異説神話 ラグナロク狂想曲

瑠璃茉莉 すず

第1章

第1話 終末の棺Ⅰ


 § プロローグ §



 この物語の冒頭はいつもこの言葉から始まる。


 『世界には1本の大樹があった』


 何百年もそこに立つ大樹の名は『世界樹ユグドラシル』である。その根元には魔術の素となるエネルギー『ルーン』の湧き出る泉が存在し、ルーンを纏った太く巨大な根は、自らの立つ大地を大陸より持ち上げ、大陸全土に伸びていた。

 古来より、人はその樹を“神”として崇め、持ち上がった卓状の台地は“神の領域”として、禁足地となっていた。

 しかしある時代のこと、1人の魔術を操る男が、禁足地へと足を踏み入れる。男は『霜の民ヨトゥン』の大賢者と手を組み、ユグドラシルの樹に血で自らの名前を刻み、『契約』を交わした。男は、ルーンの管理を任され、その代わりに不老長寿の細胞を授かった。のちに『エプレ細胞』と呼ばれるそれは、人工的に量産され、彼の一族たちに移植された。

 世界樹の管理権を手に入れた男――オーディンの一族は全員、禁足地に移り住み、かの地に城や館を建て、禁足地の名を改め『アースガルド』とした。同時に、彼らは自らの一族を『王族』と名乗り、アースガルドと共に、細胞を持たない短命の人間のいる『ミッドガルド』を支配した。

 ユグドラシルを神として祀る人間は、必然的に王族に服従し、人間は王族によって秩序ある平和を手に入れた。


 そして、誰かが予言する。


「世界は大樹の望むまま、終末を迎える」


 やがて訪れる世界の終焉ラグナロクは、いつとも知れぬが、ある赤子の誕生によって始まりを迎えることとなる。



 § 1 §



 それは、アースガルド建国から何度目かの冬の日であった。

 その日はアースガルド、ミッドガルド共に大吹雪により空は大荒れであり、冷たい風がオーディンの館『ヴァーラス・キャルヴ』の窓を荒々しく叩いた。今にも割れそうな激しい音が恐怖を掻き立てるほどに響いている中だが、そんな音など気にしている余裕すら、誰一人としてなかった。

 館の長い長い廊下をいそいそと行き交っている。その洋装はナース姿で、彼女たちが出入りする扉の向こうからは、苦しげな彼女の呻き声が木霊する。

 その扉の前で一人の男が右往左往していた。窓の外の景色を覆いつくす雪のような白い髪を揺らしながら、俯きがちな紫色の瞳は頻りに扉の方を気にしている。中の様子がどの誰よりも気になるものの、それを覗き見ることは許されない。それは中で必死に藻掻いている“彼女”の気を逸らしてしまうからである。今は自分のことよりも、目の前のことに集中して欲しいという気持ちが男を理性的にさせた。だがその足は何度も扉の前まで男を連れて行こうとするが、ドアノブを回す手は絶対に伸びず、また反対側の壁側へと戻っていく。


 それを何十回と繰り返していた、記念すべき50回目の時。


 やがて、その呻きが最高潮に達した時、プツン、と声は消え、代わりに別の“泣き声”が館の隅々にまで響き渡った。それは、館の者たちが待ち焦がれた、産声だった。

 ようやくだ、ようやく“君”に会える。その高揚感が男の胸の中を満たした。


 その産声をきっかけに、扉を開ける為の理性が吹っ飛んだ男が慌ててそのドアノブを回そうと手を伸ばしたのと、ほぼ同時。


 女性の悲鳴が、鳴り響く。


 扉の向こうのナースの1人が耳をつんざくような悲鳴を上げた。それはまるで世にも恐ろしいものを目の当たりにしたような、そんな恐怖に埋め尽くされた叫びだった。

 その悲鳴に男は伸ばしかけた手を制止させ、一瞬その場に立ち尽くしたが、はっと我に返り、震える指でドアノブを握り少し回して、汗ばむ掌でゆっくりと押す。


 その向こうに広がっていた光景は、おかしなものだった。


 まず目に飛び込んできたのは、ベッドに座る美しい金髪の己が妻の姿だった。その彼女の瞳は喜びに満ちてはおらず、冷たく無情な瞳で、自らの隣に寝かされた赤子を見つめていた。赤子は生まれたばかりの皺くちゃの顔でスヤスヤと眠っている。そして、周りの女医とナースも気まずい表情で互いに目を逸らしていた。その場にいる誰もが生まれてきた赤子を直視することない。そしてなにより、先程の叫び声の主であろう一人のナースが壁側を向いて激しく震えていた。

