月の女王と眠れる者たちの影
羽地6号
第1話
◆◆IDA H棟 講義室前◆◆
「さて、どうするかな…」
手にしたジュースを飲みながら銀髪の青年、ジェイドは独り言ちた。
未来の浮遊都市エルジオンが誇る教育機関IDA、彼もそこに通う一学生として講義を日々の務めと受けている。
そして今日も勉学のため講義棟まで来たのだが―――。
「まったく…休講ならもっと早く連絡しておけ…」
誰に向かってでもなく、文句を言い放す。言葉のとおり今日は受けるはずのそれが休講となってしまっていた。不幸なことに彼の端末に連絡が来たのは、H棟に到着した後だった。
学生にとって降ってわいた休みは通常有り難いものだが、特にやることがなければかえってどうしたらいいか分からない。自分の部屋に戻ったとしてもこの後また受ける授業がある。必然、往復してまたここに来なければいけなくなる。
無為に過ごすのも、心地よくない。とりあえず飲み物を買って、それを飲みながらぼんやりと次の授業までの数時間をどう潰すかを考えていた。
近くに友人でもいれば、一緒にどう暇を潰すか話したりも出来たのだろうか、と考えたところで――
「彼」にしばらく顔を出していなかったことを思い出した。
「……あいつの所に行くか。」
決めたらすぐ行動に移す。
あまりジェイドの口には合わなかったのだろうか、だいぶ中身が残っているジュースの容器を振りながら立ち上がる。貼られたラベルには、健康機能を促進する旨が書かれていて、ジェイドの性格にも合わないだろう飲み物だった。
どこに捨てるか当たりを見渡したところで、こちらを伺う視線に気づいた。
「ソチラ、モウ飲マナイデシタラ片ヅケマショウカ」
「悪いな、頼む。」
IDA校舎内に常駐しているアンドロイドである。
学園の維持管理のために多数の管理アンドロイドが置かれている。学生のサポートも彼らの仕事である。
管理アンドロイドにゴミの処理を任せて、トラムへと向かった。
「彼」のいる――否、眠る場所、グレイブヤードに行くために。
◆◆グレイブヤード◆◆
「久しぶりだな…」
セオドア・レインズと名が刻まれた墓に向かって、ジェイドは話しかける。
学園自治機構のIDEAに所属していた彼は、ジェイドの貴重な友人であった。
そして何より、自分の事情に巻き込み命を落とした人物でもある。
来る途中に買った花を墓の前に添える。一般的な仏花と違うそれは、他の墓の雰囲気より少し目立っていた。が、ジェイドにとっては気に留めることではない。彼が生前、愛していた花なのだから。
・・・もし、彼が生きていたなら今のジェイドを見て、なんと言うだろう。
生前「彼」はジェイドがIDEAに入り、学園の助けとなることを望んでいた。だがジェイドは一学生として、影としてその助けとなることを選んだ。
その選択をきっと「彼」なら笑って認めてくれるだろうか―――
分からないことを考えても仕方ないと、簡単に周りの掃除をして時間を過ごすことにした。
「―――そろそろ戻るか…」
粗方綺麗になったところで、次の授業のため、IDAへ戻ろうとする帰路の途中で、墓の前から立ち上がる知った顔の姿を見つけた。
「あら、君もお墓参り?」
「シェリーヌ…先生」
シェリーヌはIDAで教鞭を振るう教官の一人で、戦闘理論の専門家だ。
ジェイドも彼女の授業を受けたことはあり、何故か彼女に割と気に入られていた。なんでも彼女が最近知り合ったとてもお気に入りの学生が、ジェイドがどこか似ているとかいうことだ。
そいつは剣士らしいが、広いIDAの中のこと、きっとそいつと知り合う事はないだろうが同情する。
「俺はもう帰るところだが――」
「そう。私は、今きたところ。」
「そうか、…アンタも友人の墓参りか?」
「いいえ、違うわ『姉』の、よ。」
「…そうか、悪かったな…邪魔して。」
しまった。と思った。
シェリーヌも友人の墓参りなのかと勘違いしたことを、ジェイドは後悔した。
今、シェリーヌが冥福を祈っていた墓が彼女の家族のものでないと勘違いした理由。
それは、墓に刻まれたファミリーネームが、シェリーヌのそれと違っていたからだった。
―――複雑な事情を抱える姉妹だったのだろうか。
「ああ、そうね。名前が気になったかしら?」
そんなジェイドの思考を見抜いたのだろう、シェリーヌが答えた
