三 最後のアルクマ神『フェデリカ』

 広場の中心に立った光の柱はまっすぐに曇天を突き刺していた。

 どこまで立ち昇っているのか。その天上に吸い込まれるような光を見上げながらヴィルフレードのあとを追っていたアルドは、「姉さん! フェデリカ姉さん!!」という前を行く彼の声に気づいて、その光の根本を見た。

 そこには足元近くまで伸びた銀色の髪を揺らす、白い肌の少女が立っていた。服装は守護兵の少年たちと同じような布製で、金色の杖を携えている。

「姉さん! 俺だよ、ヴィルだよ! 迎えに来たんだ、一緒にここを出よう!!」

 ヴィルフレードは力強く彼女の腕を引いたが、その腕に力が宿ることはなかった。

「……ヴィル? ごめんなさい、長い眠りについていたと思うから、少し混乱しているの。アルクマ神の私が顕現しているということは、ムネメたちは……」

「俺が倒したよ。そうしないと、姉さんには会えないからな」

 ヴィルフレードがそう言うと、フェデリカの表情は少し陰りを帯びた。

(やはり、守護兵だったあの少年たちを倒したのは、まずかったんじゃないのか?)

 アルドの胸にはそんな疑問が浮かんだが、その戦闘に加担した以上、それを聞くわけにもいかなかった。それよりも。

「ちょっと、待ってくれ。お前の囚われている姉ってのは、『神様』なのか?」

「ああ、言ってなかったか。そうだ、姉さんは無理やりにこの世界の神『アルクマ神』に祭り上げられたんだ。『アオイ』たち守護兵によってな。そんなことなんか、どうでもいい。さあ、姉さん。早くここを出よう!」

 早口で脱出をまくし立てている弟をよそに、フェデリカの視線はアルドに向けられた。

「……そこにいるのは、お友達?」

「ああ。俺は、アルド。縁あって、君を助けに来た、つもりだったんだが……あまり、嬉しくなさそうなんだな」

「な、何を言っているんだ、君は!? 嬉しくないわけ、ないだろう! それに、この世界はもう崩壊寸前なんだ。アルド、君も、俺がパシオネのゲートから出てくるのを見ていたろう? 俺は、この世界と一緒に、何度も……姉さんが消滅してしまうところを見ているんだ!」

 ヴィルフレードの必死な様子に、アルドの脳裏には彼が地面を叩いて咆哮していたあの姿が浮かんだ。弟の悲痛さは、よく分かる。しかし、この姉の達観した静けさはどういうわけなのだろう。

「……そう。あなたがここの崩壊を知っていて、この『孤独の霊峰』にも何度か、私を迎えに来ている。きっと、それは別の次元での出来事なのでしょう」

「だろうな。俺も何度か、過去の出来事によって未来が変えられる現象を見てきている。パシオネがヴィルフレードをこの世界に送れるタイミングは、いつも同じなのだろう。だから、ヴィルフレードが言っている『崩壊や君の消滅』は、これから確実に起こることなのだと思う」

 ヴィルフレードの説得を代弁するつもりでアルドはそう言ったが、フェデリカはただ、静かに佇んでいた。まるで、その消滅をすでに受け入れているかのように。

「そのパシオネ、というのは、強い魔力を備えた精霊か、魔族か……その人が、あなたをここに何度も、送り込んでいるのね?」

「ああ、そうさ! パシオネっていう齢二万年を超えた大精霊が俺の師匠だよ」

 そのとき、初めて、フェデリカは少し微笑んだ。

「そう、良かった。精霊の加護があるのならば、ここが崩壊しても、自動的に『外の世界』へ戻れるわね。精霊の加護は強固な絆。次元を超える力を、持っている。『アオイ』たちも、精霊に近い存在だったけど、『外の世界』へ自由に行けるような力はなかった。それは、アルクマ神として祭り上げられた今の私でも、同じこと。もしもあなたを送り込んだのが魔族だったならば、それも叶わなかったけれど……」

