邂逅
汗ばんだ身体を起こし、薫子はフラットなベットへと姿を変えた座席部分に座り直した。
車内の中心にあったテーブルは壁へと収納され、代わりにベット用マットレスが、スライドした両サイドの座席の隙間を埋めていた。
車中泊を可能とするために、今やどの車両にも標準装備されている機能だが、薫子専用のこの社用車は、一般車両に比べ、更に寝心地を追求した特別仕様。クッション性の高いシートは眠り心地は勿論、座り心地もかなり良質なものになっている。
「ふう……」
右手の疲労の緩和を早めたくて、軽く手首を振った。
小さく息をついて壁のボタンを押すと、心地よい風が薫子の身体を吹き抜けていく。
空気中に散布された洗浄ミストの効果で、皮膚表面の皮脂や汗が分解され、5秒後には髪がサラサラと指の間を心地よく滑った。
連続する絶頂に幾度も晒されて、気を失うように眠ってしまった蓉子をそのままに、はだけた衣服を整える。
かつて上司だった人の娘。
初めて会った時は何歳だっただろうか。
警察組織内で高い地位にあった彼女の父は、薫子を引き立て、今の地位を手に入れる礎をくれた。
けれど、その代償を薫子が求められていた事を、蓉子は知らない。
蓉子を自分のものにしたのは、彼への意趣返しだったのか、それとも、懐いてくる蓉子に対する愛情だったのか、それはよく分からない。
ゆっくりと、どこまでも優しく。好みの女性へと育てた年月のどこまでが本当で、どこまでが嘘だったのか。
そんな薫子と蓉子の関係に気づかぬまま、妻が殺された翌月に彼は命を断った。
それほどまでに妻を愛していたのか、血縁者が犯人だった事に耐えかねたのか、はたまたもっと別の理由が存在するのか。
自殺なんてするタイプの人間ではなかったはずなのに。
彼は心から愛していた娘を残して逝ってしまった。
薫子からすれば、不自然な死。
けれど当局の出した答えは、事件性のないただの自殺。
真相は今だ闇の中。
「全ては暗がりの向こう……か」
ストッキングを足元から引っ張り上げ、ガーターベルトで止めた時、車が設定した場所ではない方向に進んでいる事に気づいた。
現場に近づいてはいるものの、少しズレた座標を目指している。
スモークにしてある窓ガラスに触れ、コンソールを表示。
だが、行先を設定し直す操作は拒絶された。
「ご招待ってわけ?」
車外の様子をモニタに移すと、二車線道路の真ん中に人影が見えた。
どんどん近づくその影が、やがて誰か認識出来る距離まで近づいて、車は停車した。
蓉子を車内に残したまま薫子は一人、車を降りる。
明かりのない暗闇の中、青い光だけが明滅していた。
やがて、その上にあるオレンジ色の双眸がゆっくり、開く。
「お久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
彼女に近づきながら、微笑んでみせる。
昔、蓉子の家に引き取られていた従姉妹にあたる少女。
蓉子の後ろに隠れ、薫子に懐かなかった子供が今、成長した姿で目の前に立っている。
「変わりない?渚紗さん。それとも……INTIKAMと呼んだほうがいいかしら」
薫子が銃を使用した場合、確実に当てられる距離まで近づいて、歩みを止めた。
射程範囲。
けれどそれは、向こうも同じ。
暗闇と沈黙が、重苦しく圧し掛かってくる。
「……相変わらず、貴女は嘘ばかりなんですね。薫子さん」
やがて、小さく彼女がそう言った。
「久しぶりに会ったのに嘘つき呼ばわりとは。随分ね」
凝縮された密度の高い沈黙が、会話の合間に立ち込める。
渚紗は昔もあまり喋らない子供だった。
それが両親を失って親戚に引き取られた事によって引き起こされた現象なのか、はたまた本来の性格なのか、薫子は知らない。
ただ、彼女は完全に言葉を失っていた時期がある。
蓉子が警察官になったばかりの頃で、渚紗は当時高校生だった。
あの事件が、関係者全員の人生を狂わせてしまったと言っても過言ではないだろう。
渚紗は大災害で失った両腕に加え、あの事件のせいで視力と聴力、そして、生殖能力を失くしたのだから。
その二年後に起きた連続殺人。
被害者から加害者となった彼女に同情的な人間は、今も少なからず存在している。
「普段通り話して大丈夫ですよ。ここには私達しかいませんから」
「ふふ」
渚紗の言葉に薫子は思わず笑う。
「そんな気遣いが出来るようになったんだな、渚紗」
髪をかき上げ、不敵に笑ってみせた。
この闇の中でも、彼女の目には薫子の表情が、きっと見えているだろうから。
オレンジ色の光が淡く、薫子を見つめる。
もし、渚紗がただの被害者のままでいてくれたなら、薫子と蓉子と渚紗は、今とは違った関係を築けていただろうか。
蓉子の母が死ぬ事もなく、父親が後を追う必要もない。
そんな未来で自分と渚紗は、一体どんな関係を築いていただろうと、一瞬だけ考えた。
