四日目 3
午後、フランシーユは休憩がてらにアンセルムとともにヴィオレーユ女王が毎日散歩をしているという中庭を歩くことにした。
女王が王宮にいながら日課である中庭の散歩が途絶えているのは不自然であることと、フランシーユが「どこかに視察に行こうかな」と呟いたところアンセルムが視察を反対したためだ。王宮内の視察でも、近衛隊屯所であれば隊士しかいないので突然訪問しても警備上問題はないが、他の場所であれば女王の訪問に備えて事前準備が必要だと彼は繰り返し主張した。多分、近衛師団に行くと言い出したら力尽くでも止めるつもりだったのだろう。
今日は別段謁見の予定はなく、ひたすら執務室で書類に署名をするだけの仕事だったので、宰相とマリアンヌからも散歩を薦められた。
婚約披露宴が間近に迫っていることもあり、王宮内は準備で慌ただしくなっている。
女王が気まぐれでふらふらと歩き回れる場所は、いまの王宮内にはほとんどなかった。
女王の私室と執務室、それに中庭という、ヴィオレーユが普段から行き来している場所以外は、警備が手薄だという。
「毎日中庭の散歩ばかりしていても退屈なんじゃないかしら」
執務室の目と鼻の先である中庭へ向かって歩きながら、フランシーユはアンセルムに尋ねた。
「さぁ? 女王陛下は、どっかの公爵家のご令嬢と違って、日常に刺激を求めていたわけではないんだろうな」
「別にわたしだって毎日が刺激的だったらいいなって思っているわけじゃないわよ。ただ、なにか面白いことはないかしらって考えているだけ」
丁寧に芝生が刈り込まれた中庭は、糸杉が立ち並び、ところどころに花壇が作られていた。しっかり作り込まれたものではなく、あるていど自然な風景を装った中庭だが、毎日数名の庭師たちが手入れをしているらしい。
コルネーユ王の時代は王宮を訪ねてきた貴族たちが自由に中庭を散策することが許されていたが、ヴィオレーユ女王の代になってこの中庭は女王専用になった。
別にヴィオレーユ女王は貴族たちが中庭を歩くことを禁止したわけではないが、女王はひとりになりたいときはいつもこの中庭で人払いをして散策していたので、結果として貴族たちは遠慮して中庭に近づかなくなったという。
女王しか目にすることがない庭は、季節の花々が色とりどりに咲き乱れている。
たくさんの
木々の枝葉が風で揺れる音、小鳥の鳴き声、虫の羽音が響いている。目の前を白い蝶が静かに飛んでいき、王宮の
世俗から切り離されたような中庭は、ヴィオレーユにとってわずらわしい政務をほんのひとときでも忘れることができる特別な場所なのだろう。
ただ、フランシーユにはすこし寂しい感じがした。
人の気配がなさ過ぎて、アンセルムとふたりで歩いているのに、林の中で迷子になったような心細さがする。
「女王様の言う面白いことっていうのは、たいてい面倒なことと相場が決まっている」
「そんなことはないわよ」
「そんなことがあるんだよ。だいたい、女王様の好奇心を刺激することといえば――」
アンセルムは声を大きくして言いかけたところで、人影に気づいて口を閉じた。
「陛下」
庭師らしい格好の男は、かぶっていた
「お仕事で大変お忙しく、しばらくこちらにいらっしゃらないとお伺いしておりましたが」
「え、えぇ」
ヴィオレーユが庭師とどの程度打ち解けて話をしているのかわからなかったので、フランシーユは曖昧に答えた。
「今朝もご婚約者殿に薔薇をお渡ししましたので、陛下がこちらにいらっしゃらないものと思い、皆で昼間も作業をしておりました。申し訳ございません」
「え?」
よく見れば、木立の陰に庭師らしき男たちが道具を持って隠れている。
女王に姿を見せないよう、慌てて持ち場を離れたのだろう。
花壇の一部には花の植え替え作業中であるのか、土を掘り起こしたままになっている箇所もある。
「構わないわ」
できるだけヴィオレーユらしく見えるよう、フランシーユは声の調子を落とした。
さきほどアンセルムと話をしていた際に大声を出していなくて良かった、と内心胸を撫で下ろす。
この王宮では、どこで誰が見ているかわからない。
それは女王専用の中庭でも同じだったことを、フランシーユはいまになって悟った。
「ところで、薔薇ってなんのことかしら?」
穏やかな口調を心がけながら、フランシーユは気さくに尋ねた。
横目でアンセルムを見てみれば、彼は鋭い目つきで庭師を睨んでいる。
「陛下がお忙しく、こちらにいらしてお気に入りの薔薇を見ることができないから、とご婚約者殿が咲いたばかりの薔薇を摘んで陛下のお部屋に届けられていらっしゃると伺っておりますが……」
「あぁ……そのことね」
承知している、という顔を作り、フランシーユは微笑んだ。