「二人とも孤児で、片方だけが養子に出されたの。苗字が違うのはそのせいよ。」
「そうか…なあ、シェリーヌ先生、アンタは姉の事を、どう思っていた?」
「そうね…」
「ひどい姉だった…かもしれない。」
一呼吸おいて、シェリーヌが答える。
「ひどい?」
曲がりなりにも血を分けた故人の、それも墓前で言い放つ言葉だろうか。
「…『片方』は、一生懸命努力して教師になる夢を叶えていたというのに、もう片方は後ろ暗い生き方をしていたのよ…」
「シェリーヌ先生、アンタは自分の姉が嫌いだったのか?」
「…さあ?分からないわ。それよりもどうしてジェイド君はそんな事を聞きだしたのかしら」
「…妹を持つ身として、上の存在はどう思っているのか知ってみたかっただけだ。変な事を聞いて、悪かったな。」
ジェイド自身も家族と、妹とはどうしようもない隔たりがあった。それゆえに目下の視線から見た兄、姉はどういうものか問いたかったのだ。
「そうなの…ね…。ジェイド君」
どこか上の空で答えて、続けてジェイドに告げる。
「…アナタも、妹の事は大切にしてあげなさい。」
「ああ、努力はするさ。――そろそろ時間だし俺は戻らせてもらう」
ジェイドが消えたグレイブヤードで、シェリーヌは自分の言ったことを心の中で嘲っていた。
(何が妹を大切に、よ。『あの子』が生きている時は何も出来なかったアタシが…)
死んだ『シェリーヌ』が、生きていた時本当は何を思っていたのだろうか。
かつて自分が『シェリーヌ』に、暗い嫉妬を抱いていたように。姉の事を疎んでいなかっただろうか。
だけど『シェリーヌ』が世を去った今となっては、
(分からないまま…か…)
◆◆IDA 教室前◆◆
それは、今日の授業が全て終わり、軽い安堵の気持ちで教室を出た瞬間だった。
「ジェイドおおおおおおおおおっ!!!」
彼の名前を呼びながら息せき切ってこちらに走って来る存在にジェイドは面食らった。
ただ事ではない。
「なな、なんだ。何かあったのか!?」
「ああ!大!変なっ!!んだ!!」
彼はジェイドの数少ない学友の一人である。
はあはあ必死に息を継ぎながらジェイドに話す。
とぎれとぎれの言葉に焦りと事の重大さを思わせる。
「お前、LOMは知ってるな!?いや、確かプレイヤーだよな!?」
「LOM?ゲームの?…慌てて何なんだ。まあ、そうだが――」
勢いに飲まれていた驚愕から一転、ゲームの話と聞いて、冷めた口調で突き放すように答えかける。
しかし、途中ですぐにジェイドの脳裏で過去の苦い事件とリンクした。
「…!あのゲームで何かあったのか?!」
LOM, Lord Of ManaはIDAに通う学生が作り、そしてIDAの学生の間で人気のいわばオンラインゲームである。
学生だけではなく、IDAの関係者、その多くの人々が、―子供から教員、医療関係者、用務員の老人までの本当に広い範囲で――そのプレイヤーがいる。
かつてLOMのプレイヤーがゲーム世界に閉じ込められてログアウト出来ない事件があったことは、まだ遠い過去の事ではない。
そして、ジェイドの妹、サキもLOMと繋がる事件に巻き込まれた一人だったのだ。
「まさか!LOMの世界でまた、何か大変なことが起きているのか!?」
「その通りだ!お前の力が必要なんだ!!IDEAにだって頼めないんだ!」
IDEAにも頼れない、つまりIDEA以上の力が必要だということだろうか。ジェイドの中に一筋の緊張が生まれる。
ジェイドはただの一学生ではない。
花の魔導書――古の始祖の少女によって記された莫大な魔力を持つ本――その力を飲み込んだジェイドには、比類なき魔力が秘められている。
比喩でも自惚れでもない、ジェイドがその気になってその力を振るえば、狂犬のように暴れる力はエルジオンを壊滅させることが出来る程の力だ。
・・・そんなジェイドを頼らなければならない程のことなのか。
「どうしたっ!何があった!言えっ!」
強張った面持ちで学友を問いただす。
「頼む、ジェイド!俺の代わりに―――」
「代わりに――?」
ジェイドは息を呑んで言葉を返す。
その間に、覚悟を決める。どんな災厄であろうとも、必ず立ち向かうと。この学園を守り抜くと。
そして学友の彼の口から言い放たれる。
「――――LOMにアクセスして、フラワリーのスミレちゃんになってくれ!!」
………
……
…
