ジョバンニ

@1640

第1話

 テレビのニュースは先日起きた大型船沈没の続報を伝え、事故の原因や責任問題について論じあっていた。

「神田って人から電話が来てるよ。二番の電話ね」

 社内食堂で昼休みを過ごしていたら、課長に声をかけられた。仕事関係では聞いたことがない名前だ。

 事務所に入り、受付カウンター端に置かれた受話器を手にとる。

「もしもし、私、神田と言う者ですが」

 受話器からの遠慮がちな声で、一気に懐かしさがあふれてきた。

「神田先生。お久しぶりです」

「ああ、良かった。覚えていてくれて」

 ゆったりとした話し方も変わっていない。

「渡したいものものがありまして。時間の空いているときはありますか」

「週末、実家に戻るので、都合良ければ日曜日に伺います。住所は変わってないですよね」

「ええ、変わってません。お呼び立てしてすいませんね。お待ちしております」

 久しぶりに気分が高揚している。電話を切ってもしばらくは落ち着きそうになかった。


 日曜日の早朝、乗客の少ない列車に乗った。窓外を流れる高層ビル群がまばらになって、空と山へ景色が開けていく。

 地元が近づいて思い返すのは学生時代の一年。夢のように強烈で儚い日々だ。



「ジョバンニ?」

「そう、条場杏里。あたしの名前」

 入学式から三日、見知ったクラスメイトがいない教室で、新しい教科書を眺めていたら声をかけられた。

「あれ、あなたでしょ。ワルトラワーラ、あたしも好きなんだ」

 そう言って彼女は後ろの学級掲示板を指さした。入学当日に書いたみんなの自己紹介文が貼られている。

 趣味や特技がなかったから、よく聞いている音楽グループの名前を書いたのだっけ。

 十年ほど前に解散したマイナーなグループ名を学校で耳にするなんて思ってなかった。  

「じゃあ、デイルパイダーレーベルのアルバムを持ってたりするの」

「もちろん、パッセンの回廊は今でも聴いてる」

 得意げに歯を見せて彼女が笑う。秘密の合言葉が通じた。そんな嬉しさに頬が緩んだ。

「あなた、部活はどうするの」

「なにも決めてないけど」

「それなら、あたしといっしょのトコに入ろうよ」


 放課後、彼女のあとについて校舎を散策する。下調べはしていないようで、階段を下りたり上ったり。

 上級生の階を通るとき、不安から知り合ったばかりの彼女との距離がぐっと近づく。

「あった、ここだ」

 運動部の掛け声が遠い、最上階の行き止まりに目的地の音楽室を見つけた。ピアノの音が漏れてくる。短いメロディの繰り返し、練習しているようだ。

「見学に来ました」

 扉を開け、クラスの教室より一回り大きい空間に彼女の声が反響する。ポツンと置かれたピアノから男の人が顔をのぞかせた。

「えっと、入部希望者ですか、僕が顧問の神田です。見ての通り開店休業中でして」

 他に誰もいないようだけど。そんな疑問が顔に出たのだろうか。神田先生はきまり悪そうにこめかみをかいた。

「笛とラッパばっかり。先生、ギターは置いてないのですか」

 室内を物色していた彼女が生徒らしく手を挙げて質問した。

「ありますよ」と神田先生は準備室の扉を開けて入っていく。あとに続いた彼女が扉前で手招きしてきた。

 準備室は壁いっぱいの棚に多くの楽器ケースが並べられていた。油のにおいとでも言うのだろうか。はっきりと空気の違いを感じた。

「君たちには大きいかもしれません」

 ひょうたん型のギターを受け取った彼女は持ち方に迷いながら、音の余韻を楽しむように弦を弾いていく。

「あなたはあれね」

 そう言って彼女は棚のアコーディオンを指さした。

 ギターとアコーディオン、ワルトラワーラの曲に必ず使われている楽器だ。

 大きな楽器を抱えて、二人で並ぶと神田先生が苦笑いを浮かべた。

「一応、うちは吹奏楽部なんだけどね」


