いつもの場所で

自宅として使っているアジトの一つに戻り、渚紗は久しぶりにベットに横になった。

玄関を入ると同時にナノ洗浄マシンを含んだ風が、身体を浄化してくれるおかげで、昔のようにシャワーや入浴の必要がなくなったのは便利だが、少し味気ない。

たまにはゆっくり湯船に浸かりたいと思わなくもないが、渚紗の両腕は防水加工がしてあるとはいえ、長時間水の中にある事を推奨していない。

多分、入浴くらい問題ないのだろうが、万が一の事を考えるとなかなか実行に移せないでいた。

「千歌、お待たせ」

ベットに横たわったまま、目を閉じて千歌を呼ぶ。

『待ちくたびれちゃったぞっ渚紗ちゃんっ』

千歌の声と共に、閉じた目の奥が揺らめき、電脳空間に接続される。

目を開けると、薄桃色の扉が一つ。

扉を開ける時の重さが、そのセキュリティの厳重さを物語っていた。

扉の向こうは、もこもこした白い雲のような物体で敷き詰められた広い空間が広がっている。

見慣れた光景。

薄桃色の空が、暗くも明るくもない光源を担っていた。

「渚紗ちゃん!お疲れ様ーーーー」

雲の中から、千歌が姿を現すと、そのまま渚紗に抱き着き、押し倒した。

薄いピンクを基調としたカーディガンに薄桃色のリュック。

黄色いのタイツと白く短いスカートの間から僅かに除く太腿の肌色。

赤よりのピンクが特徴的な眼鏡と金色の長い髪。

大学のキャンパスで出会った当時と変わらない千歌の姿がここにはある。

「千歌もお疲れ様」

千歌に伸し掛かられながら、渚紗は微笑んだ。

「邪魔しちゃいけないと思って、ここでずっと大人しく待ってた私の忍耐と努力に、渚紗ちゃんは大いに感謝するべきだと思うぞ」

「うん、ありがとう」

薫子との数年ぶりの邂逅。

データチップを渡すだけなら、彼女の端末にデータを送ればいいだけなのだが、向こうにも電子世界のエキスパートがいる。

万が一、彼が薫子を裏切っていた場合、そのデータを盗み見される、悪くすれば、改変される恐れがあった。

「へっぽこハッカー野郎なんて、この千歌ちゃんの敵じゃないってどうすれば分かってくれるんだい、渚紗ちゃん」

渚紗に伸し掛かったまま不服そうに頬を膨らませた千歌の顔が渚紗を見下ろしていた。

金色の長い髪が、渚紗の頬をさらさらと撫でる。

「千歌の事を疑った事はないよ。でも」

「こんなに余計なストレス抱えて」

千歌が渚紗のおでこに自分の額をくっつけた。

「痛いの痛いの、飛んでけ~」

「別にどこも痛くはないよ」

「うそ、ここが痛いくせに」

そう言って、胸元を指す。

「そんなこと、ないよ」

そう答えながら、車から飛び出して来た蓉子の姿を思い出していた。

怒りに燃えた瞳に滲んでいく涙。

確実に渚紗に狙いをつけながら、撃つ直前に微かにズレる射線。

「ねぇ渚紗ちゃん?」

「ん?」

「記憶、覗いてもいい?」

「いいけど、多分あんまり面白くないよ」

薫子の尊大な振る舞い。

蓉子の乱射。

通信は切っていたけど、アルテミスのログを追えば、発砲から守った履歴が残っているだろう。

「あ、そうだ。千歌」

「なに?」

「私の腕ってどれくらいの潜水が可能?」

「海も湖も、もはや人間が潜れる代物じゃなくなったこのご時世に、ダイビングでもしたいのかな?」

「ううん、お風呂、入りたい」

「お風呂!?」

驚いた声と同時に、千歌が身体を起こした。

「なんてこったい!どうして早く言ってくれないんだ、渚紗ちゃん!そんなのお茶の子さいさいのさいだよ!」

言うが早いか、周りの景色が一瞬白く変わり、次の瞬間、どこかの露天風呂が再現されていた。

空には星が煌めき、月が登っている。

岩で出来た広い浴槽に満たされたお湯が湯気を放ち、なぜか鹿威しがその端でコンッと高い音を響かせた。空気の匂いが変わり、風が肌をなでた。

「ふふん!どうだい?渚紗ちゃん」

気が付けば、渚紗も千歌もタオル一枚の姿になっている。

「こんな機能があったんだね。いつもあの雲の上だったから、知らなかった」