「意味が…分からんのだが?」
まったくもって理解不能だ。何一つ彼の言っている事とジェイドの想像していた災厄が繋がらない。
フラワリ―はIDA発の3人組の少女たちのアイドルユニットだが、それがどうだというのか。
「実は今日からLOMでの姿、アバターを好きなやつに変えれるというイベントをやることになっててな」
アバターは基本、自分の姿しかできない。例外があるとしたら開発者側の人間だろう。
「基本的には、まあ例えばフレンドランクの高い他プレイヤーに変身できたりする。その位なのだが。」
「…それで…それがどうした」
「おう。ここでシークレットな情報なんだがな!フラワリ―、お前も流石に分かるよな」
「あちこちに、掲示されているんだ。いやでも目に付くが」
フラワリ―の人気は高い。ジェイドが住む寮にまで、彼女らの肖像があったりするのだから
「その中でも特に人気のスミレちゃんに、LOMの中で変身できるらしいんだよ!」
そうか。と力なくジェイドは頷いた。
「…それで、何で俺がそのスミレとやらにならねばならないんだ?お前がなれば、それでいいだろうが。」
こんなチャンスそうそうないぞと息をまく友人に、冷たい視線をぶつけながらジェイドが突き放す。
「ああ、勿論そのつもりだったさ!」
「その情報を聞いた時、思わず小躍りもした!スミレちゃんの姿でどんなプレイを…いやおかしな意味じゃなくゲーム的な意味で…してやろうかと吠えた!まあちょっとお天道様の下じゃ憚られることも言ったかもしれん!本当にちょっとだけ!」
「ただ、その場に妹が居やがったんだよ!これがまずかった!」
興奮した語気を緩めることなくどうしようもない学友は続ける。
「そしたら、あのクソ妹のやつ、接続ケーブルもインターフェイスの一切合切持ち去って、物理的に遮断しやがった!!もう当分アクセスできねえんだよ、神でもない限り!」
「畜生!!まったくなんてひどい奴だ!!ジェイドもそう思わないか?!なあ?」
興奮して妹に対して憤慨する学友の姿。それにあきれたのか、冷たい眼でジェイドが睨む。
「おい」
「ひとつお前に言っておくがな」
「…いかがわしいことしようとする兄を、妹が止めるのは当然と思うぞ。」
「いかがわっ!?そ、そ、そんな、スルワケ、ナイジャないか!」
どこか声が上ずって、否定する。さっきお天道様の下じゃ言えないとか叫んでいたくせに。
「とにかく、本当にスミレちゃんになれるのか、確認だけでもしたいんだ!頼む!」
「断る。下らないことに俺を巻き込むな。じゃあな」
上述もしたが、ジェイドに秘められた力はエルジオンを、ひいてはこの世界を滅ぼすほどの物である。
・・・そんなジェイドを頼らなければならない程のことなのか?
「待てよジェイド。お前に義理は無いのか?」
「義理?」
「そうだ。テストの過去問や対策を、今までお前に渡してやったのは誰だ?」
暗い情熱を宿した瞳でにらみつけ、ジェイドに突きつけるように言ってやった。
「ぐっ…」
性質が悪いことに、こいつは人格こそ褒められたものではないがIDAでもトップクラスの成績の奴なのだ。
これまでに学業面で彼に世話になった学生は多く、ジェイドも例外ではなかった。
「あん時お前、いつか借りは返すといったよな?不義理を働くのか?なあジェイド・アルトレジ。」
「―――分かった。やればいいんだろ。やれば。」
ぐうの音も出ない。過去に戻れるのなら借りを作ったかつての自分を止めに行きたいが、少なくともジェイドには時を超える力はない。
そんな事を思いながらも渋々の表情を隠す事もなく、ジェイドは頼みを受け入れた。
◆◆LOM◆◆
アクセスしたLOMの世界、その中央噴水前はいつも以上ににぎわっていた。
「ええイベントになるなー。アニキのアバターであれこれ遊んだ経験が活きたわー。期間限定にせんでも、色々楽しいことが出来そうでええ感じやー。」
マスクをした、目つきの悪い男が機嫌よくしている。姿は男なのに、声は明らかに女子のそれだ。まさか、このゲームの運営側の人間だろうか。
「このイベント…まさか私がミーコにミコミコスーパーチェンジ出来る希望が出たという事か!」
「いつかは、ユリリンにもなれるチャンスがあるのかな!ふふ、罪な僕だよ。ミラリンでユリリンなんて!」
そこの男達、頭おかしいのか。何を意味不明なことを言ってるんだ。
