まいごまいご

天野まい

第1話

 ぼくは、いつもの帰り道のとちゅうで、いつもと違うところへ行ってみたくなった。

どこで曲がろうかなあ。まっすぐ進むはずの道で考える。

 いくつかの角を通りすぎて、なんとなくここだと思ったところを左に曲がってみた。曲がり角には、たくさんの赤紫色の花が咲いていた。住宅用の細い黒の低いフェンスのすぐ向こうで、他の草花とともに植えられている。

 ぼくは赤紫色の花に目を留めながら、その角を曲がって歩いて行った。

 植物にあまり興味がなくて、花の名前もわからない。あとで調べようかとも思ったけれど、ぼくの目で見た花のすがたのままで充分だと思いなおした。なにかの偶然で花の名前を知るまでそっとしておこう。知る必要があるのならいつかわかるだろう。

 いつもと違う道とはいえ、いつもとそう違わない住宅街の中をずんずん進んでいく。あてもないのでただただ進む。

 やがて小さな川が見えてきて、川を渡った橋のわきに公園があった。幾つかの色に塗りわけられたすべり台と砂場と、脚の部分がコンクリートで座席の部分が木製のベンチがある。ぼくはその公園のベンチで少し休憩することにした。


 雲が多くて夕日が見えないけれど、暗くなるにはまだ時間がありそうだ。ぼくがじっと座っていると、わずかに風が吹いていることを肌が感じた。心地よく風を受けていたら、遠くの方で犬のなき声がした。甘えるというほどでもなく、威嚇する感じもなく、知り合いへの挨拶のような吠え方だ。

ぼくは犬の声がする方向をなにげなく探してそっと辺りを見回してみる。すると公園の隅にひっそりと小さな祠があるのを見つけた。低い灌木に挟まれていて、高さも隣の灌木と同じくらいの祠だけれど、正面は朱塗りの木材で作られていて、扉は格子になっている。

と、それまで雲に隠れていた夕日が急に顔を出したらしく、西日が公園を照らすと同時に祠の中から夕日と反対側に、遠目で分かるくらいの光が飛び出す。祠の中のなにかに反射したらしい。

「うわっ。」

ぼくが祠と光に目を瞠っているとき、いきなり地面がぐんっと揺れた。ぼくの見ている景色も揺れて、ガサガサという茂みの音と、祠の横で中型犬ほどの茶色の動物が一瞬、灌木の茂みから飛び跳ねるのが見えた。

 

揺れはすぐに収まり、西日が照らす公園に戻った。犬のなき声も聞こえなくなっていた。多分、地震だと思うけれど、ニュース速報も数分はかかるだろう。ぼくは、この小さな散歩を終わりにして、家に帰ることにした。さきほど通った橋を渡り、またずんずん進んで知らないはずの住宅街を抜けて、曲がったはずの黒いフェンスの家の角まで来た。

「あれ?」

目印にした赤紫色の花が庭にない。ぼくは思わず立ち止まってしまう。花壇はあって、草花は植えられているけれど、あんなにたくさん咲いていた赤紫色の花は1輪もない。まだ2時間も経っていないのに、すべてしぼむとは思えない。フェンス越しからは、切り取られた跡もなさそうに見える。それでもぼくのいつもの帰り道に戻ったことは確かだから、そのまま家まで帰った。

「ただいま。」

家の鍵を開けて入った玄関で一応、声に出して言う。家族が家にいても、いなくても、ぼくの習慣になっている。リビングの明かりがついていたから、今日はぼくより先に家族の誰かが帰っているのだろう。

リビングに入って、ぼくは今朝までとあまりに様変わりした部屋に唖然とする。

テレビが大画面の新型になっているし、ソファーカバーをかけて誤魔化していたボロボロのソファーは、リクライニングできる布張りの綺麗なソファーに置き換わっている。エアコンも新しくなっていて、ダイニングテーブルの上には、家にはなかったはずのインターネット接続のAI機器まである。ダイニングテーブルと椅子が今朝と同じで、ぼくは安堵したけど、ここだけ変わっていないことがおかしいくらいだ。キッチンにいた母がリビングに来てぼくに言った。

