I THOUGHT ABOUT YOU
ジリリリリリリリ!
また朝が来てしまった。
いつもと変わらないルーチンを、いつもと変わらずにこなす1日が始まる。
寝ぼけた頭に刺激を与えるため、読み進めている小説の内容を思い出しながら、トイレへ向かう。
用を足すと、今度は頭の中で今日の日付と曜日を確認しながら、洗面所へと向かう。僕のルーチンの一部だ。
あぁ。洗面台。
今日もここへたどり着いてしまった。
鏡に映るおじさん・・・といっても童顔だから若く見られるほうだけど、その顔をジッと一瞬確認したら、顔を洗い、タオルで水滴をすべて拭き終わるまで、可能な限り何も考えないようにする。
なぜなら、このあと僕は、多くのことを考えなければならないからだ。
洗面台の上に置かれた、ヘアワックス。これを目にすると、ある女性の記憶が甦ってしまうのだ。
思い出の品といっても、特別なものではなく、20代の頃に使い始めた普通のヘアワックスだ。当時は無造作ヘアが流行っていて、たまたま薬局で手にしたのがこれだった、というだけの話。
おじさんの毛根には、正直、もうキツイ代物なのだけども。
このヘアワックスを手に取り、僕はジーナを思い出す。
「アドリア海の飛行艇乗りは、みんな一度はジーナに恋をする」の、あのジーナに因んだニックネームを持つ彼女。学生時代の僕らのマドンナだ。
僕とジーナは、それぞれ別の大学でグライダー部に所属していた。
エンジンなどの動力を持たないグライダーは、ワイヤーロープを巻き込むように曳いて、まるで凧のように空へ飛ばす。
その後は、上昇気流を利用して空の散歩を楽しむ・・・というと響きは良いが。実際のところは、体力も知識も、判断力もセンスも試される、なかなかハードなスポーツだ。
だから僕は、まぁ、そこそこの成績だった。
そしてジーナは、エースだった。
彼女の素晴らしさは、一目見たらわかる。風を味方につけるセンスがあり、空中でのバランスが抜群に良い。空を飛ぶ姿は凛として美しく、数々の大会で優勝した。当時グライダーに携わる学生たちの間で、ジーナは憧れの存在であり、超有名人だった。
そう。彼女はジーナでありながら、同時に、ポルコ・ロッソでもあったのだ。
そんなジーナが、何の奇跡か知らないが、僕の部屋に泊まったことがある。大学は違うけれど、対抗試合や合同合宿を通じて知り合い、たまたま音楽の趣味が似ていたことから、ある夏、メールをする仲になった。
そんなタイミングで、二人共が参加する交流会という名の飲み会が、開催された。
明日の朝は○○で用事がある、と彼女が言ったから、そこなら僕の家から近いよ。夜も遅いし、泊まっていったら楽じゃない?なんて。
布団もう1組あるから、変な意味じゃなくて、純粋に寝ていっていいよ。
するとジーナは、本当に僕の家に来て、本当にすやすやと睡眠をとった。
その隣で、僕は一睡もできなかった。
彼女に約束した手前、紳士でいるべきだろう。
でもやっぱり、手ぐらい握りたい。
けど、ここは我慢か。
逆に、何もしないのは失礼か!?
いやでも・・・。
逡巡している内に、朝陽が昇ってしまった。
ジーナは目を覚ますと、サッと布団を片付け、身支度を済ませ、おかげさまでたくさん寝れたわありがとう、と言って、清々しく家を出た。
いま思えば、彼女は合宿感覚だったのだろう。
グライダー部は、とにかく合宿が多い部活なのだ。
彼女が家を出たあと、僕は洗面所でちょっとした異変に気付く。フタが閉まりきっていない、アンバランスに傾いたヘアワックス。どうやら彼女が僕のワックスを使ったあと、上手くフタを閉められなかったようなのだ。
空で華麗に機体を操るジーナが、こんなこともできないなんて。誰も知らない一面を教えてもらえたようで、嬉しかった。可愛らしいと思った。
このフタの閉まっていないヘアワックスだけが、僕の部屋の中で、唯一ジーナの存在をリアルに感じさせてくれて、僕はしばらくその・・・
ドンドンドン!
ジーナの思い出を遮り、洗面所のドアが激しく叩かれる。
「ちょっと、お父さん!洗面所使いたいんだけどー」
娘だ。
「す、すまんね。いますぐ出るから」
「あなたは昔っから、そう。ボーッとしてるっていうか。特に朝は時間がかかるのよねぇ」
妻だ。
「あ、あはは。そうかな?そうだったかな?」
朝食を済ませて家を出ると、ちょうど飛行機が頭上を通った。
飛行機を見ると思い出す人がいる。ジーナだ。
大学を卒業したあと、彼女は単身海外へ渡り、そこでパイロットになった。しかも本人の希望で、臨時のときに飛ぶ代理パイロットをしていると、風の噂で聞いた。
電話が鳴るまで、どこへ飛ぶかわからない。
それって、ドキドキして素敵じゃない?
ジーナの声が聞こえる気がする。
そんなことを考えていたら、駅に着いた。
今から会社の最寄り駅に着くまでの1時間、僕は考え事に集中することができる。もちろん考えるのは、ジーナのことだ。
電車がホームに滑り込み、プシューッとドアが開く。
目の前に現れたのは、なんと・・・
「・・・ジーナ!?」
間違えようがない。
これだけ毎日思い出しているんだから。
歳を重ねてはいるが、あの目、あの口元は、絶対にジーナだ!
すると彼女から、思いもよらない言葉が返ってきた。
「失礼ですが、どなたですか?」
♪♪♪♪♪♪
「アイ・ソート・アバウト・ユー」
歌詞:ジョニー・メーサー
訳:小倉麻未
♪
列車に乗って旅に出た
そしてあなたのことを考えた
暗い線路を通り過ぎて
あなたのことを考えた
♪
星空の下の車 うねる小川
月夜の街 照らす光に それぞれの夢
♪
駅に停車するたびに
あなたのことを考えた
窓のシェードを降ろしたら
もっと寂しくなってしまった
♪
隙間から覗くと 線路が見えた
あなたへと続く路
そして何をしたかって?
またあなたのことを考えた
I Thought About You
Lyrics : Johnny Mercer
♪
I took a trip on a train
And I thought about you
I passed a shadowy lane
And I thought about you
♪
Two or three cars parked under the stars
Winding stream
Moon shining down on some little town
And with each beam, the same old dream
♪
And every stop that we made
Oh, I thought about you
And when I pulled down the shade
Then I really felt blue
♪
I peeped through the crack
Looked at the track
The one going back to you
And what did I do? I thought about you
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます