四年目・夏 経験の季節
第20話 過ぎる夏
県内一強、という状態が高校野球においては存在することがある。
そこまではいかなくても今の大阪などは、ほとんど大阪光陰と理聖舎で二強であるとも言われている。
それと同じような状況が、今の千葉である。いや、むしろ千葉こそがその状況であるのか。
170ほどのチームがある千葉県において、この三年間で白富東以外に甲子園に出たチームは、21世紀枠候補にもなった三里だけ。
現実的に今の状況が続くなら、まさに千葉は白富一強と言える。
実は他にもこういった県はある。福島、栃木、和歌山などである。高知も瑞雲が出てくるまでは、長く一強の状態が続いた。
新たに体育科を創設し、公立ながらわずかではあるがスポーツ推薦を導入した白富東は、今後もさらに覇権を続けていくように見える。
だが実際にこのチームを率いる秦野は、そうはならないだろうと確信している。
理由は指導陣の契約が切れるからである。
秦野もそれ以外のコーチも、基本的にはセイバーに選ばれたものだ。
秦野の契約は厳密に言えば淳たちの世代が卒業するまで。まあおまけで長く見てもらって、悟たちの夏が終わるまでである。
それ以降の指導陣を雇う、金銭的な背景がない。
これが私立などであれば寄付金なり、学費などを回すことが可能である。
だが白富東は公立だ。体育科の創設で部費は増えたが、高いレベルのコーチ陣を維持するには全く金銭的に足りていないのだ。
そもそもコーチ陣も、日本人一名を除いては、そろそろアメリカに帰りたいと思っていたりもする。
セイバーにしても、白富東での実験は、一通りは完了したと考えていた。
現在のコーチ陣への給与を出しているのは、実質的にはイリヤの寄付金による。
コーチ陣がいなくなれば、どれだけ秦野が頑張ろうと手が足りない。
研究班がある程度フォローしてくれるのは期待出来るのだが、ここで体育科とスポーツ推薦が仇となる。
日本のスポーツ選手は、スポーツでの実績がない指導者の指導を、あまり聞かない傾向にあるのだ。
特に野球の世界はそうで、プロ野球の監督を見てみれば、選手としても大きな実績を残した人物ばかりである。
研究班がいくらデータを出しプログラムメニューを作ってくれても、それに選手が従わないかもしれない。
再来年の春には、セイバーの指導を受けた最初の世代のキャプテンが、教職を取って戻ってきたいと言っているらしい。
高峰も長く部長をやっていてくれるから、北村がもどってくればまず部長をやってもらって、それから監督をすればいいだろう。
そもそも公立であるから、高峰も転勤があってもおかしくないのだ。
だが秦野はボランティアで監督をやっているわけではない。実際に今も時々、高校だけならず大学やシニアから、監督やコーチの声はかかっているのだ。
戻ってくる北村は早稲谷のレギュラーでクリーンナップを打っている人間だから、実績としては充分だろう。
だがそれでも今期からの一年の体力にリソースを割り振った、野球しか知らないバカどもを黙らせるのは難しいと思う。
大阪光陰の木下監督なども、大学野球では控えの捕手であったらしいが、私立と公立ではやはり条件が違う。
秦野にしても妻の仕事に合わせるべく、もう少し都心近くで仕事を探すつもりだ。
実はセイバーからも打診は受けているのだが、それにはまだ返事をしていない。
勝ちたい監督がいないチームでは、甲子園には行けない。
秦野の見立てでは、悟たちの世代までは、甲子園を普通に狙っていけるだろう。全国制覇の可能性すらある。
だが覇権はその後二年までで、おそらく千葉は戦国の時代となる。
勝つためのメソッドが、一般的な工夫などでは追いつけないものであるからだ。金銭的な援助と設備の伝手がなければ、選手の才能がどの方面にあるのか分からない。
簡単に言ってしまえば、イチローに松井秀喜の技術を教えても大成しないであろうということだ。
高校入学後直後の春の大会で、悟はホームランが打てるようになった。
それまではいくら飛ばしても、外野の頭を越すのが精一杯であったのにだ。
自分自身でも気付いていなかった、素質に最も合ったスイングなどを当てはめれば、一気に急成長するのだ。
だがその体質、体格、生来の特性などを調べるのに、金と伝手が必要になる。
こんなことは日本のプロ野球ではやっていない。セイバーに聞いたところによると、こんな厳密な調査をしているのは、野球ではないのである。
クラシックバレエだ。
クラシックバレエは欧米の中でも特にヨーロッパが本場であるが、あちらでは両親や祖父母の体質と、持って生まれた骨格によっては、名門バレエスクールへは入学すら許されない。
まさに選ばれた人間しか入れない世界なのだ。
セイバーがやっているのは、裾野を広げるために一般へもある程度の技術は開放しているが、肉体的な素質だけを言うと、三年では武史とアレク、二年では孝司と哲平とトニー、一年だと悟と宇垣が、NPBレベル以上の素質を持っている。
鬼塚はちょっと足らず、淳は素質よりも技術の割合の方が大きい。そう、技術で才能の差は覆せるのだ。
その意味では本来の肉体的な素質と、実際に残した成績に最も乖離があるのが直史である。
肉体的な成長は、遺伝子がある程度は決めると言っても、生活習慣などでも差が出る。
野球部では生活管理までも行っているが、その一つが睡眠時間のチェックである。
高校生の段階では、まだ成長が止まっていない生徒は、特に男子には多い。
最低でも夜の11時には寝て、七時間は睡眠を確保するように命令してある。
もっともこれも、人間によっては睡眠時間が短くても良かったり、長くなくてはいけない者もいたりするのだが、さすがにそこまでの検査は出来ず、統計的に管理している。
