かわやわらしのコヨイ

@1640

第1話

 ツクルは扉を閉めてから過ちに気づいて、小さな声を上げた。

 木造りトイレの狭くて薄暗い空間にモヤがわずかな光を含みながら漂い始め、外光と熱と匂いが薄れていく。あわてて手をかけた扉は壁に張り付いてまったく動かない。

「どうした。せっかく来たのにもう帰るのか」

 全体に反響する声がしてモヤが重なり、いくつもの色が浮かび上がる。それは次第に濃くなって形になって、壁と天井の間にうすももいろの着物を身につけた子供がぼんやりと写し出された。

「ごめん、寝ぼけていて間違えたんだ。開けてくれないかな」

 ツクルは手を合わせ、子供を仰いで拝んだ。子供の表情は読み取れないが、すこしの間をおいて「そうか」と返事したことに寂しさが感じられた。その姿がモヤと一緒に吹き消え、扉の隙間から光が差し込む。ツクルは勢いよく扉を開けて、夏の強烈な熱と日差しの中へ飛び出した。


 ツクルの住まいは古い民家で、広い土間や囲炉裏、離れの汲み取り式トイレなど、歴史を感じさせる部分が残ってた。

 よもやお化けまで残っているなんて。ツクルは振り返り、灰色にすすけた木造りのトイレにため息をついた。近く遠く蝉の音が木霊する。


「今度、外のトイレを取り壊して駐車場にしようと考えているんだ」

 夕飯の席で家主のタスケがつぶやいた。独り言のようであったが、じっとツクルを見つめて反応を伺っていた。

「おまえ、小さいころからあのトイレを気に入っていたよな。今日だってわざわざ」

「食べてるときにトイレの話なんかやめてよ」

 目が合って、付け加えたタスケの言葉を、ツクルは不快な顔で付き返す。図星だったか。とタスケは気まずさでそれ以降、口をつぐむ。


 夜が更け、小川を超えてきたそよ風が縁側から入り込み、家屋にたまった熱を抱えて裏山へ流れていく。下の道を途切れなく走り去る車の音と無数のカエルの鳴き声が、数え歌の調子を取っている。

 床に就いたツクルはまどろみながら昔を思い返していた。

 トイレに出る子供のお化けを知っているのはツクルだけ。それがなにかを理解する前に出会ったので、驚きも恐怖もなく、そういうものという認識であった。

 子供はしゃべりこそするが、世間については疎かった。ツクルは自分が見たこと聞いたことを話す。花に虫、川に魚、山に鳥、子供が興味深く聞いてくれるのが嬉しくなり、得意になった。

 そんなやりとりのなかで自分の話し相手が異質であることに気づいたが、それを誰かに伝えるには時間が経ちすぎていた。

 あそこには友達がいるから壊さないでほしい。そう言えない自分を悔やんだ。


 次の日、ツクルは周囲を気にしながら離れのトイレに入り、しっかりと意を持って扉を閉めた。みるみるモヤが湧き上がって狭い空間を包み込み、あらゆる感覚を鈍らせていく。時間さえその流れを妨げられる。

