エースはまだ自分の限界を知らない[第四部A 続・白い軌跡]

草野猫彦

四年目・春 再生の季節

第1話 こぼれた宝石

 自分がプロ野球選手になって、野球で生きていくというイメージを、明確に持てる人間がどれだけいるだろう。

 少なくともこの年、白富東高校に入学した水上悟は、その中の一人である。

 小学校は学童野球、中学からはシニアでプレイさせてもらった悟は、中学三年の春を迎える時、練習試合のフライを飛び込んでキャッチし、左手の靭帯を切った。

 利き手である右手ではないが、保存療法でも治癒するのに半年近くかかり、中学最後のシーズンを丸々棒に振った。


 同じ頃父が、千葉県にある会社に出向となった。

 本人は溜め息をつきつつ曰く、給料は良くなるが実質のエリートコースからの脱落であるそうだ。

「まあそれでも人生勝ち組の方ではあるかな。悟を大学まで出してやることは出来そうだし」

 自嘲するように言った父であったが、そこからは真剣な表情になる。

「悟は今でも本気で、プロ野球の選手になりたいのか?」

 そう言われて、左手をテーピングでガチガチに固めた悟は言葉に詰まった。

 こんな大きな怪我をするまでは、まだ無邪気に言えた。

「体を動かせない間、どうやったらプロになれるのか、じっくり調べてみるといい。父さんも少し調べたが、プロになるのも難しいが、それを一生の仕事にするのはもっと難しいからな」


 今の時代は調べようと思えば、図書館に行かずともネットで色々と調べられる。

 プロ野球選手になったとしても、30歳前に引退する者は多い。

 その中ではドラフトで上位指名されながらも、一軍に一度も上がらなかった者もいるという。

 また体格に関しても、自分の身長は大きいとは言えない。プロならず高校野球でも、小さい方だ。中三の一年間は体を激しく動かすことが出来なかった影響もあったのか、2cmしか身長は伸びなかった。