「この千歌ちゃん特製のエデンシステムに不可能はない!と前に説明したのをお忘れかな?」

ドヤ顔で腕を組む千歌の声を半分聞き流しながら、渚紗は身体を起こしてそっと浴槽のお湯に触れてみた。

少し熱めの滑らかな感触。

硫黄の混ざった独特の香り。

本当にそこにいるような錯覚。

本当にここにあるような実感。

「この空間にはね」

千歌がバスタオルを外して、湯船に足を入れる。

「全てがあるんだよ」

ゆっくり身体を肩まで沈めて、深い息をついた。

「全て?」

「うん」

千歌の手招きに応じて、渚紗もバスタオルを外して、湯船に身体を沈めた。

久しぶりに感じるお湯の感触に、思わず溜息が漏れた。

「世界が知る全てがここにはあるんだよ。世界にあるものは全部再現できる。でも!渚紗ちゃんが知らない物は、いくら再現できても、感触や味、それに伴う感覚みたいなものを渚紗ちゃんが感じる事は出来ないんだけどね」

「知ってる感覚だけ思い出せるって感じなんだっけ」

「うん。物質や現象を再現する事は出来るけど、渚紗ちゃんが知らないものは、実感として知覚できない。例えば、既に絶滅しちゃったイカの刺身を再現しても、食べた事のない私達には、その触感も歯触りも味も、何一つ感じる事は出来ないんだ」

可能なのは追体験のみ。

それだけでも凄い技術だと思う。

「でも安心して。今ここに渚紗ちゃんの知らないものはないから。なんたって、渚紗ちゃんの記憶を基準に構成してあるからね」

「じゃあ、千歌は何も感じない?」

「ううん。私も知ってる感覚なら味わえるよ。でも、知らないものはダメ」

そう言って、そっと千歌が身体を寄せた。

いつもより温度を増した千歌の肩が、渚紗の肩に当たる。

「だからね、なるべく渚紗ちゃんと一緒に行動して、渚紗ちゃんが感じたものをトレースしたい。渚紗ちゃんと同じものを私も感じてたい」

渚紗に傾く千歌の頭を、渚紗も首を傾けてそっと支えた。

「いいよ。ずっと共有してくれて。あ、でも痛い時はダメ」

「どうして?」

「千歌に痛い思いはさせたくない」

「んもう!んもう!渚紗ちゃんってば!!!!」

千歌の頭が離れるのを感じて、渚紗は千歌の方を向いた。

千歌の目が左右に振れて、少し上目遣いになる。

少し紅くなった頬は、お湯の温度に対する身体の反射の再現なのか、千歌自身の体温の高まりを表現したものなのか、渚紗にはわからない。

でも、次に来る言葉と展開は簡単に予測する事が出来る。

恥ずかしそうな千歌の顔は、何度見ても可愛いから。

「な、渚紗ちゃんの今の言葉が、こここぉれからするキスへのおねだり目的じゃないって事を祈ってたりなんかしてなくもない、事もないんだぞっ」

「キスしたくなったの?」

「なりましたよ。なりまくりだよ、渚紗ちゃん!冷静沈着で定評のある私の、渚紗ちゃんだいちゅきゲージが振りきれるだなんて、なんて軍師なんだ、君は!これは功名な罠!渚紗ちゃんほどの悪女はなかなかいないよ!」

なんとも落ち着かない様子で言葉を重ねる千歌の頬に優しく触れる。

「お褒めの言葉、ありがとう」

ゆっくり顔を近づける渚紗に合わせて、千歌が目を閉じる。

唇が淡く、重なる。

知っている感触。

忘れがたい優しい温もり。

ここにアルテミスはいない。

視力補助のチョーカーも、オレンジ色の光を放つ人口眼球も。

渚紗に触れられるのは、千歌だけ。

たった一人、この場所で。

触れ合う柔らかな感触も、絡み合う指先の繊細な動きさえ、この場所では本物と変わらない。

全てはデータの再現にすぎないはずのこの場所。

なにもないはずの、でも、全てがある場所。

「渚紗ちゃん、もっとぎゅっとしてて」

千歌の甘い声に、上ってしまう心拍数さえ嘘じゃない。

指先に感じる千歌の熱さも、流れていく汗も。

揺れるお湯が溢れ出す音も、肌を撫でる爽やかな風さえも。

全てが、今ここに。

確かに存在していた。

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