 フェデリカは、静かに弟を見つめている。その表情はどこか神々しく、透き通った水晶を思わせた。

「いい加減にしてくれ、フェデリカ姉さん! そんな話しを悠長にしている場合ではないんだ。姉さんを迎えに来たのは、これで四回目なんだ! 今回はアルドがムネメとメレテを引きつけてくれたおかげでだいぶ早く方がついた! それでも、余計なお喋りをしている暇なんてない、だから……」

「ヴィル、あなたは思い違いをしているわ。私がこの世界に残ったのは、それを、私が祈ったからなのよ」

「嘘だッ!」即座に、ヴィルフレードは否定した。フェデリカの美しい鳶色の瞳に、みるみる悲しい色が混じるのを、アルドは感じていた。

「前回、三回目でようやく、姉さんと少し話をする暇があった。その時、姉さんは言っていたんだ! 『もう、疲れた』って! そうなんだろ、こんなところに閉じ込められて、ずっと辛かったんだろ!? そうだと、言ってくれ! そして、今すぐ、この場を離れよう!!」

 ヴィルフレードは強くフェデリカの肩を揺すって懇願した。が、彼が望む反応が振り出されることはなかった。むしろ、その姉の細く青白い身体が、今や信じられないほど儚げな軽さで漂っているのだと実感されるにつけ、ヴィルフレードが抱く憐憫の情と自責の念は募るばかりに思われた。

 それが、アルドには耐えられなかった。

「おい、ちょっとやりすぎだろ、ヴィル!」思わず彼の愛称を呼びながら、アルドは二人の間に割って入った。

「気持ちはわかるが、少し取り乱し過ぎだ」

「うるさいッ! 部外者は口を挟まないでくれッ!!」

「そうはいかない。フェデリカは、さっき、自分が今の姿を祈った、と言った。何か、事情があるのだろう。それに……」

 怒りに肩をふるわせるヴィルフレードから、アルドはフェデリカに視線を移した。

「見ろ。お前の姉さんは、さっきからずっと、悲しそうな目をしている……」

「……」力なく、彼は一歩、フェデリカから離れて肩を落とし、ちくしょう、どうすりゃ良いんだ、と呟いた。

「ヴィル、そして、アルド。ありがとう、私のために。少し、昔の話をしましょう」

 そう言って、また少し微笑んだフェデリカの表情には、初めて慈愛の光が浮かんできた。

(良かった。やはり、この人も弟を深く愛しているのだろう。しかし……)

 アルドが思わずヴィルフレードを見やると、彼は唇を噛んでうつむいていた。

 大した説明もないままにパシオネがこの世界に自分を送り込んだのは、この二人の微妙なすれ違いのことをどこかで感じ取っていたからなのかも知れない。


「この『孤独の霊峰』がなぜ、世界にひっそりと存在しているのか、ヴィルはもう知っているわね?」

 こくり、とヴィルフレードは頷いた。弟の反応を見届け、フェデリカは続けた。

「人は、生まれ落ちた時から不平等で、生まれてからも不公平で、その死の瞬間まで、ずっと自分が幸福かどうかを問い続ける、哀れな宿命の生き物よ。

 そんな哀れな宿命に耐えられなくなった人は、いつしか心を閉ざし、孤独を求めるの。

 それは立派な負の感情だけど、同時に救いを求める祈りでもある。

 孤独を求める自分を、どうか認めてほしい。大いなる力の、恵みがほしい。

 そうした祈りが一定以上、宇宙に満たされれば、そこに神が生まれる土壌が出来上がる。神は世界を創造する力を持つ。それこそが、神たる由縁。

 孤独を司る神格『アルクマ神』と、『孤独の霊峰』はこうして太古の昔、宇宙の片隅にそっと生まれたの」

「だが、結局は誰も一人では生きていけない。そうだろ?」アルドは仲間たちとのこれまでの出会いや冒険を振り返りながら、素直な疑問を口にした。もしも一人でいたい、という祈りを持ってアルクマ神に毎日祈り続けたところで、結局は現実に押し潰されるだけなのではないか。

「そう、『外の世界』ではね。だから、『死を厭わないほど強く孤独を望み、そこに救いを求める人』は、その魂や存在ごと、この『孤独の霊峰』に転送されてくるの。そして、私もかつては、その一人だった」


