第4話 出発前のひと時

 一か月足らずの準備期間は飛ぶように過ぎ去った。

 シュウはユーシスともう一人の同行する教授とミーティングを重ねる。担当講義が少ないシュウが主に準備を引き受け、物資などを手配しつつ、レリアの稽古に勤しむ。

 初めての遠征に不安を覚えたのか、イルゼも護身術の教えを乞い、それもレクチャー。これまでの学院講師生活にはない、慌ただしい日々は続いていた。


 そして、迎えたその日の早朝――学院の門の前には、選抜されたメンバーが揃っていた。


「いよいよ、ですね。先生」

「ん、そうだな」

 学院のブレザーの上に外套を羽織ったイルゼが拳を胸の前で握りしめながら、真剣な顔つきをする。その隣でシュウは壁に寄りかかって頷く。

 集結し、ブリーフィングも終わって出発前のひと時。各々が自分の準備の最終確認をしている。シュウ自身は軽装なので確認することなく、イルゼと共にそれを眺めていた。

「……イルゼさんは、何も用意しなかったのか?」

「もう用意は全て済ませました。それに、レリアみたいに落ち着かないので」

 ちら、とイルゼはシュウの方を見やる。彼の左隣には制服姿のレリアが陣取り、いそいそと金属の水筒に手をかざしている。うん、と彼女は一つ頷くとその蓋を開けてシュウに差し出した。

「お師匠様、お茶ができました。どうぞ」

「悪いな。丁度欲しいと思っていた」

「だと思いました。ブリーフィングで大分、話されましたから」

「ありがと。レリア」

 礼と共に軽く頭を撫でると、レリアはへにゃりと顔を緩める。嬉しそうに綻んで見上げる顔はまるで慕ってくる子犬のようだ。

 シュウは思わず笑みをこぼしながら、お茶を一口――適温が身に染み渡る。

 身体が冷えていることを察し、ほんの少しだけ温度を上げているのだ。

(相変わらず気が利くというか、なんというか)

 一息つきながらシュウは水筒をイルゼに差し出す。

「イルゼさんも飲むか? 緊張していてもよくないぞ?」

「は、はい……それにしても、お二人はよくそんなにリラックスできますね」

 そういうイルゼは、落ち着きなくそわそわしている。茶髪のお下げを揺らしながら視線を彷徨わせ、不安そうにシュウの傍に立っている。

「ん、私は少し緊張しているけど」

 レリアはそう困ったように答えつつ、ちら、と視線をシュウに向ける。

「でも、感情は表に出さず、常に冷静であれ、とお師匠様に教わっているから」

「教わっただけですぐにできるから大したものだ。普通は場数を踏んで、ようやく平静を務められる……俺も、そうだったんだけどな」

 弟子の物覚えが良すぎて困る、とシュウが肩を竦めると、イルゼがお茶を飲みながら羨望の眼差しをレリアに向けた。

「すごいな……レリアは」

「イルゼもできると思うよ? コツは魔力を練ると変わらないし」

「魔力を練る?」

「うん、魔力を練るときは集中するでしょう? 息を整えて、丹田に力を込める。そんな感じを意識していると……気持ちが落ち着かない?」

「んっと……あ……確かに……」

「魔力が生じない程度にそうしておけば、気分が落ち着くと思うよ」

「へぇ……なるほど……!」

 イルゼが感心したようにこくこくと頷く。確かに少しだけ彼女の呼吸も落ち着いてきている。

(……そういえば、最初の頃、レリアは魔力を練ることと瞑想に共通点があることを指摘していたな……)

