一日目 6

「なによ、あの書類の山は!」


 深夜になって王の執務室から私室へと戻ったフランシーユは、居間の長椅子に倒れ込むように座りながら叫んだ。

 夕刻になって女王の格好をして王の執務室へ入ったフランシーユは、宰相であるプルミエ公爵から女王の署名の見本を渡された。その署名を十回ほど真似て書く練習をしたあと、大量の決裁書類に女王の署名をし続けるという作業に専念したのだ。夕食を挟んで夜更けまでひたすら署名を書いていたので、ペンを持つ右手は握力がほとんどなくなり熱を帯びている。夕刻からずっと椅子に座り続けていたので腰と尻が痛み、足も血の巡りが悪くなったのかむくんでいた。


「毎日、百枚以上の書類が陛下の元に届けられているからな」


 長椅子の前の円卓に女官のひとりが夜食を並べるのを眺めながら、護衛として部屋までついてきたアンセルムが答える。


「百枚どころじゃなかったわよ? 千枚くらいあったんじゃないかしら」


 今日はひとまず書類に署名をするだけの仕事だったので、王の執務室には宰相の他に数名の補佐官、各省庁の書記が出入りしているだけで終わった。宰相以外の大臣は執務室には顔を見せず、フランシーユが女王らしく誰かと会話をする必要もなかった。女王の名前の綴りを間違えず、見本の字に似せて書くよう意識を集中して作業を続けていたので、どれくらいの時間が過ぎていたかもわからなくなっていた。

 いつまで経っても執務室から出てこないフランシーユを心配してプルミエ公爵夫人が様子を見に来てくれたおかげで今日はひとまず終業となったが、母が現れなければ徹夜で仕事をする羽目になっていたかも知れない。


「毎日百枚以上の書類が執務室に運ばれるが、陛下が署名をされるのはその半分にも満たない」

「なんで? しっかり書類を読んでから署名をされているから?」


 フランシーユは目の前の書類にひたすら署名をしたが、中身はほとんど読んでいない。王の署名が必要な箇所を確認するために書類の文字に目を通すだけで、そこに書かれている内容など気にしなかった。


「署名をしているとペンを持つ手が疲れるから、すぐに休憩をされるんだ」

「休憩?」


 夜食のビスキュイに大量のクリームと苺のジャムを左手で匙を持ってたっぷりと盛ると、そのまま左手で掴んで口に運ぶといっぱいに頬張りながら、フランシーユは聞き返した。

 夕食は執務室に運ばれてきたので、フランシーユはさきほどまで執務室から一歩も出ることなく仕事をし続けたことになる。休憩といえば夕食の間だけだが、それだってゆっくりと味わって食べたわけではない。


「五枚ほど署名をすると、菓子を食べ、紅茶を飲み、それから気分転換をしたいからと散歩に出かけられるのが普段の陛下だ」

「――陛下が不在の間に、溜まりに溜まった決裁書類の山をわたしに片付けさせようという宰相の魂胆が見え見えね」


 右手にほとんど力が入らないので、紅茶がなみなみと注がれた茶器も左手で持ちながらフランシーユは口いっぱいにひろがるクリームとジャムの甘みで、疲れがすこしだけ回復するのを感じた。


「あと六日間、ずっと書類に署名し続けなければならないのかしら」


 ヴィオレーユ女王があまり仕事熱心ではないことをアンセルムが知っているということは、護衛を務める近衛隊の間では周知の事実なのだろう。

 そんな女王が今日になって突然真面目に仕事をし出したとなれば、誰もがいぶかしむに違いない。

 ただ、これまで大量の業務が滞っていたことを内心嘆いていた宰相にしてみれば、周囲がどれほど不審がろうと人が変わったように政務をこなす女王に仕事をさせたいはずだ。


「どうだろうな」

「あまり仕事をしすぎると、皆から怪しまれるかしら」


 自分が女王の偽物であることを周囲に気づかれないよう緊張していたせいか、心身は疲れているが気持ちは高ぶっており目は冴えている。夜食を食べて満腹になっても、まだしばらくは眠れそうにない。


「宰相閣下が適当に大臣連中を言いくるめるだろ。どうせ大臣たちは、陛下が普段よりも仕事をしていると聞いたところで、普段は十枚の書類に署名をするところを二十枚署名したのだろうていどにしか思わないだろうからな」

「一日の書類決裁が二十枚では、ますます仕事が溜まる一方よ。そもそも書類の中身は官吏たちが中身を確認して、宰相や宰相補佐も目を通したものが王の手元に回ってきているのだから、わたしがいちいち書類の内容を読んで署名をするなんて時間の無駄よね。もちろん、本来であれば王が書類を一読してから署名をすべきなんでしょうけれど、そんなの、あの書類の山を見れば現実的ではないことくらい誰だってわかるわよね」