「おかえり。どうしたの。」

「母さん、今日は仕事が休みだった?」

「何言ってるの。派遣の事務仕事は先月で辞めたわよ。あなたのアプリ開発のおかげで。」

「アプリ開発って、ふわぬむ効果音アプリか。」

ぼくは、ぼくが作ったアプリを公開に踏み切った世界に来たことを悟った。この世界の元のぼくは、このぼくより勇気があったんだ。ぼくは元ぼくを素直に尊敬した。

もちろん、まさかという思いも頭の中を過ぎるけど、ぼくにとっては、よく似た違う世界にスライドして来たと考える方が、ぼくのこの状況を受け入れられる。そして、気付く。どこがどんな風にぼくの記憶と違っているのか、この世界のことを知っておかないといけない。このまま、この世界でずっと生きていくかもしれないのだから。ぼくは手洗いとうがいをして、自分の部屋へと急いだ。


ぼくは、自分の部屋のドアノブに手をかけ、大きな深呼吸をしてから、思いきって一気にドアを押し開いた。

「うわあ、予想以上だ。」

ぼくは気分が爆上がりするのを抑えるのに苦労した。ひゃっほ~と奇声を上げて飛び跳ねて回りたい。パソコンが欲しかった機種に変わっているし、大型のミキシングマシンまで設置されてる。更にロボットのプラモデルの箱が倍以上に増えて、プラモデル用の塗料も色が増えていた。自分で組み立てて製作したプラモデルが少しも増えていなくて、自分のことながら笑ってしまった。

パソコンとミキシングマシンの電源を入れて立ち上げ、本当はまず音の打ち込みを試したいのを我慢して、ぼくはSNSとメールを別々のブラウザで開いてチェックすることにした。明日から数日の予定をできるだけキャンセルしてでも、数ヶ月分をていねいに遡って見ておけば、周りと話を合わせられるだろう。

「アカウントが違う。メールアドレスは同じか。」

メインに使っているものを開いてみて、ぼくはあまりのことに驚愕したし、すぐには事態を受け入れられなかった。

<ふわぬむ効果音を使ってくれてるみんな、楽しんでる?

 俺の親友である怜賀のラジオに出演したぜ!

 俺の声がラジオの電波に乗って大興奮さ。

 これからの事も色々と考えてて、おっとこれ以上はまだ言えねえ。またな!>

SNSのぼくのアカウントには、調子に乗って浮かれた発言がずらりと並んでいた。リプライも、ぼくの見知らぬアカウントからの称賛が多くて、同じ学校だったけどただの知り合いくらいのアカウントからは妙に親しげに声をかけれらている。そして、SNS上で仲がよかったアカウントは、フォロワーの中にほとんどいなかった。リアルでの友達は、ぼくの記憶にあるアイコンのアカウントにいたけど、ぼくが発言してもリプライしても、遠慮がちに無難なリアクションをするだけになっていた。


何てことだ。

ぼくは、この世界の元ぼくに対して、軽蔑まじりの怒りを覚えた。ぼく自身にもがっかりした。いつまで続くか分からないような小さな名声とお金で、こんなにあっさりと調子に乗ってしまうのか。

ふわぬむ効果音アプリをぼくがぼくのいた世界で完成させたのは半年くらい前で、公開するための手続きを調べておいて、気後れしたというだけの理由で4ヶ月くらい放っておいた。この世界の元ぼくがアプリを公開した日を確かめると、ぼくがためらっていた時期の後半あたりでこの世界ではアプリが公開されて、4ヶ月あまり経っていた。

いくらネットではバスるときは瞬く間にバスって売れるとはいえ、4ヶ月でここまで急上昇したことにも、ぼくが溜息をつくような理由があった。元ぼくはアプリを宣伝するために、母親同士が友達で幼なじみの怜賀にアプリを売り込んでいた。子役からそこそこ売れていた怜賀は今や期待の若手俳優で、アプリも気に入ったからと怜賀が公式SNSで紹介して、ダウンロード数に火が付いた。怜賀の事務所も、ぼくが親世代からの友人で、アプリも個人開発ということで、通してくれたらしい。その流れもあってのラジオ出演で、ぼくはついに机に腕を置いたその上に頭を乗せてつっぷした。