「なりたい人になれるんだって!私もできるなら、お姉ちゃんみたいにミンナを救ける人になりたいなー」
そこの少女、ちょっとバグってんぞ。まずお姉ちゃんとやらに何とかしてもらえ。
「ネタ…ネタ…。ネタいずこ…ネタいずこ…。」
亡者と化してるやつまで居やがる。
…なんだか頭が痛くなってきた気がする。早く済ませてしまおう。
そう思った矢先、タイミングよくアナウンスが始まり、集まったプレイヤーに詳細が発表された。
………
……
…―――結論から言うと、ジェイドは、フラワリ―のスミレ(のアバター)になることはできなかった。
当人はなる気もなかったが。
確かに、シークレットな情報で、スミレの姿を運営が用意していた。
それが運営側の口から言い渡されたときの一同 (主に男性) の熱気はサラマンダーを凌ぎ、響く地鳴りはノームの雄たけびの様であり、興奮の余りシルフの如く踊り狂うものまで出る始末で―――話を元に戻そう。
スミレのアバターになれるイベントでもあったが、性別の違う相手への姿にアバターを変えることは、厳として禁止されていた。よって男子学生であるジェイドには不可だったわけである。思春期の学生に対する、当然の配慮だ。
(よくよく考えればそうなるだろうな。)
(運営が禁止しているならば仕方がない。義理分は働いたよな。)
ということであいつにはそれで納得させて終わりにしよう。ジェイドはそう決めてその件は打ち切った。
…では、義理分は働いたジェイドが何をしているのかというと。
………
……
…
<ハヤブサ斬り!>
〈竜神斬!〉
…何を考えたのか、アルドの姿になってゲームを楽しんでいた。
<エックス斬りっ!>
実際にアルドの技を繰り出せるはずもない。
しかし、その姿を本当に、心から楽しんでいた。
(この姿で逆に、本物のアルドがログインしている所に現れて、揶揄うのも面白いかもしれん)
そんな事まで考え出す始末であった。
「次もこの調子でい・・・
「あ、アルドさんこんにちは。アルドさんも今日はゲームですか?」
キメる前に、聞き覚えのある、というより聞いた覚えしかない少女に声を掛けられた
「!!」
ジェイドは心臓の鼓動が瞬間ごとに早くなるのを確かに感じた。
さっきまでの浮ついて遊んでいた気持ちが、一気に現状の悲惨さに引き戻される。
誰かに見られることはあるかもしれなかった。
でも、よりにもよって、何で何でこいつなんだ。
「…アルドさん?」
まだ自分の事をアルドだと勘違いしているが、明らかに不自然に思われている。
マズイ。もの凄くマズイ。
背中から一気に体温が冷えていく。この場から逃れられるのならば、どんな犠牲も厭わない気持ちになる。
「や…やぁ…。サキ。えーあー調子は…どうだい?」
取り合えず、取り繕って様子を伺う。
「………」
「…サキ?」
妹の沈黙が重い。
「………何を、しているの。兄さん。」
ひどく冷めた絶対零度の声と目で、ジェイドを睨みつけながらサキが言った。
やはりごまかしきれなかったか。
「ちっ」
観念して、アルドのアバターを解除し、元の自身の姿に戻った。
「それにしても、良く気づいたな」
「分かるよ、あんなバレバレの対応、アルドさんはしないもの。それに仕草とか兄さんのままなんだもん」
「というか、声だって兄さんのままじゃない」
そうか、と言ってジェイドはこの場を逃れようとした。
が、逃がさんと言わんばかりにサキに問い詰められる。
「……で、何で兄さんはアルドさんの恰好していたわけ?」
元は軽い気持ちで、出来心で、試してみたかっただけだ。
よもやアルドになり切って遊んでいた。なんて…いえない。…いえない。
「…いいだろう、別に」
「ねえ」
突き放して答えるジェイドに向かってサキが言葉を投げる。
「ひとつ言っておくけどね、兄さん」
「いかがわしいことしようとする兄さんを、妹が止めるのは当然でしょ!」
「いかがわっ!?そんなこと!俺がするわけないだろう!」
ジェイドは、最近どこかで聞いたセリフと同じことを叫んだ。
「…じゃあなんで、アルドさんの恰好なんてしてるの?」
訝しむサキが、拗ねているような声でジェイドに問いただす。
「別に…ただ、ゲームなんだからな。アルドの姿になってみたら、少しは楽しいかもしれんと思ってやってみてただけだ。」
