外法少女

小宮山廃墟

第1話


 暗闇。

 何も見えない。

「動かしてごらん」

 声がする。

 そこではじめて自分の身体を意識する。

 ぴったりとした布のようなもので顔中が覆われている。

 言われるままに、身体を動かそうと試みる。

 ……うまくいかない。

 まず、力が入らない。

 腕を少し持ち上げることすらままならない。

 まるで身体が自分のものではないみたいに、ぴくりとも動かない。腕も、脚も、指すら、何一つ自分の意思で動かすことができない。

 どれほどの時間が経ったろうか。永遠にも思えるほどの時間が経過してはじめて、指の先がピクピクと動いた。

 ――動いた。

 糸が切れたように、安堵のうちに俺の意識は途切れる。


 およそ時間の感覚というものがない。

 あの声は周期的にやってきて俺の状態を確認していく。

 栄養は管を通して身体に送り込まれている。同様に、身体に差し込まれた管のおかげで用を足しにいく必要もないらしい。

 少しずつ関節の可動域が増えてきた。

 身体の動かし方を思い出し始めていた。

 だが、動きはどうしてもぎごちない。ぎくしゃくする。いったい前はどうやって身体を動かしていたのだろう。

 前。

 どうして俺はこんなところにいるのだろう。

 考えようとしても頭にかすみがかかったようで、思考は明瞭な像を結ばない。


 身体はだいぶ動くようになった。

 いつものように声がやってきたが、少し様子が違っていた。

「今日は見せたいものがある」

 と言うと声の主はてきぱきと管を外し、ひょいと俺を抱えると、椅子か何かに座らせた。どうやら車椅子らしく、そのまま押されて俺は運ばれていく。

 進んだり、曲がったり、止まったりをしばらく繰り返した後、後ろでドアが閉まった。

「じっとして」

 と声は言った。顔と包帯の隙間に冷たい金属の感触が走った。

 それからじょきじょきという音。顔に巻かれた包帯にハサミを入れているのだ。

「さあ、後は自分で外して」

 恐る恐る、手を顔の方にやり、切れ目から剥がしていく。

 まぶたを閉じた向こうに、明かりがあるのがわかった。だが、目を開けたくはなかった。こんな状態で光を見たりしたらまぶしさで目がけてしまうのではないだろうかという気がしたのだ。

「目を開けてみてごらん」

 少しずつ、目を開いていく。

 ――まぶしい。

 光の洪水。

 目がちかちかする。

 ゆっくり、少しずつ目が光に慣れていく。

 白い部屋だった。

 あまりに久しぶりに外界を見たので、しばらくはピントが合わなかった。

 ――ん?

 反対側に何か変なものがいるのに気づいた。

 小さな身体。巨大な目、潤んだ瞳。見たことのない生き物がいた。

 目が合う。

 黙って俺のことを凝視している。

 俺もまた、目を離すことができない。

 睨み合いがしばらく続いた。

 そのうち変なことに気づいた。

 俺が動くと、相手も動く。

 俺が手を動かすと、手を、指を動かすと、指を、相手も動かす。

 それも、完璧に同じタイミングで。

 ――鏡だ。

 そこに映っているのは俺だったのだ。

 だが、それは俺の姿ではなかった。俺ではない、違う何かだった。がくがくと、身体が震えだした。そうだ、俺は、俺は。オレハ……。

 しまったのだ。

「……ウ……アア……」

 肺の奥から聞き慣れない音が出てきた。嘔吐するように、奔流のように、腹の底から、声がほとばしった。

「――アアアアアアアアアアアアア」

 真っ暗な奈落の底に落ちていくような感覚。身体はこわばり、全身が拡声器と化して、ひずんだ叫びを上げた。喉が嗄れ、息が涸れ、肺の中の空気がなくなっても身体は絶叫をやめない。たとえ呼吸器から血が噴き出ようと、あるいは四肢がバラバラになろうともこの叫びはやみそうになかった。

 床が、壁が、天井が、世界中のあらゆるものが鳴動し、絶叫していた。すべては融解し、泥の絵の具になる。融けだした世界は混じり合い、ぐちゃぐちゃの混成物となる。色は混濁し、どろどろの黒に変わっていく。

 世界の表面が剥落する。

 落下。落下の感覚。落ちる。落ちていく。真っ逆さまに。ひたすらに落ちていく。落ちていく感覚だけが無限に続く。スピードが上がり、どこまでも加速する。

 ちくっと一瞬、どこかに鋭い痛みが走り、意識は急速に薄れていった。


   ※ ※ ※


(意識の底で、俺は思い出す)