 まったく状況の理解できない男が言葉を紡ぎ出せないまま、異様な空気の沈黙が部屋を支配する。その沈黙の中、口を開いたのは、妻だった。


「あなた。残念な知らせですわ」


 男はゴクリ、と唾をのんで、「なんだ」と聞いて、次の言葉を待った。

 女は自分の二の句を待つ男の姿を一瞥すると、また視線を落として傍らで無防備に眠るまだ言葉を知らない小さな生き物の毛髪の薄い頭を何の気なしに撫でた。


「この子は、あなた様の跡を継げません。何故なら、」


 妻は静かに、冷静に、悲しげに、悔しげに、告げた。


のこの子は、いずれ世界に終焉をもたらすと、予言されていますから」



 § 2 §



 そして、50年後。アース歴150年の初冬。


 アースガルドの南の端には、『王族』たちがパーティーを開くために建てられた大広間のある『ギムレー』という館がある。外観は白塗りでシンプルだが、建物内は豪奢な造りになっており、大広間の天井を飾るのは、巨大なシャンデリア。光り輝くホールには、豪華なディナーが真っ白なクロステーブルに並べられ、それらを嗜みながら、紳士淑女は会話に華を咲かせている。

 その中でひと際人目を惹き、人に囲まれた人物が1人。その人物は、雪のような白髪をした長身の男性であり、柔らかな笑みを浮かべて、自分を囲む人々と言葉を交わしていた。


「ご結婚150周年、おめでとうございます。オーディン様」


 その男から離れた群衆の中、ひと際よく通る高い声で会場の目を注視させたのは、深い紫の髪が映える白いドレスの美女。シャンパングラスを片手に、美女は妖艶な微笑みを浮かべて男のもとにやって来る。


「ありがとう、フレイヤ。君も今日は一段と綺麗だね」

「まぁ、嬉しいですわ。このドレス、新しくあつらえさせたものですの。喜んでいただけて何よりですわ」


 一見、楽しげに2人だけの会話をする男女の姿を尻目に、周りの紳士淑女たちはヒソヒソと、女の方の噂話を零す。その噂のどれもが、彼女への悪意を込められたものであり、彼女がこの場の者たちの殆どに歓迎されていないことは一目瞭然である。


「“ヴァン族”の女狐め。我々との覇権争いに敗れ、衰退しておきながら、オーディン様に取り入るとは」

「あの女の双子の片割れも、最近やたら調子づきおって。亜人エルフたちの国の玉座で好き勝手やってるようだな」

「忌々しい。“宗主様”も、早く追い出せばよいものを」


 そんな噂をこっそりと耳にしていた美女――フレイヤは、まったく気にもせず、むしろ見せつけるようにグラスをボーイに預けると、男の腕に絡みついた。豊満な胸をわざと押し付けるようにするその光景に、端から見ていた一部の男たちは、隠し切れない羨望のまなざしで見つめていた。


「そういえば、オーディン様。本日は、“バルドル様”はいらっしゃらないのね。どうされましたの?」


 “バルドル”

 その名前が彼女の口から零れると、広間の空気がピンと張り詰めた。その話題は、誰もが聞きたかった事であるが、誰一人として口にできなかった事。傍観する人々の誰もが、オーディンの次の言葉を待っていた。

 オーディンはそんな周りの反応に気づきながらも、それを意に介さず、笑みを決して崩さなかった。


なら、軽い風邪をこじらせて寝込んでいますよ。名代として、妻の“ナンナ”が本日は来ていますよ」


 当たり障りのない、凡庸な返答に注視していた周りの紳士淑女たちは、各々安堵と落胆に肩をすくめ、それぞれの会話の輪に戻っていった。

 しかし、一方で一部の者たちは、その返答の裏に隠された意味を理解し、ニヤリ、とほくそ笑む。そのある者たちは、互いに目配せを交わして広間の奥の小部屋に、1人ずつ時間をずらして入室していった。