 フェデリカの話では、彼女はとある豪商の娘として生を受けたが、両親から愛情を受けることはなく、ただのお飾りとしてのモノとして、毎日感情を押し殺して人前で愛想を振りまき続けることだけを求められる生活だったそうだ。やがて心身のバランスを崩した彼女は、誰とも会いたくなくなり、強く孤独を求めるようになった。ある日、父親が金銭目的で下品な老人を夫として幼い自分にあてがおうとしたとき、何かが頭の中で弾けてそのまま意識を失い、気づくとそこはもう『孤独の霊峰』に属した街の一角だったという。


「それじゃあ、ヴィルフレードも、なのか? その、街? に着いたってのは……」

 この世界に降り立ったときの不自然なほど生命の気配が無かったことを思い出して、アルドが呟くと、腕を組んで黙ったままだったヴィルフレードが背後で鼻を鳴らした。

「街は、もう無いよ、アルド。恐らくすでに崩壊しているのだろう。それに、俺と姉さんには、本当は血の繋がりはないんだ。ここで偶然出会って、仲良く暮らしていただけさ。『孤独の霊峰』に姉弟で仲良く来るなんて、そもそも矛盾しているだろ」

「ああ、確かに。なら、お前はなんで『孤独の霊峰』に?」

「さあな。俺は姉さんや他の街の皆と違って、『外の世界』のことなんか、覚えちゃいなかったよ」肩をすくめるヴィルフレードに、フェデリカから「あなたは今、いくつなの?」と言う質問が投げかけられた。

「……十八だよ、飛ばされたのが、八歳の時だったから」なぜ、今そんなことを聞くのか、という表情で、弟は姉に視線を向けた。

「そう……それなら、もう私の人間のときの年齢を二つも超えてしまったのね。私はあれから歳も取らずに、ずっとこの姿のままでいた……それじゃあ、もうヴィルの方がお兄ちゃんだ」冗談めかしてコロコロと、フェデリカは笑う。

「もうお兄ちゃんなら、話しても大丈夫だよね」少しく幼い口調を見せたフェデリカに、アルドはなぜか言い知れぬ寂しさを感じて、思わず目を見張った。近くのヴィルフレードも、恐らくは同じ気持ちなのだろう。癖なのか、彼は腰に納めた長剣の柄をギリギリと握りしめている。

「ヴィル。あなたが『外の世界』からの記憶を持たないのは、記憶喪失だからじゃないわ。あなたの記憶は、『アオイ』が消してくれていたの」

「な、なにッ!?」身体をこわばらせて、ヴィルフレードは驚きを見せた。

 『アオイ』の名が出ると、まるでアレルギー反応のように嫌悪の色をなす弟へ、少し諦めにも似た微笑を浮かべて、フェデリカは続けた。


 ヴィルフレードは、今はもう地図上には存在しない国家を打ち立てた少数民族の末裔で、その少数民族は大国の支配下にあった。

 彼がわずか四歳のとき、父親は奴隷として強制収容所に連れて行かれ、彼の母親には代わりに大国の民族の男が充てがわれた。それは、ジェノサイドという民族浄化の卑劣な方法で、事実上の虐殺だった。もちろんその暴風は彼の家族だけに吹き荒れたのではない。彼の民族は全員、すべからく浄化・虐殺の対象であり続け、多くの者は激しい虐待の末に命を落とし、或いは生きることに絶望した末に自ら命を断った。

 その不幸の影は、当然、彼の母親にも覆いかぶさった。愛する夫を奪われ、新たな夫の残酷な虐待に耐えかねた母は、ある日遂に精神を病み、幼い我が子の細い首筋をその手で握りつぶそうとしたのだ。

 だが、それだけならまだ良かった。母は涙ながらに笑顔を浮かべ、かすれた声で子守唄を口ずさみながら、『愛している。私も、すぐに、追いかける』と言ってくれた。生まれたときからジェノサイドの暴風の中で生きることを強いられてきた幼いヴィルフレードにとって、生きることとはただの苦しみであると同時に、両親を苦しめ続ける終わらない舞台だった。そこに遂に、幕が引かれる。精神を病んだ母がその日、久しぶりに自分を愛していると言ってくれた。それで十分だった。幼子の貪欲な愛は、もはや死すら超越していたと言って良い。

