一等当選故に

波柴まに

第1話


「ラスト一枚か」


 羽村奏士は、宝くじとは名ばかりの一枚の紙切れを前に呟いた。目の前のテーブルには、その一枚と十円玉と用済みの宝くじの山が置かれている。向かいに座る野々山亮平は身を乗り出して、その一枚を見つめる。

 二人が買った宝くじは、縦三列・横三列の九マスが銀のシールで覆われたスクラッチタイプで、同じ柄の絵が、縦横斜め、いずれかの一列で揃えば当選となるものである。そして、揃った絵柄の種類に応じて当選金額が異なる仕様になっている。

 一枚百円の宝くじを百枚買ったため、元を取るには一万円以上の当たりが必要になる。ここまでの当選は、六等の二百円が十枚、五等の二千円が二枚の計六千円のなんとも反応に困る金額だった。

「これは、一等か二等が当たるな。宝くじ大臣である俺の勘が言ってる」

「いつから就任したんだよ」

 ここにきて、盛り上がりを見せる自称宝くじ大臣・野々山とは対照的に、ラスト一枚を削るだけの人・羽村は、すでに諦め気味だ。

 ラスト一枚に対する期待感は強くなりがちだ。しかし、冷静に考えれば、最初に百枚あった有望な宝くじが一枚を残して散ってしまったに過ぎない。

 羽村は左の列の三マスを一気に十円玉でこする。絵柄は全て異なっている。続けて、真ん中の列のシールも削る。

「おいおい、やけくそに削るなよ。幸運が逃げちゃうぞ」

 流れるように、右の列も削ろうとした羽村を手で制しながら、野々山が言う。

「悪い、悪い」

 三分の二が露わになった宝くじを見ながら、状況を確認する。現時点で、リーチは一番下の列のみで、その絵柄はちょんまげ頭の侍だ。もし右下のマスにもこの絵柄があれば、一等の一千万円を手にすることができる。また、右の縦の列が全て同じ絵柄での当選の可能性もまだ残っている。

 野々山に怒られぬように、ゆっくりと右上のマスを削る。絵柄は弓矢で五等のマークだ。正直、当たっても嬉しくない。一千万円の前では、二千円も霞んでしまう。それから、その下を削る。前足を上げた馬の絵柄が現れる。これで、右の縦の列が揃う可能性はなくなった。

 野々山は両手のひらを宝くじに向けて、波動を送っている、と訳の分からないことを言う。一方で羽村は淡々と右下のマスを削る。そして、二人はその一点を凝視する。

「あーあ、今回もはずれかよ」

 野々山が先に口を開く。そのマスには、無情にも弓矢の絵柄がプリントされていた。

「宝くじ大臣、責任追及は逃れられませんよ」

 こんな時でも羽村は、軽口をたたく余裕がある。

「誰だよ、その税金泥棒の権化みたいな大臣。そんな奴存在しねえよ」

「お前が言いだしたんだろ。勝手に辞任すんなや」

「うるせえな。……なんで当たらないんだよ」

 野々山は、はずれの宝くじを何枚か鷲掴みにして床に投げつける。明らかに機嫌を損ねている。

 

 二人はこれまでに宝くじを七回買い、今回と同じように、一人暮らしの羽村の家で結果を確認していた。そして今回と同じように、元を取り返せずにいる。事の始まりは大学からの帰り道にあった宝くじ売り場での野々山の衝動買いで、その時に一緒にいた羽村も巻き込まれた形になる。初めての宝くじは上手くいかなかったにも関わらず、二人は宝くじにのめり込み、買う場所を変えたり、宝くじに関する本で勉強したりするなどの試行錯誤をして今に至る。最初は不定期だったものの、途中からは、一か月に一回の恒例行事となっていた。

 毎回、宝くじを確認した後、野々山は過剰なまでに気分を害するが、羽村は人生こんなもんだろ、というスタンスでいる。この相反する感情によってしばらく沈黙が続いた。

「羽村、トイレ借りるわ」

空気感に耐えかねたのか、野々山は席を立った。

「小、大どっち」

野々山は返答することなく、トイレのドアを閉めてしまう。これには羽村も若干の不快感を覚える。

 羽村はテーブルに向き直ると、銀のシールの削りカスを手で集めて、後片づけを始める。一万円で、このカスの山を買ったと思うと程良い絶望感に包まれる。それから、野々山が散らかした宝くじを拾い上げる。すると、野々山が先刻まで座っていた場所に宝くじが裏返しになって落ちているのに気付く。羽村は、そっと手を伸ばし拾い上げて、表を見る。まだ削られていない。

 一瞬、トイレの方を見る。まだ野々山が出てくる気配はない。大便だったのだろうか。そのくじを今度は素早く削る。そこには、真ん中の縦の列にちょんまげ侍の絵柄が三つ並んでいた。羽村は確認のため、銀シールの右横にある当選金額の欄に目を移した。一等一千万円。羽村は目を丸くする。

「え。マジ?」

 興奮はしていたが、表にはそこまで出なかった。その瞬間、羽村は咄嗟に一等が当選した宝くじをズボンのポケットに押し込んでいた。再びトイレのドアを見る。水を流す音はまだしていない。間違いなく大便だ。ポケットから宝くじを取り出し、もう一度確認する。そこに見間違いはない。三人の侍は一列に並んでいる。

 金は人を狂わせる。しかも、その金が努力という対価を支払わずに得たものの場合、その人間の周囲にいる人々との間には様々な形で軋轢が生じる。宝くじの結果は、当たりであろうとも、はずれであろうとも悲惨な末路を迎える。むしろ後者よりも前者の方がその傾向は顕著だ。

 羽村の頭は混乱していた。今、トイレにいる男に、この幸せな報告をするべきだろうか。天使と悪魔に翻弄されるといえば、実に陳腐だが、ここまでリアルに金か友情かを迫られる場面もそうないだろう。羽村はこれまで、友だちに金と友情のどちらが大事か問われると、少し悩んで、友情を選択していた。しかし、それは本心ではなく、友だちの手前だったための配慮に過ぎない。どちらも欲しいに決まっている。

 この状況で、野々山に何も言わなければ、金は手に入り、自分が失敗をしない限り友情も壊れない。これならば、金も友情も守れる。ただ、この思考に陥った羽村は実質的に、友情を切り捨てている。野々山と金を分け合ったとしても、金も友情も守れるということが意識の外にあった。