 自分では守備も、走力も、そして何よりヒットを量産することを自慢にしていたが、この先の上のレベルでヒットが打てるのか。

 体格の割には長打も打てる自負はあったが、上のピッチャーの球も打てるのか。

 何より重要なのは、高校の三年間で、どれだけ自分の実力を伸ばせるか。

 転校や怪我の影響もあって、高校のスカウトからは見捨てられた。

 それでも野球強豪の私立に入って、上を目指すつもりはある。


 ただぼんやりとだが、おそらく確実だと感じるのは、普通にやっていては自分はプロにはなれない。

 高校でみっちりと鍛え、大学でも野球を続け、社会人にまで進むか。

 おそらく様々な経験を積み重ねなければ、プロの世界には到達出来ない。

 そしてただプロになることだけを考えていては、その先が見えない。


 全てを野球に捧げてプロになって、そのまま野球で食べていけるのか。

 引退後の野球選手の仕事などを見ても、そんなに多いとは思えない。

 地元千葉でプレイした里見選手がネットで配信している動画なども見たが、コーチや監督などの仕事も、かなり不安定であるようだ。

 むしろ引退したら知名度を活かして芸能界か、放送局と契約して解説者などを続けるほうがいいのではないか。

 あとは普通に現場ではなく、球団職員として雇用されるという道もある。


 ただどの選択肢であっても、大卒の方が良さそうではある。

 引退後の活動はその球団だけでなく、大学時代の学閥が生きてくるようだ。

 なんだか世知辛い世の中であるが、父に言わせると「世の中そんなもん」らしい。




 そして悟は、進学先を考えた。

 高校でも野球をやることは決めている。そしておそらく、大学野球を経由する。

 千葉県で現在一強と言われているのは、公立でスポーツ推薦も特待生もない白富東である。

 初の甲子園出場を決めてから、三期連続で出場し、センバツではついに全国制覇を成し遂げた。

 夏の優勝候補でもあり、色々と話題になっているのは、その練習やトレーニングの先進性だ。

 寄付金によって揃えられたその設備は、おおよその私立に優るとも劣らないものだろう。


 だがここは、悟の頭ではとても受からない。

 やはり私立かと考えると、トーチバ、東雲、勇名館の三つが候補になる。

 トーチバは内部進学で東都リーグの強豪東名大に進めるかもしれないが、特待生でも推薦でもない悟が入っても、通学に時間がかかる。それは勇名館も同じだ。一応寮はあるが。

 通学に時間をかけるぐらいなら、野球に時間をかけたい。そう思った悟は、東雲を選ぶことにした。これが夏ごろの話である。


 だが進路相談で担任と話したところ、今年から白富東ではスポーツ推薦の枠が生まれるとのこと。

 どのみち夏にはまだ回復していなかった悟は、学校説明会に付随した体験入部にも参加していない。

 だが白富東であれば家からも近く、そして大学の推薦枠もあり、何より野球が素晴らしい環境で出来る。

 シニア時代の監督に話せば、東京のチームを紹介されたのかもしれないが、そちらに特待生で入るのは無理であり、寮で暮らすのにも金がかかる。

 父は心配するなと言ってくれたが、テレビでも紹介されるような白富東に、行ってみたいと思ったのだ。




 一月に実施されたスポーツ推薦の試験は、六人の枠に100人以上が群がる可能性もあるらしい。

 これは夏の大会を白富東が制して春夏連覇を果たしたのと、秋の大会でも関東で優勝し、センバツを確定させたからだ。

 同じ県内のチームには敵がなく、センバツのメンバーでこのまま夏も戦うとすると、いきなり一年の夏から甲子園に行ける可能性は高い。

 それに、少なくとも悟には打算もある。


 白富東は今年まで、完全に試験で高得点を取るしか、入学する手段がなかった。留学生などはそもそも例外だ。

 そのため野球の実力はあり、白富東を志望しても、学力で入学できなかった野球特化の人材は、現在の一二年生にはいない。

 最初から突出した選手は少なく、指導と育成である程度のスペックに至っているはずなのだ。

 もっとも、頭脳も野球も優れた完璧超人は除く。

 金髪の鬼塚選手などは、あれでも本当に頭がいいらしいので、人は本当に見かけによらない。