 労働者ワーカーの朝は早い。

 まだ夜も明けないうちから仕事に出る。通りには夜霧とも朝もやともつかない青い空気が立ちこめる。街灯はまばらで、かえって影の黒さが際立つ。

 工場区に向かうには橋を渡る。〈都市〉の中心とは反対側だ。

 工場に近づく頃には霧の中にまばらに人影が見え始める。よろよろと生気なく、疲れ果てた影たちがめいめいの職場プラントへと向かっていく。

 自分の職場に着いて、着替える。更衣室は錆とすえた汗の臭い、それとほのかに腐敗臭がする。

 仕事が始まる。今日もまた得体の知れない液体を運ぶ作業。左から右へ、右から左へ。同じことの繰り返し。いったい何を何のために運んでいるかも知りはしない。

 工場はどこも太古の昔に作られた機械ばかりで、事故も珍しくはない。労働者の命より機械の方が断然高くつくため、どれだけ犠牲が出ようとも機械が置き換えられることはない。

 日も暮れる頃にようやく仕事は終わる。

 退勤する人々の長い列に並び、配給のチケットを受け取ると、ねぐらに帰る。

 そんな日々の連続。

 物心ついたときにはこの日常サイクルの中に放り込まれていた。十年、二十年……ずっと同じ日々を繰り返してきた。

 工場区と労働者の居住区は〈都市〉の外周上に位置し、〈周縁ペリフェラル〉と呼ばれている。色々な地区が内側に続き、一番真ん中に〈中央セントラル〉と呼ばれる地区がある。〈中央〉はまさに〈都市〉の心臓部であり、〈都市〉のすべてを司る。逆に〈周縁〉の外側に何があるかというと、何もない。〈都市〉の外側は、果てしれず死の荒野が広がっているだけだ。