 トイレから水の流れる音がした。

 羽村は慌てて宝くじをもう一度ポケットにしまう。同刻、羽村は背後から罪悪感に襲われた。これからも変わらずに宝くじを買い続けるとすれば、その度に、やましさを感じるのだろうか。それどころか、野々山と会う度、または金を使う度にこんな感情を抱くのか。正直に言ってしまえば、今、友情なんてものはどうでもよく、ただ自分の将来の生き辛さに吐き気がした。

 野々山がトイレから出て来て、羽村の方に向かってくる。

「あー、スッキリした」

 呑気な声を出している。

「悔しいけど、大臣の勝ちだ」

 瞬間、羽村は告白してしまっていた。野々山は自分に向けられた言葉の意味を理解しかねている。

「大臣、ああ、俺のことか。俺の勝ち。どゆこと」

「ああ、大臣の予言通り、一等が当たったよ」

 頭の中で罪悪感を消すための理論を構築することは容易なはずだった。しかし、野々山の何も知らない様子の純粋さが、悪巧みをする自分との落差を鮮明に描き出してしまったことも事実である。

「一等。嘘だろ」

「いや、本当だよ」

 羽村はそう言って、当選した宝くじを手渡した。野々山はそれを受け取ると、両手で持ち、凝視した。最初は疑いの色をみせていた表情もみるみるうちに驚きの顔へと変化した。

「マジじゃん。っていうか、この宝くじはどこにあったんだよ」

 羽村は事の次第を説明する。もちろん自身の葛藤は隠しつつ。話し終えると、野々山はようやく現実を実感したらしく、いつもの調子を取り戻す。

「やはり、この宝くじ大臣の主張に間違いはなかったようだな」

「あれ、辞任されたのではなかったんですか」

「辞任、そんなことあるわけないじゃないか。それどころか今ではもう宝くじ総理にまでなってしまったよ」

「いや、それはなんか違くね」

 この時、野々山と大金を共有したことで、羽村の気分は高揚していた。しかし、同時に悲劇へのカウントダウンも始まっていた。




「百万円以上の当選金の受け取りの際には、まず銀行に行っていただきます。そちらでは身分証明書と印鑑が必要になりますのでご用意ください。また、お受け取りには、一週間ほどかかります」

 宝くじ売り場の受付の女性はそう言った。高額当選の場合の勝手を知らなかった二人は、とりあえず、宝くじ売り場に行ったが、無駄足になる。二人は銀行で手続きを済ませてから、一旦解散をして、後日また羽村のアパートに集合してからお金を受け取りに行った。帰り道で、羽村は誰かに後をつけられているような気がしたため何度も後ろを振り返っていた。

「そんな振り返ってたら、逆にお前の方が怪しいぞ」

「これから行くのは俺の家なんだから、尾行されたら被害に遭うのは俺なんだぞ。警戒するのは当然だろ」

 そう言ってまた後ろを振り返る。先ほどまで五メートルほど後ろを歩いていた男性が横の道に曲がると後ろの道には誰もいなくなった。

「羽村のストーカーなんて懇願しても誰もやらない」

「いやいや、そいつが興味あるのは俺じゃなくて金の方だって」

「まあ、誰しも金は欲しいよな」

 野々山は人生の勝者であるかのような笑みを浮かべ、そのままスキップしながら帰りかねないほど幸せそうだった。しかし、野々山はスキップをしない。

 結局、家に着くまでに怪しい人間がついてくることはなかった。家に入ると、野々山が早速、一千万と六千円を丁寧に数えあげ、二等分した。そして片方の五百万三千円の束を羽村に手渡しながら言う。

「いくつかのルールを決めよう」

「ん?ルール」

 羽村は札束を受け取り、その厚みを手で感じている。

「ルール一、今、この瞬間から俺らの間で金の貸し借りは無しにする」

「安心しろよ。こんなに金があるんだから、借りないよ」

「そうじゃなくて、仮にこの金を誰かに奪われるとする。そうしたら、羽村、お前は誰のところに助けを求めるんだ」

「警察のところかな」

「まずは、それでいい。だが次に俺のところに来るだろ」

「行かないけど」

 野々山は聞く耳を持たずに続ける。

「そこで、お前は俺に泣きつく。五百万も持ってるんだから、十万ぐらい貸してくれよっていう感じで。それは良くないだろ。そしたら等分した意味がない」

「うーん、そんなシチュエーションあるかな。まあいいや、金の貸し借り禁止な。それで、他のルールはなんかあんの」

 野々山が指を二つ立て、ピースの形を作る。

「ルール二、宝くじが当たったことは俺ら二人の秘密だ。他の人には絶対に言ってはいけない」

 どうやら、野々山はこの当選金を誰にも渡したくないらしい。五百万円もあれば、少しは誰かに奢ったりして恩を売っておきたいとは考えないのか。

「家族に言うのもダメなのか?」

「そうだ」

「彼女にもダメか」

「お前、彼女いないだろ」

 羽村には、彼女はいないが、野々山には同じ大学に通う同い年の名取結華という彼女がいた。名取とは羽村も仲が良く、三人で集まることもある。

「お前の心配してんだって。名取に隠し通せるのかよ」

「それは余裕だろ。俺の口の堅さは各界で有名だよ」

 何を言っているのか分からなくなってきたが、羽村の中で野々山の口が堅いイメージがないので、警告する。

「気をつけろよ。宝くじが当たった彼氏を彼女が殺すなんて話はざらにあるからな」

「名取はそんなことしねえよ」

 野々山は、彼女を馬鹿にされたと思い、少しむっとしたようだった。

 羽村は自分の知り合いの顔を思い浮かべ、自分から金を奪うために殺すことも厭わない人間がいるか想像する。そんなことをする人はいないと思う一方、誰にも言わない方が問題は確実に起きないだろうとルールを肯定する気持ちも芽生えた。

