第34話 サウスポーの頂点
真田の球歴は栄光に彩られている。
リトル時代の才能はまだ開花前であったが、シニアにおいては世界選手権優勝。
そして当時から甲子園ベスト4常連、春夏連覇の歴史を誇る大阪光陰へ誘われる。
その真田が入学する直前に、大阪光陰は史上初の春夏春の三連覇を達成。
自分の力で頂点への最後の一歩を踏み出すという野望こそかなわなかったが、これからこの覇権をずっと続けていくのに、自分の力が必要だとは分かっていた。
甲子園でビューとなった神奈川湘南との試合は、同じく優勝候補であったチームを完封。
まさに鮮烈な甲子園デビューを飾ったのである。
だがそこからは、苦難と言うのとはまた違う、泥に塗れた試合となった。
あの、化け物のような、あるいはそれ以上に異形な、形容しがたい混沌を秘めたピッチャー。
佐藤直史が、九回までに一失点してくれていれば、勝ってたのは自分たちであった。
そして甲子園球場で場外ホームランを打てるような、文字通りの怪物がいなければ、勝ってたのは自分たちで、そのまま優勝まで駆け抜けていたはずなのだ。
次の年の夏。今度こそと挑戦者として挑んだ夏の決勝。
佐藤直史は相変わらずで、新しいキャッチャーを相棒に全力を出して投げた真田を、せせら笑うようなピッチングを達成した。
天才であり、怪物であり、そして異形。
真田は直史のことをそう思っている。
失われた栄光を取り戻す機会は、あと二回残されていた。
神宮では天才の弟の土をつけ、センバツに臨んだ。
水野。あいつもまた厄介なピッチャーだった。
壮絶な投げ合いの末に、漁夫の利を得たのが白富東だった。
これが最後の雪辱を晴らす機会である。
自分にとって最後の甲子園であるが、それはどうでもいい。
自分はただ、一度でいいから甲子園で白富東に勝ちたいのだ。
甲子園の優勝もついてくる決勝戦での対決となったが、もはや優勝旗は真田にとってはオマケでしかない。
160kmを投げる怪物サウスポーに、自分の力で投げ勝ってみせる。
大阪光陰の監督木下の目の前で、二人のサウスポーの決戦が行われている。
あちらの方は肩が軽すぎて上ずっているようにも見えるが、それで160kmを出されてしまってはどうにもならない。
(県では161kmまで出た言うてたけど、計り間違いやなかったか)
ホップして見える、などとマシンなら160kmでも打ってきた、大阪光陰のレギュラーが悔しそうに言っている。
確かあの試合では最終回でも160kmを記録していたはずだ。
甲子園の一回戦では、そこまでは出なかったので安心していたのだが。
(兄貴よりも白石の方に似てるんちゃうか)
舞台が大きければ大きいほど、その能力を発揮する。
主人公型のピッチャーか。
なお、そう思わせている怪物は、単に頭の中がピンク色なだけである。
分が悪い。
木下をしてそう思わせる、相手の制圧力である。
だいたい相手はいったいなんなのだ。
こちらは地元の強豪で、史上最強とも言われたエリート集団。
対するあちらは、金髪に外国人に、シニアどころか中学軟式も未経験。
二年生にいる選手だって、大阪光陰のベンチメンバーと、シニア時代の経歴ではそれほど変わらないか、むしろ劣るほどだ。
それなのに今年もまた、ショートの一年を三番に入れて、白石の代役か。
大阪光陰は確かにエリートの集団であるが、入学してすぐの一年などは、だいたい我が強すぎて使えない。
それをちゃんとチームとして機能させていくのに、どれだけの苦労があると思っているのか。
メジャーかぶれの思想で成長させた選手に、日本の野球をいつまで蹂躙させなければいけないのだ。
甲子園は日本のものだ。
もちろん木下監督も、これまでに様々なチームには負けてきた。だがこれほど負けたくないと思うのは初めてだ。
真田と後藤。二人ともプロでも主戦力になる逸材だ。
毛利と明石も、充分にドラフトにかかるレベルだ。今年はレギュラーに三年が多く、これほど戦力が充実しているのは、二年前の夏のチームぐらいである。
そう、二年前にも負けたのだ。
佐藤の長男も、白石ももういない。あの時とは監督も代わった。
去年、悪魔のように凡打を積み上げていった佐藤直史がいない。
おそらく今年勝てなければ、今後二年は全国制覇を目指すのは難しい。
戦力の補充はちゃんと出来ているのだが、頂点を知っている人間がいなくなり、選手たちの精神力とも言えるものが、絶対的な自信を持っていない。
最後の最後で、どうしても勝つということを経験させたいのだ。
佐藤直史はもういない。
だから一点を取って勝とう。
球に抑えがかかるようになってきた。
地面に向かってまっすぐ並行に投げれば、マウンドが斜面である以上、当然ながらベースの手前でバウンドする。
だがそれが自分の視覚的には、浮いてきているように見える。
(ボールって浮くものなのか?)