「ぼくは、思ってたよりチョロい人間だったんだなあ。」

ぼくのいたあの世界に戻りたい。アプリを作っているときは最高に楽しかったし、放っておきながら頭の片隅にはいつもアプリのことが引っかかっていた。いつか公開しようと思っていたけど、お蔵入りさせていてよかった。

でも、この世界でぼくはどうやって生きていこうか。元ぼくに合わせようとした最初の考えは、そのまま使えそうにない。元ぼくから少しずつ今のこのぼくに寄せていくのと、この世界のちやほやされて舞い上がっている元ぼくにこのぼくが引っ張られてしまうのと、どちらが早いか。元ぼくに近づいていくほうが楽な道に思えて、ぼくは悲しくて自己嫌悪で暗い気持ちになった。

「ポロロロロン」

そのとき、パソコンから優しい通知音がした。新着メールが来たようだ。

ぼんやりした頭で、それでもぼくはまだ見ていなかったメールボックスを確認しようとマウスを動かす。

<もし万が一でも気が向いたら意見を聞かせてくれ>

というタイトルがぼくの目に飛び込んできた。メールの送り主は、中学校からの友達である真崎だった。クラスはずっと違ったけど、部活が同じ美術部で、当時から真崎はロゴやユニバーサルデザインに本気だった。部活の数がそもそも少なくて、運動部を避けて美術部に入る生徒も多かったから、ずっと何かのデザインを描き続けていた真崎がかえって浮いていた。ぼくはぼくで、絵を描くだけが美術ではないと、部活の顧問の先生と入部当初の部長に手紙を書いて、部活中のプラモデル作りを認めてもらったという黒歴史を持っている。

ぼくのいた世界では、真崎は学生をしながら中堅のデザイン事務所と契約して、下請けの仕事をアルバイト代わりにしていた。周りにからかわれても基本的に我関せず、相手の言い分をひとしきり聞いたあとに、「なるほど。それで?」と穏やかに言い放つ所を何度か見た。そんな真崎からのメールを、ぼくはすがるような気持ちで開いて読んでみる。

<もう既に何度か頼んだことだが>

本文の冒頭で、真崎からの過去のメールに、元ぼくがまともな返信をしていないらしいことが窺えた。ぼくは元ぼくへの怒りをまた沸きあがらせながら、真崎のメールの続きを読み進める。

<僕が考えたデザイン案について、簡単でいいから意見を聞かせて欲しい。昔のように、全部の案にくわしく触れなくていい。どれが一番いいと思うかだけでいい。忙しいところすまない。>

真崎はこの世界でも真崎だ。ぼくはそう直感して、添付ファイルのデザイン案を見る。ぼくのいた世界で、10日前にぼくが見たものと同じデザイン案が並んでいた。ぼくは、10日目に書いた意見を思い出しながら、スラスラと文字を打ち込んだ。そして返信メールの最後に、<近々、最近の4ヶ月の出来事について顔を見て真面目な話をしたい。せめてビデオ通話で。>と付け加え、指先に祈りをこめて送信ボタンをクリックした。


気がつくと、真っ白な空間にぼくはいた。床に手をついて横座りしていた。少し離れた場所に人の気配がしたので顔を上げると、あぐらをかいて座っているぼくが見えた。ぼくから見えるぼくは腕を組み、眉間にしわを寄せて考え込んでいるようだ。