「それで、次のルールは」

「ない。これだけ」

「少な」

「お金の話はここまで。さっ、ゲームでもやろうぜ」

野々山は手をパチンと打って、話題を変える。


 しばらくゲームをした後に、彼女とのデートがあるからということで、野々山と別れた。このデートで相当金を使うのではないかと不安に思ったが口にはしなかった。

「次に会う時に、金を何に使ったかの報告会しようぜ。あ、これを三つ目のルールにしよう」

帰り際にそんなことを言っていた。羽村は、先に五百万円を使い切るのは野々山の方だと確信していた。もしかしたら、次に会う時にはもう使い切ってしまっているのではないか。こういう時は彼女がいなくて良かったと思う。羽村は強がっていた。

家の中で一人でいると、誰かに見られているような感覚に陥る。羽村は、金を家の中に置いておくのも嫌になり、慌てて銀行に戻り、預金する。銀行からの帰り道で、視線は感じなくなったものの、当選を知ったら、自分を殺す可能性がある人間を脳内で何人か挙げていた。




 二日後の火曜日、三限の民法の授業を終えた羽村は、帰宅の準備をしていた。ノートを閉じて、バックにしまっている時、不意に後ろから声をかけられる。できれば、前から声をかけてほしいものだと思う間もなく、男は横に来ていた。

「羽村もこの授業取ってたんだ」

「なんだ、紅谷かよ、びっくりさせんなよ」

 この紅谷翔有なる男は、羽村が金曜日の一限を受ける時のみ会う人物で、今の状況はイレギュラーだ。

「このあと、なんか用事あるか?」

 なんだか嫌な予感がしたが、紅谷の印象は悪くないし、別段用事があるわけでもないので、ない、と言って話を進める。

「話したいことがあるからさ、ちょっと来てくんない」

「ここで話せばいいじゃん、そんな他人に聞かれちゃまずい話なのかよ」

「察してくださいよ、羽村さん」

 両手を合わせるポーズをとるが、顔立ちの整った紅谷には不釣り合いだった。

 ますます羽村は不信感を募らせる。これが野々山ならば即答するが、紅谷とは、特別仲がいいということはない。

「愛の告白じゃないよな」

 とりあえず、冗談を口にする。

「はははっ、違う、違う。俺、彼女いるし」

 彼女がいることは予想していたが、流れ上、自分がフラれたようで、納得がいかない。まず、そもそもこの二人は彼女の有無も知らないくらいの関係でしかないのだ。羽村は、なんとなく拒否したい気持ちが強かったが、今日の予定がないと言ってしまったことで、関係を壊さずに断る術を失っていた。

 

 羽村は諦めて、紅谷に言われるがまま、後をついて行く。紅谷の後ろ姿を眺め、イケメンは後ろから見てもイケメンなんだ、と学んでいた。

 紅谷に連れてこられた場所は、キャンパス内のカフェだった。四限の授業が始まったからか、店内には、数人の学生しかいない。そこでは、クラシック音楽が流れ、静かで落ち着きのあるムードを演出している。紅谷の言うとおり秘密を打ち明けるにはぴったりな雰囲気だ。

 羽村は、ウェイトレスを呼び、普段なら一番安いコーヒーで済ませるところだが、懐が暖かいことに任せて、少し高い、ほうじ茶ラテを注文した。紅谷はアイスコーヒ―を頼む。

「話したいことって結局何だったの?」

 最初から長居する気のない羽村は、注文した品を待つことなく本題に切り込む。紅谷は頭を掻いて、言いにくそうな顔をしている。

「うーん、なんていうか、その、あんまり、深刻な感じには、したくないんだけど」

 会った時に比べて明らかに歯切れが悪い。羽村は黙っている。

「あー、突然で悪いんだけどさ。多分信用してもらえないけど。俺さ、今かなりヤバいんだよ。だからさ、ああ、それじゃあ伝わらないか、えっと、どうしようかな」

 全く要領を得ないまま、時間が過ぎ、ウェイトレスはコーヒーとラテを持ってきた。羽村はラテを一口啜る。それから、紅谷の方も口を開く。

「あのさ、金を貸して欲しいんだ。頼む」

 紅谷が頭を下げる。

「なんだよ、そんなことかよ」

 一般的な大学生よりも多く金を持つ羽村には余裕がある。しかし、少し遅れて、今の台詞は金に余裕があることを紅谷に気付かせてしまったのではないか、という不安がよぎった。いや、考えすぎだろうと心を落ち着かせる。宝くじが当たってから、神経質になりすぎているきらいがある。

「何円欲しいんだよ?」

「まあ、五万くらい」

 すっと発された金額は一般的な大学生では、とても貸せないが、当選者・羽村には貸すことのできるものだった。そう、貸すことができるのだ。それゆえに自然な反応を出すのがワンテンポ遅れた。

「五万かよ、それはちょっと話変わってくるな」

 腕には鳥肌が立ち、顔には動揺がひっついていた。普通、この程度の関係性の友だちにお金を借りるだろうか。羽村はてっきり五千円ぐらいだと思っていた。しかし五万ときた。五万は多すぎる。仲のいい友達でも五万借りるのは躊躇いそうなものである。まさか宝くじのことを知っているのだろうか。

「いろいろあって、金が必要なんだよ。頼む。絶対返すから」

 紅谷は、言葉とは裏腹に心なしか余裕があるように見える。羽村は自身が試されているのではないかと思い始める。野々山との会話で自身が言った台詞を思い出す。もし、五万をケチって貸さなければ、お前を殺して五百万かっさらってもいいんだぞ、そんな最悪の想像をする。まさか、そんなはずはない。しかし、紅谷の次の言葉に度肝を抜くことになる。

「本当は五百万必要なんだけど、いろんな人から少しずつ借りようと思って」

「え、五百万」

 思わず声を出し、ひっくり返りそうになる。

「いやいや、なんで大学生がそんな金必要になんだよ」

 出てきた冷や汗を拭きながら、羽村は尋ねる。そこから、紅谷は事情を語り始めたが、借金があることが分かっただけで、いまいち頭には入ってこなかった。そんなことよりも次から次へと現れる疑問符が羽村の頭を独占していた。紅谷は当選の件を知っているのか。知っているとしたら、野々山から聞いたのか。いや、それはない。野々山と紅谷は面識がないはずだ。では、どこで知ったのか。宝くじ売り場か銀行しかあり得ない。あの時、誰かに尾行されていた感覚は幻ではなかったということか。