 周りの変化にも意識を向けつつ、絡みついているオーディンから離れる気配のないフレイヤは心無い上辺だけの言葉で、バルドルの容態を案じたフリをする。


「そうでしたの。それは心配ですわ。なにせ、あの御方はオーディン様の大切なですもの」

「そう心配することもないよ。すぐに良くなるさ」


 オーディンは優しく微笑むと、やんわりとフレイヤの絡みついた腕を引きはがし、いつの間にか彼の後ろに立っていた人物の手を取った。


「フレア、挨拶はもういいのかい?」

「えぇ。済ませましたわ、あなた」


 美しく輝く金の髪を揺らし、碧眼を細めて笑う女性—フレアは、今までオーディンの隣を独占していたフレイヤの名前を呼ぶ。


わたくしのいない間、オーディンの話し相手を務めてくれてありがとう。もう行っていいわ」

「ふふ。フレア様がそうおっしゃるのであれば。では、オーディン様、失礼いたします」


 フレアの言葉の裏に秘められた圧力を肌で感じ、フレイヤは一礼すると素直にその場を去った。

 一連の流れを目撃していた銀髪の男は、広間の奥の小部屋に目的の人物たちの最後の1人が入ったのを確認し、彼もその場から離れようとする。しかし、それを取り囲む女性たちが腕を絡めて引き留めた。


「あら、どうされましたの? スキョルド様」

「スキョルド様、もう少しお話しませんこと?」


 少々しつこく引き留めてくる女性たちに、内心ウンザリしつつも、銀髪の男――スキョルドは優しく笑いかけてやんわりと引き離す。


「すまない。少し用ができてしまってね。少々席を外させてもらうよ」

「まぁ、それは残念ですわ」


 「必ず戻ってきてくださいね」と付け足して、女性たちは渋々男から離れ、スキョルドは軽く手を振ると、広間の奥へ消えていった。

 真紅の幕をめくると、そこには扉が一つあり開ければそこには、薄暗く長い廊下が続き、その一本道を静かな足音で進む。左右にはいくつもの部屋の扉が並んでいるが、一か所だけ壁にかけられた燭台がぼんやりと灯り、スキョルドをその部屋の前に導く。灯っている2つの燭台に挟まれた二枚扉を押し開け、彼はその中で待つ人々に向かって、妖しく笑いかける。


「さて、話し合いを始めようか。諸君」



 壁に飾られた、いくつかの豪奢な燭台の灯りだけが部屋を薄暗く照らし、その中で浮かび上がる4人の人影の中で、1人の少年が行儀悪くテーブルの上に座り、足をブラブラさせながら口を開いた。


「で、何の用ですか? スキョルド兄さん」

「決まってるだろう。バルドルと、次の跡目についての話だよ」


 この場を支配するスキョルドの発表した議題に、部屋の空気が一変して鋭くなった。次に、ドッシリとソファーに腰掛け腕を組む大男が、静かな低音を響かせる。


「…バルドルは確か、ただの風邪ではなかったか?」

「表向きはな。しかし、使用人たちの話では、ここ最近は寝たきりで、ろくに食べていないらしい」

「なるほど。というわけか。それで、兄者は何を考えている?」


 大男の赤銅色の前髪から、まるでルビーのように赤く光る眼光を覗かせて問えば、銀髪のオールバックをかき上げ、スキョルドはニヤリ、と口元に笑みを浮かべる。


「バルドルがいなくなれば、次の“宗主”は勿論、長男である俺だ。異母弟おとうとであるお前達には、俺の手助けをしてほしい」

「――やっぱりね」


 スキョルドの自分達への率直な要求を聞き、それまで足をぶらつかせ傍聴していた、こげ茶色の髪の色白美少年は大げさに肩をすくめ、テーブルから跳ねるように降りると、スキョルドの横をすり抜けて扉に向かった。


「そういう話なら、僕はパス。興味ないし」

「待て、ヴァーリ」


 扉に手をかけ、引き開けようとした少年――ヴァーリを制止したのは、勿論スキョルドであった。呼び止められたヴァーリは、あからさまに面倒そうに表情を歪めて振り向いた。


「…何?」

「考えてもみろ。今は親父がアースガルドをまとめているが、次の代ともなれば必ず、何かしら亀裂が入るはずだ。その時のためにも、我々“王族”は団結しなければいけないのだ。わかるだろう?」