上杉の球は浮くと言われているが、少なくとも大滝の160kmは浮いていなかったはずだ。
直前までは七割の力で投げるつもりで、最後の瞬間に九割越えの力で弾く。
すると上手く、ボールがマウンドからは浮いて見える。
危険なはずの高めで、簡単にストライクが取れていく。
さすがに全てが三振とはいかないが、内野フライでどんどんとバッターが凡退していく。
(兄ちゃんはどういう感じだったのかな)
マウンドから眺めてみれば、客席の直史と目が合った。
もう恵美理と話すこともなく、じっと武史を見ているようだ。
こちらの攻撃の間は知らないが。
あの人は、他人の才能や能力を素直に認める人だ。
ただそれ以上に、絶対的に自分を曲げないので、卑屈にならずにいられる。
一本だけヒットを打たれてしまったので、兄と同じような記録は残せない。
それでも越えることが出来るとしたら、ひたすらアウトを重ねていくだけ。
また160kmが出た。
ただそれでもマリスタで出た、161kmには及ばない。
何が足りないのか。試合も中盤に入り、もうこれが今の上限のはずなのだ。
「しっかし真田もどうにかならんのかな」
四回が終わって、真田の方はパーフェクトピッチングである。
左打者相手に無双する真田の姿は、ずっと変わっていない。
ただこちらの強力な右の打者まで、完全に封じられている。
両チーム共に、エースが良すぎてまともにランナーが出ない。
いや、武史の方は、あまり楽観視もしていられない。
中盤からは浮き球がなく、あえて高めに投げた球で空振りが取れているが、いくら160kmでも大阪光陰の打者なら何人かは、ヒット性の当たりを打てるだろう。
(我ながら……よくあんなチームに去年は勝てたもんだ)
正確には、直史が勝たせたのだ。
その前の年も。あのコントロールの鬼が。
大介が打つまで0に封じていればいい。
極端に言ってしまえば、直史はそう考えていた。
五回の表は、右打者の鬼塚からの打順となる。
足の速さとリード面への集中を考えて、六番に倉田を下げたのは、ここまで良くも悪くも作用していない。
鬼塚は色々と考えている。あるいはセーフティバントなども考えているのだが、大阪光陰の守備を相手にバントはかなり難しいだろう。
左打者が手も足も出ていない今、四番から始まる右打者の打撃で、どうにか打開を図らなくてはいけない。
鬼塚としても、難しい球はカットにいって、球数を増やして失投を待とうとしている。
ストレートは大丈夫だ。カーブは低めは見逃せばボールになる。
そこにスライダーを投げ込まれた。
切れ味の鋭いスライダーの変化に、思わず腰を引きながらのスイングをして内野ゴロ。
一塁まで全力疾走するが、そう都合よくエラーをしてくれるはずもない。
五番の孝司も六番の倉田も、結局は凡退である。
毎回三振の真田には、全く隙がない。執念を感じる。
二度も夏の甲子園で負けて、せっかく神宮で勝ったと思ったらセンバツでは勝負すら出来なくて、最後の夏だ。
真田の野球人生はこの後も続いていくのだろうが、大阪光陰の一員として白富東と甲子園で戦うのは、これが最後になる。
ピッチャーの能力が高いと、ここまで試合は淡々と進むものか。
だが相性問題を考えると、大阪光陰の方が有利であるはずだ。
真田の対左打者の対戦成績は、ほとんど全勝に近い。
白富東は、打てる三番までが全員左である。
秦野としても考えないわけではなかったが、だからといって右だから打てるというピッチャーでもない。
六回、パーフェクトに抑えられている白富東は、この回もツーアウト。
そしてラストバッターの武史は、右打席に入った。
打率としては、やや左の方が高いし、長打も出やすい。
だが真田相手には、こちらも試すしかない。第一打席は左で打って、手も足も出なかったのだ。
ラストバッターと武史を侮るはずもない。去年は四番を打っていたのだ。
真田にピッチャー専念といかないだけ、大阪光陰の打撃陣の事情は苦しい。
もっともそれだけ、真田が打撃にも優れた選手であるということもある。
真田は今日は、右バッターへのスライダーは効果的に少ない数を投げている。
ストレートとカーブの割合が増えて、その二つの球種、特にストレートが磨かれている。
右打者にとってのアウトロー、左打者にとってのインローが、かなり効果的だ。
この部分だけは、特にコントロールを磨き上げている。
スライダーよりはマシだ。
サウスポーの真田はストレートもやや角度がついて懐に入ってくるので、審判の判断だとややボール気味でもストライクになる。
ただそれでも、狙うならそこが一番。
四球目にほんの少しゾーンに掠るような球を、狙って流し打つ。
ファーストの頭を越えて、クリーンヒット。パーフェクトは途切れた。