 そもそも、今日、紅谷と出会ったこと自体が不自然ではないか。普段会わない筈の火曜日に会い、そのまま金の話を打ち明けてきた。紅谷は「羽村もこの授業取ってたんだ」と言っていたが、大教室とはいえ、あの授業で紅谷を見かけたことは一度もない。金曜日まで待てなかったのではないか。だから、偶然を装って、声をかけて早めに金を回収しようとしたのではないか。

 疑い始めるとキリがなく、本来ならば、同情すべきである目の前の男は信用できなかった。

「そういうわけで、もう俺の力ではどうにもならないんだ。だから頼む」

 話は終わったようで、再び懇願を繰り返してくる。

 羽村は、宝くじが当たって、人を疑うことが多くなった。その度に自分にうんざりする。今回もその類なのか。ただ今回はいつもよりも危険な香りがする。

 一旦、頭をリセットしようとラテのカップに手を伸ばすが、いつの間にか中身は空っぽになっていた。

「ちょっと考えさせてくれ」

 羽村は自然な形で考える時間を確保する。紅谷が五百万円のことを知らなくて、たまたま同じ金額を必要としているだけであれば、五万円という大金を貸すのは不自然にみえる。反対に五百万円のことを知っていれば、五万円も貸してくれないのは薄情者と思われてしまう。

 一瞬、紅谷の口元が緩んだ気がした。

 羽村は、決意を固め、気になっていた質問をぶつける。

「なんで、俺に頼もうと思ったんだよ?」

「いろんな人に頼んでるからなあ、特別な理由はないけど」

「他の人は、貸してくれてんのか?」

「んー、人によるかな」

「五万貸してくれた人はいんの?」

「仲いいやつとかは貸してくれたけど」

 つまり、貸してくれない奴は仲良くないということか。別に紅谷に仲いい認定なんてされなくてもいいが、金を貸さずに殺されたりするくらいなら、五万円ぐらい貸そうか。もし、これに味をしめて、さらに金額を上乗せするようなことがあれば、その時に対処法を考えればいいではないか。やけくそ気味に答えを導くと、羽村は、不自然にならないように言葉を選ぶ。

「分かった。いいよ。でも今すぐは用意できないから、金曜日に渡す。絶対返せよな」

 実際、今すぐ用意できたが、そこは嘘をついた。

「マジで。ありがとう。羽村、ホントにいいやつだな」

 この喜び方が演技とは思えなかった。金に困っているのは本当のようだ。

 金曜日、一限、二人は会うと、羽村の提案により、大金だからという理由で誓約書を交わした。紅谷は、嫌な顔一つせずそれに応じ、その後、五万円を受け取った。

「ありがとう。三ヶ月後ぐらいには返すから」

 そう言った紅谷を見送りながら、羽村は開けた財布に誓約書をしまい、そのままバックに投げ入れた。後悔は思ったよりなく、むしろすがすがしい思いだった。




 宝くじ当選から一週間が経った日曜日の昼間、羽村は家から徒歩十分の喫茶店で一人腰をおろしていた。野々山と約束していた報告会を開催するために招集をかけられたが、発案者はまだ来ていない。

 羽村と野々山は、この一週間の内、一度も会わなかった。本来なら週に三回ほど同じ授業を受講するはずだが、その全てに野々山は現れなかった。

 しかし、この日はきっかり時間通りにやってきた。羽村にとって想定外だったのは、その隣に名取の姿があったことだ。

「あ、いた、いた」

 羽村と目が合った野々山は名取とともに、そのテーブルに接近してくる。

「え、名取も一緒なのかよ」

 失礼極まりない言葉を発した。ただし、宝くじの話をするのに、名取の存在は邪魔だという前提条件があるため、羽村を不用意に責めることはできない。

「何、私がいたら邪魔だったの。悲しいなあ」

 名取は大げさに反応する。

「そうじゃなくて、二人って聞いてたから」

「俺は、そんなこと言ってないぞ」

 野々山は平然と裏切ってきた。

 

 二人も席に着くと、羽村の視界が野々山の腕時計を捉えた。おそらく新品であろうその時計は安物には見えなかった。黒と赤を基調とした腕時計はファッションの要素が強い。

 それから、羽村は何度か、名取にはバレないように、それとなく五百万円の使い道を尋ねようとしたが、野々山があまりにも協力しないので、ことごとく失敗した。結局、デートの話や、最近あったおもしろい話に終始してしまう。一番白熱したのは、この世で一番滑稽なことを決めようとした時だ。

「エイプリルフールってあるじゃんか、四月一日の」

 野々山が切り出した。

「嘘をついても許されちゃう日だね」

「嘘つかれても怒っちゃいけない日だ」

 二人は相槌を打つ。

「そうだ、エイプリルフールって、一説には、嘘をついてもいいのは午前中だけで、午後は嘘禁止って言われているんだ」

「なんだよ、そのルール、誰も守ってないだろ」

「この説が正しいか間違っているかなんてどうでもいいんだけどな。でも、午後に嘘ついた人を非難する奴がいたら滑稽だよな。だって、人は誰しも普段から嘘ばっかりついてるわけだろ。それなのにエイプリルフールの午後は嘘をついたらいけませんって。急に真面目かよ、ってツッコミたくなるよ」

「うーん、滑稽とは違うような気もするけどな」

「でも、午後は嘘をついたらいけないって言う人は、午後も嘘をつく人に比べたら、少しだけ立派だよね」

 名取は一人で納得し、うんうんと頷いている。

「誰しも嘘ついている、って言うけどさ、野々山はそんな常習的に嘘吐き散らかしてんのかよ」

「あ、確かに。そうじゃないとそんな考えにならないもんね」

 名取は、羽村に同調して、悪戯な笑みを浮かべた。今は圧倒的に野々山よりもノリがいい。

「俺は人を傷つけない嘘しかつきません」

「ヒュー、かっこいい」

 羽村がからかうと、野々山はそっぽを向いてしまった。名取は楽しそうに微笑んでいる。

 会ってから、羽村は、名取が自分の発言に対してよく笑ってくれているような気がしていた。親友の彼女だから手を出そうとは思わないが、羽村も多少、名取に好意を持っている。気のせいだろうとは思いつつも、自惚れてしまう。