 公立へのスポーツ推薦は、中学時代によほどおかしなことをしていない限り、内申の問題はないはずである。

 もっとも悟は根が真面目であるし、怪我で最後のシーズンを棒に振ったということもあり、同情を買ってはいる。

 滑り止めの東雲は、それほど学力が高くなくても入学出来るので、ある程度はリハビリにも力を入れることが出来た。

 あくまでも怪我をしたのは左手なので、試験内容にバッティングがないのは助かった。


 東雲の合格が確定してからは、本格的にトレーニングを開始した。

 ここで怪我をしてはどうにもならないので、それだけは気を付けた。

 心肺能力も落ちているようであったが、試験内容には持久走もない。

 遠投能力を除けば足腰の瞬発力がものを言う内容だったので、そこにとにかく気合を入れたものだ。

 そして試験当日を迎えた。




 およそ80人の受験者を見ても、悟は別に緊張などはしなかった。

 だがほとんどの受験生が悟よりも体格がいいのには参った。

 そしてどうやら受験生の分け方で、およそ合格者の候補は既に決まっているらしい。


 夏の体験入部で、この試験では見られない、野球の能力も見られた者たち。

 どうやらそれがAグループには揃っているようだ。

 内申点は関係ないのは確かだが、どうやら野球の実力が全く関係ないというのも建前だ。

 怪我で参加出来なかった悟は、よほどの成績を残さない限り、合格出来ないのではと思った。


 だが試験自体は問題なかった。

 少なくともDグループの中では、全ての項目でトップを取った。

 それにどうもこのDグループというのは、夏の体験入部に参加していなかった生徒が集まっているようだ。

 そして身体能力は高いが野球の能力は微妙な生徒が揃っていたらしい。

 ただ野球というのは、一時期からすると随分と競技人口は減ったが、それでもスポーツの花形だ。

 シニアまでなら身体能力が高い人間が揃っていても当然なのだ。

 つまり身体能力も高く、野球も上手いのがAグループではあるのだ。


 だがどうやら、自分はかなりの好評価を得たという自信はあった。

 面接試験もあったが、それでシニア時代のことと、怪我の治療を説明出来たのもよかったかもしれない。

 体験入部に参加出来なかった、故障中であった素材。

 そういう見方をしてみれば、悟の合格の可能性は高い。


 だがまさか、あのレジェンドから声をかけられるとは。

「おめでとう。面接とか内申がよほどひどくない限り、これで決まりだな」

 佐藤直史がそこにいた。




 バッティングに関しては、まだまだスイングが元に戻っていないという自覚はあった。

 だがそれを度外視しても、レジェンドのボールは凄かった。

 ヒット性の当たりは、かなり打たせてくれたものだと思う。

 サイドスローやアンダースロー、さらにはサウスポーまで見せてくれて、これが世界最高レベルの技巧派か、と驚きを隠せなかった。


 自分が入学した時には、もうこの人はいないというのが、ものすごく残念に感じたものだ。

 合格の連絡が伝えられてからは、近所の公園などで体を動かし、キレを戻すことに専念した。

 焦る。

 走ったり飛んだり投げたりといった、一人でやる感覚は、肘が完治してからの運動で、かなり戻ってきた。

 それでも最低限の受験勉強はする必要があったし、スポーツ推薦の話を聞いてからは、基礎的な体力を元に戻すのが精一杯だった。

 ボールを使った練習は、幸いにも禁止されていない公園などで、投げるぐらいは練習が出来たが。


 トップの成績で合格したと言われても、それを喜ぶ気にはなれない。

 自分が目指さなければいけないその先は、もっと遠くにあるのだ。

 それでも足掻いていたら、幸運というのは向こうからやってくるものなのか。

 いや、もっと純粋に、自分は運が良かっただけだと思うべきだろう。

「年報シニアの水上君だったかな」

 その中年男性は、自分のことを知っていた。しかもシニアの名前まで。

「一人でやっていたのか」

 どこかで見たことはある。確かどこかの高校のスカウトではなかったろうか。

「息子に聞いてね。出来ればすぐにでも手伝ってやりたかったんだが、こちらも仕事があったんだ」

 息子? 仕事?

