第5話 鏡の向こう


「あなたと過ごすの、とても楽しかった」


 まるで花がそっと綻ぶように、ふんわりと微笑む花蓉に、璙雲は無意識のうちに見惚れてしまった。月光を溶かしたような髪は乱れ、胸元に咲く大きな赤花の存在すら忘れて、ただ目の前の少女が心の奥底から浮かべる微笑みを忘れないように目に焼き付けようとした。

 短い付き合いだが、花蓉は感情を表にだすことを恥ずすべき行為だと思っている節がある。過去のとがを背負うことから幸福を感じるべきではないと思っているのだろう。

 璙雲が持参した菓子を口に運び、嬉しそうに笑みを浮かべても、それはすぐに消え去ってしまう。輝いていたはずの瞳が濁り、口角が下がる唇を見る度に、璙雲は悲しい気持ちになった。

 そんな、花蓉が初めて「楽しかった」と心の内を吐露して微笑んだのだ。

 しかし、その嬉しさは花蓉が鏡を掲げて、璙雲と皓月の姿を写したことで消え去ってしまった。


 花蓉の力の全てを、璙雲はまだ完全には理解できていない。分かっているのは、彼女は鏡を介して、あらゆる事象を巻き起こせるということだ。亡者の魂を導くことはもちろんのこと、鏡に映る人物を拘束することも、鏡から鏡へと物体を移動することも可能だ。璙雲が知らないだけで、まだ他にも能力を秘めている可能性がある。

 花蓉の意図を察した璙雲は止めようと唇を開く。鏡面は淡い光を放っている。まだ間に合うと信じて、光を掻き分けるように手を伸ばした。


「——花蓉ッ!!」


 しかし、指先に触れたのは、ひやりと冷たい鏡の表面だった。


「こ、こは……」


 共に飛ばされたであろう皓月が震える声をあげた。彼もまた、共に鏡に呑まれたのだろう。痛む身体を庇いながらゆっくりと身を起こし、辺りを見回すその瞳には、怯えと混乱の色が浮かんでいた。


「璙雲。ここは、君のへやかい?」

「……ああ」


 正確には妃妾と夜を過ごすために設えられた私的な室であり、正式な臥室とは異なる。けれど、今はそんな細かい区別などどうでもよかった。


「なぜ、ここに。私たちは幽寂宮にいたはず」

「花蓉が俺たちを救ってくれたんだ」


 璙雲は部屋の奥に設置された巨大な姿見を睨みつけながら答えた。


「なぜ、助ける? あの幽鬼を操っていたのは、あの娘だろう!」

「彼女がそんな事、するわけない」

「……ならば、あれは」

「知らん」


 ゆっくりと、璙雲は鏡面に指先を添える。


「花蓉は普通の娘だ。甘いお菓子が大好きで、子供に優しい、……少し臆病なところもあるが、誰よりも人を思いやる心を持っている」


 鏡面に触れる指先が、かすかに震えた。そこに映るのは自分自身の顔だったが、その奥に、あの微笑みをたたえた花蓉の姿が重なって見える気がして、璙雲は双眸を細めた。


「誰かを傷つけるような力じゃない。彼女は、自分の力を誰かを守るためにしか使わない」


 皓月は黙っていた。否定しようにも、花蓉の最後の表情が頭から離れないのだろう。彼女は悲しみと優しさの入り混じった眼差しで、彼らを鏡へと送り出した。

 あれが偽りであるはずがない。


「なあ、皓月。お前はこれでも〝後宮の鬼〟は存在すると思うか?」


 その問いかけに皓月は答えない。俯いて、ぎゅっと拳を握りしめている。垂れた髪の隙間から覗く表情は後悔と困惑がせめぎ合っていた。


「お前はここで隠れていろ。ここは後宮だ。誰かに見つかれば、処罰を受ける」

「……君はどこに行くんだ」

「花蓉を迎えに行く」


 そう誓うように、鏡に額を寄せた。その瞬間、ふっと微かに、花の香りが鼻腔をくすぐった。この場にいないはずの彼女の気配だった。

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