 しばらくして、名取はお手洗いに行くと言って、席を立った。姿が見えなくなるのを確認すると、羽村は、すかさず尋ねる。

「なんで、名取も一緒なんだよ」

「しょうがないだろ、なんかどうしても来たいみたいだったから」

 野々山は先生に叱られた中学生さながらだ。

「なあ、名取にバレてないよな」

 それはない、とキッパリ否定する。どこからそんな自信が出てくるのか。羽村の知る名取は、そこまで敏感ではないが、鈍感の部類には入らない。

「名取にプレゼントとかあげたか?」

 質問が詰問になりつつある。野々山は若干、眉をひそめたが、素直に答える。

「先週の日曜日が付きあって半年だったから、八万のネックレスをあげたよ」

 羽村は自身が愕然としたことに危機感を覚える。元々、口外禁止のルールは、野々山が決めたことであるのに、他でもない羽村がそのルールに縛られ、何よりもそのルールの崩壊を恐れていた。

 しかし、八万のプレゼントは問題ではないか。これに関しては相場もこれまでの野々山のプレゼントの平均価格も分からないので、強くは言えないが、名取はどう思っただろうか。他にも、宝くじが当たってからの二週間の内のデートの回数も異常だった。そこで、奢ったりなどして、お金を消費したことは想像に難くない。直接は言わずとも、名取は気付いている可能性もある。

「気にしすぎだろ。そういうお前はどうなんだよ」

 野々山が反撃に出る。

 紅谷の一件以外は、極度に警戒していたこともあり、秘密が漏れているとは思えなかった。誰かと会うたびに、疑い、疲弊し、杞憂に終わる。

 実際、羽村は、この一週間でお金をそこまで使っていない。普段から物欲が乏しいため、カフェでいつもより二百円高いものを頼んだり、夕食の出前を少し豪華なものにする程度に留めていた。

「俺は大丈夫だよ。それよりバレないように気をつけろよ」

「ああ、分かったって」

 全く分かっていないような口ぶりで言う。

「話は変わるんだけどさ、最近名取の様子が変なんだよ」

 近くに名取はいないが、羽村は声のトーンを落とす。

「変か?さっきまでは普通だったけど」

 その時、野々山の目が奥に向かった。名取が戻ってきたのだろう。

「だから、そこのところ名取から探ってくれないか?」

「え、俺が」

 そのまま名取と入れ替えでお手洗いに行ってしまう。お腹を押さえて、少し前かがみの姿勢は大便をするポーズにみえる。しばらくは戻って来ないから、名取から存分に聞きだしてくれ、というメッセージのようだ。野々山は、さも名取のわがままで連れて来ざるを得なかったような口ぶりだったが、本当はこのために連れてきたのではないのか、とふと思う。


「さっき二人で何の話をしてたの?」

 名取は座席に腰掛けながら言った。唐突な話に、言葉が詰まる。しかし、黙るのも不自然なので、頭に最初に出てきた話題をそのまま話す。

「今週、友だちの紅谷っていう人にお金を貸してほしいって頼まれて、そのことを話してた」

「え、羽村も紅谷と知り合いだったんだ。私も言われたよ。借金があるからお金貸してほしいって」

「マジかよ、本当だったんだ。それで、何円貸してくれって言われた」

 未だに紅谷のことを信じきれていなかったことを実感する。

「五万円、でも流石に出せないよね。私は高校からの仲だけど、その額はちょっと引いちゃうよ。え、まさか貸してないよね?」

 羽村の顔色の変化に気付き、目を大きくしている。

「いやいや、貸してないよ、紅谷には悪いけど、俺も金無いし」

嘘がすらすら口から出ていく。

「名取は貸したのか?」

「私は一万だけ貸した。だけっていっても私にとっては大金だけど。なんかその時の紅谷見てられないくらい疲れていたから」

 こうなると、さっきの自分の台詞が、自己中心的な気がしてくる。本当のことを言った方が良かっただろうか。

「話は変わるんだけど、最近の亮平、変じゃない?。なんか知らない?」

 先ほど聞いたような言葉がやって来て、頭が混乱する。しかし、いや、やはりと言うべきか、野々山の不自然さに気付きつつあるようだ。分からない、と誤魔化すが、この嘘は罪悪感を覚えた。嘘を吐き散らかしているのは間違いなく羽村自身であることを自覚する。

「名取の方が俺よりも野々山といる時間長いだろ。どんなところが変だって思うんだよ」

「ええと、なんか言葉で表わすのは難しいんだけど、ここ最近、人が変わっちゃたんだよ、本当、別人みたいに」

 野々山と話していて、そんな印象は受けなかったので、首をかしげる。それを見た名取は不服そうだ。

 確かに、例の腕時計や、彼女である名取に金を使ったりしているから、金についての違和感を覚えるとした納得できる。しかし、多少調子に乗りやすい側面は持っているが、それは元々で、宝くじ当選以降の人格の変化は全くないように思う。羽村ほど神経質にならない野々山を羨ましく思うくらいだ。

「だからもう別れようかなって思う」

「ひゅえ」

 あまりの衝撃に出したことのない声が出る。名取は真剣な顔つきだったが、羽村の反応に思わず笑ってしまっていた。

「そんな、重い話ここでするの」

 無神経にそんなことを言ってしまう。神経質だったり、無神経だったり、羽村も忙しい。

「だって、最近、羽村と会う機会そんなに多くないじゃん。今ぐらいじゃなきゃ言えないよ」

「ああ、名取の気持ちは尊重したいけど、野々山がこのままだと可哀想だしな。あと俺の希望としても二人には末長く幸せになってほしいんだけど」

「でも、別れることは、もう確定なの」

「え、ちょっと待てって。野々山とは相談したのかよ」

 お腹を押さえた野々山からは、別れることを承諾した雰囲気は全く感じられなかった。一人で勝手に決めたのだろうか。野々山の言っていた、名取の様子が変、ということの全貌が見えてきた。

「相談なんて無理だよ。怖いし」

 怖いとは。野々山は彼女の前では豹変するタイプなのか。そんな片鱗を見せたこともないが。ただなんとなく、名取を見ていると不憫に思えてくる。

「何も言わずに別れんの?」

「別れは言うけど」

 名取は俯いてしまっている。

「別れた後はどうするんだよ」

「その後は……」

 名取は言い淀んでいる。羽村は名取を見つめて答えを待つ。可愛い。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