 こうなると、宰相である父は、政務に精力的ではない女王の不在を良いことに、身代わりのフランシーユに女王の仕事を大量に片付けさせるつもりであることは明白だった。

 昼間、事情を聞いた際は、女王が失踪したことを周囲に気づかれないためだけに女王の身代わりを立てるような口ぶりだったが、いつのまにか目的が『女王の仕事を代行させて滞った政務を片付けるため』に変わっている。


「……身代わりって、普段の女王と同じような振る舞いをすべきじゃないのかしら。明日はもっと休憩をしながら仕事をしないと、他の大臣たちに気づかれるかもしれないわ。わたしはただの身代わりであって、女王の代筆係ではないはずよ!」

「いや、もう宰相からすればお前は女王の代筆係だろ。しかも女王の十倍は働く有能な代筆係だろ。きっと今頃、七日間という期限の間にどれだけ女王に仕事をさせるか計画を練ってるに違いないぞ」

「お兄様が五日目に陛下を連れて戻られたら――」

「きっと陛下が戻られたことはお前に隠しておいて、みっちり七日間仕事をさせてから婚約披露宴直前で身代わり終了ってことになるかもしれないな」

「えぇ? そんなのおかしいでしょう? そもそも、身代わりが本物より熱心に仕事してどうするのよ。婚約披露宴の翌日からまた陛下が仕事しなくなるのよ? 明らかにおかしいじゃないの!」


 女王の身代わりというのは、あくまでも女王の不在を誤魔化すためだ。女王が仕事をしないからといって身代わりを立てるという話など聞いたこともない。


「陛下が仕事をしなさすぎるのも困るけど、お父様の仕事中毒ぶりも困ったものね」

「お前も似たようなものだと思うが」

「わたしは、もう署名ばっかりするのには飽きたわ。明日はもうちょっと違うことをしたいわ」

「じゃあ、宰相の許可が出たら近衛隊の視察なんてどうだ?」

「視察?」

「宮殿内にある近衛師団の屯所を、視察という名目で散歩がてらに覗くんだ」

「それは気分転換にもなって面白そうね。でも、急に見学に行っても大丈夫なの?」

「問題ない。というか、これまで陛下は一度として近衛師団の視察にいらしたことがないんだ」

「え? 一度も?」

「そうだ。即位して以来、一度も、だ」


 渋い表情でアンセルムが答える。


「ご自身の近衛隊、なのに?」

「軍官はお好きではないらしい」

「そうは言っても、有事のための軍隊でしょう? もちろん、戦闘はないに越したことはないけれど」


 フランシーユには、ますます女王の人柄がわからなくなってきた。


「好き嫌いで視察先を選ぶのなら、陛下はこれまでいったいどこを視察されたの?」

「特にどこも行かれてないな」

「は?」

「毎日ご自身の部屋と執務室、会議室、あとは散歩で中庭を歩かれるだけだ」

「……即位してからずっと?」

「ずっと、だ」

「えぇ!?」


 それで女王が務まるのなら楽なものだ、とフランシーユはあきれかえった。

 ただ、そんな女王の振るまいを宰相である父や大臣たちは変えることができずにいたのだから、女王ばかりを責めるわけにもいかない。


「王という仕事が誰にでもできるわけではないことは俺でもわかる」


 アンセルムは苦々しげに呟いた。


「陛下が王という重責に堪え兼ねていたことも、俺たち護衛官は薄々気づいていた。しかし、宰相や大臣は気づこうとしなかった。だから、こうなったのは宰相をはじめとする家臣たちの支援が足りなかったせいだとも言える」

「なるほど。つまり、いずれこうなることは目に見えていた、ということね」


 だとすれば、とフランシーユは考えた。


(女王陛下は退位や譲位を言い出せない中で、失踪すれば叔父か従兄が王位を継いでくれるだろうと考えたのかもしれないわね。でも、ドゥジエーム大公やシリルお兄様が王位に就けば宮廷内で派閥争いが起きることは目に見えているわ。だからこそ、お父様はわたしに陛下の身代わりをさせているわけだけれど、王宮に引きこもっているヴィオレーユ女王に不満を抱いている貴族だっているでしょうし)


 新しいビスキュイにクリームをたっぷりと乗せながら、フランシーユは宮廷内の事情をほとんど説明せずに自分を女王の身代わりに仕立てた父親に対して心の中で文句を並び立てた。


(お兄様を信用しないわけではないけれど、この身代わり、本当に七日間で終われるのかしら)


 フランシーユには、初日からすでに雲行きが怪しくなっているように感じられてしかたなかった。

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