「入学式までだが、もうちょっとマシな練習の環境は提供出来る」

 大京レックスのスカウト大田鉄也は、こういう肝心なところにやってくるのだ。


 悟は地域のクラブチームに混ぜてもらって、実戦的な練習を積ませてもらえた。

 チームが活動していない時は、自らノックまでしてくれた。

 キャッチボールの時は、正確に胸元にボールを返してくれた。

 なぜここまでしてくれるのかと訊いたが、答えは簡潔だった。

「俺はね、才能を持ってるやつが足掻いてるのを見ると、助ける以外の選択が出来ないんだよ」

 プロのスカウトが高校入学前の生徒を指導してもいいのか。

 いいのである。実は高校入学が決まっている高校生であっても、高野連に加盟している野球部には、まだ所属していないのだから。

 そして春休みになれば、高校の野球部の活動に参加出来るようになる。


 ただ残念なことに白富東はセンバツに出場のため、春休みからの練習に混ざることは出来なかった。

 そしてテレビで見た白富東は、確かに強かった。

 特に強力だと思ったのは投手力だ。


 一回戦は12-0、二回戦は9-0、準々決勝は5-0、準決勝は5-3、決勝は3-1という結果だった。

 五試合で四失点というのは、素晴らしい実績だ。四人のピッチャーをつかって、これを成し遂げたのだ。

 左で158kmを終盤で投げるピッチャーなんて、誰も打てないだろう。

 ほとんど出会いがしらでホームランになっていたが、それまでは連続三振を続けていた。


 プロのドラ一レベルの選手と一緒に、少なくとも夏までは一緒に練習が出来る。

 そう思うとこの機会を逃すわけにはいかないと思うのだが、体のキレは戻ってきても、ボールの感覚がまだ戻ってこない。

 最後に本格的なプレイをしたのは、去年の春。

 そこから一年以上は、誰かと一緒にボールを使ったプレイはしていない。

 毎日の練習が、より体の動かし方を思い出させてくれる。

「あせるな」

 鉄也は悟にそう言い聞かせた。

「気持ちは分かるが、あせるな。もうお前はあのチームでも、ベンチに入るぐらいのレベルには達している」

 プロのスカウトの言葉の説得力は大きく、悟は救われる思いであった。


 なお鉄也の内心としては、以下の通りである。

(ここまでやっておけば将来ドラフトにかかる時、絶対に俺の思うとおりに動いてくれるだろう)

 才能に対するリスペクトは本当だが、スカウトとしても超一流の鉄也は、選手を獲得するためなら手段を選ばないのである。




 そして春休み、センバツ優勝を果たした白富東は、どうやら始業式まで完全に休暇を取ったようである。

 まあ正確に言うと、U-18代表候補が合同合宿に呼ばれていなことも、休暇の理由の一つではあるが。

 新しく入ってくる新入部員の指導を考えるため、監督をはじめとする指導陣が時間をほしかったのも確かだ。

 がっくりときた悟であったが、入学の案内と共に、スポ選組は初日から活動に参加するようにという連絡もあった。

 大きなバッグにユニフォームなどと共に夢をつめて、悟は白富東の入学式の門を潜った。


 白富東が設立した体育科は、今年が初年度である。

 他の学校の体育科はどうだか知らないが、白富東の体育科は、選択授業で体育を選ぶことになる。

 だがそれは、その時間をそのまま運動にあてるというものではなく、本当にスポーツ知識を学ぶためのものであるようだ。

 よって普段は普通科と全く変わらない授業を受け、クラスも普通科と同じらしい。


 そして悟は同じクラスに、体育科の中でも同じくスポーツ推薦で一緒だった顔を発見する。

 なにしろ周囲の人間が、もうあいつら六人で決まりだろと言っていたので、はっきりと憶えていたのだ。

 特にそいつは一際背が高かったので。

「あ、あの時の凄い人」

 だが声をかけてきたのは向こうの方であった。


 本来選ばれるのは、あの時に区別されたAグループの者の予定であった。

 それがどこからともなくやってきた小柄な選手が、全ての記録のトップを独占したのだ。

 その六人こそが、この中の誰かが一人落ちるのではと、戦々恐々だったのだ。

「あ、俺は棚橋中出身の上山徹郎ね。ポジションはキャッチャー。よろしく」

 キャッチャー。ならばおそらく、最終学年では守りの要となるはずだ。

「俺は水上悟。出身は東京なんだ。去年こっちに引っ越してきて」

「あれ? じゃあ中学の途中でシニアのチームが変わったとか?」

「あ~、俺左手の靭帯やっちゃって、中三のシーズン野球してなかったんだよ」

「あ、なるほどね。道理で全然知らないはずだ」


 なお白富東は野球部に頭髪の規定は全くないはずだが、上山は坊主頭である。頭の形がいいので似合っているが。

「ポジションはピッチャー?」

「ピッチャーもやったことあるけど、本職はショート」

 シニアは球数制限があるので、肩の強い者は、自然と第二や第三のピッチャーをやることが多い。

「それじゃあピッチャーが一枚になったのか……」

 上山の話によると、おそらく合格であろう六人は、投手二人捕手一人内野二人外野一人という内分けだったそうな。

 一学年に二人の投手を作るなら、少し困った感じである。だがテストの結果なので仕方がない。


 この席に座るために、悟は誰かを蹴落とした。

 しかし野球というのは、ポジションを獲得するためには、誰かと競わなければいけないものだ。

 入学初日、悟は白富東野球部を知る。

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