 もうすぐ四十も半ばになるが、〈周縁〉から出たことは一度もない。

 労働者ワーカー労働者ワーカーとして一生を終える。だから、〈中央〉とは一切関わらずに人生を終えるのが普通の生き方なのだった。

 ねぐらに向けてとぼとぼ歩いていると、見慣れぬ車が前方からやってきた。

 ――珍しい。

 傷もへこみもない乗用車。こんなものをこのあたりで見かけたことは一度もない。

 車は徐々に速度を落とすと、俺のそばで停まった。

 後部座席の窓がゆっくり開いて、奥の暗闇から声がした。

「R37A―80179?」

 そ俺の名前だった。声は無機質にもう一度俺の名前を告げた後、

労働者ワーカー。四十三歳。第七居住区に居住し、第六工場九〇号プラントで勤務。嗜好性薬物の経験なし。これまでに大きな怪我および病気の経験なし……間違いない?」

 と言った。

 俺はおずおずとうなずいた。

「よろしい」

 と言うと、後部座席のドアが開いた。

「乗りたまえ」

 いかにも怪しい雰囲気だったが、俺は乗り込んだ。逆らえば何をされるかわからない。労働者ワーカーの命など鉄くずより安いのだから。

 車が動きだした。走るというよりはすべるようななめらかさで夜道を進んでいく。

 運転手の他に二人乗っていたが、誰も一言も喋らなかった。

「どこへ行くんだ?」

 俺が聞くと、隣に座っていた男が言った。

「〈中央セントラル〉さ」

「〈中央〉? 何しに?」

「我々は知らされていない。ただ連れてくるように指示があっただけだ」

 また沈黙。

 車は夜道を走り続ける。

 日中の仕事の疲労と、車内の暖かさ、そして車の絶妙な振動のせいで、俺はいつの間にかうとうとと眠り込んでしまった。


 目を覚ますと、俺は手術台のようなものに寝かされていた。両手両足が台に縛り付けられていた。

 手術着の男が何か準備をしている。

 あんたは誰だ、ここは何なんだ、という俺の質問には一切気にかける様子もなく、鼻歌交じりに男は準備を続ける。俺の姿がまったく見えていないかのようだった。

 しばしして、急に男が口を開いた。

「始めるよ」

 手には注射器を持っている。

 束縛を外そうと必死に身体を動かしても、拘束具が食い込むばかりだ。

 やめろ。

 そう叫んだ俺の声が手術室に響く。

 男は、ちっ、と舌打ちをした。

「そんな乱暴な言葉を使っちゃいけないな」

 ねっとり絡みつくような喋り方だった。

「人にものを頼むときは『やめてください』だろう?」

 ふざけているのか、本気なのか。俺には選択肢はなかった。慌てて、

「やめ……やめ、て、ください……」

 と言うと、男は言った。

「ふうん? よく聞こえないな」

 畜生。

 俺は一言一句はっきりと声に出した。

 それを聞いて満足そうに男は言った。

「うん、いいね。その調子だ」

 腕に鋭い痛みが走った。次いでやってくる灼けるような熱さ。熱い。熱さが全身に広がる。

 身体に力が入らない。まぶたを開けていられない。

 男が囁く。

「大丈夫。すぐによくなる。ずうっとよくなるさ、何もかも」

 そのまま意識は闇の底に沈んでいった。


 ※ ※ ※


「起きたかね」

 ベッドの横に白衣の男が立っていた。そうだ、この声。こいつが――。

「覚えてないかもしれないが、大変だったよ。暴れてね」

 身体が自由に動かせない。

「拘束衣をつけさせてもらったよ」

 口にも何か噛まされていて、うっ、うう、という音しか出すことができない。

「ちょっと刺激が強すぎたようだ。気に入ってもらえると思ったんだがね」

 ひとしきり俺の様子を観察した後、男は言った。

「――何が起きたのか知りたいかね?」


「端的にいえば君はんだよ。〈女〉にね」


「自分がどうやって生まれたか、知っているかね?

 多くの動物は雌雄二種類の性のつがいでえる。ところが〈都市〉には一種類、動物でいうオス――男しかいない。もちろん、アメーバのように単性で殖える仕組みを持っているわけでもない。

 現生人類にはメスの個体は存在しない。かつては存在した――〈女〉と呼ばれていたそうだ――らしいが、ある時点、二千年ほど前から歴史から姿を消した。疫病とも事故ともいわれているが、重要なのは、とにかくその時期から人類から雌の個体が消え去り、雄しか存在しなくなったということだ。

 社会を維持するには安定した人口が必要不可欠なのに、人口を増やす方法を人類は喪ってしまったわけだ。 

 女が消え去り、新たに子をなすことができないのなら、今いる人間の複製コピーを作ればいい。当時の人々はこう考えた。そこで細胞を培養しコピーするための工場を作り、今もこうやってせっせと量産に励んでいるわけさ。だから厳密に言えば我々は殖えているわけではない――ジャガイモと同じなのさ。

 これでめでためでたし、といけばよかったんだが、そうはいかなかった。

 現在、人類は急速に滅亡に近づいている」


「有性生殖である利点の一つは、両親の遺伝子をかけ合わせることで、多様な遺伝子の子孫を残せるということだ。そうやって、絶えず変化する環境に適応しているわけだ。

 一方で、今の我々は遺伝子のレベルで新しい環境に適応することが難しくなっている。たとえば特定の病気が蔓延しやすくなったりね。

 こうしたことは様々な要因のうちのひとつだが、様々な事柄が積み重なって、このままだと人類は可能性を使い尽くして、遠からず滅びてしまうことになる」


「そこで、有効かつ具体的な選択肢として発案されたのが、『女を再びこの世にもたらす』ということさ。

 女という存在を復活させ、人類が再び有性生殖できるようにする。

 もちろん、無から有を生じさせるなんてのは無理だ。現生人類の遺伝子を解析して、有効な女の遺伝子を得る、というのも困難だ。

 八方塞がりだったところに、突破口ブレイクスルーがあった。幸運にも生体組織が手に入ったんだ。

 氷原から採取された太古の人類の痕跡。そこに、ヒトの女の有効な組織片がわずかに封じられていた。氷漬けではあったがね。

 組織の細胞を培養するところまでは容易にできた。幹細胞を作り、四肢や内臓という個々の部品を作るというところまではできている。だが我々の力では、ここから完璧な個体を造り出すことができない――男だったらいくらでも造れるんだがね――だから、ちょっと方針を転換する必要があった。