――――だが、子守唄を歌う母の声は、すぐに新たな夫の無慈悲な銃声でかき消された。


「あなたは街の外れで仰向けに倒れていた。その日はどしゃ降りで昼間なのにとっても暗い日で、私は『孤独』を信奉する街の住人なのに、このままじゃいけない、と思った。どんなに声をかけても、あなたは意識があるのか、無いのか、はっきりしない。よく見ると、あなたはあのどしゃ降りにも関わらず目をうっすらと開けていて、しかもその目には全然光が感じられなかった。私は急いであなたを担いで、アルクマ神殿の門を叩いたわ。

 後から聞いたら、数万年で初めてのことだったらしいけれど、とにかく、『アオイ』がそっと扉の影から出てきてくれた。当時の私より、もう少し幼い見た目の女の子が突然出てきて驚いたけれど、私が必死になって事情を説明したら、彼女は困ったような笑顔を見せて、とにかくその子を治療するから、中に入って、と言ってくれた」

 アルドたちには結局、幼き日のヴィルフレードが『孤独の霊峰』に来る直前に何を見たのかは明確に明かされなかったが、次のフェデリカの言葉がそれをより痛烈に言い表していた。

「『アオイ』は、あなたの最後の記憶を治療のためにのぞいて、泣いていたわ。

 あなたの額に光る指先を乗せて、その姿勢のままでまばたき一つせず、身じろぎ一つせず、ただ、しとしとと涙を流していた。私には、そんな彼女の不思議なほど青くて綺麗な髪が、みるみる黒く濁っていくように感じられて、ただそれが怖くて、とてもそのまま、見ていられなくて。見た目だけだと分かってはいたけれど、私より幼い子がポロポロ泣いているのだもの。思わず走りよって、彼女を抱きしめた。

 『アオイ』は言った。『私たちが、この子を守ろうよ』って。私はもちろん、頷いた。

 こうして、『孤独の霊峰』で唯一の姉弟が誕生したの。そして、『アオイ』は『古のアルクマ守護兵』でありながら、街でよく遊ぶ私たちの幼馴染になった」

 フェデリカは静かにそう語った。アルドは壮絶なヴィルフレードの過去に目眩を覚えたが、当のヴィルフレードはただ黙って、長剣の柄を握りしめていた。

「……あなたを『外の世界』に飛ばすようお願いしたのは、私よ」

「――――ッ!!」ヴィルフレードの顔に、驚きの表情が浮かんだ。そして、それはどこか悲しみを伴った色を帯びている。当然だ、とアルドは思った。今まで、『アオイ』がこの『孤独の霊峰』から無理やり彼を『外の世界』へ追い出したのだ、と思っていたのだから。


「ごめんなさい。どうか、そんな顔をしないで。記憶の操作をした時点で、あなたは厳格な意味では『孤独の霊峰』の住民ではなくなっていた。『孤独を渇望する』根拠が、無くなってしまったのだから。

 孤独を渇望する根拠となる記憶を失えば、その存在は『孤独の霊峰』から消えて、その存在すべては宇宙の輪廻に戻るのよ。本来は『孤独を求める』という負の感情を正常な魂へと昇華させることも、この世界の意義。

 でも、それをアオイは嫌がった。『このまま昇華されるなら、この子は、結局一度も、幸せになれていない』と言って、あなたの魂を留めるために、この世界の掟を破って、あなたと契約を結んだの」

「なるほど。アオイの宿った宝玉をヴィルが自由に扱えるのも、そういうわけなんだな。でも、それならそのまま、ずっと一緒に居れば良かっただけなんじゃないか?」

「その通りね、アルドさん。確かに、そうすることも出来た。でも……」

 まさか、とヴィルフレードが呟いた。

「俺が、願っていたからか? 『外の世界』に出たい、と」

 弟の震える声での質問に、姉は直接答えなかった。

「私と、『アオイ』はね、あなたのお姉ちゃんだから。『弟が幸せになりますように』って思うのは、当然のことでしょ?」

 フェデリカはそこで今日初めて、見た目相応の笑顔をのぞかせてから、続けた。

「『アオイ』は、幼い見た目でも『孤独の霊峰』最強の守護兵よ。それでも、全力を出し切って、ふりしぼって、ようやく『外の世界』に行けるかどうか。それも座標なしだから、何千年、何万年かかるか、わからない。それでも、アオイはあなたを『外の世界』に送ることを快諾してくれた。『当然でしょ』って。でも、それでも条件はあった。『アオイ』が単純にこの世界から離れると、ここは崩壊してしまうの」