 一方、名取は何かを言いにくそうにしている。

「まあ、なんとか考え直してくれないかな」

「羽村さ、私と付き合うのはダメかな?」

 二人の言葉が重なる。

「何を」

 羽村は間の抜けた声を出す。今度は名取が羽村をじっと見つめている。

「私と付き合ってください」

 頭を下げてくる。先ほどから展開についていけない。なぜここで羽村と付き合うという選択肢が出てくるのか。親友の彼女からの告白に、喜びと気まずさが混ざり合い、最終的に残酷な結論を導き出した。その瞬間、羽村の告白してきた女に対する視線は、疑いの色が濃くなった。

「いきなり、変なこと言いだすなよ。冗談だろ」

「冗談じゃない。私、羽村のこと好きだよ」

 彼女の端正な顔を見ていると、誘惑に負けそうになる。しかし、この女は信用し難い。段々、名取の魂胆が見えてきた。

 野々山は、名取に多くの金を費やした。そこに違和感を覚えた名取は、何かの拍子に野々山が宝くじを当てたことを知る。おそらく、酔っ払った野々山から聞き出したのだろう。そこで、羽村も宝くじに当たっていることを知る。野々山から金を搾取し終えた名取は、次に羽村からも搾取しようとしている。そのような仮説ができあがる。

 考えすぎだろうか。ただこのタイミングで告白してくる理由が他に見当たらない。羽村を彼氏にすることは最も気まずい選択のように思われる。羽村のことを本当に好きでなければ、こんなことはしない。しかし羽村本人は、名取にそこまで好かれているとは思えなかった。

 羽村が何も言えないでいると、何も知らない野々山が戻ってくる。その後は、何事もなかったように、三人で話が続いた。名取の悪意に触れた羽村は、その場の表情を取り繕うのに、一苦労だった。

 やがて、二人と別れる。二人は同じ電車に乗って帰るようだが、名取はどんな気持ちでその場をやり過ごすのだろうか。


 


 羽村は家に帰るとベッドに座りこむ。考える人のポーズで今日を振り返る。

 まず、野々山と名取は互いに違和感を持っていた。野々山の違和感は、名取が急に別れたがっていることに起因していると思われる。名取の違和感は野々山が別人になってしまったというものだが、これは、なんとも共感できない。怖いとも言っていた。もし名取の方が正しくて、野々山が彼女の前で乱暴な人間になるとしたら、一刻も早く別れたいのは分かる。しかし、その後、すぐに羽村とくっつけば、野々山から怒りを買うことは必須で、名取はともかく、羽村と野々山の間にも亀裂が生まれることになる。

 名取は、商学部に所属しているため、法学部の野々山とは授業がかぶることはない。つまり、関わろうとしなければ、一生会わないこともできるのだ。にもかかわらず、羽村と付き合おうとしている。このリスクに見合うリターンがあるとすれば金しかない。そうとしか思えない。

 名取を信じたい気持ちがないわけではない。名取から告白してきたことは、羽村にとっては一千万円よりも価値の高い出来事だった。しかし、その背後に見え隠れする野望と目が合うと、その喜びの感情もフェードアウトしていく。

 羽村は、名取の底抜けに明るいところに惹かれた。よく笑い、陰口をひどく嫌っていた。野々山が告白すると宣言してきた時、複雑な気持ちにはなった。けれど、明るい野々山の方が自分よりも彼女の隣は合うとも思った。だから、羽村は、恋愛ではなく友情を選択した。その時と同じように、羽村は友情、つまり野々山の方を信じていた。そうすると、名取に対する悔しさが次々に湧きあがってくる。今日まで好きだった自分が馬鹿に思えてくる。底抜けだと思っていたはるか下を覗けば、底には悪意が巣食っていた、そんな印象を受けた。

 

 数分前に、野々山から連絡がきていた。スマホには、何か収穫あった?という文字と人参を引っこ抜く人の絵文字が表示されていた。名取が別れたがっていて、自分と付き合いたいと思っている、とは、とても送れないので、何も話は聞けなかった、とだけ送った。また、自分を守るために嘘をつく。

すると、名取からも連絡が来た。告白の返事を求める内容だったが、これには返事をする気にならない。

 スマホの画面を見ながら、ベッドで仰向けになる。もう一度、考える。これまで全て考えすぎではないのか、と。結局、紅谷の件も考えすぎだったことが判明したではないか。名取がそんな金の亡者なわけがない。信じたい。しかし、このままでは金はともかく友情が奪われることは避けられない。なくなるものが五万円だけの紅谷の時とは話が違う。金か友情かであれば、どっちも欲しいと言いたいが、金か野々山かであれば、間違いなく野々山をとる。あの時、野々山に当たった宝くじを見せた時からそのことは分かっていた。そう思うとすぐに、羽村は野々山に電話をかけていた。野々山に真実を打ち明けよう。そして二人で話し合うべきだろう。名取に全て奪われる前に。

 電話はなかなか繋がらない。時間的には家に着いている頃のはずだ。

 スマホを耳に近付け、じっと待つが、呼出音が空しく響くだけだ。名取の口から野々山に伝わる前に言わなければ意味がない。

「もしもし」

 突然、繋がった電話から聞こえた声はひどく乾いていた。

「もしもし、あのさ、言いたいことがあるんだけど」

 思わず早口になる。

「羽村、今話したくねえわ」

 電話はブツリと切れた。


「遅かった……」

 野々山の声にはいつもの覇気が感じられず、弱々しかった。そして、かすかに敵意も含んでいた。おそらく、名取は羽村と付き合いたいと思っていることも言ったのだろう。

 野々山との関係は突如崩壊した。そして名取のことも当然信じられなくなった。そして、金だけが残った。羽村は財布から一万円札を取り出し、くしゃくしゃに丸め、地面に叩きつけた。

「こんなもん、いらねえよ。何に使うんだよ」

 辛さと苦しさで体が熱くなる。目には涙も浮かんでいた。次第に怒りが金から名取に向かい始める。

「俺が何をしたっていうんだよ。俺は宝くじが当たってからずっと正しい判断をしてきたじゃねえか。なんでこんな苦しまなきゃいけないんだよ」

 羽村は完全に怒りに支配された。スマホを手に取り名取にメールを送る。

「もう二度と俺の前に現れんな」

 羽村は、自ら名取との関係も断った。羽村が持つ心許せる友だちは少ない。地方からやって来て一人暮らしをしているため、昔の友人も家族も近くにはいない。正真正銘の孤独だった。そして、体にポッカリと穴が開いたような喪失感を味わう。