 一から組み上げることが難しいなら、適当な身体を土台ベースに、それらの部品を移植してやればいい。いわばぎ木のようなものさ。

 心臓と脳と脊髄、それといくつかの臓器を土台に、造り出した〈女〉の臓器を移植する。そうすれば、生殖能力を持った立派な〈女〉のできあがりというわけだ。

 そうやってのが君さ。

 まあ、その部品もたかだか十数年物の未成熟体――だから、完全な〈女〉というよりは〈少女〉とでもいうべきかな。

 まだ少し幼いが、身体が成熟すれば問題なく受胎できるようになるだろう。

 蟻や蜂のコロニーでは、一匹の巨大な雌――女王――の産んだ大量の個体が巣の社会を構成する。君もになる。

 この世に再び顕現した〈女〉として、子孫を生産する工場として、誰もが君を崇拝し、欲望するだろう。誰もが君を愛し、求めるだろう。そしてこの社会は滅びの運命を脱することができるだろう――ああ、素晴らしい。人類社会のいしずえになることができる、これ以上の栄誉があるかね?」

 骨ばった乾いた指で俺の頬を撫でる。怖気が走る。

「君は生まれ変わったんだよ、未来を胚胎するための神聖なる器に。聖なる肉体――それはつまり、君の身体は君自身のものではない、社会の所有物であるということだ。大事にしたまえ、決して傷などつけないように」

 喋るだけ喋ってすっきりしたのか、男は部屋から出ていった。


 錯乱や自傷の危険がないと判断されて、ようやく俺の拘束は解かれた。

 部屋の外には出られなかった。窓はなく、外の様子はわからない。状況自体はさして変わりなかった。

 身体が馴染むにつれ、少しずつ歩いたり身の回りのことができるようになってきた。

 鏡を見る。

 大きな眼。なめらかな肌。小柄な身体。それと少し膨らんだ乳房。

 映るのは、昔の俺とは似ても似つかない生物。

 俺ではない、俺の肉体――。

 肉が融けあい、混じりあって、俺は俺でない別の何かになっていく。俺の身体は、俺のものでない何かになっていく。

 頭がくらくらする。

 産みつけられた寄生虫の卵が皮膚の下で孵化し、肉と内臓を喰らって育ち、そしておしまいには無数の虫が腹を食い破って出てくる――そんなおぞましい心象イメージが頭から離れなかった。


「次の局面フェイズに入ろうか」

 その日やってきてすぐ、男は言った。

 俺はじっと相手を睨む。

 すると、バチッ、と目の前が真っ白になった。一瞬遅れて痛みが走った。純粋な痛みだけが注入されたかのようだった。

 いったい何が起こったのかわからなかった。

 白衣のポケットから何かを取り出す。

「これさ」

 リモコンのような機械だった。

痛覚装置ペインメイカー。電気ショック――単純な仕掛けだがね。効果は顕著だ。このボタンを押すと、君の頭に埋め込んだ装置が適度な痛みを与えてくれる。ほら」

 再び、刺激とともに目の前が真っ白になる。もはや痛みではなく衝撃だった。

「やみつきになるだろう? これでも一番弱い刺激なんだがね。そんなにたくさん使えないのが残念だよ、脳に障害が出るといけないからね」

 得意げに笑う。

「さて、これからじっくり教えてあげよう。立ち居振舞いマナーというやつをね」

「……この、××××め」

 男は満足げに微笑んでボタンを押した。


 それから調教レッスンが始まった。少しでも反抗的な態度を取ろうものならすぐに痛みが走った。

 俺は矯正されていった。従順な人形として振舞うように。

 二、三ヶ月も経った頃、俺にひらひらの服を着せながら男は言った。

「古代の文献をもとにして作らせたものだがね。よく似合っているじゃないか」

 うんうん、と男はうなずく。

「仕草も、だいぶ板に付いてきている……こいつを使う機会が少なくなって寂しいよ」

 さっと装置を取り出す。反射的に俺の背筋がこわばる。

 頭ではわかっているのに、身体はついすくんでしまう。痛みと恐怖が身体に染み付いているのだった。

 従順になったせいか、施設内を歩く機会が増えた。歩くといっても、監視つきで部屋から部屋を移動させられるというだけの話だ。

 監視には看護人が一人つけられる。

 部屋に閉じ込められていたときにはわからなかったが、施設内には看護人や掃除人など、多くの人間が働かされている。誰もが脳をいじられていて、自分で考える能力を失い、命令に忠実に従っている。

 廊下の角で眼鏡をかけた掃除人とすれ違う。

 違和感を覚え、すれ違いざまに振り返ると、掃除人の恰好をした男は突然介護人に飛びかかった。手に持っていた何かを身体に押し当てると、介護人は一瞬びくっと痙攣して床に倒れた。