 非協力的なヴァーリを諭すスキョルドの言葉に、今まで黙っていた金髪ピアスの外見の派手な青年が、ようやくその喧しい口を開いた。しかしそれが逆効果であることは、その青年以外全員が知っていた。


「そーだぜ、ガキ。それこそ、大戦にまで発展したら、オレ様たちの立場だって危うくなるんだぜ?」


 喧しい青年はソファーから立ち上がり、扉の前に立っているヴァーリに歩み寄ると、その顎を持ち上げて目線を合わせる。眉をひそめるヴァーリのうつろな空色の瞳を、青年の金の瞳が覗き込む。


「それによぉ。もしそんなことになりゃ、オレ様たちのであるところの“巨神族きょしんぞく”とだって戦うことになる。そうなった時、テメーのはどうなる? 守れんのか?」


 徐々に近づく瞳と瞳。青年の顎を掴む力も強くなっていく。

 しかし、ヴァーリは青年に向かって、不敵に笑ってみせた。これは、青年が思っていた反応とは真逆だった。思惑が外れ、動揺して掴む手を緩めると、その隙を突いて、ヴァーリは顔を逸らして拘束を抜け出した。踵を返して再度、扉に手をかけると、ヴァーリは背を向けたまま先程の青年の質問に答えた。


「あぁ、そういえば。さっき兄さんは“大戦にまで発展する”って言ってたけど、」


 背を向けたヴァーリの顔は見えるはずはない。しかし、この部屋にいる全員が満場一致で確信していた。 “”と。


「いいねぇ。どんどん殺し合えばいい。斬って斬られて、殴り殴られ、突いて突かれて。真っ赤な体液垂れ流して、生温かい臓物ぶちまけて、罵詈雑言を吐きながら、死んでいけばいい。肉を裂いた音も、骨を砕いた音も、苦しみもがく声も、すべてが耳に心地良い。最高のハーモニーだ。そして、その惨劇こそ、僕と母さんの望みだ。その中で死んでいけるのなら、本望」


 ヴァーリの声高らかに歓喜に震えて語る言葉は、どこまでもで、どうしたってである。今この場に、この少年の狂気を屈服させるほどの力を持つ者はいない。全員が、それを黙って聞いた。

 そして扉をくぐり抜け、自然に任せて閉じる扉の隙間から、あの空色の瞳が覗き、スッと細められる。


「じゃあね、クソ兄貴たち」


 ヴァーリの残した言葉には、一点の曇りもない『殺意』しか込められていなかった。その殺意を一番に感じたのは、彼の『地雷』を踏み、挑発した金髪の青年だった。

 重く冷えた空気の中、1人の溜息とソファーの軋む音が同時に響き、全員が我に返った。音の発せられた方にスキョルドが視線を向ければ、そこには黒髪のヒョロリとした長身の男が立っていた。部屋の暗がりから出れば、男は神父姿で髪の色も相まって、頭から足先まで真っ黒に染まっている。のっそりと立ち上がった男は、悪びれもせず大あくびを披露すると、ゆっくりとした歩調で扉へと向かう。

 その男の前に立ち塞がったスキョルドは、寝惚け眼の男を鋭く睨みつける。


「…お前もか、ヴィダル」


 いつになく、いや、真剣に自分に問いかけてくるスキョルドに、黒服の男―ヴィダルは少々面倒そうに更にため息を一つ零すと、寝惚け眼をスキョルドに向けた。


「えぇまぁ。俺、そういうキャラじゃないんで。兄上も知ってるでしょ?」


 「それじゃあ」と背を向けて軽く手を振ると、ヴィダルは一度も振り返らず、扉の向こうへと消えていった。

 立ち尽くしたまま拳を震わせるスキョルドに、恐る恐る金髪の男が近づくと、大げさな身振り手振りで懸命に励ました。


「ま、まーまー! あの2人はしょーがねぇよ! 大丈夫さ。ここにはまだ、オレ様とトールの兄貴がいるじゃねぇか!?」


 懸命に舌を回す男だったが、そのペラペラと回る口はスキョルドの舌打ちと、「黙れ、ヘルモッド」という言葉によってピタリ、と止まった。金髪の男―ヘルモッドでは埒が明かないため、黙っていた大男—トールが仕方なく重い腰を上げた。