「なッ……『アオイ』に、そんな力が!?」

 ヴィルフレードは思わず、自分の長剣に埋められた宝玉を見た。深い海にも似た落ち着いた艶を伴って、はそこに収まっている。少なくとも、アルドにはそのように見えた。

「それだけじゃない。この世界が崩壊すれば、守護兵としての根拠地を失うのだから、当然、『アオイ』は消滅してしまう。あなたを送る間の時空ゲートでは、人としての時間は止まっているけれど、現実には膨大な時間が存在するのは変わらない。その間に『アオイ』が消滅すれば、あなたは時空の狭間に迷って二度と、抜け出せなくなってしまう。だからね。アオイがあなたを送り届けるまでの間、私が、『アルクマ神』としての人柱になって、この世界を支えることにしたの。二人の守護兵の力を借りれば、私でも何とか、支えられる」

「待ってくれ、それじゃあ、さっきの守護兵二人を倒したのは、まずかったんじゃ……」

 狼狽するアルドに、いいえ、とフェデリカは静かにかぶりを振った。

「これで、良かったの。ヴィルフレードは、ちゃんと『外の世界』に行けた。パシオネという精霊の加護を受けているから、ここが崩壊しても、きちんと戻れる。

 それがわかっただけで、本当に、良かった……結構、神様っていうのも、大変だったから。常に、人の孤独という負の感情にさらされ続けるっていうのは、しんどいよね」

 フェデリカは、はにかむように顔をほころばせた。心なしか、徐々に歳相応の雰囲気を取り戻しつつあるようだったが、そのことがむしろアルドにとって、彼女にどんな言葉をかけて良いのか思い浮かべることを困難にさせていた。

 彼女は、膨大な時の流れの中で独り、ただ弟の希望を叶えるために、一つの世界を支え続けていたのだ。しかも、孤独な人間の欲望、怒り、悲しみ、他にも負の感情はいくらでもあるだろう。恐らくは、それらすべての感情を彼女は文字通り孤独に、それでも投げ出さずに、ずっと静かに聞き続けていたのだろう。いくら弟のためとは言え、まさに想像を絶する行いだった。

「姉さん……」

 そう呟くのが、ヴィルフレードにも精一杯だった。

 一歩。はじめて、フェデリカはヴィルフレードの側まで歩み出て、そっと彼を抱きとめた。身長ははるかにヴィルフレードの方が高く、その姿は柔らかな柳の枝のような腕が、ゆっくりと彼の太い首にからみ、その身をあずけてもたれかかるようだったが、それでもなぜか、ヴィルフレードの方が小さく、アルドには見えた。

「ヴィル。ごめんね、でもね。私、頑張ったんだよ」

「姉さん――!」

「お姉ちゃんね、なんと二万年も、頑張っちゃったんだから……だから、ね」

 フェデリカの微笑にも、ヴィルフレードの引きつった横顔にも、瞳の奥に涙が溢れていくのが分かった。

 そして、その輝く一粒のしずくが、役目を全うした神様の頬を伝うのを、アルドは見た。


「あなたがこれからは笑って、幸せに暮らして行けますように――――」


 『孤独の霊峰』は、崩壊をはじめた。

 強い光がフェデリカの全身から発せられ、その強い衝撃波はすべてを吹き飛ばした。

 もちろん、最愛の弟さえも。

 やがてアルドの目には、塵となって消えていく高台の崩れた岩陰や自分自身の姿さえも輝く光の中に溶けて何も見えなくなった。

 ただ、姉を求める弟の悲痛な叫び声だけは、いつまでも聞こえ続けていた。

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