 自分なりに研究を重ねて、落としどころを見つけたのかもしれない。つくづく優秀な弟子だ。シュウはレリアの頭を丁寧に撫でると、彼女は嬉しそうに笑みをこぼす。

 そして、そっとレリアはシュウの方に距離を詰めながら小さく囁く。

「でも、一番落ち着けているのは、お師匠様が傍にいるからです」

 シュウにしか聞こえないような、本当に小さな囁き声。わずかに頬を染め、信頼の込めた眼差しで彼を見上げてレリアは続ける。

「お師匠様がいれば大丈夫だと、心の底から思っていますから」

「…………」

「……あれ? お師匠様?」

「……ああ、悪い。随分、嬉しいことを言ってくれるから」

 シュウは努めて穏やかに笑みを見せながら、さらにレリアの頭を撫でる。

 そうしながら――内心では、深く安堵の息をこぼしていた。

(危ない、危ない……嬉しさのあまり、我を失うところだった)

 レリアの真っ直ぐすぎる気持ちが本当に嬉しすぎて、感情が制御できなくなる。それは武人として失格だ。自戒しなければならない。

 シュウはひっそりと吐息をこぼすと――不意に、ぴり、と背筋に何かが走る。

 彼はレリアの頭から手を下ろすと、彼女も気づいたのか、笑みを引っ込める。イルゼはその雰囲気に、え、と目を丸くする。

「二人とも、どうしま……あっ」

 イルゼは二人の視線を追いかけて気づいたようだ。その先に、一人の女生徒が歩み寄ってくるのを。

 長い黒髪を揺らし、鋭い眼光を向けてくる、凛とした少女――アズール。彼女はつかつかとシュウたちの傍に歩み寄る。彼もまた、一歩だけ前に進み出た。

 二人は立ち止まると、わずかな沈黙を共有する。ごくり、とイルゼの唾を飲み込むような音が聞こえるほどに、しん、と静まり返っている。

 やがて、彼女はゆっくりと唇を開いた。

「勝負以来だな。シュウ殿」

 アズールの第一声は、ぶっきらぼうだった。腕を組み、不機嫌さを崩さずにシュウを見やってくる。シュウは軽く頷きながら視線をアズールに向ける。

「ああ、元気そうで何よりだ。アズール」

「無論。あそこでは不覚を取ったが、次は負けるつもりはない。この一か月は己の慢心を鍛え直してきたのだ」

「ん、確かに。凄味が一層増している」

 この一か月、予定が合わず、二人は顔を合わせる機会はなかった。

 だが、それでもアズールの立ち姿を見やるだけで分かる。自然体にあったはずの隙がなくなっている。常に自己鍛錬をしていたのだろう。

(ただ、それがすぐに分かってしまうのは隙なんだけどな)

 まだ甘さがあるようだ。だが、それを指摘するのは野暮だろう。

 シュウは軽く頷くと、小さく口角を吊り上げた。

「勝負ならいつでも受けて立つぞ」

「ふん、楽しみにしておけ」

 アズールは不敵にそう言い放つと、視線をシュウの脇に立つレリアに向ける。少しだけ嫌そうに眉を寄せ、彼女に視線を注ぐ。

 レリアは一瞬だけたじろいたが、すぐに目に力を入れて視線を返す。

 二人の視線がぶつかり、熱を帯びる――その中、アズールは小さくつぶやく。

「……また、腕を上げたようだな。ルマンド殿」

「……え?」

 その口調は以前とは違って聞こえる。レリアもそう感じたのか、驚いたように目を見開いた。それにアズールはふんと鼻を鳴らす。

「一度負けたからな。ルマンド殿がシュウ殿の弟子であることは認めざるを得ない。内心は不本意であってもな」

「……不本意なんですか」

「それはそうだ。腹の虫が収まらん」

 そう言い切るアズールにレリアは頬を引きつらせる。アズールはそのレリアを複雑そうな表情で見つめていたが、やがて不承不承といった様子で言葉を続ける。

「……だが、それだけの実力を見せたのも事実。なら、そこは呑まざるを得まい。それなりにルマンド殿には敬意を示しているつもりだ」

「……全く、言葉から伝わってきませんね」

「まぁ、アズールはこういう人だからな」

 ひそ、とレリアとシュウは言葉を交わし合うと、アズールはぎろりとシュウを睨みつけてくる。シュウは口をつぐむと、レリアは苦笑い交じりに頷いた。

「とにかく、ありがとうございます。アズールさん」

「……ふん。礼を言われる筋合いはないがな」

 アズールはわずかに視線を逸らしてぶっきらぼうに言う。

 その彼女の態度に、ひとまずシュウはほっとする。

(どうやら、心配は杞憂だったみたいだな……)