 スマホが鳴った。羽村が、慌てて見ると名取からだった。通話終了ボタンを押す。野々山からの電話だと思って期待したが、よくよく考えればそんなはずはない。その後も名取から連絡が来たが、無視し続けた。

 その日、羽村は金を大量に消費しようとした。しかし、外に出る気にもならず、結局、出前で寿司や肉を必要以上に注文した。ただ、いくら食べても、テレビを見ても、ゲームをしても、怒りと悲しみは消えることはなかった。そして、そのまま悲しみ疲れたように眠りにつく。


 


 真夜中、突然の訪問者に羽村は目を覚ます。ベッドの横には名取が立っていた。

「なんで、ここにいるんだよ。どうやって入ってきたんだよ」

 恐怖を打ち消そうとするかのように声を荒げる。名取は不敵な笑みを浮かべる。羽村が今までに見たことない表情をした。

「電話にも出てくれないからさ、何かあったのかと思って」

 目は血走り、血の涙を流し、唇を噛み、顔は生きている人間とは思えないほど青白い。正常な精神状態には見えない。そのまま顔を近づけて覗きこんでくる。羽村は、ベッドから抜け出し、そのまま逃げようとするが、寝起きのため俊敏に動くことができず、転んだ。再び、立ちあがるが、足元がおぼつかない。後ろを振り返ると、名取の右手には、いつの間にか包丁が握られていた。

「もういいや。私のことをそんなに拒否するなら、私もあなたなんていらない。お金だけ残して死んでくれる?」

 名取は完全に狂っていた。羽村は、玄関に向かおうとするが、なぜか真っ直ぐ走れない。やっとのことで、玄関に着き、錠のツマミに手をかけた。しかし、固く、びくともしない。その上、掌は冷や汗ですべって力が入らない。背後から名取が歩み寄ってくるのを感じる。羽村は、振り返って叫んだ。

「名取、落ち着け。お金ならやるから。そんな物騒なもの下ろしてくれよ」

 名取が足を止める。

「お金くれるの。それならそうと早く言ってよ。羽村やっぱり大好き」

 さっきまで青かった顔を血の涙で真っ赤に染めて笑っている。羽村は背筋が凍りつき、ドアによりかかって腰から崩れた。同時にツマミが回転しドアが開く。冷たい夜風が羽村の首筋を通り抜ける。ドアの向こうには、野々山が包丁を持ち、羽村を見下ろしていた。


 羽村が目を覚ましたのは、その時だった。水曜日の朝、顔を洗いながら、悪夢を思い出す。これを正夢にするわけにはいかないと思うが、このままではなりかねない。別れた二人が裏で連携して羽村を殺そうとしていたのは、よくよく考えれば滑稽だが、被害者の羽村は笑っている場合ではない。

 名取からの連絡は、この三日間放置していた。野々山とも連絡をしていない。それどころか、月曜日と火曜日の授業も、彼らに会うことを恐れて、行っていない。

 鏡の中の自分の顔を見る。目のクマがひどく、髭も伸ばしっぱなしになっている。思わず溜め息が漏れる。しかし、時間が解決してくれるという通り、悲惨だった日曜日から日を跨いだことで、気持ちにも変化が生じ始める。

 羽村は、この夢を見たおかげで、最悪の結末だけは避けようと強く心に誓った。野々山と元の関係を取り戻すために、電話をかけようとする。

 

 ピンポーン。通話ボタンを押す前に、インターフォンが訪問者の存在を告げる。羽村は、心臓が飛び上がりそうになりながらも、心を落ち着かせ、おそるおそる玄関に歩を進める。夢のことがちらつき、覗き穴を見るのが怖い。ふと、覗き穴は相手側からも光の加減でこちらの存在は分かるのではないか、と不安になる。手遅れかもしれないと思いながらも玄関の電気を消して、そっと覗く。そこには、包丁を持っていない野々山が立っていた。野々山の表情は多少暗めだが、狂気は感じなかった。


 ドアを開けて、野々山を中に入れた。久しぶり、と挨拶を交わした時、羽村は野々山が何かを持っていないか確認してしまう。しかし、野々山はポケットに財布を入れただけで手ぶらの状態だ。あの腕時計もしていない。

「相談があるんだ。相談というか、愚痴なのかも知れないけど」

「うん、話してくれ」

 もちろん、何を話すかは分かっていた。

「名取と別れたんだ」

「ああ、知ってる」

「え、なんで知ってんの?」

「え、なんで知ってるって知らないの?」

 二人とも困惑した。その後、野々山の話を聞く限り、名取は別れを告げただけでそれ以上は何も言わず、連絡も取っていないらしい。そして、あの時の羽村への電話は失恋によるショックで話す気分ではなかっただけで、羽村に対する怒りは含んでいなかったようだ。その時、羽村は、名取から告白された話をするべきか迷っていた。そんな中、野々山は話し始めた。名取に変わってしまったと言われたこと、その夜、泣いて、電話をかけ続けたこと、次の日になって自分のこれまでの言動を振り返ったこと、名取の言っていたことが間違いではなく、金を得て、調子に乗っていた自分がいたと気付いたこと、他人に横柄な態度をとってしまったこと、そして、名取と縒りを戻したいと思っていることを告白した。羽村は黙って聞いていた。

「俺はどうすりゃ良かったと思う?」

「宝くじなんて当たらなきゃ良かったんじゃないか」

 それは、羽村がずっと思っていたことだった。

「ううん、それは違うだろ。金に飲まれたのは俺が悪いし、それに……、それに、俺には金が必要だったんだよ」

「そんな欲しいものがあったのか?」

「いや、俺さ、パチンコで負けまくって、一緒にやっていた先輩にも騙されて、借金が五百万あるんだよ。今まで言わなくてごめんな。誰にも言ったことなかったから」

 羽村は、身近な二人に同額の借金があることに驚いた。大学生と借金は無縁だと思っていた。それから、親友としてのプライドから悔しさが込み上げてきた。

「なんで、言ってくれなかったんだよ。お金なら貸すよ、いやあげるよ。一千万も当たったんだから。五百万返して、残りを分ければ良かったじゃんか」

 自然と声が大きくなる。

「俺が嫌だったんだよ。それにずるいだろ。宝くじ当たった後にそんなこと言うの」

「何、かっこつけてんだよ」

「かっこつけてないって。宝くじ当たった時、俺はトイレにいたじゃん。羽村は先に当たりを見つけただろ。それを一人占めすることもできたのに、俺とお金を分け合ってくれたじゃん。それに気付いちゃったら、そんな勝手なこと言えないって」

