろうか。

 これから待っている俺たちの人生はどんなものになるだろうか。

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人形でやる二度目の人生 @soyogiyu

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