サキは納得がいっているような、いっていないような表情を浮かべた。
…少しして、
「ふーん、兄さんは、アルドさんになってみたら楽しそうと思ったのかあ」
「ふーん、そっかそっかぁー」
どこか嬉しそうに、にやけていた。
そこになんだか気分が悪いものを感じる。さっきのようににらまれる方が幾何かマシだ。
「とにかくだサキ、俺は一狩りしてくる!じゃあな!」
ジェイドは逃げるようにサキから離れる。というか逃げた。
「あ、兄さん!ちょっと!!」
ジェイドは妹の声を振り切り、とにかく、どこかまで、LOMの世界を走っていった。
………
……
…気が付いた時には、ジェイドは見知らぬ草原にいた。
彼は元々、あまりゲームをやる性質の人間ではない。LOMも妹が、そして友人のアルドがプレイしているから始めたというのが実情だ。よって彼が探索したことのないゲーム内のエリアなんていくらでもある。
すっかりサキも撒いた。いい加減ログアウトして終わらせてしまおう。そう思った矢先の事だった。
あれは―――あの人影は―――
ずっと遠く、草原の向こうに見える橋。そこにいたのは、もう会う事のない筈の人物。
その忘れられない後ろ姿に一瞬、ジェイドは頭が真っ白になる。
「…………待て!待ってくれ!」
呆けた頭を奮い起こして、彼が見えたところまで走り出したときには、「彼」を見失っていた。
(諦められるか!)
見失ったことなど気にもせず、ジェイドは駆ける。
「彼」がいると思う所まで、どれだけ追いかけただろうか。よく分からないところまで来ていた。
花が散り乱れる空間をさらに進む。
…いつかアルドから聞いた煉獄界、それはこんな所なのだろうか。
ここがどこだか考える余裕も惜しいと言わんばかりにジェイドは走り続ける。
きっとこの先に「彼」がいると信じて。
………
……
…いつの間にか、どこか全く知らない所に来ていた。
ゲームの世界観と全く異なっていたことに違和感を感じる余裕も無い。というより、普通の街の様だった。
ここがどこかはどうでも良い。
―――やっと、見つけた。
走り続けた甲斐があった。ジェイドはようやく「彼」を目の前に捉えた。
ジェイドは切らせた息を整えることも忘れて思い切り「彼」の名前を叫ぶ。
「セオドア!セオドア・レインズ!!」
白制服の青年が振り返り
懐かしいものを見る目をして、手を挙げてジェイドに話しかける。
「―――よお、久しぶりだな。ジェイド」
上げた手を何度も振りながら彼に話しかける。
振り返った顔は昔のまま、ジェイドの知るままのセオドア・レインズだった。
自分を振り切れるわけがないと言ったあの時のまま、屈託なく笑いながら。
死なせてしまった、あの時のままに。
◆◆???◆◆
「セオドア!お前!何で!」
何故ここにいるのか。何故死んだ筈のお前が、自分の目前に現れたのか。
問いたい事がありすぎて、言葉を選ぶ余裕がない。
最初は誰かが、悪戯でもしているのかと思った。
自分がアルドになってみたように、ゲームの中でふざけた事をしているのかと思った。
しかしそれを否定するように声も、大きく手を挙げた仕草も、ジェイドが知っているセオドアのままだった。
「まあ、説明すると複雑なんだがな」
ジェイドの言いたいことを察したように、セオドアが応える。
「それよりお前、息も切らせて汗だくじゃないか。俺がいつも飲んでるジュースならあるぞ」
やるよ、と言ってセオドアはジェイドにジュースを放り投げる。
が、一瞬意識が「別の疑問」に向いてしまったジェイドは、受け止め損ねた。
転がっていくジュースを数秒見つめてから、ジェイドはそれを拾い上げるためにセオドアに背を向けてしゃがむ。
―――いつの間にか、セオドアの手には槍が握られていたが、ジェイドの視界には入っていない。
ジェイドは無防備に、背中をセオドアに向けている。
セオドアはさっきまでの笑顔とは一転、無機質な顔でその槍を振りかぶる。
「悪いな、ジェイド」
聞こえないようにつぶやいて、手にした槍をジェイドの頭に向かって振り下ろした。
………
……
…槍と槍がぶつかり合う音だけが、辺りに響いた。
セオドアは一撃で、ジェイドの意識を刈り取るつもりだった。
だが、それは逆手に持ったジェイドの槍で受け止められていた。
「ジェイド………なぜ、いや、どこで、気づいた?」