アレルギーでもない限りは一日一個は必ず卵を食べるようには言ってあるし、運動後にはフルーツの摂取は必須である。プロテインなどは部の方で用意してあるぐらいだ。
トレーニングというのは、負荷だけで成立するものではない。
かつてはとにかく負荷の強いトレーニングを長時間行う根性論が全盛であったが、今では休息と栄養補給の重要さが分かっている。
だがそんな効率を無視した猛練習から、伸びてくる選手がいるという例外も事実なのである。ここは一般論と統計で判断するしかない。あとは秦野の指導者としての勘だ。
多くの練習試合をこなし、ようやく夏の地方大会が始まる。
三年生にとっては最後の大会であり、秦野としてはこれだけの戦力を与えられているだけに、勝って当然というプレッシャーがある。
だがそれを選手に見せてはいけない。時々会える嫁に愚痴と弱音を吐くぐらいで、あとは国立や鶴橋といった指導者陣で飲む時に、素直な愚痴が出るぐらいだ。
夏の甲子園を戦い、そして全国の頂点に上り詰めるために、監督がなすべきこと。
それは選手の運用である。試合の采配よりもむしろ、地方大会ではこちらの方が重要になるかもしれない。
主力選手を故障させないように、そして試合勘を鈍らせない程度に起用する。
とりあえず武史が故障したら、全国制覇はまず無理である。
野球はやっぱりピッチャーと言えるのは、こういうところからだろう。
あとは外野の要で点が取れるアレク、ユーティリティプレーヤーの鬼塚が重要であろうか。
キャッチャーは上山を三人目の控えに入れたので、最悪どちらかが故障してもどうにかなる。
戦力としての数値と、それがチームにおいてどれだけ重要かは別の話なのだ。
悟などは一年の春からスタメンで、小柄でショートの三番ホームラン打者と、白石二世などとちょこちょこ呼ばれているが、悟が故障しても他の選手で代替が可能である。
守備力としては佐伯、打力も他の数人で埋めればいい。
そういう点から見ると、四番目に重要な選手は、左のアンダースローの淳であろうか。
これは他に代替の利かない選手である。
部内の士気統一という点では、宇垣が努力を隠さなくなったのが大きい。
彼にとっては努力と言うよりは、やるべきことをやるだけ、という意識なのだろうが。
宇垣の言動や行動は、確かに不協和音をもたらしていた。
白富東というのは、とにかく研究班相手であっても、選手間のリスペクトはちゃんと機能しているチームであったのだ。
仲良しこよしがチームワークなのではない。もちろんそれにこしたことはないが、チーム内でもポジション獲得の競争があったり、試合においては協力し合える。それが正しいチームのあり方だ。
あとはとにかくピッチャーの消耗を抑えることだ。
もちろんあまり投げさせなさ過ぎることも悪いが、ピッチャーの体力を温存出来たからこそ、去年の夏は勝てたとも言える。
本来そこまでの体力はないであろう直史が、完全に自分で調整して計算して、決勝の再試合24イニングを完封したのだ。
大会前、最後の紅白戦が終わる。
ベンチメンバーを中心に、複数のポジションで競争が発生する。
やはり問題はサードになる。
他のポジションには、打って守れる選手が当てはまる。動かす余地がない。
終盤の守備固めに入るなら、ある程度の交代はあるだろう。
(やっぱりキャッチャーにはファーストとサードの適性もあるんだな)
ボールを逸らしたらまずいという点では、キャッチャーとファーストには共通点がある。
あとは強い球を受けるという点では、サードにもある程度応用が利く。
だがキャッチャーはあくまでも専門職なので、やはり他に一ポジションまでにしておきたい。
打撃力などの総合力で考えると、サードのスタメンで使うのは曽田か西園寺か宇垣となる。
単純な打力だと、スタンドまで持っていけるパワーのある宇垣になるのだが、曽田も西園寺も練習試合などでは打率を残している。
それとある程度の年功序列は配慮すべきではと、また頭の片隅に浮かぶのだ。
研究班の人間は、スコアラーとしてベンチ入りしてもらうことに決めた。
マネージャーたちには悪いが、これが情報力を使う最適の手段である。
白富東はいつの間にか、ベンチ入りメンバーの選択と、先発の選出に、頭を悩ませるほどの戦力が育ってきているのだ。
弱いチームをある程度強くするのは簡単だ。
そこそこのチームで甲子園を目指すことも、やるべきことはそれほど難しくはない。
だが強いチームを、全国制覇に導くのは難しい。
選択肢が多いだけに、戦力の準備と采配が、非常に重要になってくる。
宇垣の打力をどうするべきか。
優れた打力の持ち主ではあるが、悟と違ってまだ高校野球の変化球に対応する力は低い。
アベレージを残すなら西園寺の方が上だろうし、守備力とアベレージのバランスなら曽田の方が上であろう。
試合の動きの中で、代打を使う場面はあるだろう。
だが打撃に関しては、もう完全に代打と自分の役割を割り切った大仏が、かなりのバッティングに成長している。
もっとも宇垣は左打者であるので、左右の代打が揃っていることは大きい。
ベンチ入りメンバーを決めるのにも悩んだが、スタメンを決めるのにも悩む。
長谷などは明らかな代走要員なので、むしろ使いやすいのだが。
この地方大会も、選手たちの選別の場だ。
他の学校のチームには悪いが、準々決勝ぐらいまでは、白富東の実戦練習になってもらおう。
秦野の思考は傲慢であるが、現実的ではある。
今の白富東に勝てるチームなど、日本中を見回してもそうそうはいないだろう。
多くのチームの三年生の最後の夏を、絶望的なものとしてしまうことは分かった上で、秦野は全国制覇への最善手を考え続けるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます