アイビーの花束
おはじき
第1話 出会い
「ただいまー」
今日もまた、聞き慣れた愛おしい声とドアが開く音で目が覚める。
彼女の家に来てからもう一か月が過ぎ、僕の緊張感もどこか和らいでいた。
そのせいか暗がりで待つとすっかり寝入ってしまうようになっている。
「はぁ、残業しちゃったよ~、明日も朝早いのに……」
力の無い声は段々と近づいてきて、おかえりと静かに呟く僕の前を通り過ぎた。
彼女は鞄を床に置き、すぐにソファに寝ころんだ。
クッションに顔を埋めながらテーブルのリモコンに手を伸ばし、テレビをつける。
「もう23時かぁ、ニュースしかやってないじゃん」
不満気にそう口にすると重ねて溜息をついて、ゆっくりと起き上がった。
居間から寝室へ移動していつものように押し入れを開き、着替えを準備しているのが見える。脱衣所へ入っていくとすぐにシャワーを出す音が聞こえた。
僕はほんの少しの緊張感から解き放たれ、大きめに伸びをした。
彼女はシャワーの後、いつも同じリンゴジュースを飲む。
僕もよく飲むけど、他メーカーのリンゴジュースの方がおいしいと思う。
今までは友達や家族が結構な頻度で遊びに来ていたけど、最近はめっきり来なくなって冷蔵庫のリンゴジュースも大きいサイズから小さいサイズに変わっていた。
あと彼女は最近シャンプーも変え、前よりも少し甘いくて花のような香りがする。
僕がその香りを心待ちにしていると彼女は残業したからなのか、いつもより早くシャワーを終えた。長い時は2時間くらいお湯を張って、ゆったりしていることもある。
バスタオルを首にかけて、ふわふわの生地の抱きしめたら心地よさそうなルームウェア姿が見えた。華奢な足が大胆に出ているので、外に出たり宅配が来たりしないか僕はいつも心配をしていた。
晩御飯は外で済ましたらしく、リンゴジュースをいつものように飲み干すと歯磨きを始めてしまった。リズミカルに響く歯磨きの音も今では聞きなれた幸せの音の一つだ。
これはすぐに眠ってしまうだろうなと帰りを待っていた分、寂しくもあるけど明日は週末だから夜にはきっとずっと一緒に居られるはずだ。
家で過ごすことが多いのでまったりしている彼女を思う存分眺めていることができる。
明日彼女が仕事に行っている間、僕も週末に向けて準備をしなくちゃな。
暫くベッドの上でスマートフォンを触り、彼女はそのまま眠ってしまった。
また電気つけっぱなし、そろそろ学習してほしいなぁ。
彼女との出会いは特に何の変哲もなかったと思う。
ブラック企業勤めで体と精神を壊した僕は、本屋でアルバイトをしながら暮らしていた。
自宅近くのコンビニにはいつもお世話になっていて、その日は適当に買った肉まんを入り口付近で食べていた。
毎日食費にかけられるお金には限りがある。アルバイト生活を始めて早五年が経過していた。きっとこのまま、特に人の役に立つこともなく、なんとなく一生を終えるんだろうな。
アルバイト先と自宅の往復、遊びに行く金銭的余裕も交友関係も持たない僕はいつもそんなことを考えていた。
そしてこの予感は毎日少しずつ、でも着実に僕の精神を削り続けている。
また新たに社員として働こうと思っても面接で落ちて、落ちたことにホッとしている自分すらいる。こんなダメ人間が生きている意味って何かあるのかな。
寒さが強まる秋口の風は、ほんの少しの時間で肉まんを冷ました。
冷め切る前に最後の一口をほおばると、少し大きかったのか喉に詰まってしまった。
あ、やばい、飲み物を買わなかった。僕は胸を拳で叩き、勢いでなんとか飲み込もうとするが状況は全く変わらない。
今から飲み物買うって、間に合うか?最悪先に飲ませてもらうしか…
「あれぇ? お兄さん、だいじょうぶぅ?」
聞いたことのない女の人の声が背後からした。振り向くと、茶髪のくるくる髪で同じ年代くらいの女性がリンゴジュースを片手にこちらを見ていた。
「ふふ、これおいしいからあげるよ~」
彼女はリンゴジュースを僕に差し出し、ふにゃりと笑った。
普段の僕は見ず知らずの人から食べ物をもらったりしないけど、今は絶体絶命の緊急事態。
考えるより先に、手が伸びていた。
「おぉ、喉渇いてたんだぁ、それ、おいしいでしょお」
なんとか呼吸を取り戻した僕は、お礼を告げて返金のため財布を取り出した。
「いいんだよぅ、自分の分、まだあるからぁ」
恐ろしいほどゆったりとした喋り、よく見てみると頬も赤い。呼吸ができるようになってお酒の匂いが鼻をついた。
「うーん、寒いねぇ、じゃあ私は帰るからお兄さんも気を付けてねぇ」
風に吹かれ、少し肩を上げた彼女は袖に手を隠して小さく手を振った。
ふわふわした髪が風に揺れて遠のいていくのが見える。見えなくなるまで僕はその背中を眺めていた。
「ん…だ、さん…桜田さん!!」
苗字を大声で呼ばれ、思わず持っていた本を落とす。僕は慌てて本を拾いながら急いで返事をした。
「何をそんなにボーっとしてるんですか! もうレジの時間過ぎてますよ!」
腕時計を確認するとレジ交代から五分以上経っていた。
「す、すみません!!」
急いでレジへ走り、パートのおばさんに謝ると鋭く睨まれた。
もう一度謝るとおばさんは無言のままレジを交代して倉庫へ歩いて行ってしまった。
自分が悪いとわかっていながらも相手の態度に小さめの溜息がこぼれる。
僕は彼女にあったあの日から明らかにおかしくなってしまった。
朝起きてすぐ、シャワーを浴びる時も、ごはんを食べる時も、働いている間でさえもあの日の出来事が頭をよぎる。
気晴らしに音楽を聴いても、本を読んでも、映画を観ても、ふにゃりと笑ったあの顔が忘れられない。それどころか、どこかで会ったことがあるような気がして、運命なんじゃないかなんて考えている時もあった。
もちろん、僕はこの気持ちの正体を知っている。小学校の時、隣のクラスだった女の子を追いかけていた時と同じだ。たった一度言葉を交わしただけで?この歳になって?今さらこんなご身分で?恋愛なんて滅相もない。あれだけ可愛らしいなら彼氏もいることだろう。
自分とは釣り合わない、指先すらも届かない高嶺の花だとわかっていた。
居るはずもないのに今この瞬間も、入店するお客様やお会計に来るお客様の中に居ないか探してしまっている。僕の想いは強まる一方で、なんだかんだ似ていると思う人を毎日のように見つけては名残おしい気持ちで背中を見送っていた。
そうして一週間ほど経つころには、またあの日と同じ時間帯にコンビニへ足を運んでいた。報われないとわかっているのに、姿だけでも見れたらなんて本当に僕は女々しい男だな。
雑誌コーナーで昔集めていた漫画の続巻を眺めながら暫く待つと、窓の向こうには彼女がいた。彼女は、対向車線側の歩道を歩いていて、そのままあの日帰った方向へ歩いている。
心臓はとても高鳴った。前を通り過ぎるのに1分もかからなかったと思うが、その間は瞬きすら惜しく感じられた。
目的を果たした僕は何も買わないのは不自然なので、あの日もらったリンゴジュースを買って店を出た。
僕の自宅は彼女の家と同じ方向にある。帰り道を歩いていると、信号で足を止める彼女の姿が遠くに見えた。ふわふわの髪があの日と同じように風になびいている。
少しずつ歩を進め、数十メートル近くまでくると僕はスマートフォンを触るフリをしながら立ち止まった。
彼女が前進したのを見計らって僕も歩き始める。その先を右折して、直進すれば自宅に着く。
彼女は僕と同じ帰り道をたどっていた。家がこっちの方なのかな、僕の家はすぐそこだけど、いったいどこに住んでいるのだろう。そんなことを考えていると彼女は歩道を外れ、僕のアパートの真向かいに位置するアパートの階段を上がっていった。
驚きすぎて、暫く彼女が入っていったアパートを下から見ていると、カギを開ける姿が見えた。遂に部屋までどこかわかってしまった。いや、でも僕の自宅はここだし、彼女をつけていたわけでは絶対にない。そう言い聞かせて自宅に戻った。
どこかで見たことがあるような感覚は、無意識に視界に入ったことが今までにきっとあったからだったのだろう。僕は年甲斐もなく運命なんて信じそうになった自分を恥じた。
居間のカーテンを閉めようと窓に近づくと、彼女の部屋が正面にくることに気が付いた。
こんな偶然があり得るだろうか? 映画やドラマのような展開に落ちるばかりの僕の人生は簡単に高揚していく。また運命なんてキーワードが頭に響き渡る。
マフラーやコートを脱ぎ、ソファに座る彼女が見えた。
いや、覗きとかそんなの絶対だめだ、僕は勢いよくカーテンを閉め、布団に包まり、ぎゅっと目を閉じた。
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