 アズールはこの前の敗北をちゃんと自分の中で折り合いをつけ、尚且つ、レリアのことをシュウの弟子ときっちり認めたらしい。

 レリアもそれを感じ取ったのか、ひとまず緊張を解いて微笑む。

「道中、いろいろよろしくお願いしますね」

「ああ、何か困ったことがあれば、相談するといい。特にルマンド殿は、シュウ殿に相談できないようなことがあるだろうし」

「あ、あー……まぁ、そうですね」

 困ったように視線を泳がせ、何故か頬を赤らめるレリア。その反応に、はて、と思わずシュウは首を傾げる。

(師にも相談できないようなこと……もしかして、俺の愚痴か?)

「……言っておくがシュウ殿、変な勘繰りはするのではないぞ?」

「そうですね。お師匠様。これはデリケートな問題ですから」

「……そうか。じゃあ、考えないでおこう」

 二人の釘を刺すような強い声に、シュウは思考を放り投げる。レリアやアズールとは息が合うといっても、全てが分かるわけでもないのだ。

 レリアは表情を緩めると、アズールを見つめて頭を下げる。

「ではよろしくお願いいたします。アズールさん。不手際があるとは思いますが」

「始めは仕方あるまい。ただ、しっかり覚えることだ。ルマンド殿」

「承知しました。あ、レリアと呼んでくださって結構ですよ?」

「そうか? なら、レリア殿、こちらこそよろしく頼む」

 二人は言葉を交わしながら、握手をする。その二人の空気は明らかに柔らかくなっていた。

(ま、アズールはプライドが高いだけで根は素直だからな)

 同格以上と認めた相手の言葉は素直に受け入れるのが彼女の美徳だ。逆に見下している相手には辛辣に当たるのが悪いところだが。

 だが、レリアを認めてくれた以上、心配はいらないだろう。

(だから、あとは)

 隣に視線を移し、まだ戸惑っているイルゼに視線を向ける。その背に手を当て、前にそっと押し出しながらアズールに声をかける。

「アズール、イルゼさんも旅に同行する。後方支援が担当だ。面倒を見てやってくれ」

「む、そうか。ああ、其方は前のミーティングで顔を合わせたな」

「は、はい……っ、その、よろしくお願い、します」

 恐る恐ると言った様子で頭を下げるイルゼに、アズールは余裕たっぷりの笑みを見せる。

「そんなに怖気づくな。なに、取って食いはしない」

「え、あ……その」

 イルゼの視線が泳ぎ、一瞬だけシュウを見つめる。彼は笑って頷き、もう一度背を押す。

「大丈夫だ。アズールはこういうときだけは頼りになる先輩だから」

「む、シュウ殿、聞き捨てならんな。私はいつでも頼りにしてくれて構わんのだが」

「なら、その感情の起伏を表に出さないように気を付けるんだな。分かりすぎだ」

「う、む……精進しよう」

 少しだけ苦々しい表情を浮かべるアズールに、イルゼはぎこちなく笑みを浮かべて一歩、自分で歩み寄る。そこにレリアも合流し、笑みを見せる。

「行こう、イルゼ。そろそろ出発の時間」

「そうだね。行こう、レリア。その、アズールさんも」

「うむ、旅路を参ろうか」

 三人は仲睦まじげに歩いていく光景を、シュウは見つめながら思う。

(……この旅で三人の絆が深まればいいな)

 何事もなければ、それは貴重な経験になり、三人の大きな糧になるはずだ。そうなるように、シュウも全力で努力しなければならない。

 それを胸に刻んでいると、ふとレリアが振り返り、澄んだ声を響かせる。

「お師匠様っ、行きますよ!」

「ああ、今行く」

 込み上げる嬉しさをひっそりと胸に収めつつ、シュウは愛弟子の背を追いかけていった。

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