朱殷怪奇譚~第一中学校の事件簿~

神埼えり子

第1話

 朱殷しゅあん――乾いた血のような暗い朱色。凄惨な様子の代名詞。そんな不吉な色を冠した、摩訶不思議な逸話がこの中学校にはあるらしい。

 子どもたちは賢かったので、皆その色の読み方を知っていた。その逸話の題名の読み方を知っていた。だけど、その中身が真実かどうかまでは知らなかった。逸話とて、あくまでも噂だ。学校のトイレには花子さんが居る、なんてレベルの信憑性に欠ける逸話。誰も信じてはいなかった。それでも新入生を怖がらせることができる都合のいい噺ではあったため、代々と語り継がれてきた。入学式の日にて、前の年の同じ日に先輩達から怖い思いをさせられた二年生が、同じ思いを後輩に味あわせてやろうと噺をする。新入生は震え上がる。これが、柳田市の第一中学校におけるしきたりだった。こうして逸話は語り継がれていくのであった。


 ――怖かろう、朱殷怪奇譚しゅあんかいきたん。誰も信じはしないが、嘘であるとは誰も言わない。

 故に、たとえそれが真実だとしても、誰も文句は言えないだろう。



 さて、そんな噂話が持ちきりになったのも今はさほど遠くもない昔、夏の暑さが迫りつつある六月の頃。四月は暑くもないのに肝が冷えるような怪談噺で校内は盛り上がっていたというのに、なんて、噂話の足の速さにしみじみと思いを馳せる。

「――先輩は、何か聞いたことあったりしたんですか?その……何? しゅ……」

「朱殷の話?何、それがトレンドだったのは随分前のことじゃん」

「そうそう、朱殷怪奇!私、今日の朝初めて聞いたんですよ、バド部の友達から」

「ああ……そういえば話してなかったか、私」

 放課後、美術室。彫刻刀をペンでも操るように回した藍は、少し遠くで絵の具を混ぜる友人に尋ねる。

「朱殷の話、誰も喋ってないの?」

「え? うーん……普通に怖いから後輩ちゃんに話すの申し訳ないなって……」

 藍の声に反応した菫に、美琴が横槍を差した。

「何、あんた信じてるの?」

「いやいやいや! でも話として上手くできてるっていうか……てか昨日もヤバいよねって話したじゃん!」

「そうだったっけ」

「したよ!!」

「あー……、分かった。なんかごめん」

 部活の盟友である二人をやんわり宥めると、藍は後輩へと向き直った。後輩達は気になるとでも言わんばかりに、大きな瞳を輝かせている。

「うーん、そうだな……社会科準備室の朱い地図ってもう聞いた?」

「あ、聞きました。日本が真っ赤なんですよね」

「色んな所がシミみたいにね。理科室の朱い臓物は?」

「えっ臓物……? そんなものあるんですか!?」

「いや、模型」

「あっ……んなわけないですよね! 臓物そのまんまあるとか……!」

「夜中になったら蠢くとかなんとか」

「ひゃぁあああ! 怖……!」

「まああくまでそういう怪談噺だからね」

 美琴は静かにそう言ってのけ、後輩達を落ち着かせた。「あとさっきの臓物はガセでしょ。何ホラ吹いてんのあんた」

「え? あれ違うの」

「違うよ。たまにそれ言う奴いるけど、原典には入ってない。確かに理科室には似たようなのあるし不気味ではあるけど誰かが噂作りたくて作った偽モンでしょ」

「は……はぁ、よかったぁ……」

 安堵する後輩へ、藍は手を合わせて謝罪した。

「そう……話の中には今までの先輩達が自分で作った贋作なんかもあるみたいで、たまに原典と間違って伝えられてるやつもあるんだって。そん中には実際に実物まで作ってホントのことっぽく仕立てたやつもあるから……完全に引っかかってた。ごめん」

「いえ全然いいですよ……!」

 陽は沈みかけ、校舎を柔く照らしている。まだ淡い夕焼け色の光が眩しく、校門へ至る道に輝いていた。そろそろ外の部活達の練習がヒートアップしてくる頃だろうか。彼らを眺められる美術室にて、美術部員の面々も作業が佳境に入っていた。黙々と、筆が水に洗われる音と、石が削られる音とが響く、静かな空間。そのまま時間は飛ぶように過ぎたが、外は依然明るいままだった。


 ――美術室に喧騒が戻るのは、決まって道具を片付ける時だ。部員達は口々に雑談を交わしつつ道具をあるべき場所に戻す。洗い場はよく混んだが、それはそれで、待つ部員が駄弁っているものだ。

「私、帰りに外の体育倉庫行ってみようと思うんですよ」

 後輩、さっきも怪奇についてを訊いてきた奈央が筆を洗う間に独り言のように言った。隣の歩佳が、その行動の予定に不自然さを感じて振り向いた。

「何するの?」

「確かめてみたいなって。確かそこも何かあったでしょ、噂が」

「……赤い線が出るラインカー?」

「そう、それ。あゆも来る?」

 その会話を、片付けを終えた菫が聞きつけた。

「それ贋作じゃなかったっけ……?」

 思わず口を挟んだ。そうだった気がするけど、と頭の中のぼんやりした記憶を手繰る。

 赤い線が出るラインカー。その癖に、中身は普通の白いラインパウダーなのだという。それは機体に赤いペンキで書き殴ったように文字のような崩れた印があるので普通のものと見分けはつくが、ある日うっかりそれを使ってしまった職員が呪われたらしい。以降、そのラインカーは体育倉庫の奥深くに封印されているが、興味本位でそれに触ると呪われて、学校に来れなくなってしまう……というのが、噂の内容だ。ただこれは誰かが作った贋作の一つで、事務員や体育の先生もそんなものは無いと言っている。そうだったはずだ。そこまでが、菫の覚えていることだった。

「本当にあるの? 使われてないラインカーなんて……」

「壊れてないはずだけど最近使われてないのが一台、あるらしいですよ。奥の方に仕舞われているから取り出すのが億劫なだけなんじゃないか? とは言ってましたけどね」

 そう言って後輩は笑った。「でもなんか気になりますよね? 壊れてないのに使われてないって」

「……本当に引っ張り出すのが面倒なだけなんじゃないの」

 後輩達と菫の様子を見ていた美琴がぼそりと言った。体育倉庫の中を頭の中で描き出す。形状が様々なものが乱雑に置かれる倉庫だから、奥の方まで行こうとしたから怪我しただけなんじゃないか。声に出さず結論付けた。

「……藍、片付けた?」

 美琴は談話を見るのをやめた。藍も片手間に話を聞いていたが、特に思うところのない様子で美琴に応えた。


 そうして今日は終わった。

 好奇心がある限り、怪奇を調べようと思うのは当然のことだ。朱殷怪奇など大層な題名を持つこの学校なら尚更あり得ることだったが、誰もその真実を確かめきった者は居なかった。

 ――否、もしくは。真実を見ても、誰もそれを公にできなかったというのが、本当のことなのだろうか。

 だからと言って、誰も怪奇を本気にしなかったし、本気にしたところで自己責任の下であるというのが共通認識だった。

 ――大抵その結末は、特に何も無かったというのがオチなのだから。

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