第4話 願うならば


「……壊れちゃった」


 玻璃が割れる涼やかな音がうら寂しげな空間にこだまする。細かい欠片が台座から剥がれ落ちて、床に散らばるのを花蓉は呆然と見下ろした。

 壊れる前兆はあった。その度に直してきた。

 それが父の魂をこの世に縛ることだとしても、ひとりぼっちは嫌だった。父を失いたくはなかった。


「ねえ、お父さま」


 昔のように明るい声音で呼ぶと男——剣鵬けんほうはがらんとした目を花蓉に向けてきた。肉体は朽ち果て、魂のみの存在になった当初は意思の疎通が可能だったのに、今では花蓉の声に反応するだけの空虚な存在。意思も、感情も、もう残されてはいない。

 父がこうなったのは他でもない、花蓉のせいだ。

 人蟲の儀で生き残ったことで人道を外れた花蓉は、父が絶命する寸前、その魂を鏡へと封じた。無意識での行動だった。冷たくなっていく身体を、小さくなっていく鼓動を、光を失っていく瞳を——父の死を認めたくはなかった。

 過去の所業から目をそらすように、花蓉はまつ毛を伏せた。


「ごめんなさい。ずっと、私のわがままに付き合わせて……」


 まつ毛を持ち上げると剣鵬が目の前に立っていて、花蓉は驚いた。意思を失った剣鵬は、花蓉の危機がない限り、こうして自ら近づいてくることはない。どうして、と呟くと灰色の手が持ち上がり、花蓉の頭を撫でた。

 その手はかつてのような温かさも、優しさも感じられない。

 ただ、ゆっくりと頭を機械的に撫でるだけ。

 それでも、大好きな父に久しぶりに頭を撫でられたことがうれしくて、花蓉は泣き顔を見られないように顔を手で覆った。感情の堤が決壊し、涙が止めどなくあふれてくる。


「ごめんなさい。お父さま。ごめんなさい」


 くぐもった声で謝罪の言葉を繰り返す。

 これで赦されるとは思っていない。思ってはいけない。

 千年という途方もない時間、父の魂を縛りつけていてしまった。たくさんの命を犠牲にしてしまった。望んではいけないのに、生きたいと思ってしまったことに、花蓉はただ謝罪を繰り返した。


「……もう、終わりなのね」


 花蓉は足元に現れた罅に気付いた。かすかな軋みの音が、じわじわと大きくなっていく。罅は次第に太く、深くなり、枝分かれするように壁や柱を這い、天井へと伸びていく。殿舎全体が音を立てて崩れていく。窓硝子が割れて、塗装がぱらぱらと剥がれ落ちてきた。


(まるで雪みたい)


 くすんだ白い塗料が降る光景は、いつか見た雪の日を思い出させた。

 そういえば、と花蓉は思う。父は寒いのが苦手だと言って、冬になると決まって、幼かった花蓉を抱きしめて暖をとっていた。

 柔らかくもない、筋肉質な腕にぎゅうと包まれて、身動きが取れないことに花蓉が不満な声をあげると笑いながら腕の力を緩めてくれた。

 遠い記憶にぼんやりと浸りながら、花蓉はそっと目を伏せた。


「お父さま、最後にひとつわがままを言ってもいいですか?」


 思い出をなぞるように、花蓉は剣鵬の胸に額を押し付けて、背中に手を回した。


「もしも、私の罪が赦される時が来たら、またお父さまの娘に生まれたいです」


 赦されるとは思わない。

 それでも、終わりの時ぐらい、幸せな夢を抱いて死にたいと思った。

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