そして次のバッターは、白富東で最も打率の高い、長打も打てるアレク。
(タケがピッチャーでなければ、リスク承知で走らせたいんだけどなあ)
秦野としては、サウスポーの真田から走らせて、得点圏にランナーを進めるのは必要なリスクだと考える。
ランナーがピッチャーの武史でさなければ、だが。
下手に走らせてスタミナを削るのも、クロスプレイの危険も、どちらも避けなくてはいけない。
アレクに期待するしかないのだが――。
最初か完全に体が開いた、確かにスライダーを見安そうな体勢。
だがそんな打ち方で、まともにヒットが打てるはずはなかろうに。
外角は打てない。そうバッテリーも判断した。
アウトローに投げ込む真田のフォームと一緒に、アレクの右足が浮いた。
体をねじる振り子打法の変形。そしてそこから、外角のボールにバットを伸ばす。
ジャストミートした球はレフト前への強烈なライナーヒットになった。
ツーアウトからもランナー一二塁となったが、ここで一点というのはかなり難しい。
振り子打法の変形は、おそらくアレクも前から考えていたのだろうし、ボール球でもバットが届くなら打ってしまうアレクが特殊なのだ。
だがこのチャンスをどうにかものにしたい。
哲平にいきなりアレクと同じ真似をさせても難しいだろうし、あちらももう警戒しているだろう。
(あんな打ち方でヒットが打てるなら、先に相談しておけっての)
そのあたりがアレクのフリーダムなところである。
それはともかくとして、この場面でどう動くか。
哲平がこのツーアウトから出来ることはあまり多くない。それこそセーフティで塁に出ることぐらいだが、それも難しい。
右の代打を出そうにも、真田に通用するような代打の切り札はいないし、セカンドを控えにするのも厳しい。
(動けん)
ここで動かないのは致命的な気もするが、どうにもならない。
上手くいきますようにと祈るぐらいしかないのだが、それはしょせん神頼みである。
哲平もバントの姿勢を見せたりしたのだが、やはりこの程度では揺さぶれない。
結局はピッチャーゴロでファーストアウトと、悪送球などのミスもなかった。
こういう無得点で競った試合で起こるのが、ミスからの失点である。
被安打一と被安打二であるが、それでもまだ守備陣には緊張が見られる。
六回の裏は大阪光陰も下位打線で、ここで木下監督が動いた。
守備力が重視される八番に代えて、打撃の専門をバッターボックスに送る。
これまでの展開からすると、九回までにはもう一度こういった場面は出てくるはずである。
だが先に動いた。八回や九回の攻撃の代打だと、むしろ攻撃側のプレッシャーも多いからだろう。
だがこれも武史は、三振で片付ける。
九番の木村はリード専念の九番なので、打者としてもそれほど悪くはないのだが、ここも凡退。
先頭打者の毛利に戻る。
二打席目の毛利は、ストレートを打ってそれが内野の頭を越えた。
だがそこから二塁に進むのが精一杯で、三塁までは踏ませていない。
基本的にランナーは、二塁にいるのと三塁にいるのでは、圧倒的に危険度が違う。
ツーアウトではあるが、この毛利と次の明石は、走力も注意である。
さっきは高めのストレートをかするように打たれてそれが外野の前に飛んだが、今ならさっきよりもさらに球威が増している。
ナックルカーブから入り、低めの外れるムービングを振らせて、最後には高めのストレート。
今度はバットに当たることもなく三振である。
試合が本当に動かない。
動きそうだと思ったところで、またぴたりと止まってしまう。
ラスト三イニングで、どう試合が展開するか。
このままだと延長が現実的になってくる。
もしそうなら、真田にとっては夏の甲子園決勝で、連続で延長を投げることになる。
武史としては、九回までは投げきるつもりであった。
だが延長戦を戦ったことがない。
一方の真田は延長戦の経験も豊富であり、集中力もそこで途切れることがない。
(延長はしたくない)
それはだが、秦野も木下も同じことである。
秦野としては武史の集中力が心配であるし、木下ももう、真田には少しでも少ない球数で終えて欲しい。
一年の夏から投げ続けて、三年の春には軽い故障をしたのだ。
甲子園は真田自身の願いでもあるため勝っておきたいが、この後の国体とワールドカップは、本人を説得して出さないつもりでいる。
全国広しと言えども、大介を真田ほど抑えたピッチャーは、現役時代ではいなかったのだ。
ここからは体を休めて、ドラフトを迎えて、おそらく一年目は体作りになるだろう。
残り三イニング。
監督の采配が必要な場面で、どう動けるか。
試合の決着は、時間の流と共に迫ってきている。
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