「すまんのう。ちょっとした手違いをしてしもうた。」

そこらじゅうに響き渡るエコーが効きすぎの声がどこからか聞こえた。

「相方は元の世界に帰るのを渋っておってな。そなたはどうしたいかね。」

先ほどと同じ声が響く。若い声ではないけど、歳をとっているにしては艶がある年齢不詳の男性らしき声だ。ぼくは出来るだけの大声をだして答えた。

「ぼくは帰りたいと思っています!!」

ぼくの声は、年齢不詳の響く声とは対照的に、空間の中にすうっと吸い込まれるように消えていった。

「ふむ。片方ははっきりと帰りたがっているな。戻すとしよう。しばし時間がかかるゆえ、自分たちで少し話してみるとよい。」

響く声がそう言うと、真っ白な空間が狭まったのか、ぼくとぼくの距離が縮まった。ぼくは、元ぼくに真崎のメールに件を伝えなければと思った。

「真崎からメールが来ていて」

「真崎からメールが来ていて」

ぼくと同時に、元ぼくが同じ言葉を言った。メールは後から内容も確認できるから、別の話題にしよう。ぼくは元ぼくに言った。

「浮かれるのもほどほどにしておいてくれ。この先、どうしたらいいかと真剣に悩んだよ。」

「アプリは公開しようよ。せっかく苦労して作ったんだ。報われるのも悪くはないぜ。」

元ぼくが疲れたようにぼくに言い、さらに言葉を続けた。

「新規事業には慎重になるよ。」

元ぼくの様子にホッと安心したぼくは、つい笑顔になったけど、ぼくがいた世界で新規事業を思いとどまるなんて、何があったんだろう。あの世界に帰っていくことがほんの少し不安になってきた。

「何があっ」

「何があっ」

ぼくと元ぼくが入れ替わっている間のことをお互い同時に聞きだそうとしたようだけど、途中で床がくるりとひっくり返るような感覚がして、ふわっと宙に浮いた気がした。そこからふっと記憶が途切れて―。


ぼくは、腕が痛いとうっすらと感じながら目を覚ました。パソコンも使い慣れたやや旧式のものだし、ミキシングマシンも小さい。ぼくは、どうやら無事にぼくの世界に帰ってきたらしい。いや、ぼくの部屋の机の上に上を置いて頭を乗せて、寝落ちしてしまっていたから、もしかしたら、どこかから夢を見ていただけなのかもしれない。頭を上げても痺れている右腕に顔をしかめて、ぼくはパソコンの画面にとりあえず目を向けた。画面には、真崎からの新規メールが表示されていて、そこには、あのデザイン案のうち、ぼくが好きだと言ったデザインの採用が決まったと書いてあった。それから、ぼくの開発したアプリは、勇気を出して公開することを薦める、とも。

「良かった~。あれ?あのデザインの締め切りはまだ少し先だったと思ったけど。」

まだ痺れが残っている右腕をさすり、パソコンの日付と時間を見て、ぼくはぎょっとした。ぼくが気まくれに散歩して公園に行った日から7日が経っている。メールの日付もスマホの日付も確かめて、ニュースサイトもいくつか見てみた。そして、わざわざお気に入りにマークされていた数日前のニュースサイトのある記事の見出しに、またぎょっとした。

<電子書籍専門の出版社が詐欺の疑い>

その出版社の名称は、元ぼくの世界で啓発本を書かないかと声を掛けてきていた会社と同じだった。記事の詳細を読むと、元ぼくのSNSに絡んできて盛り上げていた社長や社員の名前が複数あった。SNSなどで人気のある若者に本を出版させる話や映画化の話を名目に、ファンなどから会費や費用を募っておきながら、集めた金銭を自分たちの豪遊に使い込んでいたことが発覚した、とあった。

「あ~、これは青ざめるのも納得だな。」

ぼくは、真っ白な空間で見た元ぼくの疲れた様子と、新規事業に慎重になる発言を思い返していた。ぼくの記憶では数時間の入れ替わりだったけど、元ぼくは7日間もこちらに来ていて、時間を少し先取りしたらしい。


どこからか夢だったとしてもいいじゃないか。

ぼくは、幼なじみといえども今度は怜賀にぼくから売り込みはしないことと、今度こそ舞い上がって調子に乗らないことを、決意ノートに書き加えて、ぼくが開発したアプリを公開する手続きに入った。



                                    完

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まいごまいご 天野まい @tokui-yuju

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