「兄者。私も全面的に協力はできないが、できるだけ手助けはしよう。で、具体的には何をするんだ?」


 トールの冷静な対応に、流石のスキョルドの頭も多少なりとも冷えたのか、静かな声色で自分の計画について話す。


「親父とフレア殿は“何か”を隠している。しかも、それは恐らく“バルドル絡み”」


 スキョルドの計画の一番の障害である『バルドル』の名前が挙げられれば、トールの表情も僅かに変化し、普段おちゃらけているヘルモッドも、真剣な面持ちでスキョルドの話に聞き入った。2人が興味津々に聞いている姿に、スキョルドはいつもの調子を取り戻して、ニヤリと笑った。


「2人が隠している“バルドルの秘密”を暴き、バルドルを跡取りの座から引きずり下ろす」

「この場に“ロキ”と“ホヅル”がいないのは、その秘密とやらに関係があるのか?」


 トールのその鋭い質問に、ヘルモッドはキョトンとした顔をしたが、スキョルドは流石だと称賛の拍手を送った。


「さすがはトール。そうだ。は秘密について何かしら知っている。だからこそ、今はまだ様子見だ」

「そうか。まぁ、兄者の頼みとあらば、私はいつでも助力する」

「あぁ、助かるよ。トール、ヘルモッド。俺は取るぞ」


 スキョルドが決意に満ち、野心に燃える瞳でまっすぐに2人を見据えると、一切の迷いのない言葉で言い放った。


「“神の玉座”を手に入れる」


 たとえ、親兄弟を敵に回したとしても。



 § 3 §



 パーティーが終わった頃には、アースガルドは予報外れの大雨となっていた。周りの視界が遮られるほどの土砂降りの中、一台の馬車がゆっくりと走り、豪奢な馬車をく月毛の馬たちの毛並みが、びっしょりと濡れている。

 激しい雨音と共に、雨を十分に吸った重い地面を蹄たちが踏みしめて固めていくその道の先、その終着点にはこの雨の中堂々とそびえる1軒の屋敷がある。真夜中の豪雨の中、普段であればクリーム色の壁と深海を覗き込んだような濃い青に染め上げられた屋根が、より一層の輝きを放っているが、月光が厚くどんよりとした雲に覆われた今は、すべてがモノクロに変わっている。その様相はまるで、この場所だけ世界から切り取られ、死者の徘徊する世界の一部のように、馬車に乗る“フレア”は思った。


 屋敷の巨大な正門が口を開き、馬車を迎え入れる。玄関の扉の前で停止し御者が降りると、馬車のドアを開いて中のフレアに傘を差し出した。

 「どうぞ」という老人の御者の声掛けに、フレアは馬車を降りると傘を差し出されながら屋敷に向かう。そして、扉の前に立てば、彼女の来訪を歓迎するように、内側から扉が開かれ招き入れられる。

 扉を開いたのは、執事姿の初老の男性で、フレアの姿を見るや、深々と頭を下げた。


「お待ちしておりました、フレア様。“旦那様”は、お部屋にてお待ちでございます」

「わかったわ。ご苦労様」


 フレアは肩にかけていた上品な紫色のショールを執事に預けると、クリーム色のマーメイドドレスの裾をひらひら、と揺らめかせながら階段を上がり、目的の部屋へと向かった。

 階段を昇り、2階の右の廊下を進んだ一番奥の部屋。そここそが、この屋敷の主でありフレアの実の息子『バルドル』のいる寝室である。閉ざされたその扉の前に立つと、フレアは軽くノックする。


「バルドル、わたくしよ」


 静かな声で呼びかけると、部屋の中からか細い声で「どうぞ」という返答が返ってきた。入室を許可されたフレアはドアノブを回し、部屋を覗く。

 室内は大雨のせいもあるからか薄暗く、カーテンも閉め切られ、静寂に包まれた室内に響くのは、外の雨音のみ。

 刹那。窓の外で稲妻が走り、その閃光がカーテンの布越しに鈍く光り、一瞬室内を明るく照らした。その一瞬の光の中に、その人影は浮かび上がる。豪奢な天蓋付きのベッドの上、背筋がすらり、と伸び、雷光の逆光で暗闇の中で光る2つの碧い瞳。上半身のシルエットだけで美しいと言えるほどの人物。この人物こそ、この屋敷の主人、『バルドル』である。