 羽村は泣いていた。あの葛藤に打ち勝った自分を誰かに認めてほしい、とずっと思っていた。

 そして、羽村は、名取に告白されたことを言った。タイミングは適切ではなかったかもしれない。ただ、相手が全てをさらけ出してくれたのに、こちらが隠し事をしているのは卑怯な気がした。

「羽村はどう思った?」

 野々山は冷静だった。名取と別れたままでいるにせよ、縒りを戻すにせよ、この問題は避けて通れないことを悟ったのかもしれない。

「嬉しさもあったし、悲しさもあった。気まずさが一番大きかったけど」

「そうか」

「でも、俺はいい。野々山の恋を応援するよ」

 未練はなかった。野々山との関係が元通りになることが最重要だったため、もう十分だった。




 翌日、羽村は、名取と待ち合わせをしていた。野々山との話し合いの末、連絡の取れない野々山に代わって、羽村が名取と会って話をすることになったのだ。名取に連絡しようとスマホを見た時には、彼女から何件もメッセージが届いていた。とりあえず無視していたことを謝り、会う約束を取り付けるとなんとか承諾してくれた。

 羽村の中で、まだ名取を信用しきれないところがあるのは事実だった。しかし、今までの名取の言動から考えると、あの日の羽村の想像はあまりにも現実の名取とは乖離していることにも気付いていた。

名取も羽村もその日は授業に出席し、五限が終わる七時ごろにキャンパス内で落ち合うことにした。羽村は、ベンチに座り、名取の姿を探す。そして、遠目に名取が歩いているのを見つける。羽村が、名前を呼ぶと、こちらに近づいてくる。表情は周りの暗さのせいでよく見えない。

「久しぶりだね」

「ああ、久しぶり」

 二人とも何から話せばいいか分からないのか、黙ってしまう。

「名取、俺が言ったこと根に持ってるか?」

「うん。根に持ってるよ」

 笑顔で答える。いつもの優しい笑顔で。

「でも、強く言ってくれたおかげで、私のしたことが羽村と亮平の友情を壊したって気付けたから。あの時、私、とのこ亮平とで手一杯だったから考える余裕がなくて。ごめん」

「ポジティブだな」

「亮平とは連絡取ってるの」

「昨日会った。名取にフラれて落ち込んでた。でも反省もしてた。やり直したいとも言ってた」

 伝えるべき内容が多すぎて舌足らずになる。名取は黙って聞いている。そして、羽村は野々山とのルールを破る。

「あの時、名取には隠してたんだけど、俺ら二人は、宝くじで一千万当たったんだ。それで多分野々山は調子乗っちゃったんだと思う。でも、そのお金を自分のためには一回も使わなかった。全部名取のために使ってたんだ」

 あの腕時計は、野々山がネックレスをあげたその日に、名取からプレゼントされたものだった。

「だったら、私が亮平に最近おかしい、って言った時に、宝くじが当たったことを言ってくれればよかったのに。そうしたら、二人で話し合って、解決できたかもしれないじゃん。言ったら、私がそのお金を奪うとでも思ったのかな」

 羽村は自分が責められているようで耳が痛い。

「それは、絶対ない。あいつは、俺が茶化した時も、名取は絶対そんなことしないって怒ってた」

「じゃあなんで、頑なに教えてくれなかったの」

 それから、羽村は、野々山から聞いた通りに借金の話をした。そして、今思えば、あの一つ目のルールは二人のものではなく、野々山が己に課したルールだったのかもしれない。あれは借金返済に羽村の力は借りまいとする宣言だった。

 名取は納得したようだが、まだ晴れない表情だった。

「私、羽村に告白したでしょ。あの気持ちは嘘じゃないんだ」

「え」

 忘れかけていたが、まだあの時の名取の真意を聞いていなかった。名取から話を始めた。

「私、羽村のこと友だちとして好きだった。それで、亮平と別れたら、多分羽村とも会わなくなると思ったの。ほら、私たち学部違うでしょ。だから、それが嫌だったから、羽村と関係を断たないために告白したの。そうでもしなきゃ、羽村、絶対亮平の味方につくでしょ」

 羽村は、心底自分が嫌になった。名取に多少の強引さはあったにせよ、悪意はなかった。それを羽村は分かっていたはずだった。

「そんな風に思ってたなんて、俺幸せじゃん」

 照れ隠しをしているが、本当は踊り出したいくらい喜んでいた。しかし、羽村は踊り出さない。

「私も、羽村と亮平の関係が壊れてなくて良かった。末長くお幸せに」

「なあ、野々山との関係は元に戻すのは無理か?連絡だけでもしてやってくれよ」

「うん、羽村がいいならちょっと考えとく」

 こうして、二人はその場を後にした。

 後日、野々山と名取は話し合いの場を設け、もう一度付き合うことを決めた。




「いやー、マジで羽村には感謝しかないわ」

 野々山がニコニコしながら言う。

「名取とまた付き合えたし、借金も全部返せたし」

 結局、野々山はルールを破り、羽村からお金を貰って、借金を全額返済した。

「まあ、いいよ。俺は金にうんざりしてたし。特別欲しい物もないし」

 それでも、まだ、羽村は四百五十万円ほど所持していた。しかし、この数日間の疑心暗鬼の地獄から抜け出すために、その残金は、両親に送ることに決めていた。ルールはすでに破綻していたので、野々山も特に何も言ってこなかった。

「それにしても、名取の告白を断って本当に良かったのか?」

 野々山は、羽村の名取に対する好意を知っているらしく、ニヤニヤしながら聞く。

「お前がそれを言うのかよ。まあ、でも今のところ俺の方が名取の好感度高いし、いつでも奪えることを忘れるなよ」

「名取はそんな軽い女じゃありません」

 二人は、キャンパス内で歩きながら話していた。学校内で会うのは久々だった。

 宝くじが当たる前の、元通りになっただけの世界で、二人は笑っていた。


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