「えぇ。毎日、素敵な薔薇が届いているわ。いつも世話をしてくれてありがとう」
「陛下から直接そのようなお言葉をいただけるとは、庭師としてこれ以上の喜びはございません」
庭師の男は感激した様子で深々と頭を下げると「では陛下、失礼いたします」と去って行った。
その姿が遠く離れるまで待って、フランシーユは前を向いたままアンセルムに囁いた。
「ねぇ。いまの話、どう思う?」
「どうって……そりゃ、あれだろ。おかしいだろ」
「そうよね。おかしいわよね。だって、女王の『ご婚約者殿』って言えば、公式にはお兄様しかいないわよね」
「公式も非公式もシリルだけのはずだ。いくら中庭が女王陛下の私的な空間になっているとはいえ、ここで秘密の『ご婚約者殿』と逢い引きしていたとすれば、女官や護衛の隊士が宰相や俺に報告しているはずだ」
「そうよね。そういう秘密の恋人の存在が不明だから、女王が駆け落ちするなんて書き置きをして姿を消しても、駆け落ち相手の候補者名が上がってこないのよね」
フランシーユは庭師から視線を外さず、まだ木陰に隠れているかもしれない他の庭師を警戒し、小声で話を続けた。
「お兄様がここに出入りしていたとしても、別に不思議ではないわよね。だって、女王陛下の婚約者なんですもの」
「あぁ。女王陛下がここでシリルと会っていたり、一緒に散歩をしていたりしても、別段報告が必要なことではないから、誰も宰相や俺にはいちいち報告するはずがないよな。ドゥジエーム大公が中庭に現れたら大騒動になるだろうが、シリルなら騒ぐことじゃない」
「お兄様って、陛下の信頼はそれなりに得ていたのよね?」
「俺よりはずっと信頼されていたはずだ。なにしろ、プルミエ公爵家の『王子様』だぞ」
「そうよね」
アンセルムが言うとおり、シリルは「プルミエ公爵家の王子様」と社交界で呼ばれている。
マリアンヌ王女の息子であり、将来の王配であり、容姿端麗で気品と王子の風格があるシリルは、誰もが認める『王子様』だ。
フランシーユも幼い頃は「プルミエ公爵家のお姫様」と呼ばれていたが、シリルはいまでも『王子様』の異名を持っている。
近衛隊の隊士の中ではセレスタン・ルフェーブルを気に入っているというヴィオレーユ女王が、シリルを見た目で嫌う理由はない。
妹の欲目でなくとも、シリルは名実ともに『王子様』なのだ。
「お兄様が今朝もここに来て薔薇を持っていったって言っていたわね」
「あぁ。そう言っていたな」
アンセルムが小さく頷いた。
「今朝もってことは、昨日も来たってことよね?」
「そりゃそうだろうな」
「昨日も、お兄様はこの王宮のどこかにいたってことよね?」
「もしくは、王宮の近くにいるってことだな」
「どこか遠くに、女王陛下を探しに行ったわけではなく――」
「目と鼻の先にいて、薔薇を持って、どこかにいる女王陛下のところへ毎朝甲斐甲斐しく届けているような口ぶりだったな。あの庭師は」
目を細めたアンセルムは、低い声で呟いた。
「女王陛下を探しに遠くへ行ったと思っていたけれど、昨日も今日もお兄様はこの中庭に現れたわけよね」
「そのようだな」
「明日も来るかしら」
「来るんじゃないか? 俺たちがなにも気づいていないと思っているなら、どこかに潜伏している婚約者に届ける薔薇を取りに現れるだろう」
「王宮って、人目を避けて隠れる場所ってあるの?」
「多少狭くて不便でもいいなら、いくらでもある。使っていない部屋はたくさんあるし、隠し部屋もあるし、地下もある。あいつの婚約者は部屋が狭いだの家具が地味だの食事が少ないだの菓子がないだの話し相手が面白くないだのすることがなくて退屈だのとあれこれ文句を言わないだろうから、七日間くらい王宮内に隠れ住むくらいのことはできるだろう」
「誰と比べて言っているのかしら?」
「どっかの女王様」
「お兄様の婚約者の方がお育ちは良いはずなのだけど」
「ある意味、環境適応力は高いお育ちの方だからな」
嫌味なのか皮肉なのかただの事実なのかよくわからないアンセルムの表現に、フランシーユは一瞬黙り込んだ。
確かにヴィオレーユは、その場の状況に自分を合わせる能力はフランシーユよりも高いように思われた。
そうでなければ、いくら王太子としての教育を受けていたとはいえ、父王亡き後すぐに女王として気持ちを切り替えて振る舞えるはずがない。
「で、どうするつもりだ」
アンセルムがフランシーユに判断を委ねる。
「もちろん、居場所を突き止めるわよ」
目を細め、フランシーユは庭全体を睨み付けた。
「なんとしてでも、この広い王宮内に隠れているお兄様とその婚約者を探し出すのよ」
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