「…俺が知っているセオドアなら、そのジュースを俺に勧めてきたりはしない。それだけだ」
(「セオドア」なら、俺が飲めなかった事を知っている筈の事なんだがな…)
ジェイドは立ち上がり、少し勢いをつけて拾ったジュースをセオドアに投げ返した。
セオドアはそれを受け取ることなく放置して、床に落ちてどこかへ転がっていった。
それは今日、ジェイドが飲み残したものと同じ、足りない栄養を補うための健康ドリンクだった。
かつてジェイドは一度、セオドアが飲んでいるそれを少し分けてもらったことがある。
その時は、一口飲んだだけで好意を台無しにしてしまったのだ。
セオドアは、きっとお前の体質には合わないんだろうと言って許してくれた。
そして今日も、努力してみようと、試したが…やっぱり駄目だったのだ。
健康ドリンクは自分の口と体に合わないと再認識しただけだった。
「まあいい、出来れば簡単に済ませたかったが」
そういってセオドアが手を振り上げる。途端に周囲に大量の人影が現れた。
それは、異様に無機質な目をしていた合成人間の群れだった。
「な…何故?!」
現在人類と合成人間は戦争状態にある。だのにどうして、人間であるセオドアが奴らに命令を下しているのか。
今の状況に対応するため、ジェイドは頭からその疑問を払いのける。
それよりも、ここをどう切り抜けるか。そう考えた時、
「よけて、ジェイド君!!」
とっさの声に、ジェイドは身をのけ反らせた。
その軌道の上を、先程どこかに転がっていった、中身が入ったままのジュースが飛んでいき、そしてセオドアの頭部に勢いよく当たった。
…さしもに全くの予想外の事だったのだろう。セオドアは膝をつき、唸って顔を覆い唸っている。
声がした方をジェイドが見る。そこには青い髪の少女が立っていた。
…その少女は、ジェイドが今日、「一番沢山見た顔」だ。
そして合成人間達が統制を失った、その一瞬を少女は見逃さなかった。
「とにかく一度、撤退するよ!ジェイド君っ!」
少女はジェイドの手を取り、駆け出した。
………
……
…遠く、どこまで来ただろうか。
追ってくる合成人間達を振り切るためにジェイド達はあちこちを駆け回ってきた。
そして気が付けば、ジェイドと少女は廃道ルート99にいた。
宵が訪れてからしばらくたったのか。普段は辺りを徘徊する合成人間達の気配も感じない。それ程に静まり返っている。
ここまでくれば大丈夫だろう。落ち着きと冷静さを取り戻し、少女に話しかける。
「お前は確か…スミレ、だよな。フラワリ―とかいうアイドルユニットの」
彼女の方はまだ息も整えられていない。頷くことでスミレはジェイドの質問に答えた。
そう、ジェイドを助けたのは今日LOMのイベントの目玉でもあったスミレ本人であったのだ。
「ひとまずは助かったぞ。礼を言う」
「いや、そもそも何でお前はあんなところにいたんだ?何かあの場所やあいつらについて、知っているのか?」
感謝の言葉もそこそこに、ジェイドが問い詰める。
もしかしたら、この少女は、スミレはやつらの関係者か何かなのか確認するためだ。
それに一つ、疑問もある。
ジェイドがアイドルであり、今日LOMでその姿を大量に見かけた存在でもあるスミレの事を知っているのは当然だ。
だが、何故スミレが一般人であるジェイドの事を、その名前を知っているのか。
「殆ど私も何も知らないけど…まあ出来る限りは話すね。」
ようやく会話可能になる程に回復して、スミレが説明をし始める。
その日はアイドル活動もオフで、ちょっとガンマ地区をふらついていた事。そして「兄の姿をした何か」を見かけたから、こっそりと後をつけて来た。
そうして眺めているうちに、突然ジェイドが表れ、「兄」がジェイドを殴りつけようとしたこと。咄嗟に転がってきたジュースを投げつけてやったことを。
「何だと…。おいっ」
彼女の話す言葉の中に聞き逃せない単語があることに、ジェイドは問いただした。
「兄の姿を見た…だと…。お前、まさか」
「あ、私はスミレ・レインズだよ。よろしくね、ジェイド君。君の話は生前の兄からよく聞いてたよ」
そういってジェイドに自己紹介する。
手を上げ振りながら挨拶するその仕草が、少しセオドアに似ているようだった。
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