 部員名簿に何人か記載されているけど、参加する生徒はなく帰宅部状態だった。顧問を含めて三人だけの部活動。

 神田先生は持ち寄ったワルトラワーラの曲を聴きながら、良い曲だねと言って、ピアノでメロディをなぞっていく。

 さすが音楽の先生。そんな光景に彼女は手を叩いて大はしゃぎ。

 意外なのは彼女が演奏経験のない、音階もわかっていないような初心者だったこと。

 当面は彼女のギター練習が中心になっていく。

 神田先生の教え方は理解して弾くのではなく、弾いて理解する。実践あるのみという具合。

 それが彼女にとって最適の練習方法だったらしく、みるみる上達していった。


「あなた、上手よね」

 下校時、大きなギターケースを背負う彼女が、アコーディオンを弾くマネをした。

「小さいとき、ピアノを習っていたから」

「そうなんだ。あたしもがんばらなきゃ」

 決意表明のようにケースを担ぎなおす。彼女はギターを持ち帰って家でも練習していた。

 親の勧めで通っていたピアノ教室。譜面を間違えないことばかりに気を使い、楽しいとは思わなかった。辞めるとき、ホッとしたくらいだ。

 ぎこちなくも楽しそうにギターを鳴らす彼女を見ていると、音を合わせたくなる。合奏には言葉以上に伝わってくるものがあった。


 夏休みは太陽が昇りきるまでの間、音楽室に集まって練習することになった。

 彼女は窓を開けっ放して熱気と蝉の音を室内に取り入れる。音響、楽器にはよくないだろうけど、環境音はワルトラワーラの曲には欠かせないものだ。

 どうせなら裏手の池で野外演奏しよう。そう提案したら、もっと上手になったらね。と返された。

「ねぇ、このあとは予定とかあるの」

 いつもの練習を終えて、帰り支度をしていたら彼女が言ってきた。

「特にないけど」

「神社の祭りに行こうよ。神田先生も誘って」

 そういえば、小さいときに祖父とよく行っていた。何の祭りなのかは知らないけど。それが断る理由にはならないので、うなずいた。

「七時に駄菓子屋前に集合ね。戸締りはしておくよ」

 そう言うや否や彼女は駆け足で音楽室を出て行った。今から神田先生を誘うのかな。


「その格好で行くつもりじゃないでしょうね」

 約束の時間まで居間で涼んでいると、夕飯支度中の母が言った。

 口を噤んではっきりしない返事をしたら「もっと良い服があるでしょうに」と家事の手を止めて台所を出ていく。

 母の言う良い服は原色が多く使われていて、好みじゃない。拒んでも聞き入れてもらえないだろうから部屋着のままで外出した。

 神社へ向かう道中、ゲタを鳴らして歩く人たちを見かける。まだ青い空に打ち上げ花火の音がした。


 寄り道するところもなく駄菓子屋に着いてしまった。誰も来ていない。

 賑わう人々が太鼓の音に誘われるよう、向かいの林に見える赤い鳥居をくぐっていく。

 陽が陰り、駄菓子屋の看板に電光がともる。神社の裏手を流れる川から涼しい風が流れ込んできた。

「ずいぶん早く来たんだね」

 浴衣姿の彼女がゲタを鳴らしてやってきた。そういえば制服姿しか見たことなかったけ。新鮮な緊張と、部屋着で来た後悔で返事にまごついてしまう。

 神田先生もやってきた。

「おまたせしました」

 ネクタイを外したワイシャツ姿、学校にいるときと同じ格好でホッとした。

 一歩、神田先生に歩み寄った彼女が袖をつまみ、浴衣を広げて見せる。

「よく似合ってますよ」

 神田先生の感想に気をよくした彼女は、その場でクルリと一回転した。


 鳥居のトンネル階段を上がると、本堂へ向かう道に屋台が並び、広場の中央に建つ太鼓やぐらから、無数の提灯が四方へ伸びている。

 淡い光の中、やぐらを回る踊り手の流れがゆらいで見えた。

 あれこれ屋台巡りをしていると、すっかり陽が落ちて夜空になった。

「とっておきの場所を教えてあげる」

 彼女はそう言って神社の裏手から川へ続く階段を下りて行く。