 眼鏡の男と目が合った。

 次の瞬間には、俺は電撃のような衝撃を受けて、意識を失った。


 ……誰かが話をしているのが聞こえる。

 拘束はされていないようだ。

 悟られないように、目はつぶったまま、寝たふりをして聞き耳を立てる。

 野太い声がたずねる。

「これが〈女〉?」

「ああ」

 答える声はどこか神経質な響きがした。

「こんなに小さいのか?」

「まだ成体ではないらしい」

「子供なのか。危険はないんだろうな?」

「安心しろよ。筋力があるわけでもない。毒はないとは言い切れないが――まあ大丈夫だろう」

「いくらで売れる?」

「一点ものだからな、破格の値をつけてくれるだろうよ。何件かアタリはつけてある」

「〈中央〉からこんなヤバイものをさらってくるなんて……大丈夫なのか」

「足はつかないようにしたがね。さっさと売り飛ばしてしまうのが正解だな」

 それにしても、と神経質な方の声が言う。

「なあ、この部屋暑くないか?」

「いや? 別に」

「気のせいかな」

「おまえ、顔色が悪いぞ。具合悪いんじゃないか? まさか何か病気が――」

「そんなわけないだろう。何を言ってるんだ」

 それから二人ともしばらく黙り込んだ。

「…………」

「おい」

 神経質な方が声をかける。

「どうしたんだ?」

「ちょっとアレを見てくれ。ほら、窓の外……」

「何だ、何のことだ? 何も見えんぞ」

「よく見て、ほら……」

 ぱん、と何かが破裂したかのような乾いた音。

 どさっと、柔らかい重いものが床に倒れる音。

 静寂。

 ふう、という大きなため息。

 何かを置くような、ごとりという重量感のある音。

「ああ、こんなつもりじゃなかったんだがな――」

 自分自身で心底不思議だと思っているような言い方だった。

 ゆっくり、足音がこちらに近づいてくる。

 それから誰に言うでもなく、言った。

なった」

 嫌な予感がして、俺はさっと身を起こした。

 掃除人に化けていたあの眼鏡の男だった。

 一瞬、眼鏡の男は眉をひそめたが、すぐに口元に笑みを浮かべた。

 俺は立ち上がって後ずさる。男は構わず距離を詰めてくる。

 壁にぶつかる。これ以上は下がれない。

 腕を?まれ、そのまま壁に押さえつけられる。

「動くなよ。すぐ済むからな」

 カチャカチャとベルトを外そうとする音。荒い息。必死に手足を振り回しても、男はびくともしない。抵抗がまったく抵抗にならない。

 ばたつかせた足が、男の股間に当たる。

 さしもの男も一瞬ひるむ。力が緩んだ隙に、男の腕から逃れる。

 果たして、それはテーブルの上に置いてあった。

 銃だった。

 追いつかれる前に俺は銃を手にとって構えた。反射的に男はぴたりと足を止める。

「よせ」

 男は言った。

「そいつをそのままテーブルの上に戻すんだ。危ないから――」

 俺は狙いをつけたまま男を睨む。

「ほら、戻すんだ。いい子だから」

 言いながらも、じわじわと距離を詰めてくる。

 男が飛びかかろうとするのとほぼ同時に、俺は引金をひいた。


 半刻ほど過ぎて、乱れた服装を整えてから、俺は建物を出た。

 少し歩くと、視線を感じた。不思議そうに俺を見ている男の一群。

 おや、と思うとそういえば服に返り血がついたままだった。

 気にせず、俺は笑いかけた。

 ねえ、と声をかける。

 男たちはごくりとつばを飲んだ。


 ※ ※ ※


「随分長いこと探したが、キズモノになってなくて安心したよ。……だが、その恰好はひどいな。早急に着替えを用意させよう」

 あれから三ヶ月が経っていた。〈中央〉の捜索隊が俺を発見・救出し、連れ戻したのだった。

「〈中央〉に侵入するとは、まったく不届きな連中もいたものだ。まあ、君に唯一無二の価値があるという見立てについてはまったく正しい。値はつけられんがね」

「唯一無二といっても――」

 俺は口を開いた。

「俺だけが被験者というわけでもないんだろ?」

 男はうなずく。

「ひとつの成功の陰には無数の失敗がある。成功するまでの道のりは長かった。培養した臓器を移植しても、多くの個体は拒絶反応を引き起こして死んだ。まあ過去の話だ。今はもう君という成功例がいるのだから」