 バルドルは、フレアが入室したのを確認すると、サイドテーブルの上のアンティークなオイルランプの螺子を回し、か細くなっていた火を大きく揺らめかせた。煌々としたランプの火は、ベッドサイドを照らし、2人の視界を明るくするには丁度良かった。


「来ると思って待ってましたよ、母上」


 そう言ってバルドルは、ベッドの横に置かれた椅子にフレアをいざない座らせる。

 フレアの様子から、ただの見舞いではないことは一目瞭然であった。いつになく真剣なフレアの表情に、バルドルも真顔で向き合う。

 不意に、バルドルが小さく咳き込むと、フレアは心配そうな表情を見せるが、椅子から動くことはなかった。そのフレアの態度に、バルドルはふっ、と笑みを零した。


「母上。心配しなくても、この身体はです」

「…謝りませんよ。わたくしはいつだって、宗主様と世界のことを第一に考えておりますから。宗主様のためならば、たとえ、それがでも見捨てます」


 決して動かぬフレア。しかし、一言ごとその唇から紡ぐたびに声は震え、指先に力が入っていく。彼女の嘘を吐く理性に、本心の感情が抗っているのだろう。

 その母の姿に、苦し気な咳を吐きながらも、バルドルは瘦せこけた顔でどこまでも優しい笑みを向けた。


「はい。ですから、こうしてにお会いするために、お待ちしておりました。母上」

「……後のことは、に引き継ぎます。安心してください」

「はい。この世界で役不足になった僕は、早々に退場します」


 明るく皮肉を言うバルドルの姿に、フレアの胸は今にも、引き裂かれてしまわんばかりに痛んだ。それでも、フレアはそれを決して表に出すことはなく、またバルドルも笑みを絶やすことはなかった。

 しかし、用を終えて立ち去ろうとしたフレアの背中に、冷ややかな視線と言葉が刺さった。


「しかし母上。この言葉を憶えておいてください」


 フレアは振り返らず、続くバルドルの言葉を待つ。


「何人積もうが、何年かかろうが、の目的は達成されない。積めば積むだけ、足元は埋まっていく。いずれ、道はなくなります」


 そして、バルドルの冷たい『言葉の針』がフレアの胸を貫いた。


「いずれ “栄光の時代” は、“終焉をもたらす者” によって、滅亡します」


 その言葉にフレアは咄嗟に振り返ったが、それと同時に、金属が落ちる音が部屋に響く。

 美しい刺繍の絨毯の上に、小さなシミが染み込み、その傍に金でできたさかずきが転がっている。そして、杯が落ちてきたであろう先には、青白い指先が力無く垂れ下がり、手首から腕へ視線を辿れば、ベッドの上に白い顔で、眠るように死んでいるバルドルが瞳に映った。

 絨毯に落ちたその雫が『毒』であること。そうと知りながら自ら口にしたバルドル。

 その現状に、フレアは悔しげに顔を歪ませると、その美しい唇に犬歯を突き立て、真っ赤な口紅ルージュのように、鮮血が彼女を唇を彩った。


 暫く、その光景を目に焼き付けた後、バルドルの寝室に置かれた電話の受話器を取り、ダイヤルを回してコール音を待った。

 やがて、ノイズまじりの機械音に似た、人の声が受話器の向こうから返事をした。


≪はい。こちら、『アースガルド研究所』≫


 応答したのは、若い青年の声。その声に、フレアは勿論聞き覚えがあった。


「“ウィリ”ね。わたくしよ」


 受話器の向こうから聞こえたフレアの声に、寝惚けた様子だった青年の声は、一瞬で覚醒しハキハキとした。


!? どうなさったんですか?≫

「『処理』と『代替』をお願いするわ」

ですか? 中々うまくいきませんねぇ≫

「…えぇ。“ヴェーイ”にも伝えて。早く『次』を」


 受話器の向こうの“ウィリ”は、間延びした声で「了解しましたぁ」と返答し、それを聞いたフレアは無言のまま受話器を置く。

 そして再び、ベッドへ視線を戻すと、冷たくなった我が子に、先程の言葉への反論を囁く。


「… それでも、“栄光の時代”を治めるのは、ユグドラシルに選ばれた“オーディン”よ」


 サッと身を翻し、最後の言葉を残す。


「彼がいる限り、この世界に破滅はやってこない」


 部屋を去るフレアの背中を、虚ろな“生”の光りのない瞳が見送った。

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