 川辺には照明と簡易テントが用意されていた。祭りの関係者かな。法被を着た何人かが休憩している。

 彼女は手招きして上流を目指す。

「あんまり、遠くは危険ですよ」

 やんわりと注意を促し、神田先生が後に続く。

 暗くて視界が悪いうえに、大きな石が転がる岩場だ。ゲタをはいている彼女は歩きづらいだろう。

 いよいよ明かりが遠くなり、川との境目も、二人の姿もよく見えない。聞こえてくる水の流れを不気味に感じた。

「おかしいな。いつもなら向こう岸がホタルでいっぱいなのに」

 彼女がつぶやく。

「祭りの騒ぎで隠れてしまったのでしょう。戻りましょう」

 神田先生が、いつになく強い口調で言った。

「はぁい」彼女が残念そうな返事をしたあとに、短い悲鳴と大きな水音がした。

 彼女が川に落ちた。そう思った瞬間、神田先生が駆け出し水しぶきが上がる。

 水をはじく音が暗闇の中にどんどん流されていく。

 助けを呼ばなくちゃ。岩場に足をとられて気持ちばかりが焦る。

 神社まで戻ったころには、すでに人が集まり、いくつもの光が川を照らしている。

 川から引き上げられている彼女が見えて、一目散に駆け寄った。

「この子の友達かい。ほら、もう大丈夫だ」

 法被姿の男の人がこっちに気づいて、抱えていた彼女を預けてきた。脱力している背を支え、その場に座らせる。

 咳き込んでいるけど、目をしっかり開いて、大事には至っていないようだ。

「あの、先生は」

「ん、若い兄ちゃんのことか。その子を岸にあげたとたん流されちまった。おぉい、灯りを持っている奴は下流へ行ってくれ」

 肩に添えた手から彼女の震えが伝わってくる。多くの人が捜索に向かい、テント前は静かになった。

「足を怪我しているみたいね。あっちで手当てしようか」

 女の人が声をかけてきた。見ればゲタの脱げた足から血がにじんでいる。

 彼女は首を横に振り、じっと下流を凝視している。近づきがたくも離れがたい、矛盾した雰囲気があった。

「いた、いた、見つかったぞ」

 捜索から戻ってきた人の叫び声を聞き、彼女が立ち上がった。

 下流の暗闇からいくつもの懐中電灯が浮かぶ。周りの人と談笑しているような足取りの神田先生がこっちに気づいて手を振る。

「ずいぶんと泳ぎましたよ」

 ほほ笑んだ神田先生に緊張が解けたのだろう。彼女は声を張り上げて泣き出し、先生にしがみついた。

 どこからか拍手が起きて、居合わせたみんなに伝染する。

 その中で申し訳なさそうに神田先生は頭を下げた。


 二学期が始まった。祭りの件は、大きく取り上げられることなく済んだ。

 文化祭のクラブ発表に向けて、練習に力が入る。

 あいかわらず楽譜は読めないようだけど、ギターに慣れてきた彼女は、アレンジを加えたり、アドリブを挟んだりするようになった。

 音楽の趣味が似ているせいか、自由奔放な彼女の演奏についていくことができる。こちらからアドリブを仕掛けてみたりも。

「楽しい。あなたに声かけてほんと良かったよ」

 一曲弾き終えた彼女は手を叩いて笑う。

 上手下手じゃない。表情に身振り手振り、失敗も含めて、誰よりも音楽を楽しむ彼女の演奏が観客を喜ばせるだろう。

 その分、自分が足を引っ張ることにならないか。不安が消えなかった。


 発表会当日、一般開放でそれなりに人の入った客席を見て足がすくむ。

「観客のほうを見なきゃいいのよ」

 一足先に舞台に上がった彼女は、客席に向いていた二つの椅子を回して対面させる。笑い声が上がった。

 練習と同じポジションに少し落ち着く。

 まずは今年流行したテレビドラマのテーマ曲。彼女はその出だしで音を外して演奏を止める。たぶんワザと。彼女なりの音作りなのだろう。

 無難に一曲目を終えて、ワルトラワーラの曲へ。

 彼女は演奏に納得のいかない箇所があると、首をかしげてそのフレーズをやり直す。まるっきりの練習風景だ。