「で?ここに招待した理由はなんだ?蓉子に会いたいなら、車内にいるぞ」
渚紗の視線が薫子の後ろへと逸れる。
「ああ、でも今はまだ全裸だから、急にドアを開けるのは遠慮してやってくれ」
そう言って、はだけた胸元をわざと指先でパタパタと仰いだ。
ざわりと空気が感触を変える。
静かだった空間が、ゆっくりと張り詰め、濃度を増していく。
「怒るなよ、INTIKAM。蓉子は私のものであって、お前のものじゃない。だろ?」
挑発するように、右手を前に出す。
「欲しいなら、舐めさせてやってもいいぞ。もしかしたらまだ、蓉子の味が……」
そのまま指先を唇に寄せ、中指の先端を舐めた。
「するかもしれないぞ」
そんな簡単な挑発に、渚紗の身体が微かに動く気配を見せる。
薫子は左足のガーターと同じ位置に隠した銃を、右足を地面に着くと同時に抜いた。
銃声が響く。
が、渚紗は動かない。
真っ直ぐに渚紗を貫くはずの弾丸が、コンクリートに落ちて小さな音を響かせた。
「不接触の魔女」
銃を下ろす。
「噂は本当らしいな」
もう一度、ゆっくり狙いをつけて引き金を引く。
銃声が3回、暗い空に吸い込まれた。
が、それだけ。
微かに煙を上げる銃口と、反動で少し痛くなりつつある掌だけが、発砲の事実を物語っている。
「一体、どんな手品だ?良かったら技術提携でもしないか?」
「渡したいものがあります」
薫子の言葉には答えず、渚紗が何かを投げて寄越した。
数メートル手前の地面に落ちたそれは、黒い小さなボールの形をしていた。
コロコロと転がり、薫子の傍まで来ると、ボールの表面に入った亀裂に沿って中身が開き、小さなデータチップを吐き出した。
薫子がそれを拾っている間に、ボールは球状に戻り、転がりながら渚紗の元へと戻っていった。
「私より貴女の方が、上手く使えると思うので」
自分の元に戻ったボールを拾いあげて、渚紗が言った。
「貸しのつもりか?それとも、蓉子の身の保証に対する礼か?」
渚紗は答えない。
「お前のせいで、蓉子の立場はずっと警察内で微妙なままだ。私がいなかったらどうするつもりだったんだ?まさか大好きな蓉子お姉ちゃんを露頭に迷わせるつもりだったのか?」
沈黙。
「お前を襲ったあのゴミ共を始末した事はいい。でも、どうして蓉子の母親まで殺したんだ」
鋭く聞く声に返る声はない。
「彼女は両親を失ったお前の母親代わりだっただろう。そんな彼女を手に掛ける理由がどこにあった。蓉子の人生を奪う権利が、お前のどこにあった」
「私は……」
小さな声が苦し気に漏れた。
その時。
「INTIKAM!!!」
薫子の背後で車の扉がスライドし、服を身に着けた蓉子が姿を現すと同時に発砲した。
「待て、蓉子!」
「逃がさない!INTIKAM!!!」
そのまま、渚紗に向かって走りながら、発砲する。
渚紗が右手を上にあげると、身体がふわりと宙に浮かんだ。
隠されていた幕が剥がれるように、突然現れた大型ドローンが周囲に風を巻き起こす。
「くっ!」
風の圧力に、蓉子が押し戻されまいと両腕で顔を庇いながら、なんとか前に進もうと一歩づつ渚紗に近寄っていく。
けれど、しばらく様子を探るようにその場で浮遊していた渚紗は、蓉子の到着を待たずに上空へと昇り始めた。
「逃げるな!INTIKAM!!」
空の闇へ消えて行く渚紗に向かって、蓉子が叫んだ。
「私に何か言う事があるでしょう!?INTIKAM!!……渚紗ーーー!!!!!」
蓉子を見つめていたオレンジ色の光が消え、青い光の残滓だけが夜空を漂い、やがて、消えた。
「くっ……」
悔しそうに、両手に銃を握りしめたままうなだれる蓉子の肩にそっと手を置く。
「蓉子」
「るこ姉……渚紗は……どうして……」
蓉子の緩んだ指先から、銃が滑り落ちる。
「どう……して…」
同じ疑問を口にしながら、薫子の胸に縋りついて泣く蓉子を、優しく抱きしめした。
「捕まえよう。本人に聞く以外に答えはない。そうだろう?」
「……はい」
優しかった母と尊敬していた父を、妹のように愛しんできた従姉妹のせいで奪われたその痛みは、薫子には計り知れない。
蓉子の中にあるのが、憎しみだけならば、こんなに悲しむ事もないのだろう。
「大丈夫だ。私が傍にいる」
「るこ……姉……るこ姉……っっ」
声を上げて泣く蓉子を抱きしめながら、暗い空へと視線を向けた。
なぜ何も語らない。
渚紗。
お前の中にも蓉子への想いがまだあるのだろう?
でなければ、薫子の挑発に攻撃の気配を見せるはずがない。
幼かった渚紗の姿が、心に浮かんで消えた。
手の中に受け取ったデータチップを握りしめたまま、薫子はただ、蓉子を抱きしめ続けた。
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