「また、間違えたのではないだろうな」

 うすももいろの着物の子供が現れて、念を押すよういたずらに語尾を上げて問うた。ツクルはゆっくりと頷き、わずかに顔をそらす。

「ここが取り壊されるかもしれないんだ」

 ツクルの低く小さな声で、子供はすべてを察したようだった。沈黙で答える落ち着きがツクルを逆撫でる。

「ここがなくなるんだよ。そしたら消えちゃうじゃないの」

 ツクルは怒りに似た勢いにまかせて、言うべきか迷い続けていたことを吐き出した。一息つくと後悔で目元をぬぐった。

「すいぶんと悩んでくれていたようだな」

 謝罪と感謝が含まれる大人びた、そんな声にツクルは顔を上げた。出会ったときから変わらない姿で、好奇心の塊で年下だと思っていた子供が立派に思えた。

「悩んだけど、どうしようもないんだ」

 自分はまだ大人じゃないから。自分が成長していないことでもあると感じて気が静まった。

「悲観するな。ここがなくなるのはしようがないとして、それで消えるわけではない」 

 子供のささやきから消えないの一言を拾い、ツクルは反射的に聞き返した。

「会えなくても良いってことなんだね」 

 何の抵抗もなく本音が出た。言ったツクル自身が気づかないほど皮肉を混ぜて素直に。

「命も形もないと、いままでに聞かせてくれた物語のように時間を共有することができないからな」

 子供はいつもの調子で淡々と、いつになく長々としゃべる。

 この世ならざる宇宙の果てより遠い異質の存在の、時間で表す距離からのシグナルは、知恵が見つけたあらゆる隔たりを抜けてツクルの心に届く。

「お前さんにばかり負担をかけてしまうことになるのだろう」

「形はあるよね」

 顔を上げ、ツクルはじっと子供を眺めた。形と呼べるのかはわからないが、確かにそこに居る。

「あるのか」

「そうだよ。こう」

 子供が興味を示して食いついてきた。ツクルは指先で触れることのできない子供の顔の輪郭をなぞる。

「それではよくわからん」

 急いて解答を求める子供とのやり取りに、懐かしさが沸き立つ泡となって弾け、冷めていたツクルの芯に熱が回り、自分の形を感じ取らせる。

 この熱を伝えることはできない。まして言葉でなんて。それでもツクルは理解の及ばない世界で唯一の存在と関りになれた。その重なりがなんであるのかを示す決心がついた。

 ツクルは扉に手を当てて、少しの間の退出を申し出る。モヤが薄れて戻ってきた空間と時間の感覚に少しだけ頭が痺れた。


 外に出たツクルは勝手口から母屋へ駆け込む。囲炉裏部屋にある小さな棚の引き出しを開け、一枚の写真を手に取るとすぐに勝手口へ足早に戻っていく。

 トイレ前で、手にしたものが遠足先で撮ったクラスメイトの集合写真であることを確認し、扉の内へ入っていった。

「ほら、これだよ」

 並んで写るクラスメイトの一人に指を置いて、霞んだ壁と天井の境に向けた。指先には、子供とよく似た顔だちの生徒がいた。

 ツクルがトイレに近づくのを、子供を避けるようになったのは、似ているその子を意識し始めてから。そしてどちらに対しても同じ態度に出てしまう悩みでもあった。

「この子がお前さんの憧れの君か」

 そんな台詞をどこで。見透かされたツクルがそう言いかけ、言葉よりも多くの意図が行き交いしていると感じた。

「よく似ているんだよ」

 ツクルは改めて写真を見つめた。その子が子供と似ていたからか意識したのか、その子を意識したから子供が形を持ったのか、偶然とも運命とも、先が立たない理屈が回り、ゆるやかな時間を沈黙が過ぎていく。いつのまにやらモヤは消え、天井間際の小窓から熱を帯びた日が差し込む空間に、蝉の音が染み入っていた。


 ほどなくして離れのトイレは取り壊され、三日も経たないうちに駐車場へ様変わりした。ツクルはコンクリートで埋められた跡地に立ち、真下に落ちる真っ黒な影を見つめて何度か足踏みをした。続いて真っ青な空を仰いで日差しに目を凝らす。光の刺すようなはっきりとした感覚がお化けの不在を確信させた。



「それが理由で声をかけてくれたのか」

「そういうことになるね。変に思うだろう」

 ツクルは気恥ずかしそう鼻先に指を当てた。

 まだ明るい夏の夕暮れ。打ち上げられたいくつもの花火は咲くことも散ることもなく、大きな音だけを立てている。

「トイレっていうのがムードないよね」

 隣のみずいろの着物を身につけた子が一歩、ツクルの前に出て振り返り、無邪気に笑った。

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