 誰も知らない曲のはずなのに、笑い声に混じる手拍子に気づいた。

 緊張も不安もなくなって、彼女のライブを一番間近で見る優越感に満たされていく。

 完璧な演奏ではないけど、完璧な音楽だと思った。


 年末、彼女と二人で隣町まで、神田先生が参加しているアマチュアバンドたちの演奏会を見に行った。

 暗いホールに瞬く音と光のステージは、エネルギーの発散と発電だ。弾くほうも聴くも叫んでいる。

 ゲストでプロの人も来てたらしいけど見分けはつかなかった。

 イベントが終わると彼女は楽屋へ向かった。神田先生の他、大人の人たちに囲まれながらも気兼ねなく話している様子を遠巻きに眺めていた。

 声は聞こえてこないけど、何度かこっちを見て、会話に加わるよう促してくる。知らない大人に苦手意識があり、小さく手を振って、やんわり断った。


「将来のこととか、考えていたりするの」

 乗客がどんどん減っていく帰りの列車で彼女が聞いてきた。

「まだ、なにも考えてないよ」

 間を置かずに答えた。

「そっか」と納得したように彼女はつぶやき、窓の外へ視線を移す。

 降車駅の一つ前まで来た。空いた扉から冬の風が流れ込んでくる。乗る人も降りる人も見当たらない。

 出発のベルが鳴ると彼女は席を立ち、列車から飛び降りた。

 あっけにとられているうちに扉が閉まる。動き出した窓の向こうで、彼女はにこやかに手を振っていた。

 地元の駅で次の列車が来るまで待ってみたけど、彼女は帰ってこなかった。


 三学期になっても彼女の姿を見ることはなかった。

 父親が事業で失敗したとか、母親の病状が悪化したとか、年の離れた姉が事件に起こしたとか、いろんな噂を耳にする。

 クラス名簿頼りに彼女の住所を訪ねたら、表札のない空き家があるだけだった。



 短くも長い一年が途切れた、地元の駅に着く。

 お土産の一つでも用意するべきだったと後悔しつつも神田先生宅へ向かう。見覚えのある道のり、彼女と何度かお邪魔したことがあった。

「よくきてくれました」

 呼び鈴を鳴らすとすぐに迎え入れてくれた。何も変わっていない。神田先生も、楽譜と楽器とレコードで埋め尽くされた部屋も。

「これでもずいぶん整理したのですよ。それで早速なのですが」

 神田先生は部屋の隅に置かれていたギターを手に取る。

 あ、と思わず声が出た。彼女が部活のときに使っていたギターだ。傷だらけになっているけど間違いない。

「この間の、船が沈没したニュースは知ってますよね。その現場近くで発見したそうです」

 ふいに神田先生の言葉が遠くなった。

「ここに学校名が書かれていたから、送ってくれたのでしょう」

 神田先生はギターを裏返した。

「えっと、このギターが船にあって、それって外国からってことですよね」

 息が詰まって、考えがまとまらない。

「文化祭でキミたちに興味を持った人がいてね」

 ここまでの経緯を神田先生が打ち明けた。

 音楽関係者に録画を見せたところ、演奏しているときの仕草や表情の魅力は海外のほうがウケるだろうと話が広がったらしい。

 彼女のギターを受け取る。あの時の、列車での質問はまったく見通しのない計画に彼女なりの迷いがあったのだろう。

「このギター、まだ使えますよね」

「ええ、目立ったゆがみはないし、弦を張り替えれば大丈夫です」

 音楽から遠ざかっていたけど、彼女と演奏していた時の感覚はしっかり覚えている。




「ここで私、江夏里奈が独断偏見で選んだ一曲を紹介します。

 海外で活動されているから知らない人が多いと思いますけど、ジョバンニでcome howをどうぞ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジョバンニ @1640

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る