「ちなみに――もし俺が死んでたら?」

「君が喪われたとしても、何の問題もない。また次を造ればいいだけの話だ。ちょっと時間とコストはかかるがね」

「なるほどね」

「ここで、私の思い通りにならないことはない」

「随分な自信だね――神にでもなったつもりなのかい?」

 男は鼻で笑った。

「そんな大それたものではない。むしろ、人類のとでもいったほうがいい。放っておけば破滅へと向かっていく愚かな者たちを正しく導く――優れた能力を持つ者のつとめだよ」

「へえ。管理者、ねえ……」

 俺の言い方が引っかかったのか男は怪訝な顔をした。

 ちょうどそのとき、ずずん、と大きな揺れが走った。

「地震――大きいな」

 ぽつりと、俺は言った。

「爆発さ、工場の」

「――何だと?」

「工場に爆弾を仕掛けたのさ、に手伝ってもらってね」

「何を――は何を言っている?」

「誰もが輝かしい未来を望んでいるわけではない、ということさ。

 誰も彼も疲れ果てていて、もうこの世界にうんざりしているんだ。彼らの願いはただひとつ、もうただ静かに休みたいということだけなんだ」

労働者ワーカーどもを手なずけたな」

 男は舌打ちをする。

「ゴミどもめ。自分のしていることがわかっているのか」

 あんたは、自分のしていることをわかっているのかな? 俺は心の中でつぶやいた。

「だが、もはや工場などどうなろうと問題ない。完成品であるおまえさえいれば、人間なんていくらでも殖やせるからな」

 男は邪悪な笑みを浮かべた。

「そして――私がこれを持っていることを忘れたのか?」

 ポケットからこれ見よがしにさっと例の機械を取り出すと、ボタンを押す。

「うっ――」

 同時に、俺はうめいて床に倒れる。

「馬鹿め」

 勝ち誇った顔で男はつかつかと近づいてくる。

「最大出力の味はどうだ? 工場がどうなろうと問題ないとは言ったが――おしおきは必要だな。私に逆らうだなんて、こんな痛み程度では生ぬるい。

 四肢をもいで、機械につないでやる。正気のまま、死んでいた方が遥かにましだったと思えるような責苦の中で一生を過ごすがいい」

 男が十分近づいたとき、俺は口を開いた。


「――なんてね」


 言いながら、素早く一撃を食らわせる。

「がっ、……」

 不意打ちを受けて、男は床に倒れる。電撃銃スタンガン。手足がぴくぴく痙攣している。

 俺は立ち上がって軽く埃を払うと、見下ろして言った。

「種明かしをすれば――」

 言いながら、を取り出す。一センチ四方にも満たない小さな機械。これが俺に埋め込まれていた痛覚装置ペインメイカーの本体だった。

「優秀な外科医ってのはどこにでもいるってことだね。したら喜んで摘出してくれたよ。

 あんたがもう少しだけ用心深ければ――他者をあなどっていなかったら――こんなことにはならなかっただろうね。きっと前もって俺の所持品を検査しただろうし、安易に俺に近づきもしなかったはずだ。あるいは、労働者ワーカーたちを気をつけて見ていれば、何か様子が違うことに気がついたかもしれない。だけどそういうことにはならなかった。あんたは、誰にも何もできるわけがないと思っていた。すべては」


「――あんたが傲慢だったせいだよ、管理者アドミニストレーター


 男は怒りのこもった目で睨んでいる。

「何をするつもりだ、って顔だね? さて、?」

 そのときはじめて男の顔に不安の翳がよぎった。

「もちろん、すべてをにしようと思ってね」

 爆発音と衝撃音。〈中央〉のどこかが爆発したのだ。

 鳴り響く報知器アラームの音。

「実験装置に細胞に資料――どうせここに全部あるんだろ? あんたみたいな人間に他人が信用できるわけがない。後腐れのないように、つもりなんだ」

 男はうめくように言った。

「おまえは――

 懐から銃を取り出して構える。

「あんたに破滅をもたらす者――それこそ、〈運命の女ファム・ファタール〉というやつさ」

「よせ、やめるんだ。今ならまだ取り返しがつく。私には、人類の未来が――」

 やめろ――と、男は絶叫した。

 俺は、にっこり微笑んだ。


   ※ ※ ※


 降り始めた雪は勢いを増し、〈都市〉を音もなく覆っていく。〈中心〉も〈周縁〉も等しく、柔らかな白いヴェールがかけられていく。まるで、終焉を迎えた人類を悼んでいるかのようだった。

 瓦礫と化した〈都市〉を背にして、死の荒野を歩いていく者がいる。

 それは、この世界のただひとりの少女――その行方は誰にもわからない。

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